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「論語」の基本思想

私の別ブログから転載。
「論語」は世界最高の「世俗道徳」(神仏を前提としない道徳)の思想書・教科書である。ただし、「儒教」は後世の人間が論語を解釈し学問化し、公教育化したものなので、論語の解釈自体が恣意的である可能性がある。(たとえば封建支配体制維持のための「忠」の意味の捻じ曲げなどがある。)かえって、論語の基本思想を単純化したほうが有益だろう。
フロイトの言葉の末尾を私流に言えば、「人間関係によって苦悩が生まれる。その苦悩を軽減するのが隣人愛だ」ということだ。つまり「隣人愛=仁」である。下の文章では「仁=博愛」と書いているが、同じことである。我々は現実には博愛を隣人愛としてしか実行できないからだ。口先だけの博愛を語る(騙る)詐欺師は無数にいるだろうが。(私自身、社交嫌いの思考沈潜人間である。)*念のために言えば「思考沈潜」は漠然とした浮遊思考の下に意識が沈んでいるだけだ。

(以下自己引用)


1行で分かる「論語(儒教)」の真髄



論語(儒教)の真髄は「」と「忠恕」で済む。

後は、漢和辞書を引いて、この2語の意味を理解すればいいだけだ。


一応、解説する。
「仁」とは「博愛(を衆に及ぼすこと)」である。
「忠恕」とは、「忠」が「まごころ」の意味、「恕」が「まごころに従って行動すること」である。厳密には「恕」単独だと「心に従うこと(心の如し)」だが、上の「忠」が真心(中正なこころ)を意味するので、「忠恕」で真心に従う生き方を意味する。だから「論語」では「夫子(孔子)の道は忠恕のみ」と言っているのである。その真心の具体的内容が「仁」である。漢字の成り立ちは「人が二人いること」であり、いわば社会の最小単位だ。その二人がいさかえば、この世は地獄になり、愛しあえば天国になる。後者を「仁」と言う。つまり、社会全体で言えば「博愛」である。


(追記)フロイトの「幻想の未来」の中にこういう一節がある。

「知性の優位が実現するのは、はるか遠い未来のことかもしれないが、無限に遠い先のことではないだろう。そしてこの知性の優位が目的とするのは、キリスト教の神に期待するものと異なるものではないのであるーーもちろん宗教的にではなく、人間にふさわしい形で、外的な現実が、運命が許すかぎりにおいてということだが、その目的とは、隣人愛であり、苦悩の軽減である。」





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