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戦争(殺人)と宗教あるいは宗教者

あまり誰も疑問を持たないことだと思う(少なくとも、私はその疑問が提起されたのを見たことがない。)のだが、世界の宗教で「殺人を完全に否定した宗教」はあるのだろうか。
たとえばキリスト教の宗派でクエーカー教徒が殺人完全否定思想で、そのために徴兵拒否をしたという話を私は映画「ヨーク軍曹」で見たが、それ以外に見たことは無い。
仏教でも不殺生戒というのがあると思うが、それで戦争を否定したとか徴兵を拒否したという記録は見たことがない。
つまり、たいていの宗教は「反戦行動」をしたことも「徴兵忌避運動」をしたこともめったになく、その「総本山」ははっきりと、戦争を肯定していたと私には思えるのであり、つまりはそれらの宗教が示す道徳はすべて口先だけの偽善の塊なのではないか、と思えるのである。

おそらく多くの場合は

1:「正当防衛での殺人は許容される」
2:「戦争での殺人は許容される」
3:「法に定められた殺人許容事由による殺人(たとえば死刑)は許容される」

などの理由を殺人許容理由として示すだろうが、たとえば3などは「法律は宗教より上位である。」あるいは2は「国家権力(政府の命令)は宗教より優先される」ということになる。
はたして、それが宗教の殺人許容の理由として妥当だろうか。これを認めるなら、宗教の他の禁止事項も「適当でいい」(政府の命令次第)となり、それが天上の神仏(まあ、仏が天上にいるかどうかは分からないが)に対して宗教的戒律を破った「言い訳」になるだろうか。
そしてまた、宗教者は政府や為政者の「政治的失敗」による戦争被害を非難できる立場なのだろうか。

ちなみに、オウム真理教などははっきりと「殺人を許容していた」むしろ「積極的に殺人を教徒に指示していた」珍しい宗教だが、宗教を法より上位に置いた点では「純粋な」宗教だったとも言えるような気がしないでもない。もっとも、この場合の「純粋」はキチガイと同じ純粋さである。

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戦争に対する西洋の精神と日本の精神

私は「和の精神」は非常に素晴らしいものだと思っているが、こと戦争に関しては、それは通用しないのは自明である。あくまでそれは「平和の精神」なのだから、相手が暴力で来たらいっぺんに吹っ飛ぶ。そして、精神の根底に和の精神がある国は戦争には向かないのであり、何としてでも戦争を避けるべきなのであり、やるなら徹底的に残酷になるしかない。つまり、悪魔化するしかないのである。それがユダヤの精神であり、西洋の精神だ。これは現在のガザでの大虐殺を見れば明白だろう。欧米国家はそれを黙認し、協力すらしているのである。
たとえば、喧嘩であなたが勝ち、相手が許してほしい、和解しようと言ってきた時、それを受け入れて握手し、あなたがそこを立ち去ろうと後ろを向いた瞬間、相手があなたの頭を石で殴れば、あなたは即死し、喧嘩は相手の勝ちである。闘争とは本質的にそういうものであり、戦争での終わりは、お互いにとってそれが利益であることが判明した条件でだけ成立するのである。その「利益」の内容はさまざまだ。

以上は前置きで、これから提示するのは(例によって110円で買った)松本利秋という人の書いたSB新書「なぜ日本は同じ過ちを繰り返すのか」(副題「太平洋戦争に学ぶ失敗の本質」)の前書きの一部の要約で、これだけを読めば、この本を読んだ価値は十分にある、と思える内容だ。(私の読書哲学は、その本の中にたった1行でも価値があれば、その本を読んだ価値はある、というものだ。)なお、安本の利点は、興味深い箇所や理解困難な箇所に線を引き、書き込みをすることが平気でできることである。これは定価どおりで買った新しい本では抵抗が大きいが、非常に思考力を高めるものである。

(以下要約)

これらの歴史的事実(夢人注:「旧約聖書」のユダヤのカナンでのミディアン人大虐殺。新大陸での白人によるインディアン殲滅。ボーア戦争でのイギリス人の戦術。太平洋戦争でのアメリカの「東京大空襲」における殲滅手法。などが記述されている。)からもわかるように、彼らの戦争目的は敵(異教徒)を徹底的に叩き潰し、民族を消滅させることにある。したがって、戦争を起こすことと敵を定めて戦うことには、民族の生き残りがかかっており、何が何でも勝たねばならぬという覚悟が必要である。
しかし、日本は戦争の方式がまったく違う。長い歴史の中で民族浄化を行ったことがない
そういう国である日本が、実質的に初めて異文化圏のヨーロッパと戦火を交えたのは日露戦争であった。
その戦争に、偶然に偶然が重なったこともあってきわどい勝利を収めた結果、日本には珍妙な「戦争哲学」が生まれた。
つまり、古来からの日本の戦争パターン「ある程度まで戦って勝利すれば、有利な条件で和解ができる」という決め込み(期待)が戦争全体に通底するイメージとなって固定してしまったのだ。
(夢人注:つまり、最初から「和平」が頭の中にあるのである。)
この発想の下では、まともな戦争目的を定めることができず、目的が定まっていないから戦略もいい加減なものになる。

「大日本帝国」は植民地を除いて海に囲まれており、(それは防衛には向いているが)その日本が日米開戦に踏み切った場合、たとえ日本軍が太平洋を押し渡ることができたとしても、広大なアメリカ大陸を横断して首都ワシントンを攻略するのが不可能であることは言うまでもない

太平洋戦争の結末は、この当然すぎる予想が現実になったにすぎなかった。



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北一輝の「天皇制国家社会主義」

私は国家主義者ではなく「国民主義者」だが、今の「民主主義体制」は偽装民主主義であり、またそもそも、原理として「国家を動かす主体」としての民衆・大衆というのはナンセンスだと思っている。つまり、「国民主権」というものが「国民の意思によって政治的決定がなされる」思想だとするなら、愚劣なナンセンスコメディの脚本だと思っている。一般大衆にそれほどの知性と教養があるはずがないではないか。だからこそ政治目的は「民衆全体の利益と保護」でなければならないのである。
そして、私は社会主義者でもあるが、尊皇主義者でもある、というのは天皇という存在の「潜在的価値の高さ」を今の日本人は知らず、その宝石を無駄に死蔵しているからである。

そういう意味では、私の思想は下の記事の北一輝にも似ているが、慧眼篤学な松本清張ですらその思想を見誤ったというのは示唆的である。

当時の政府(軍部支配政府)が北一輝の思想を危険思想だと見たのは北一輝や226軍人の「天皇制国家社会主義」が、「財界および軍部支配政府の傀儡としての天皇」から「天皇による国家革命(社会主義国家建設)」を将来する可能性を見たからだろう。226軍人が最初に財界人を殺したのが歴史教育では軽視されすぎている。

もちろん、私はクーデターによる政府打倒を肯定する者ではない。だが、あまりにその政府が「国民いじめ」をするなら、その限りではない。さて、今の政府や財界はどうだろうか。



(以下引用)

松本清張唯一の失敗作『北一輝論』二・二六事件を読み誤らせた先入観とは?


配信

Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE

右翼の中で左翼思想を持っていた北一輝


清張はなぜ北一輝の思想を読み誤ってしまったのか?


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ナショナリズムの考察

みなさんは「ナショナリズム」という言葉にどんな印象をお持ちだろうか。最初に「右翼」を連想する人が大半なのではないか。

そこで英和辞書を引くと、nationの訳語の最初は「国民」なのである。そして第二が「国家」だ。

しかし、「ナショナリズム」を「国民主義」と訳した人はほとんどいないと思う。だいたいは「国家主義」と訳すだろう。そこで、「国民よりも国家を優先しろ」というある種の右翼に特徴的な思想をナショナリズムだと考えることになるのである。もちろん、それはおかしな話だと私は言っているのである。
しかも、その右翼的連中が、たいていは軍国主義者でもある。戦争になったら国民は「お国のために」戦場に行って真っ先に死ね、最後は特攻をしろ、と言うわけだ。はたしてこれは「国民主義」だろうか。「愛国心」とは国民よりその時その時の政府を優先させ、しかも上級国民はけっして戦場に行かず、生き延びるのが当然だという、そういう思想なのだろうか。
そうした人々は「国家あっての国民だから、政府を最優先するのは当然だ」と言うだろうが、なぜ「国民あっての国家だ」と考えないのか。そもそも、nationとは第一に国民であり、次が国家なのではないか。そして政府とは単に、国家を形成する一部でしかないのである。(国家とは国民・領土・政府がその要素である。その中では国民が最重要だから、nationの訳語は「国民」が第一に来るのである。)

さて、では、「国民」とは何か。

「同じ国に生まれ育った精神的(文化的)同朋をその国民と言う」と定義してみよう。

もちろん、単に「その国の国籍を持つ者をその国の国民と言う」と法的には定義されるだろうが、その場合はそこにはnationalism(国民意識・愛国心)は生じないだろう。同じ国に生まれ、同じような教育を受け、同じ文化の中で育つことで「同朋意識」は生まれるのである。私が文化の重要性、特に伝統文化や古典の継承の重要性を言うゆえんだ。
他国に移住した人間がかたくなに移住先の文化を否定し、元の国の文化に固執するなら、その人はたとえ国籍は新たな国のものを得ても、その国の人間の精神的同朋ではないわけだ。これがユダヤ人が世界的に嫌悪されてきた原因だろうし、今のようなグローバル化世界では、その種の人々はどんどん増加し、各国で国民の精神的分裂と愛国心の低下が起こっているはずである。

なお、私は政府批判ばかりしているが、それは政府が「反国民的政策」ばかりやっている、非国民政府だからである。日本という国とその歴史と文化を自分の精神的母体(母胎)として愛するからこそ私は政府批判をするわけだ。





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私の「哲学」

「哲学」という言葉に嫌悪感を持っている人もいるかと思うが、言語化されていなくても「人生哲学」を持って生きている人がほとんどだろう。哲学を嫌悪する人が嫌悪している哲学は「学問としての哲学」なのではないか。それなら私も同じである。
philosophyを日本語に訳するとき、「哲学」のほかに候補になった言葉のひとつに「希賢学」というのがあったとか聞いた記憶があるが、当然これは「賢者になることを希(のぞ)む学問」の意味である。しかし、私の勝手な印象だとむしろ職業哲学者の中に真の賢者は「希(まれ)」だから、「賢者が希な学問」の意味で「希賢学」だと言ったほうがいいのではないかwww 少なくとも職業哲学者が論じている事柄は世間一般の人には何の関心も影響も無い問題だ。

私自身の「人生哲学」は、つまり「世間知」であり、それは「いかにして人生を生きていけばいいか」という、特に青年期には重要な問題の答えである。それがたとえば「人間の本性は善である」とか「人間の本性は悪である」とかいう単純な答えにならないのはもちろんで、誰からも答えは得られないから、人によってはたとえば宗教にその答えを求めたりする。
そういう意味では私も若いころには聖書を読んだり般若心経を読んだりして人生と宇宙(世界)の「答え」を探したものである。で、般若心経の「一切皆空」の思想はその後の私に最高の心の平安と思想の土台を与えている。つまり、それが私の哲学と言えば哲学だ。しかし、これは「色即是空」であると同時に「空即是色」であるのは言うまでもない。(「色」は「すべての現象」の意味だとすればいい。)
思考の土台としてはデカルトの「分析と総合」が私の思考の基本である。物事はそのままでは思考対象として扱えないから、まず問題を構成要素に分解し、そのひとつひとつを検討し、その後でそれらを総合して答えを出す。これが基本だ。そうすると、たとえば誰かの議論の胡散臭さも分かる。たいていは「自分の結論に不都合な部分を隠し、都合のいい部分だけを結論の前提条件にしている」のである。言い換えると「結論から出発した議論」になっている。

まあ、「人生哲学」など無くても生きるのに不都合はないさ、というのもひとつの考えだが、若者の自殺も、ある意味では「人生は生きるに値しない」という哲学的判断だと言える。つまり、世の中には能天気には生きられない人間もたくさんいるのであり、しかもその悩みの答えは学校の教師も親も誰も教えてくれない、いや、教える能力はない。だが、ふと読んだ本や、ふと耳にしたたったひとつの歌が、その歌詞や曲がその人に生きる気力を与えるかもしれないのである。それも哲学のひとつだと言えるだろう。そういう意味では現代の「(声が楽器化して)歌詞の聞き取れないポップス」は、私には、何だかなあ、と思わせるのだ。

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象徴天皇は権威か権力か

混沌堂主人がご自分の基本思想を簡潔に書いているので引用しておく。

ちなみに私は「道徳は社会安定と良化の根幹である」「天皇という存在は日本という国の貴重な政治的文化的財産である」という考えである。

なお、「通俗道徳」という言葉はそのままでは普通の道徳との違いが分からなく、道徳そのものの蔑視・否定思想に見えるので、言葉そのものに問題があると思っている。道徳は通俗化することによって機能するとも言える。高踏的な道徳など大衆には無縁だろう。

ひとつだけ皮肉を言っておく。「天皇がいなくなれば青空になる」のか? つまり日本の天皇存続の2000年近い年数はずっと曇り空、暗黒だったのか? 

ついでに聞こう。権威と権力は同じなのか? あなたは金持ちを権威だと思うのか? 権威のある宗教者や学者は権力者とイコールなのか? キリストやブッダは権力者だったか?

(簡単に言えば、権力は力に由来し、権威は人格に由来するが、地位はその両者に共通する場合が多いので混同されやすい。)

(なお、代々の天皇の中にも人格破綻者は何人もいた。それは古事記を読めば明白である。しかし、歴史的に概括するなら、中世以降は天皇の権威と武力集団の権力のバランスはうまく機能しており、現在の「象徴天皇制」はその最良の形だと思っている。)

(天皇には実質的「権力」はないが、しかし、権力の暴走の際には、その「権威」が上手く機能すると私は期待している。たとえば226事件を食い止めたのは昭和天皇の英断だった。だが、その後の軍部の陰険な策謀による「議会無力化」などで日本はじわじわと軍国主義化していったのである。昭和天皇自身も当時の帝国主義思想に浸食されていたからそれに流された。つまり、誰が国家首脳でも、世界的なその流れを食い止めることはほぼ不可能だったのである。)

ご自分のブログに載せる引用記事を見ると、難解な論説文を読みこなす高度な知性をお持ちのように見えるのに、こういう単純な「土台」がおかしい、というのが残念である。おそらく「天皇憎悪」が先にあって、そこから無理やり論説を立てているのではないか。それは引用記事とその感想やブログ記事タイトルの呆れるほどの乖離で明白だ。

なお、反論は、特に期待しない。そもそも、このブログを読んでもいないだろう。単に、「平和主義」かつ「尊皇主義」の立場で天皇という存在について論じてみただけだ。(今や、グローバリズムに対する「尊皇攘夷主義」ですらあるwww いや、昔からそうだったか。)

ついでに言えば、私は聖徳太子の「十七条憲法」と明治天皇の「五箇条の御誓文」と現在の「日本国憲法」は「大いなる和の精神」という点で共通していると思っている。それこそが本来の大和魂ではないか? つまり、軍国主義化された好戦的「大和(やまと)魂」と歴史的な「大和(だいわ)の精神」はまったく相反するのである。なお、「大いなる」としたのは、日本人全体を包括してのことだ。それが日本文化を土台にして育った日本人の心底にある、ということである。もちろん、平和主義は「事なかれ主義」にもなり、他人を平気で蹴落とすサイコパスが社会の上位に行く土台にもなる。その「正→反→合」が今後の日本の課題だろう。そこに「道徳」の意味もある。

(以下引用)
弱い者いじめ文化には、大きな要因がまずは二つあると思う。
1・通俗道徳~自己責任論・・弱いものは笑われて当然。
2・天皇制~強者・権威は永遠に強く権威~泣き寝入りが当然。
 
まあそれを壊さないと日本人は消えてなくなるのでね・・
天皇のない 蒼い空を取り戻す




(夢人追記)日本人のモラル喪失の一例。なお、「立身出世主義」は「道徳」ではない。日本の欧化に伴う社会風潮である。それを「道徳」と呼ぶのは意図的捻じ曲げだろう。「徳」とは人格の高さを言う。下の事例は人格の劣化だ。どこにも「徳」は無い。



「……おっ!きた!!!」


画面に表示された「合格おめでとうございます」の文字に、思わず家族みんなで歓声を上げました。これまでの長い努力が報われた瞬間でした。


そんな祝福ムードの中、息子がスマホを見ながらクスクス笑っています。


「ほら、友だちも合格したって!」


そう言って画面を見せてくる息子。良かったねと思ったのも束の間、受験結果を報告し合っている友人たちとのグループトークのやり取りが目に入りました。そこではちょっと驚くような会話が繰り広げられていました。


「うちの親、1浪して私立〇〇大の文系だからさ オレの結果、超喜んでる」
「おれの親はFランの△△大だからさ うちもすげー喜んでる」
「オレたち、親の遺伝子越えだな」
「遺伝子越え2世だな」


……遺伝子越え?


彼らの言う「遺伝子越え」とは、「親の学歴を越えた」という意味のようです。


合格を喜ぶ流れのなかで、さりげなく親の学歴を引き合いに出し、それを超えたことを冗談交じりに表現していたのです。


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長寿と「幸福の確率」

元、大学の工学系教授(講師?)で推理小説作家の森博嗣のエッセイの一部で、理系人間らしい考察(人生論)である。まあ、そうした思考も、人によっては得るものがあるのではないか。私などには面白いから転載するのである。
なお、彼の奥さんは、ケーキを五等分するとき、筆者(森氏)の「最初に直径を切ったら(半分に切ったら)ダメだよ」という言葉に頷いてまず直径から切ったそうであるwww まあ、理系的思考への世間の受け止め方はそういうものだ。

(以下引用)元記事の一部のみ。

充実した人生に唯一必要なもの【森博嗣】連載「日常のフローチャート」第35回[最終回]

森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第35回

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【毎日はそれなりに楽しい?】

 


 心配事があったり、将来に向けて不安があったり、といった話は頻繁に耳にするけれど、これは不確定な未来を悲観的に観測しているものだ。悲観的観測は人間の本能的なものであり、動物よりも優れている能力といえる。その不安が現実となる確率がどれほどかで、人それぞれ具体的には大きく異なるが、しかし、今日を生きることができないほどには困っていない。自殺を具体的に考えるほどでもない。とりあえず、現代社会には、困窮している個人を助けるための制度が数々設けられている。たとえば、良くないことだが「借金」というシステムがあって、これで一時的に救われることが多い。もちろん、金では解決できない問題も多々あって、多くは愛情や憎悪のような感情的な対人関係に起因しているだろう。


 たしかに、自殺をしたり、犯罪に手を染めたりといった人が、ある程度の割合存在する。ただ、ほとんどの人たちは、毎日を生きて、明日のための準備をする。まだ死にたくないと考えていて、危険を避ける行動を選択する。つまり、心配し不安を抱えていても、そんな毎日を続けたいと思っている。未来にはなにか良いことがあるのではないか、という希望的な観測もするだろう。そんな淡い期待のために身銭を切る(たとえば、宝くじを買う)。今は良くないけれど、良いことがいずれやってくるだろう、と妄想する。今は良くないけれど、最悪ではない。自分よりも困っている人たちがいるはずだ、とも考える。

 長寿を願うのは、最悪ではない日々を長く続ければ、なにか今より良い状況が訪れるかもしれない、長いほどその確率は高くなるはずだ、といった観測による。ぼんやりと、そんなイメージというか、言葉にならない感覚を持っているはず。言葉にならないのは、言葉にしたことがないからで、そんな将来のことを他者に話すなんて恥ずかしい、といった気持ちが言語化を抑制している。


 僕は、そういう日常というのが、ある種、幸せの一例なのではないか、と考えている。否、考えているというよりは、評価している、といった方が近い。もっといえば、心配や不安というのは、幸せを基準とした観測なのだ。現在が明らかな不幸ならば、さきの心配をする余裕さえなくなる。将来に対する不安は、むしろ小さく感じられるだろう。


 人間の感性というのは、現在の絶対値ではなく、現在の変化率に支配されている。これは、たとえるなら、速度は体感できないが、加速度は感じることができるのと似ている。

 逆にいえば、現在の状況がプラスかマイナスか、といった尺度は存在しない。幸福か不幸かは測れないのだ。ただ、どちらへ近づいているか、その変化だけが感知される。




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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