第一部 第一章 少年マルス
アスカルファンは東西に八百キロ、南北に三百キロの大きさの国で、東には山を隔てて大国グリセリードがあり、西には海を隔ててレントがある。さらに北の方にも小さな国々があるが、山脈に隔てられたそれらの国々との行き来はほとんどない。南も海である。
アスカルファンの各地方は、昔からこの地方にいる領主によって治められ、領主は農耕の生産物や、手工業による収入の三割から五割を税として取り立てている。国の産業は農業と牧畜がほとんどで、都市では日常の用途に用いる品物を作る仕事や、商業もいくらか発達してきていた。また、山や海岸地帯では狩猟・漁労・採集によって生計をたてている人々も多くいた。
マルスの家はそうした狩猟者の家だった。
アスカルファンの東の山脈地帯の裾に放牧を営む人々の集落があり、村の名はカザフといったが、マルスの家はそこからさらに上った山の中腹にあった。
マルスの父のギルは有名な猟師だったが、人付き合いの嫌いな変わり者で、幼いマルスを抱えて山中で行き倒れになっていたマルスの母を家に連れ帰って介抱し、そのまま自分の女房としたのであった。つまり、マルスにとっては、本当の父ではない。母親のマーサは、マルスが八歳の時に病気で死んでしまったが、死ぬまで、夫に救われたことを感謝し、自分は幸せだったと言いながら死んでいった。
女房を失ったギルはしばらく悲嘆に暮れていたが、それから男手一つで、マルスが十六歳になるまで育てたのであった。
マルスが十六になってすぐ、ギルは山で足を踏み外して谷に落ち、重傷を負った。そこからなんとか自力で家まではたどり着いたが、冬の事で、その間にひどい肺炎になって、そのまま病の床についた。
死を予感したギルは、枕もとにマルスを呼んで言った。
「お前に話しておきたいことがある。わしが死んだら、お前はバルミアに行くがいい。バルミアにオルランドと言う貴族の家がある。お前はそこの若君、ジルベールの息子だ。お前のお母さんはそこの女中をしていてお前を孕み、当主の怒りに触れてそこを追い出された後、この山中をさ迷っているところを私が見つけたのだ」
ギルはベッドの下の小箱をマルスに取り出させ、その中から金の鎖のついた宝石のペンダントを取り出した。
「これはお前の父のジルベールがお前のお母さんにくれたペンダントだ。この宝石はブルーダイヤと言って、非常に貴重なものらしいから、いざと言う時には売って金に替えてもいいが、もしもお前が父に会う時にはお前の身を明かすものだから、大事にするがいい。それ以外には、わしの使っていた弓と槍くらいしか、お前に残してやれるものはないが、お前の猟師としての腕は既にわし以上だ。だが、若いお前は、このままこの山で一人で暮らすより、旅に出て、広く世間を見た方がいいだろう。お前の本当の父、ジルベールに会いに行くがいい。マルスよ、わしとマーサの魂の平安を神に祈ってくれ」
そう言って、ギルは眼を閉じ、そのまま永遠の眠りについた。
マルスは長い間泣いた後、気を取り直して父の遺骸を家の後ろの母の墓の隣に埋めた。
マルスは皮の袋に僅かな食べ物を入れ、別の皮袋に水をたっぷり入れて、住み慣れた我が家に別れを告げた。馬は持っていなかったので、歩いてどこまでも行くつもりである。
山は雪が深く積もり、歩くのに難渋したが、幸い雪が降ることもなく、二日後にカザフの村に着いた
カザフの村からバルミアまでは徒歩で半月ほどかかる。カザフを過ぎれば、道は平坦で、雪もほとんどなく、歩くのに苦労はしないが、道らしい道がずっと続いているわけではなく、途中には森もあれば野原もある。だが、西へ、つまり太陽の進む向きに歩いていけば、いつかはバルミアの近くに行き着くはずである。
森や野原には、山ほどは動物はいないが、それでも鳥は多いし、冬眠しない動物も少しは現れる。マルスはそうした動物たちを矢で射て、民家でパンに換え、あるいは塩や野菜やチーズに換えた。
マルスはまだ十六歳だが、並みの大人よりも背は高く、力も強かった。十四歳くらいからは、猟師たちの間で、戯れにレスリングなどする時には、必ずマルスが勝っていた。弓の腕は、父のギルと同じくらいであったが、投槍で獲物を仕留める腕はギルをはるかにしのいでいた。なにしろ、百歩先の野豚を投槍で仕留められるのは、彼だけだったのである。普通の猟師では、七十歩くらいまで投げるのがせいぜいだし、思い切り投げれば、行く先は槍に聞いてくれ、としか言えないのが普通である。
カザフを過ぎて五日目、マルスは広い野原に出た。風の気配が春の到来を告げる、よく晴れた暖かい日である。野原のあちこちには雪が残っているが、草も芽を出している。野鼠や兎がそうした草の芽を齧っているのがマルスの目にははっきり見える。マルスの目はコンドルや大鷲のように鋭く、どんな小さな生き物でも遠くから見つけることができた。
突然、野原の向こうに陽炎のような物が見えた。
マルスは目を凝らしたが、それが人であると気づくのには少し間があった。その人間はこちらに向かって歩いてくるが、歩くというより地上一寸上を滑ってくるような様子であり、その速さはほとんど飛んでいるといっても良い速さであった。
アスカルファンは東西に八百キロ、南北に三百キロの大きさの国で、東には山を隔てて大国グリセリードがあり、西には海を隔ててレントがある。さらに北の方にも小さな国々があるが、山脈に隔てられたそれらの国々との行き来はほとんどない。南も海である。
アスカルファンの各地方は、昔からこの地方にいる領主によって治められ、領主は農耕の生産物や、手工業による収入の三割から五割を税として取り立てている。国の産業は農業と牧畜がほとんどで、都市では日常の用途に用いる品物を作る仕事や、商業もいくらか発達してきていた。また、山や海岸地帯では狩猟・漁労・採集によって生計をたてている人々も多くいた。
マルスの家はそうした狩猟者の家だった。
アスカルファンの東の山脈地帯の裾に放牧を営む人々の集落があり、村の名はカザフといったが、マルスの家はそこからさらに上った山の中腹にあった。
マルスの父のギルは有名な猟師だったが、人付き合いの嫌いな変わり者で、幼いマルスを抱えて山中で行き倒れになっていたマルスの母を家に連れ帰って介抱し、そのまま自分の女房としたのであった。つまり、マルスにとっては、本当の父ではない。母親のマーサは、マルスが八歳の時に病気で死んでしまったが、死ぬまで、夫に救われたことを感謝し、自分は幸せだったと言いながら死んでいった。
女房を失ったギルはしばらく悲嘆に暮れていたが、それから男手一つで、マルスが十六歳になるまで育てたのであった。
マルスが十六になってすぐ、ギルは山で足を踏み外して谷に落ち、重傷を負った。そこからなんとか自力で家まではたどり着いたが、冬の事で、その間にひどい肺炎になって、そのまま病の床についた。
死を予感したギルは、枕もとにマルスを呼んで言った。
「お前に話しておきたいことがある。わしが死んだら、お前はバルミアに行くがいい。バルミアにオルランドと言う貴族の家がある。お前はそこの若君、ジルベールの息子だ。お前のお母さんはそこの女中をしていてお前を孕み、当主の怒りに触れてそこを追い出された後、この山中をさ迷っているところを私が見つけたのだ」
ギルはベッドの下の小箱をマルスに取り出させ、その中から金の鎖のついた宝石のペンダントを取り出した。
「これはお前の父のジルベールがお前のお母さんにくれたペンダントだ。この宝石はブルーダイヤと言って、非常に貴重なものらしいから、いざと言う時には売って金に替えてもいいが、もしもお前が父に会う時にはお前の身を明かすものだから、大事にするがいい。それ以外には、わしの使っていた弓と槍くらいしか、お前に残してやれるものはないが、お前の猟師としての腕は既にわし以上だ。だが、若いお前は、このままこの山で一人で暮らすより、旅に出て、広く世間を見た方がいいだろう。お前の本当の父、ジルベールに会いに行くがいい。マルスよ、わしとマーサの魂の平安を神に祈ってくれ」
そう言って、ギルは眼を閉じ、そのまま永遠の眠りについた。
マルスは長い間泣いた後、気を取り直して父の遺骸を家の後ろの母の墓の隣に埋めた。
マルスは皮の袋に僅かな食べ物を入れ、別の皮袋に水をたっぷり入れて、住み慣れた我が家に別れを告げた。馬は持っていなかったので、歩いてどこまでも行くつもりである。
山は雪が深く積もり、歩くのに難渋したが、幸い雪が降ることもなく、二日後にカザフの村に着いた
カザフの村からバルミアまでは徒歩で半月ほどかかる。カザフを過ぎれば、道は平坦で、雪もほとんどなく、歩くのに苦労はしないが、道らしい道がずっと続いているわけではなく、途中には森もあれば野原もある。だが、西へ、つまり太陽の進む向きに歩いていけば、いつかはバルミアの近くに行き着くはずである。
森や野原には、山ほどは動物はいないが、それでも鳥は多いし、冬眠しない動物も少しは現れる。マルスはそうした動物たちを矢で射て、民家でパンに換え、あるいは塩や野菜やチーズに換えた。
マルスはまだ十六歳だが、並みの大人よりも背は高く、力も強かった。十四歳くらいからは、猟師たちの間で、戯れにレスリングなどする時には、必ずマルスが勝っていた。弓の腕は、父のギルと同じくらいであったが、投槍で獲物を仕留める腕はギルをはるかにしのいでいた。なにしろ、百歩先の野豚を投槍で仕留められるのは、彼だけだったのである。普通の猟師では、七十歩くらいまで投げるのがせいぜいだし、思い切り投げれば、行く先は槍に聞いてくれ、としか言えないのが普通である。
カザフを過ぎて五日目、マルスは広い野原に出た。風の気配が春の到来を告げる、よく晴れた暖かい日である。野原のあちこちには雪が残っているが、草も芽を出している。野鼠や兎がそうした草の芽を齧っているのがマルスの目にははっきり見える。マルスの目はコンドルや大鷲のように鋭く、どんな小さな生き物でも遠くから見つけることができた。
突然、野原の向こうに陽炎のような物が見えた。
マルスは目を凝らしたが、それが人であると気づくのには少し間があった。その人間はこちらに向かって歩いてくるが、歩くというより地上一寸上を滑ってくるような様子であり、その速さはほとんど飛んでいるといっても良い速さであった。
PR