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女性漫画家の多くが陥る陥穽

これは面白い論考だが、全部を引用すると私が重要と思うポイントが不明瞭になるので、関連部分だけ引用する。
なお、私は女性漫画家の作品のうち成年女性向け漫画は苦手なので、紙屋氏の書かれている漫画家は東村アキ子以外にはまったく知らない。東村の漫画も、たいして好きではないが、紙屋氏がここに書いていることが分かる程度には知っていると思う。いや、実は東村の成年女性向け漫画はひとつも読んでいないのだが、よく理解できるのである。つまり、私が知っている成年女性向け漫画の範疇に入る内容だろう、と推定すれば、よく理解できるわけだ。
何だか、持って回ったような言い方になってしまったが、「知らない事柄について図々しく論じている」のだから、仕方がない。

で、何が言いたいかと言うと、「一般に信じられているのとは逆に、女性は理性と感情の切り替えがうまい」のではないか、ということである。と言うより、自分でも知らないうちに、その切り替えを見事に行っているのではないか、ということだ。
「女性作家の中での『物語作品』と『エッセイ作品』の出来の(良さの)差はなんなんだ」
という紙屋氏の問いかけは、「女性作家」とひとくくりにしてしまうとよろしくないが、多くの女性作家(女性漫画家)は、「エッセイ的作品」あるいはギャグ的作品では抜群の達成を示すのに、同じ作家が「物語作品」あるいはシリアス作品を描くと、本当につまらないものを描いてしまう。だが、彼女らが描きたいのはシリアス作品の方なのだろうなあ、というのも何となく分かるのである。
で、そのシリアス作品とは、要するに「恋愛とセックス」すなわちエロス方面の作品なのである。恋愛(への憧れ)をギャグで描いた「恋愛ラボ」のような傑作もあるが、女性にとって恋愛は概して真面目に扱うもので、そうなると第三者、特に男から見ると「正視に耐えない」ものになる。つまり、そこに描かれる「自己陶酔性」(というのは、作者自身のナルシシズムや理想が当然作品に反映されていると推測されるからだが。)が、見ていて何とも気恥ずかしいのである。
まあ、これが「女性コミック」を男が読まない理由の大きな部分だが、もちろん、女性コミックは女性読者を対象にしているから、それでいい。男から見たら女性コミックは女性用ポルノ漫画という印象にしかすぎない。絵柄が男性用ポルノ漫画より装飾的で女性的だというだけだ。そこにどのような「文学的」陰影があろうと、総体的にはポルノである。もちろん、私は女性コミックを読まないから、これは「知らない事柄について図々しく論じている」のだ、というのは最初に書いた通りだ。

さて、ここから女性一般を論じるが、これも「知らない事柄について」論じているのは同じである。私は女性になったことはないのだから知りようがない。あまり外界の観察が得意でもない、穴に閉じ込められた「山椒魚」的人間の感想だ。

女性は、自分の外部世界(社会)に規定された「女性だけに命じられた檻」の中で生きねばならないことを幼いころから意識して成長する、と思われる。もちろん、髪を長く伸ばし、スカートをはき、ピンク系の色を好む、というようなことが生来好きである、という場合が多いとは思うが、そういう「女性らしさ」を演技することもやがて覚えていくだろう。それが、この世界で楽に生きる方法だろうからだ。
つまり、女性は「嘘と演技」を生存の必修事項として身に付ける点で、頭のぼんやりとした男連中より、はるかに厳しい条件の中で成長していくわけである。
その結果どうなるか、と言えば、女性は「理想と現実」の使い分け、心の切り替えに熟達することになる。たとえば、恋愛の場ではあくまで理想を追求し、結婚では現実的になる、というようなことだ。

さて、ここで再び女性漫画家の多くが、なぜエッセイ作品で優れた才能を示すか、という問題に戻ると、彼女たちは、「社会の差別の中で厳しい現実を生きてきたから、現実をシビアに見る目が養われ、その現実の不合理性が笑いに容易に転化できることを知っている」からではないか、というのが私の仮説である。それは、エッセイ作品で扱うことはほとんどが「身の回りのこと」であることから推測できる。差別的状況の中で起こる不条理は、不条理だからこそ、現実なら悲劇、フィクションなら喜劇化できるのである。
だが、「物語作品」だと、現実を離れ、自分の「理想」を追求できる、と彼女たちは考える。そこに陥穽がある。理想とは結局自己愛の充足であり、野放図な自己愛の表現は見る者を辟易とさせる。

以上で、紙屋氏の疑問への回答とする。QED


(以下「紙屋研究所」から引用)

女性作家の中での「物語作品」と「エッセイ作品」の出来の良さの差はなんなんだ

 ぼくは(当時のぼくにとっての)女性マンガ家の一つの傾向として、作品ではかなり叙情的な絵柄を使うのに、エッセイコミックでは全く違う、上記のような絵柄を使うことへの違和感を抱いていました。


 絵柄が違うことそのものではありません。叙情的な絵柄の「本体の作品」の方は、「ふわっ」としていて「雰囲気だけ」で描かれていてつまらないのに、エッセイコミックの方は無性に面白い。なんで本体の方の作品もエッセイコミックみたいに面白くできなのかなあと。ふわふわした無根拠なものをなんで書いちゃうんだという苛立ち。


 例えば、高橋由佳利は『トルコで私も考えた』というエッセイコミックがものすごく楽しみで、そこで高橋の物語系のフィクション作品もいくつか読んだのですが、少なくともぼくにはピンときませんでした。


 初期のかわかみじゅんこなどもそうです。


 かわかみが登場して来たとき、世間で絶賛されていた『ワレワレハ』や『銀河ガールパンダボーイ』にぼくはあまり馴染めずに、そのまま忘れていたのですが、パリ暮らしを綴った『パリパリ伝説』に出会って熱狂しました。『パリパリ伝説』を経た後で発表されている物語作品であるところの『日曜日はマルシェでボンボン』や『中学聖日記』は、エッセイコミック的な諧謔が随所に生きています。




 このような「エッセイコミック的なもの」という絵柄を装備した東村は、登場からすでに(ぼくのなかで)アドバンテージを持っていました。


 ただ、最初は東村自身が苦戦していたとぼくは思います。


 つまり「女の新人漫画家が必ず一度はやっちゃうシリーズ」は東村自身の反省ではないのか、少なくとも自分の中にその要素があったのではないか、という自戒・自虐を込めているのではないでしょうか。




 東村の初期作品『白い約束』に、ぼくは不満があります。


 これも、ぼくのホームページに当時(2004年)の感想が残っているので、紹介しましょう。


 この漫画については、ある種の楽しみがあった。なぜかこの前、ぼくが同級生の女性2名と旅行先の電車に5時間閉じ込められ、退屈した女性二人が、ぼくが偶然持っていたこの漫画を読んだからだ(買ったばかりだった)。二人の感想は「だから何なのよ、というかんじ」「あんまり面白くない」であった。


 ぼくはその時点でこの東村の短編集を読んでいなかったので、『きせかえユカちゃん』を描いた東村はいったいどういう短編を描いているのか、家に帰って読むのが楽しみだったからである。もしぼくが面白いと感ずれば、女性二人との感性の違いは決定的となる。


 結果は、この女性二人の勝利といってよい。えーと、そこそこに面白いとはおもうけど、「だから何なのよ」と確かに言いたくなる。あれほどオトナのギャグが描け、「ヤングユー」で味のある短編を描いているくせに、この『白い約束』は、まるきし『ラブ☆コン』『ハツカレ』並のお子ちゃま度である。


 3つの短編に出てくるオトコが3人とも似た感じで(いや、東村はどの作品にもこのタイプのオトコが出てくる。よほど萌え萌えなのであろう)、3人とも魅力に欠ける。主人公となっている女性のイキのよさを殺している。


 同級生どもに、「これが東村という漫画家か」と思われたのがくやしい。いや、別に東村に義理はないけど。


http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0407.html#shiroi

ギャグが担保する客観

 東村はぼくの中では「ギャグの人」です(羽海野チカもぼくの中では長い間そういうポジションでした)。対象を冷徹に客観視して笑いものにする批評性は、『ママはテンパリスト』のようなエッセイコミックで本領を発揮しますが、そこから派生して『東京タラレバ娘』『海月姫』『ひまわりっ』のような物語フィクションにも生かされます。




 逆に言えば、ギャグとは別に、陶酔感が入り込む「カッコよさ」「叙情」「懐古」のようなものを扱うときは、危険さがつきまといます。


 つまり、下手をするとギャグやロジックのような客観性を担保する武器が封じられて「ちゃお」少女マンガのような「雰囲気だけで書いたもの」、陶酔感全開のものになってしまう恐れがあります。


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公約を実行した市長

在任中の業績は知らないが、公約の一端を守ったことは美談だと言える。
そういう当然のことが、滅多にない、「奇矯なふるまい」となるような日本という国が民主主義国家であるはずはない。
政治家は、公約を守ることが最大の責務である。公約を守らない政治家を許していることは国民の恥である。


(以下引用)


市長の退職金、1900万円→20円へ 「公約を実行」

朝日新聞デジタル 2/23(木) 3:00配信

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 4月に任期満了を迎える愛媛県伊予市の武智邦典市長は22日、自身の退職手当を減額する条例改正案を市議会3月定例会に提案した。算定基準の4月分の給料を最少の1円にする内容で、可決されれば約1900万円が約20円に大幅減額される。

 武智市長は2013年の初当選時に退職手当を受け取らないことを公約に掲げていた。武智市長は「公約したことなので愚直に実行するだけだ」としている。

 提案されたのは「伊予市特別職の職員の給料の特例に関する条例の一部を改正する条例」案。市長の退職手当は任期満了を迎える4月分の給料が算定基準で、県内市町が加入する県市町総合事務組合に負担金を支払ったうえで、退職手当条例に基づいて支給されている。給料を支給しないのは手続き上難しいとして、限りなくゼロに近づけた形だ。

 同様の退職手当の減額例としては、16年の栃木県那須塩原市長が20円だった。(藤家秀一)



朝日新聞社



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上品なつもりであるところが下品

この彼女の言動は極端だが、私も外食店で「いただきます」を言うことには抵抗があるし、まして「手を合わせる」など、葬式かよ、と思ってしまう。「命をいただく」も気持ち悪い表現である。
まず、飲食店で「いただきます」と言うのは、誰に対して言っているのか。誰もいなくても言うのならキチガイだろう。では、誰に対しての発言か。店の人は聞いてもいないのだから、目の前の彼女に向かって言ったのか。それなら、彼女がこの料理を作ったわけではないのだから、「いただきます」という感謝の言葉は必要ない。せいぜい、「さあ、食べようか」でいい。ここで「いただきます」と言うのは、私が見ても「いいところの坊ちゃんアピール」にしか見えない。

ただし、家庭での食事や他家での食事での「いただきます」は、作った人や馳走してくれた人(その家の主人含む)への感謝の言葉として当然だ、あるいは、(他国には無い風習だろうから、巨視的に言えば、だが)当然とまではいかなくても、あったほうがいいと私は思っている。

この記事中の彼女は嫌な奴かもしれないが、骨のある人間で、私は嫌いではない。物事への批判精神や考察力があるだけ、家畜人間らしいスレ主よりは人間として面白い。むやみに闘争的なところはいかがなものか、とは思うが、それも若さゆえのとんがった感受性の発露だろう。


なお、「手を合わせる」のは、テレビのグルメ番組やアニメなどの悪影響でひろまった「新しい風習」だと私は見ているが、この件に関しては前に書いた。昔の食事風景を描いた映画やテレビドラマには無かったはずだ。手を合わせるという行動は神仏や死者に対するもの(あるいは敵への命乞い)で、食事にはふさわしくない、と私は考えている。(この不快な「新風習」に疑問を持つ人は私だけではない。ネットで検索すればヒットするだろう。手を合わせるのは軽々しくやってよいような動作ではない。)






(以下引用)



レストランで「いただきます」と手を合わせたら彼女に「坊ちゃんアピールすんな」と言われてしまった

2017年02月23日 00:05


http://kohada.open2ch.net/test/read.cgi/kankon/1487566346/
スレを立てるまでに至らない愚痴・ 悩み・相談part63
83 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)22:55:09 ID:z0h
すまない、ぶった切りで愚痴を吐かせて欲しい。

彼女とレストランでコースの食事をしたんだ。
自分は「いただきます」と手を合わせ出てきたコースをとりあえず完食。
彼女は特にいただきますとか何もなく色々残した(嫌いな物があったとかで手をつけなかった)。

レストランを出て、美味しかっただのあれが不味かっただの話をしたんだが、そしたら彼女が
「いただきますとか言っちゃって坊ちゃんアピールすんな。食いたくない物無理して食って馬鹿じゃないの」
って言ってのけたんだ。

自分としては、別に坊ちゃんぶったとか何も考えずにいただきますをして、
不味いかどうかも食べてから判断した訳だが、
不味いと思ったものは手を付けない方がいいんだろうか。

「いただきます」が坊ちゃんぶってる。
不味いと思った物って手を付ける前に拒否する。

この2点にモヤモヤしてしまう。

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84 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)22:58:50 ID:stF
>>83
その女は地雷だよ、早めに逃げたほうがいいよ
どんな些細なことでもマウンティングせずにいられないゴミの可能性が高い

手遅れになる前に本性わかってよかったね
次はまともなの探そう

85 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:06:35 ID:z0h
>>84
やはりそうか。ありがとう。

自分はしがない会社員だが、ちょっと奮発して市街地(といっても田舎のだが)のレストランを予約して
ちょっと頑張っちゃった感じはあったんだ。

そしたら前スレの発言だったのでそういうものなのか?と
自分が信じられなくなったところがあったので聞いてみた。

今後の彼女との付き合いはちょっと考えてみます。

86 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:08:33 ID:iZV
>>83
彼女がおかしい
ちゃんと躾されてない人なんだなと思う

お別れしたほうがいいね

87 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:20:55 ID:z0h
>>86
その彼女の言うところ
「手を付け完食する=美味しいと認める」ことになり
店の為にも不味いことを主張しなきゃいけないことを放棄している、ということらしい。

「いただきます」も、食べられるかどうか吟味する前に食べることを宣言して
味覚のわからないボンボンが事前に言う戯れ言、と言っておりました。

最後は口論になってお互い怒り心頭で別れて来ました。
考えると今後もこういった会話がありなくないので別れる方向で行きたいと思います。

88 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:23:13 ID:vqa
>>87
彼女さん、育ち悪すぎ。
色々と人として発言がおかしい。

90 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:42:33 ID:dzT
>>87
ボンボン発言こわいな
育ちも悪いけど、それに開き直ってるのがもっと怖い
育ちが悪くても改善しようとかがあればねぇ
「いただきます」の意味もはき違えてるし
こんな女性が実在するの?

91 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:49:40 ID:z0h
>>90
「いただきます」は命を戴くことに感謝する言葉だ、と言ったのですが
返ってきたのは「宗教じみてて怖い」でした。

92 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/21(火)23:54:16 ID:RXN
>>91
ますます怖いわ。
キチの要素たっぷりだね。
てか日本人?
余計なお世話かもしれんが、別れる時は共通の友人がいるなら根回ししておいた方が良さそう…

93 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/22(水)00:01:17 ID:UNm
>>91
言って悪い言葉じゃないんだから気にしなければいいのにね
いただきますはマナーだとか、絶対に言わなければならないとまでは自分は思わない(異論は認める)けどさ

他人事ながら彼女に対してお前何無宗教ぶってんだよっていうのと
あと金持ちへの僻み乙と言いたくなったわ

94 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/22(水)00:12:40 ID:Gu1
>>92
家系追っかけてないので詳細は不明ですが
純日本人だと思います。

>>93
自分としては、
マナーも守らない人に対しては「マナーが悪いな」で終わりますし、
(別に守らなければ悪い人、という扱いにはならないという意味)
自分も宗教に属している訳ではないので、無宗教も特にどうこう言いません。

ただ、無宗教とかマナーうんぬんよりも、
「いただきます」が特殊宗教扱いされたことが自分としてはある意味ショックです。
日本人としての礼節(当然の挨拶)だと思っていましたので。


95 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/22(水)00:13:08 ID:opP
>>91
彼女、幼稚な上に随分と性格歪んでいるね
上手に別れられますように

96 :名無しさん@おーぷん : 2017/02/22(水)00:20:38 ID:Gu1
>>95
喧嘩別れしている手前、性格の不一致を推していこうと思います。
共通の友人も数人いますので、穏やかなFOが出来るように。




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「自己愛性パーソナリティ障害」という言葉への批判

長文の引用なので前説は簡単にし、いずれ詳しく書こうと思う。
前々から書いているように、自己愛は人間、いや動物の最大の本能であり、自己保存本能とほぼ同じである、というのが私の考えだ。
当然、その「自己愛」という言葉を病名に用いて、自己愛が異常なものであるかのように世間を誤って導くことに私は激しく反対するものである。
そういう意図ではない、と精神医学界が主張しても、すでにネットやマスコミでは「自己愛性パーソナリティ障害」という言葉が他者への悪口や批判の言葉として飛び交っている。その事実についての言及も下の記事にあるが、これはそもそも「自己愛性パーソナリティ障害」という命名自体が大きな問題である、ということだ。
しかも、たいていの場合、その悪口や批判は、「自分以外の人間が、自分の望むような行動を取らない」場合に、相手を精神障碍者扱いする、という用い方をされているはずだ。昔なら、単なる「エゴイスト」という、性格的問題とされていたのが、「精神障害」にされてしまうのだ。それは、逆に言えば、何か犯罪を行った場合に、「精神障碍者」として免責されることへの道を開いた、ということになるのではないか。
とりあえず、ここまでにしておく。
なお、後ひとつだけ無駄口を書いておく。「自己愛」の反対は「自己嫌悪」である、とすれば、「自己愛」を否定する立場からは(まあ、精神医学界もそこまでは言わないが)、「自己嫌悪」に満ちた「生まれてすみません」という人間こそが健全な人間になるのだろうかwww
「自己愛」の反対をもうひとつ考えれば、それは「無我無心」であり、こちらは仏教的な理想の状態である。そんな境地に至れるのは100万人にひとりくらいだろう。つまり、「自己愛」は「普通人の精神」なのである。この病名が愚かしいことは明白ではないか。せめて「過剰自己愛性云々」または「自己執着性云々」とでもすればまだよかったのだが。



(以下「白熊のくずかご」から引用)


「自己愛性パーソナリティ障害」という診断の意味を考える

 
www3.nhk.or.jp
 
 相模原市で起こった障害者殺傷事件の精神鑑定が終わり、診断名は「自己愛性パーソナリティ障害など」であると報道された。
 
 リンク先にもあるように、自己愛性パーソナリティ障害とは、「他者の都合を度外視し、周囲からの称賛を求めたり、みずからを特別な存在だと過度に考えたりすることを特徴とする」。それに関連して、自尊心が脆く、自分が軽視されたと感じると激怒や抑うつに陥りやすい。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害と診断することに、どのような意味があるだろうか。
 
 精神鑑定に関して言えば、責任能力を見極めるうえで、自己愛性パーソナリティ障害という診断名は大きな意味を持つ。すなわち、急性期の統合失調症や双極性障害*1のような重度の精神病性障害ではなく、また重度の発達障害にも該当しないのだから、責任能力に問題は無いことになる。
 
 この診断名には、私も疑問を感じない。報道されている情報と矛盾するものではないし、そもそも、専門家が時間をかけて鑑定した結果だからだ。これを踏まえて、裁判は粛々と進んでいくだろう。
 
 

「自己愛性パーソナリティ障害と診断すること」の曖昧さ

 
 その一方で、私は、自己愛性パーソナリティ障害という診断名の存在意義とはなんだろうか? と改めて疑問を感じた。
 
 ひとことでパーソナリティ障害といっても色々なものがあり、妄想性パーソナリティ障害や境界性パーソナリティ障害などは、精神医療の現場との関わりが大きい。なかでも、境界性パーソナリティ障害は患者さんの数も多く、社会的な影響も甚だしく、それでいて自殺や事故を防げれば存外に予後が良い疾患であるためか、積極的に研究が行われ、あれこれの心理療法的アプローチが考案されている*2
 
 かつて、境界性パーソナリティ障害という病名は、家族や医療関係者を振り回し、衝動的で、こらえ性が無く、自殺未遂やかんしゃくを繰り返す患者さんにレッテルのごとく付けられていた。しかし、21世紀に入って双極性障害や発達障害の割合が高くなったためか、最近は「まさに教科書どおりの、境界性パーソナリティ障害としか言いようのない」患者さんだけに診断されるようになった。それだけに、わざわざ境界性パーソナリティ障害と診断し、相応の治療的対処を試みる意味がくっきりしたと言えよう。
 
 では、自己愛性パーソナリティ障害はどうか。
 
 自己愛性パーソナリティ障害と診断される患者さんは、それほど多くはない。控えめに言っても、この診断名を積極的につけたがる精神科医は少ない。私が見知っている限り、境界性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医はそれほどいないだろうが、自己愛性パーソナリティ障害と診断された患者さんを現在進行形で診ていない精神科医なら、ごまんといるだろう。
 
 その一方で、自己愛性パーソナリティ障害は全人口の1~6%が該当するという統計も存在する。だとしたら、なぜ、精神科医は自己愛性パーソナリティ障害という診断名で患者さんを診ようとしないのか?
 
1.理由のひとつは、そういう患者さんには他に治すべき(そして治療的な対処が可能な)精神疾患が存在するからである。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する患者さんが、自分の性格を治したいと望んで医療機関を受診することはまず無い。ほとんどの場合、うつ病や適応障害といったほかの精神疾患に陥った時に受診し、早急な治療的対処を求めている。そのような患者さんに関して、カンファレンスの場で性格傾向が議論されることは珍しくないが、“第一の診断名として”自己愛性パーソナリティ障害が選ばれることは珍しい。
  
2.理由のもうひとつは、自己愛性パーソナリティ障害への治療的対処が確立していない点である。
 
 さきに挙げた境界性パーソナリティ障害に関しては、治療的対処について多くのことが語られ、研究もされている。精神医学のスタンダードな教科書『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開 第3版』でも、境界性パーソナリティ障害の治療についてほぼ丸々1ページが費やされている。
 
 ところが、自己愛性パーソナリティ障害の治療的対処については、ほんの少ししか書かれていない。短いので抜粋すると、
 


 治療
 
 精神療法 患者が前進するためには彼らの自己愛を捨てなければならないので、自己愛性パーソナリティ障害の治療は難しい。カーンバーグ(Kernberg)とコフート(Heinz Kohut)のような精神科医は精神分析的アプローチによって変化をもたらすと唱道した。しかし、診断を確認し最良の治療を決定するにはこれからの多くの研究が必要である。理想的な環境において分かち合いを学ぶ集団療法により、他者への共感的反応を促すことができると論ずる臨床医もいる。
 
 薬物療法 リチウム(リーマス)が、臨床像の一部に気分変動を含む患者に使われている。自己愛性パーソナリティ障害の患者は拒絶にはほとんど耐性がなく、抑うつ的になりやすいので、抗うつ薬(特に、セロトニン作動薬)が有用な場合もある。

 たったこれだけである。内容的にも、あまり研究が進んでいないことがうかがえる。
 
 しかも悪いことに、この記載はひとつ前のバージョンの第二版と同じである。境界性パーソナリティ障害をはじめとする多くの精神疾患は、第三版になって内容がかなり書き換わっていた――つまり、それだけ診断や治療に進展があったわけだ――が、自己愛性パーソナリティ障害については、それほどの進展があったわけではない、ということである。
 
3.三つ目の理由は、これは私の推測混じりになるが、現代人は多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害に近い心性をもっていて、病的な自己愛と正常な自己愛の境目を議論するのが難しい、ということもあるだろう。
 
 この疾患の第一人者の一人、カーンバーグは、自己愛性パーソナリティ障害の人は、正常な自己愛とは区別される異常な自己愛を持っていると論じた。他方、もう一人の第一人者、コフートは、自己愛性パーソナリティ障害を未熟な自己愛とみなし、成熟した自己愛と連続的なものとして論じた。
 
 自己愛性パーソナリティ障害に該当する人のなかには、その心性に急き立てられて富や名声を求め、(一時的に、または永続的に)社会的成功をおさめる人も少なくない。病碩学の世界では、世界的指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤンが自己愛性パーソナリティ障害の傾向を持つと論じられている*3が、私のみる限り、インターネットも含めたメディア上で名を成した人のなかには同じような心性を持った人が少なくないようにみえる。
 
 もっと卑近な例として、自己顕示的なtwitterアカウントのたぐいなどは、多かれ少なかれ自己愛性パーソナリティ障害寄りだと言えるし、「意識高い系」と呼ばれるような人達、「自撮り棒」で写真を撮ることを好む人達、鮮やかな体験をInstagramにアップロードすることを生き甲斐にしている人達についても、近い心性を持っていると想定される。そういった、現代人の典型ともいえる人々にパーソナリティ障害というレッテルを貼ってまわることに意味はない。
 
 
 こうした1.2.3.を振り返るにつけても、精神医療の現場で自己愛性パーソナリティ障害という診断名があまり選ばれないのは当然のことだと私は思う。他に治すべき精神疾患が併存し、研究がそれほど進んでおらず、正常と異常の境目の曖昧な疾患概念を、第一の診断名として選ぶのはなかなかできることではない。
 
 ちなみに私自身はコフートの自己愛理論を愛好しているので(→関連)、患者さんの自己愛の状態は意識するようにしているけれども、それですら、第一の診断名として自己愛性パーソナリティ障害と付けたことはほとんど無い。医療というコンテキストで考えるなら、他につけるべき診断病名があり、他に優先すべき対処があることがほとんどである。
 
 


鑑定上の「自己愛性パーソナリティ障害」とは「重篤な精神病ではありません」ではないか

 
 こうした実情を踏まえて、くだんの精神鑑定について考えると、鑑定を担当した先生が積極的に「自己愛性パーソナリティ障害」と診断したとは、私には思えないのだ。
 
 統合失調症や双極性障害に該当せず、種々の発達障害にも該当せず、境界性パーソナリティ障害のようなクッキリとした人格障害にも該当しないがために、消去法的に自己愛性パーソナリティ障害という診断名が“残った”のではないか、と想像したくなる。
 
 繰り返すが、報道されている範囲では、容疑者の振る舞いは自己愛性パーソナリティ障害の診断基準と矛盾しないようにみえる。しかし、これは精神科医が積極的に診断したくなるものとは考えにくい。鑑定を担当した先生は、いろいろな精神疾患をさんざん検討したうえで、ひねり出すような気持ちでこの診断名に至ったのではないだろうか。
 
 重大事件の容疑者には、ときとして自己愛性パーソナリティ障害という鑑定結果が付けられる。さしあたって、責任能力について判断する際には十分な診断名だろう。しかし、ここまで述べてきたように、自己愛性パーソナリティ障害とは曖昧な疾患概念なので、この鑑定結果から容疑者の内実を深読みするのは難しいように私は思う。記事詳細で“複合的な人格障害”という表現を伴っていることを踏まえるにつけても、「重篤な精神病ではありません」以上の読みは、しないほうが良いのではないだろうか。
 
 


どうか、「自己愛」が嫌悪されませんように。

 
 ところで、自己愛性パーソナリティ障害という言葉は、かなり悪いイメージを伴って巷に流通している。匿名掲示板やtwitterなどでも、この言葉が一種の罵倒文句のように用いられているのを何度も目にしてきた。尊大な態度や他者への無神経さが嫌われやすいことを思えば、それ自体は仕方のないことかもしれない。
 
 ただ、こういった重大事件の鑑定結果として(積極的か、消極的かに関わらず)自己愛性パーソナリティ障害という病名が登場するたび、私は、この診断名のイメージがますます悪くなるのではないか、ひいては、自己愛そのものを否定する人が増えるのではないかと心配になる。
 
 これが他の精神疾患、たとえば種々の精神病や発達障害なら、病名に対するスティグマが広がらないよう注意を促す人々が現れるものだが、自己愛性パーソナリティ障害についてはどうだろうか?
 
 自己愛の暴走がトラブルを生むこと自体は否定できないし、自己愛性パーソナリティ障害に該当し、現に苦しんでいる人がいるのも事実だ。だがそれだけでなく、自己愛は、自分自身のために切磋琢磨し、富や名声やスキルを掴むための原動力にもなり得るものだ。また、世間ではあまり知られていないが、自己愛の概念の範疇には、誰かに憧れたり応援したりする心性も含まれている。そういった部分も含めて、自己愛には健全な側面も多分にあるのだから、やたら否定せず、適切に付き合っていくべきだと思う。そして、例示したカラヤンをはじめ、自己愛性パーソナリティ障害に相当する心性を持っているけれども、否、ひょっとしたらそのおかげで社会的成功に至る人だっているのだから、ネットの巷で悪しざまに言われているほど、否定しないで欲しい、と願う。
 
 



*1:いわゆる躁うつ病のカテゴリ


*2:注:境界性パーソナリティ障害の心理療法的アプローチのなかには「急いで治そうと治療者が頑張り過ぎない」ことも含まれているので、やたらと一生懸命に治そうとするようなイメージを過度に持ち過ぎないようにご注意を。


*3:参考:中広全延『カラヤンはなぜ目を閉じるのか―精神科医から診た“自己愛”』、新潮社、2008


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人間のクズが学校理事長

「阿修羅」記事から抜粋転載。
蛆虫についての記事なので、記録として保存しておくだけである。
こんな人間が理事長(幼稚園に関しては園長か。)をやっていると知らないままで、近くに他の幼稚園が無いために塚本幼稚園に子供を通わせた父兄もいるだろうから、以前の記事に書いた、この男の運営する幼稚園に子供を通わせる父兄もキチガイだ、という言葉は訂正し、お詫びする。
なお、「ネットゲリラ」にも書いてあるが、籠池理事長やその妻は、なぜか本名のほかに通名を使っている。本名自体は韓国朝鮮名ではないので、何のための通名使用かは分からない。いずれにしても、何か後ろ暗いことを隠すためだろう。




(以下引用)



「週刊新潮」(2月23日号)の記事、

「『日本会議』幹部の幼稚園に国有地格安払下げ」の

次の記述部分は、

必読です。






拍手

こけおどし(素人脅し)が専門家の仕事の半分

私も前々からビジネスコンサルティングという商売をおかしいと思い、その疑問を何度か書いてきたのだが、「専門家」や「士業」全体についても同じ疑問が言えそうだ。
つまり、「専門家が学校で学んだ『畳の上の水練』を一般人がほとんどわけもわからず有難がって聞いているという、新興宗教的な構図があるのではないか」、という疑問だ。まあ、疑問と言う言い方自体あほらしいような「事実」だと思う。ビジネスコンサルタントという仕事に関してはその仕事自体の本質的な欺瞞性が私の気に障るわけだ。「幸福の科学」や「オウム真理教」のようなあからさまなインチキ宗教に引っかかる人間が多いのが、他人事ながら癪に障るのと同じで、いわば「公憤」「義憤」を感じるわけである。
そして、専門家や士業の仕事の半分まではいかにうまく「こけおどし」をするか、というところにある、と言ったら言い過ぎか。


『会計士として事務所を開けば、ほとんどの人は無知なので、自分が間違っていても先生、先生と立ててくれる』


これは官僚や警察、裁判などについても同じ構図だろう。一般人は、専門家の仕事の内実を知らないから、彼らの言う事をすべて聞き入れて従う。その仕事でどんなにいい加減な事が行われていても分からない。もっと広く、ほとんどの分野において、これは言えることだ。
たとえば、家を買う時は、不動産取引のことなど素人は分からないから、ほとんど不動産屋の言う通りにするしかない。病気なら医者の言うことを信じるしかない。
それが通用しないのは、今では教師くらいだろうか。現代では誰も教師など信頼していない。そんな時代に教育が可能なはずはない。まあ、教師は子供に対しては権力があるが、その権力は親には及ばないからこうなったのであり、そのあたりが警察などとは違うのだろう。



(以下、孔徳秋水氏のツィッターから引用)赤字部分は夢人による強調。


 


  1. [2/21 02:57] >一流の大学を出た人は知識に頼る傾向があります。しかし、知識は多くの人が持っていますので、差別化にはなりません。それどころか知識が邪魔をして、知恵にまで思考が及ばない人が多いのです


  2. [2/21 02:55] 法律・ルール・常識を作る必要性はもちろんあります。しかし、問題は『必要性』がどこから来たかということです。 官僚に必要、政治家に必要、税務署に必要、警察に必要、特権階級に必要というように、必要とは『勝ち組にとって必要』という意味です。


  3. [2/21 02:54] 言い換えますと、常識やルールは支配者が被支配者を操作するために作ったものが多いと思っています。ですから、常識とかルールというものは支配者側は守らず、被支配者だけが守るものとなります。


  4. [2/21 02:54] >法律では大衆を管理しきれないことから、為政者・支配者は、人間の良心を利用して『こうしてはいけない』という常識やルールをたくさん作り、他人の目を意識させて国民に守らせるという戦略を採りました。


  5. [2/21 02:53] >そもそも常識やルールはどうやってできたのでしょうか。 法律は最低限に絞って作られます。 法律を多くすればするほど社会は硬直化し、法律が社会をダメにするからです。そこで昔から為政者は法律以外に大衆を管理するために『常識・ルール』を作りました。


  6. [2/21 02:52] ある税務署出身の税理士から聞いたことで確認は取っていませんが、税務署では税務調査の担当者に、年間でいくら税金を徴求するというノルマを課しており、ノルマの達成が優先しますので、下手をすると払う必要のない税金まで取られてしまう可能性もあるそうです。


  7. [2/21 02:51] >その社長が期待したのは「10項目について、理論武装して税務署に挑戦した結果、全10項目中、2項目でわが社の主張が通りました」というような答だったのです。


  8. [2/21 02:50] >この話をグッドイシューの監査法人の担当者やある会計士にしたところ「どうして無事に終わったことがいけないのか」と怪訝そうに聞きました。なぜなら税務調査を無事に終わらせるのが『会計士や担当役員の職責だ』と彼らは思っているからです。


  9. [2/21 02:49] >その報告を聞いた社長は「なぜ、何事もなく無事に終わるのだ。無事に終わるということは、すべて税務署の言う通りにしたということであり、あなたが何も智恵を働かせなかったということだ」と言って、その役員を叱責したそうです。


  10. [2/21 02:49] >ある会社の社長の話ですが、会社に税務署が入った時に、経理担当役員から「税務調査が入りましたが、何事もなく無事に終了しました」という報告がありました。


  11. [2/21 02:46] >彼らは『他人が作った分析ソフトを使って分析し、分析結果を本で学んだ知識に当てはめてコンサルティングする』のです。~つまり…薬漬けにしている連中も、変な分析診断している連中も、お題目を連呼しているだけの連中も…同じ穴のムジナ…目くそ鼻くそ耳クソ…


  12. [2/21 02:43] よく考えてみますと、コンサルティング会社の社員は経営経験のない人がほとんどです。つまり、実績はなく、学問として経営を勉強した人が、実践者である経営者に助言をしているというおかしな構図になります。


  13. [2/21 02:42] > 理論的に解説する本は『楽な解説法』であり、意味は分かるのですが、いざ使おうとしても、具体的なことは書いてないので役に立ちません。 論理的なヒントだけで実践方法が分かるレベルの人間にとって、『論理的に解説している本』はもう必要ありません。


  14. [2/21 02:42] >マネージメントについては色々な本が出ていますが、はっきりと二つに分かれます。 一つはマネージメントを論理的に解説する本、もう一つはマネージメントを実践的に解説する本です。


  15. [2/21 02:40] >マネージメントも同じです。失敗を重ねて、失敗から学んだ人でなければ『実践的なマネージメント』はできないと思います。ですから、論理的に解説している本ではなく、実際に効果があったマネージメントを行った人の体験談の方が、これからマネージメントをしたいと思っている人には有効です。


  16. [2/21 02:39] 経営学の教授が優秀な経営者になれるわけではありません。 経営は理論的なだけでは駄目で、環境に合わせて臨機応変に行うものであり、計算できることだけをしている経営では競争相手に勝てずに淘汰されてしまいます。


  17. [2/21 02:34] >一人で事務所をしていると病気などもあり、老後が不安でグッドイシューに入ったようですが、老後までは20年以上もあります。 楽しい道を選んだ方が良いというのは素晴らしい判断であり、私は納得して「そうしたら良い」と言いました。


  18. [2/21 02:33] >『確かにこれまでにない分析手法だけれど、40歳を超えて1から勉強はしたくない』『会計士事務所を開いて、先生、先生と言われて楽しい人生を送った方が良い』からだ」と言いました。ここまで簡潔に分析できるのですから、彼が利口なのは確かです。


  19. [2/21 02:33] >彼は『会計士として事務所を開けば、ほとんどの人は無知なので、自分が間違っていても先生、先生と立ててくれる』が、グッドイシューで森田社長と話をしていると『毎日、自分の無知が示されて、楽しくない人生になって しまっている』


  20. [2/21 02:32] >入社して六カ月したので、そろそろグッドイシューのことが分かったかと思って、時間を取って彼と数人の経理マンにグッドイシュー式経営分析の方法を教えたところ、1カ月もしないで「辞任したい」と言ってきました。 理由を聞いたところ…


  21. [2/21 02:31] 会計士や弁護士と話をしますと、ほとんどの『サムライ=士』は通り一遍のこと以外は話せません。米国で活躍したこともある会計士を、優秀だと紹介されて経理担当役員に迎えたことがありました。

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権利の制限や禁止を認めると、それは必ず拡大され先例とされる

私自身はほとんど煙草を吸わないが、喫煙者の権利(喫煙者には限らず、少数者の権利)が、根拠不十分な状態で制限されたり禁止されたりすること自体に反対する。多数決が常に優先されるなら、少数者は常に被害者になる。これは沖縄の基地問題が示すとおりだ。
大事なのは、その主張にどれほどの正当性があるかであり、禁煙強制の主張にはほとんど正当性は無い、と私は思う。煙草を吸ってその人の健康に害があろうと、それはその人の自己決定権である。酒を飲む権利や自殺をする権利と同様である。他人にそれを禁止する権利は無い。受動喫煙の害について言えば、どれだけの信頼できるデータがあるのか、私は疑わしいと思っている。
煙草が臭いというなら、女性の化粧や香水が男には臭いというのと同じことだ。




(以下引用)

禁煙東京五輪へ「屋内全面禁煙」あなたはどう思う?




全面禁煙は小規模店舗は死活問題


「分煙推進のための署名活動を行っています。たばこを吸う人も吸わない人も共に楽しめる飲食店づくりをめざしています。ご協力、お願いします!」


禁煙東京五輪へ「屋内全面禁煙」あなたはどう思う?: 2月14日、東京・赤坂での「分煙への理解」を求める署名活動。© PRESIDENT Online 2月14日、東京・赤坂での「分煙への理解」を求める署名活動。

バレンタインデーの2月14日夕、東京・赤坂の一角で10数人の男性たちが声を張り上げる姿があった。一般社団法人全国生活衛生同業組合中央会のメンバーによる署名活動だ。全国生活衛生同業組合とは、旅館・ホテル業や喫茶店、中華料理店、クラブなどの飲食業、理髪店やクリーニング店といった16業種の組合で、それらを束ねる組織が中央会だ。いずれも中小、零細規模がメインの経営者の集まりである。その彼らが危機感を抱き、2月2日から全国で展開しているのが、「分煙への理解」を求める署名活動なのだ。


というのも、厚労省は2020年の東京五輪を迎えるにあたり、受動喫煙防止対策を強化する健康増進法改正案を今国会に提出しようとしているからだ。厚労省が発表したたたき台によると、禁煙エリアの大幅な拡大をめざそうというもの。


それによると、医療機関、小・中・高校は敷地内禁煙。官公庁、社会福祉施設、運動施設、大学は建物内禁煙。さらに、事務所(職場)、ビルの共有部分、駅・空港ビル、鉄道・船舶は原則建物内禁煙で、喫煙室の設置は可能というもの。加えて、飲食店、ホテル・旅館などのサービス業も原則建物内禁煙とし、喫煙室設置は認めるとしている。


これに驚き、異議を唱えたのが、同中央会というわけだ。これまで、エリア分煙、時間分煙、喫煙可、禁煙など、さまざまな業種がそれぞれの店舗の“個性”に合わせて方向性を打ち出し、ステッカーで表示したり、商店街単位などでネットを使い店の分煙スタイルが分かるような取り組みをしてきた。それが、「とりあえず禁煙」という方向性を国の施策で打ち出そうとしてきたのだから、驚天動地に陥るのも無理もない話だ。


同中央会の伊東明彦事務局長は語る。


「経営する側も、客も自由に選択できる余地があってこその社会なのに、その自由が奪われる危機です。しかも、スペースが狭く、資金が潤沢でない店舗にとっては死活問題です」


署名活動のために店舗前の敷地を提供した「三河家」店主で、赤坂青山料理飲食業組合連合会の堀込一之会長もこうため息交じりに語る。


「当店は完全個室なので、お客様のニーズに合わせることができます。しかし、小規模店舗の場合、新たに喫煙室を設置するとなると、テーブルや椅子の数を減らさなければならない。これまで分煙促進で東京都は助成金を出してきたが、それではまかない切れません。いきなり目の前に絶壁が現れたようなものです」


喫煙者と非喫煙者は対立してはいけない


これまでも自治体で受動喫煙対策が検討されると、医師会をはじめとした「完全禁煙派」と、同中央会のような業界団体の「分煙派」は互いの主張を述べ、議論がかみ合わない時間を費やすような場面が何度も見られた。とりわけ、医療界の論客は、あたかも紫煙をPM2.5と同列になぞらえたり、喫煙を犯罪行為のような例えをすることもあった。前出の伊東事務局長は語る。


「もし、たばこの害が本当にそれだけあるのなら、大麻並みに法律で禁止する議論を堂々としてくればいい。しかし、それはしないで、喫煙者を隔離するだけの方策を取ろうとする。社会は多様性を認める方向に進んでいるのに、たばこに関しては徹底的な封じ込めを試みる。これは弱い者いじめにしか見えません」


しかし、法案提出に向け、厚労省は2月9日、自民党厚生労働部会で案を提出したものの、委員から異論が噴出した。ある衆院議員秘書はこう語る。


「喫煙によって健康を害するリスクが高まるのは事実です。しかし、完全にがんになるエビデンス(証拠・根拠)は認められていません。にもかかわらず、五輪を盾にして事実上の禁煙社会をゴリ押ししようとしている」


さらに、厚労相経験者の議員秘書は、経済的見地からこう言う。


「こんな法案を通したら、疲弊している地方の経済は壊滅的な打撃を受ける。一方の論理だけを振りかざして、いい社会になるわけがない」


医学的に見ても、経済的に見ても性急な法案で、同部会では9割以上が反対意見だったという。同部会は15日にも開催され、同中央会など7団体が意見を述べる。果たして、着地点は見つかるのか。赤坂で署名をした女性はこう語る。


「あまりきつく規制するのはどうかと思います。お互いリラックスできる環境ができればいいのではないでしょうか」


喫煙者と非喫煙者が互いに対立するのではなく、歩み寄って共存できる工夫や努力が必要ではないのだろうか。それは、規制強化では決して生まれるものではない。喫煙者のマナーも今以上に厳しく求められてしかるべきだろう。








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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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