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気の赴くままにつれづれと。
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男の夢のうち闘争に勝つ(腕力も金も名誉も)というのは結局女のためなんで、まあ人間も動物と変わらん。
まあそのあたり「あしたのジョー」なんかの隠されたテーマですな。
ジョーは結局深窓の令嬢白木葉子とやりたかっただけのこと。で次々と難敵用意してやらせてくれなくて最後にぶっ壊されちまうという。
最終回では葉子が車椅子のジョーを押して散歩するシーンという案があったらしいんだが、そちらの方がふさわしかったかもしれませんな。
まあ若い間に女と遊びたいのは本能。メスもオスの匂いにつられて集まる。
しかし鳳啓介みたいに年取ってから危篤の病床に過去の女全員集合なんてのが本当の艶福家かもしれませんな。石田純一なんかも正月祝いの自宅に過去の女(松原千明とか)集合で、東尾が呆れてましたなあ。
まめなだけかもしれんが。
アナログ志向といえば聞こえはいいですが、全くIT関連が駄目な私は、
もう随分前から最新の情報機器の操作についていけず、完全にその取得努力を放擲しています。
数年前に買ったPCも電源を入れた後から画面が進まず、今では埃を被っています。
携帯もガラケーのままで、もう修理できませんと案内が来ても、ギリギリまでスマートフォンに変える気はありません。
幸い仕事は律令制時代からある手仕事力仕事がメインの絶滅危惧種の職人仕事ですので、
工作機械内蔵のROM基盤を除けば、すべて肉体アナログ方式でやっています。
手足に痛風発作が出なければ、とりあえず何とかなります。
(もっとも、コロナ騒動以前に最近は仕事の依頼自体がめっきり減ってきていて、今はくだらないコメントを入力するのが日常業務です。そろそろ生活保護の申請準備を考えなければいけない時期にきています)
そんなことで、自分が極度のIT音痴なのをいいことに、
私はむしろ、日本は積極的にデジタルの流れから遅れるほうがいいんじゃないかとも考えています。
外国からFAX使用を嗤われようと、アメリカ標準仕様(思考)のWindowsやMacオペレーションを基軸としたデジタル覇権に対しては、私は何故か本能的にそれを忌避する感覚があります。
まぁ、和製OSのトロンとか汎用性のあるLinuxとかならやる気も出るでしょうが、なにせ知能不足でスキルが付いてきません。
どうせやるなら、自家サーバーのシステム構築・運用くらいまでいかないと満足できませんので…
前にも少し書きましたが、私は一時期、NECのM式(森田式)キーボード入力に凝っていたことがあって、
思考と言語が直結する、パソコン等の入力インターフェイス部分にはちょっと関心があります。
キーボードは楽器のようなもので、習熟しないと思考レベル(速度)では操れません。
かといって、今どきのスマートフォンのフリック入力などは完全にダメですので、思考がダイレクトに言葉に変換できないとイラつきを感じます。
さらに、今まではアナログの非効率的な部分で飯を食ってきた人々が、ITデジタルの効率化という社会的要求によって、多くの部分で淘汰されて仕事を失ってきた状況を見てきました。
私の基本的な考えは「人にできることはまず人にやらせ、機械はその補助的・補佐的なもの」という感じですので、
効率優先の一方的なIT(AI)推進社会は、結果として人間そのものを非効率なものとして排除・排斥・疎外する方向に進んでいくと考えています。
ということで、
人間は、ITによってきれいに整序されるような、合理的で効率的な存在ではないと思っていますので…
デジタル社会にすっかり遅れて、もはやとても追いつけないご老体としては、
もともとIT(デジタル)の全面推進には批判的という無理くりの理由をこじつけて、
アリゾナの爆弾魔・ユナボマーまでとはいきませんが、
気分は「ネオ・ラッダイド」ということになっております。
電磁兵器一発で、IT機器も産業機器も家電も、電気もガスも水道も交通などの他のインフラも、そのすべて壊滅ようなシステムに、軸足の体重をすべて掛ける気にはなりません。
英語で共和制や共和国を意味する「republic」(リパブリック)の語源はラテン語のレス・プブリカ(ラテン語: res publica)で[5]、「公共の事」との意味を持ち、更には「公共の政府を持つ国家」の意味で使用された。特定の個人や階級のためにではなく、全構成員の共通の利益のために存在するものとされる政治体制を指した。
日本語では主に、政体の場合は「共和政」、制度の場合は「共和制」、国家の場合は「共和国」、思想の場合は「共和主義」[注釈 1]と訳す場合が多いが厳密ではない。それぞれの対比語は、君主制、君主政、君主国[注釈 2]、君主主義[注釈 3]である。
漢語の「共和」は中国史上の「共和」と呼ばれる期間に由来する。大槻磐渓の示唆により箕作省吾がその著『坤輿図識』(1845年)で「republic」の訳語として初めて用いた[6][7]。中国史の「共和」時代は、西周の厲王が暴政を行って国人(諸侯と都市住民)に追放された後の14年間で、『史記・周本紀』によれば、宰相の召公と周公が共同して(共に和して)統治に当たったとされた。一方、これは誤りで、「共伯和」(共という国の伯爵の和という人物)が諸侯に推戴されて王の職務を代行したこと(『古本竹書紀年』の記述)からそう呼ぶという説もある[8]。いずれにしても、中国歴代王朝が支配した歴史の中で、この時期は世襲の君主がおらず、有力者の合議による政治が行われていたと考えられていたため、「共和」の語が「君主のいない政体」を指すものとして用いられることになった。
共和政とは、一般には君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政体である[4]。主権がどこに存在するかを区別する呼称であるため、形式的な君主が存在する場合もあり、また民主制ではない政体も含まれる。
本来、人民主権の立場から民主主義と君主制は両立しないが、君主(あるいは一部の主権者)の選出を、主権のある国民の合議・選挙・代議(直接民主制や間接民主制)によって、あるいは国民憲法での制度(立憲君主制)によって行われることを以て共和政を標榜できるとする主張も存在している。これらは単なる民主政がしばしば陥いる衆愚政とならないよう行政権を分離することで回避を試みてきた制度開発の歴史的な背景があるが、これは為政者によってさまざまに解釈され、共和政を標榜する政体であっても専制や寡頭政、独裁制であるとして批判されることがある。
なお、領土や領民などは主権国家に帰属し外交権は持たないが行政権を主権国家から分離したとする政体に対して自治体(英: Autonomy)の呼称が用いられることがあるが、実際には主権の多くが主権国家の干渉を受け、域内の自治政体は共和政とはなっていない。
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