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「演繹型思考」の陥りやすい罠

私の「ネットゲリラ」常連中のごひいきのtanuki氏だが、氏の欠点のようなものが分かってきた気がする。それは、「結論から出発して、それに合う事例を探す」という、「演繹型」の思考法(最初に結論ありき、の思考法)ではないかと思う。それが、以前に書いていたハリウッド映画への底の浅い(私にはそう思えただけだが)感想に出ていたようだが、その時には、「たまたまだろう」と思っていた。
しかし、下のコメントの事例として挙げた「あしたのジョー」の主人公矢吹丈の行動原理の解釈はまったく的外れだと思う。原作者の梶原一騎自体は女好きだったようだが、作者と作品は別だ。梶原一騎の理想としていたのは昔の「ビルドゥングスロマン」(主人公が苦難を通して自分の理想に近づいていく、あるいは破滅する生き方を描く小説)だったと思う。(「破滅」は実人生では失敗だが、美学的には大きな達成なのである。)
「あしたのジョー」に関して言えば、主人公のジョーの頭の中には女性はほとんど存在せず、むしろ邪魔な存在と見ているのである。彼は、いつも「ここではないどこか」が心の底にあり、彼にとっての理想を実現できる世界がボクシングにあることを発見してボクシングに、いや、「最強の男たちと戦える世界」に自分の生命を賭けるのである。つまり、彼にとって最愛の存在は乾物屋の娘のような善良で世話焼きの優しい娘でもなく、白木葉子のような大金持ちの高慢な美女でもなく、命を賭けて戦った力石徹であり、ホセ・メンドーザなのである。それはホモ的な愛情とはまったく別の、「偉大な敵への尊敬」と、「それを自分以外には倒させたくない」という気持ちなのだ。
要するに、その戦いを通して、自分の生命を燃焼し尽くし、真っ白に燃え尽きることが彼の望みだったのであり、「あしたのジョー」のラストシーンは、まさに彼が自分の理想を達成した瞬間を描いた名シーンだったわけだ。
どこをどう見ても、ジョーの中には、「女とやるためにボクシングをやる」という部分はカケラもないのであって、tanuki氏が自分の持論(若い男の望みは女とやることしかない)の事例に挙げるにはもっとも不適当な例を出してしまったということである。

私は原作者梶原一騎の人間性は「お近づきになりたくない」と思うが、その作品の数々にはやはり天才性がかなりあったと思っている。

なお、私は漫画は文学のひとつ(絵画と結合した文学)であり素晴らしい芸術だと思うので、そのジャンルにこの小文(漫画評)を入れた。


(以下引用)


男の夢のうち闘争に勝つ(腕力も金も名誉も)というのは結局女のためなんで、まあ人間も動物と変わらん。


まあそのあたり「あしたのジョー」なんかの隠されたテーマですな。
ジョーは結局深窓の令嬢白木葉子とやりたかっただけのこと。で次々と難敵用意してやらせてくれなくて最後にぶっ壊されちまうという。
最終回では葉子が車椅子のジョーを押して散歩するシーンという案があったらしいんだが、そちらの方がふさわしかったかもしれませんな。


まあ若い間に女と遊びたいのは本能。メスもオスの匂いにつられて集まる。
しかし鳳啓介みたいに年取ってから危篤の病床に過去の女全員集合なんてのが本当の艶福家かもしれませんな。石田純一なんかも正月祝いの自宅に過去の女(松原千明とか)集合で、東尾が呆れてましたなあ。
まめなだけかもしれんが。






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