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河野デマ太郎のデマの責任はどうなるか

重要記事なので、転載しておく。
ここまで来れば、もはや「ワクチンは絶対に安全」と言った河野デマ太郎の大嘘が大嘘だと証明されたわけである。立場上、嘘をつくしかなかったという言い訳は自己正当化にはならないし、ワクチン被害者の死への償いにはまったくならない。切腹するしかないだろう。立場上、と言うなら、ワクチン担当相を辞任すればよかっただけだ。明白に河野太郎は加害者なのである。


(以下「大摩邇」から転載)

ライブドアニュースより
https://news.livedoor.com/article/detail/23367377/
<転載開始>

 厚生労働省の分科会は、新型コロナワクチンの接種後に死亡した26歳の女性について、死亡一時金の支払いを認めた。20代で認定されたのは初めてとなる。


【映像】死亡一時金の支払い、20代で初認定


 厚労省によると、26歳の女性は新型コロナワクチンを接種した後、「くも膜下出血」などを起こし死亡した。女性に基礎疾患などは確認されていないという。


 厚労省で12日に開かれた専門家らの分科会は、接種後のくも膜下出血などがワクチン接種によって起こったことを否定できないとして、死亡一時金と葬祭料の支払いを認めた。20代で支払いが認められたのは初めて。


 このほか、新型コロナワクチンの接種後に死亡した74歳から95歳の男女4人にも支払いが決まった。これで、ワクチン接種後の死亡で死亡一時金などが認められたのは、あわせて15人となった。(ANNニュース)


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政府の電気料金支援は1月開始

引用記事自体は「大摩邇」から取ったものだが、元記事はヤフーニュースだから、つまり「一般人が見る記事」である。「大摩邇」色は無いww
ところで、「大摩邇」って、どういう意味だ? 何か、新興宗教めいた色を感じるが、もともとは仏教用語だと思う。

(以下引用)

政府の電気代支援策、23年1月から 平均的な家庭で月1820円安く
12/8(木) 20:57配信



松野博一官房長官政府インターネットテレビより)

 大手電力会社10社が加盟する電気事業連合会は12月7日、国の支援を受けて2023年1月使用分から電気代の値引きを行うと発表した。電力会社のいう平均的な家庭(月間260kWh)で月に1820円ほど、国のモデルケース(月間400kWh)では月に2800円の値引きとなる。

 2023年2月から10月に請求する電気料金(1~9月使用分)から使用量に応じて値引きする。電気料金の単価はそのままで、国からの補助金により「燃料費調整額」から差し引くかたち。

 家庭用の低圧契約の場合、1月~8月使用分は1kWhあたり7円、法人向けの高圧契約は同3.5円を値引きする。9月使用分は家庭用で3.5円、法人向けは1.8円の値引きと8月までの半分になる。



 電力各社は燃料価格の高騰や円安などで財務体質が急速に悪化し、値上げの動きが相次いだ。東北電力中国電力など5社が23年4月からの大幅な値上げを申請し、7日から審査が始まっている。

 一方、政府は10月28日にとりまとめた「物価高克服・経済再生実現のための総合経済対策」において、電気代やガス代といったエネルギー価格の上昇によって影響を受ける家庭や企業の負担を直接的に軽減する措置を実施するとしていた。

 松野博一官房長官は7日の定例会見で「(電力会社の)最終的な値上げ幅は今後の審査によって確定するが、まずは先週成立した補正予算で措置した電気料金の負担軽減策について、1月使用分から支援を開始できるように全力で取り組む」と話していた。

引用元:YAHOOニュース(ITmedia NEWS) https://news.yahoo.co.jp/articles/caa3726a29e08d2c9037e1a38a7320ea3703678f


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「情」と「情感」

前項を書いたついでに、井口博士のブログ記事を載せておく。
本当は、日本人と西洋人の脳の機能の違いを書いた記事を載せたかったが、どの記事だったか忘れたので代用だ。要するに、日本人は認識と判断の間に「情」というフィルターを通るが、西洋人はそれが無い、ということだ。だから判断が早い。これはスポーツや競争事では有利に働く。で、西洋人の特徴は「我」の塊であるということだ。これも相手を思いやる「情」をさしはさまないことになる。で、「情緒」というものも思考の中に存在しないから、彼らの作品には(超一流の作家の作品を除いて)たいてい「余情」が無い。まあ、そこまでは井口博士は書いていないが、「情」という要素の有無は彼我において大きな相違がある、とは言えるだろう。私流に言えば、恋愛が即座に性行為となるのも、情というフィルターが存在しないからだ、と思う。情とは「ためらう」ことから生まれるのである。それが「余韻嫋嫋」ということである。雨が降る、ああ憂鬱だ、面倒だ、ではなく、雨の美しさを感じること、これが情感だ。

(以下引用)

【かずもとちゃんねる】「日本人は情の人である」:岡潔「情と日本人」の朗読


みなさん、こんにちは。
最近、高知の横山さん
から、岡潔先生の「情と日本人」というパンフレットが届いた。
これは1972年3月12日にお話された内容で、その一部が抜粋されたものである。
今日は台風11号のせいで、強風と雨が来ていたので、恒例の朝のゴミ拾い散歩は中止。
これを、朗読の形で読んでみることにした。
ほぼテイク1のものであるが、一応YouTubeにアップしたというわけである。以下のものである。
【かずもとちゃんねる】「日本人は情の人である」:岡潔「情と日本人」の朗読_b0418694_13223976.png
日本社会が欧米と比べて、安心安全神話がなりたつ。
それは、日本人が情の人だからである。
だから、外人がヒッチハイクすれば、その人をできるだけ助けようとするし、外人が道を聞けば、いっしょに目的地まで歩いてやる。
普通の日本人は、みなそんなふうのである。
なにも宮沢賢治の「雨にも負けず」に限った話ではない。
インドネシアで独立に困っている人あれば、行っていっしょに戦ってやり
韓国に近代化で困っている人あれば、行って韓国を近代国家にしてやり
中国にインフラで困っている人あれば、行ってODAで無償援助してインフラ整備してやり
アメリカに金欠で困っている政府あれば、行って米国債を買ってやり
アフリカに井戸が作れず困っている人あれば、行って井戸をいっしょに掘ってやり
ブラジルにバレーボールで困っている人あれば、行って近代バレーを教えてやり
タイにサッカーで困っているチームあれば、行って日本サッカーを教えてやり
。。。
とまあ、こうしたことを見れば明らかなように、これが日本人は情の人だというゆえんであろう。
みな基本的に欧米人のやる五分五分の交渉と言うよりは、自分が損をしてもやってやる情の厚いものである。
つまり、理屈というのはなく、情緒的な行為である。
だから、宮沢賢治も本人は共産主義者であったにせよ、詩の内容は、彼が共産主義者だからというようなものではなく、情の日本人としての考えから出たに過ぎない。
日本人の共産主義者の場合も共産主義に理屈で賛同というよりは、かなり情緒的に賛同している面が強い。
だから、簡単には抜けられないのである。
長年のうちに、情が移っているからだ。
つまり、普通人も宮沢賢治も共産主義者も、日本人はみな情の人なのである。
しかしながら、岡潔先生がいうように、日本人も長年の西洋化により、情がにごっているので、自分自身で自分が情の人であるという認識がない。
だから、海外の人達に、世界でいちばん大事なものは情なんだよ、というふうに説明できない。
岡潔が言うように、日本人の情に一番近いものはヒューマニティーである。
しかし、外人はこれを簡単にないがしろにする。
それは、ウクライナとロシアの戦争で証明済みだ。
どちらの国々も一般国民がいて、みなエリートと同じヒューマニティーを持っている。
しかし、エリートは一般人のそうした情の部分を簡単に無視した。
情け容赦ない命令や決断を下す。
もし、彼ら支配層に情という概念があれば、そしてそれが人本来の本分何だという認識があれば、岡潔が行ったように、簡単に戦争になることはない。
お互いに相手を慮ることが可能になるからである。
この宇宙は情で出来ている。
これが岡潔の宇宙論であった。
いまこそ、全世界の人間は、岡潔の情の世界の考え方を学び、身につけるときだろう。
弥栄!

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戦争という最大の愚行

ウクライナ戦争の教訓は、「戦争ほどの愚行はない」ということだ。
私が前々から言っている、「国土が侵略されたら即座に降伏するのが最善の策だ」ということをこれほど明確に証明した戦争は空前のことだろう。で、それが絶後ではないだろうと(残念ながら)私は推測する。

ウクライナへのロシアの「特別軍事作戦」が始まった時に、ウクライナが即時降伏していたとして、国民にとって何か不利益なことがあったか? しかもその時にはロシアは「停戦交渉」を求めていたのである。それをキエフ政府が拒否して戦闘が始まったわけだ。その後も何度か交渉の機会はあったが、その度にキエフ政府(その背後の英米政府)が停戦交渉自体を拒否してきた。その結果がウクライナの現在の惨状だ。
さて、それと比べて、戦争開始直後にウクライナが降伏していた場合、どうであっただろうか。

もともとウクライナとロシアは兄弟国家であり、文化も近いしロシア語話者も多い。東部地区と西部地区の違いはあっても、ロシアがウクライナをたとえ併合してもウクライナ国民にとっての不利益はほとんど無く、むしろ、盛運に向かいつつあるロシアの一部としてその恩恵を得られたのではないか。つまり、ロシアとの停戦を拒否したのは単にキエフ政権とそのネオナチグループと米英政府の利益のためだったのである。ここで、私が毎度言う「政府と国家は別だ」という話になる。
政府とは、正常でインチキの無い民主主義的手続き(選挙)で選ばれない限り、「上級国民や外国勢の所有物となる」のである。繰り返すが、「政府=国家」ではないし、「政府=国民」ではまったく無い。政府による決定が一般国民にとって害悪であるという事例は数えきれないほどあり、日常茶飯事と言っていい。日本も同様だ、ということに賛成する人は多いのではないか?

さて、ここでモデル思考によって戦争とはどういうものか、考えてみよう。

A国とB国が戦争をして、両者の戦力通りに戦争が推移し、A国の国民の9割が死亡して、B国の10割が死亡して戦争が終わったとしよう。(通常はそこに行く前に戦争は終わるが、ここではモデル的に考察する。)すると、A国はAB両国の国土を手に入れるが、その国土は現在の兵器の破壊能力からして両国の国土のインフラをほとんど破壊し、土地の生産能力も極限まで下がっているだろう。で、その広大な土地を、誰が耕し、誰が工場を作り、誰が働くのか。A国の残った1割とはつまり「上級国民」である。彼らが百姓仕事をし、工員として働くのか? よそから他国民を輸入して働かせるか。それなら、死んだAB両国の国民はこの戦争で得たのは墓穴だけ、となる。

これが、私が戦争とは最大の愚行であるという所以である。

DSの地球人口削減計画は(自分たちを削減対象に含めず、下級国民だけを削減すると妄想している点で)これによく似ている。いかにも西洋人的、あるいはユダヤ的思考である。

(追記)今読んだ「東海アマブログ」の中に面白い引用があったので孫引き転載する。

 戦死を免れた司馬は、旧日本軍の愚行を舌鋒鋭く非難する。保阪正康氏は、司馬の著書を引用しながら次のように綴る。
 〈「こんなばかなことを国家の規模でやった。軍人を含めた官僚が戦争をしたのですが、いったい大正から昭和までの間に、愛国心のあった人間は、官僚や軍人の中にどれだけいたのでしょうか。

 むろん戦場で死ぬことは『愛国的』であります。しかし、戦場で潔く死ぬことだけが、愛国心を発揮することではないのです。(略)愛国心はナショナリズムとも違います。ナショナリズムはお国自慢であり、村自慢であり、家自慢であり、親戚自慢であり、自分自慢です。
 (略)愛国心、あるいは愛国者とは、もっと高い次元のものだと思うのです。そういう人が、はたして官僚たちの中にいたのか、非常に疑問であります」(『「昭和」という国家』、日本放送出版協会、1998年)

 つまり司馬は、あの戦争に至るプロセスに呆れていて、ああいう道をまっしぐらに突き進んだ国の指導者の愚かさを冷たい目で見つめていると言えるのではないか。〉(『世代の昭和史』46~47ページ)

 愚かな戦争に突き進んだ日本の過ちを、司馬は作家ならではの絶妙な表現で喝破する。
 〈「日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をポンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。

 この魔法はどこから来たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました」(同)

 その上で司馬は、もし織田信長のような人物がいたら、戦争など考えもしなかったであろうと言っている。なぜなら彼にはリアリズムがあったと指摘するのである。結局この国は、「国というものを博打場の賭けの対象にするひとびと」がいたというのである。
 そういうタイプが愛国者を気取っていたという。それが魔法使いの魔法にかけられた人々の心理だったのである。〉(『世代の昭和史』47~48ページ)

  東條英機と山本五十六…あまりにも対照的な姿
 太平洋戦争の指揮を執り、大正世代の兵士や軍属を200万人も戦死させたのは、明治17年(1884年)生まれの東條英機を中心とする体制だ。
 同い年の生まれには、戦後に内閣総理大臣を務めた石橋湛山、政治家の三木武吉もいる。海軍の山本にしても、石橋や三木にしても、東條ほど好戦的な人物ではなかった。

 彼らとは対照的に、東條英機はイケイケドンドンで太平洋戦争に突き進む。慨嘆すべきことに、日露戦争(1904~05年)当時に陸軍士官学校在学中だった東條は、本格的な戦闘体験がないまま日本軍の最高指揮官に就いてしまった。保阪正康氏は、東條の発想の特徴を5点にまとめる。

 (1)軍人は職業ではない。「神(天皇)」に仕える神兵である。
 (2)臣民はすべからく天皇に帰一する存在である。
 (3)軍事は国家の主体であり、この動きに意見を挟むことは許されない。
 (4)国益とは戦争によって拡大され、戦争によって守られる。
 (5)妥協は敗北であり、敗北は国家衰退の源である。〉(『世代の昭和史』56ページ)

 〈東條のような戦場体験のない、軍官僚として机の上で戦争を考えていた軍人は、かなり歪んだ命令を出すことが立証されている。要はなぜ東條のような軍官僚が政権を握って、あのような時代をつくったのかが検証される必要がある。〉(『世代の昭和史』57ページ)

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西側国家の「収容所列島」化

転載したい記事が多くて、自分の感想を書くのももどかしい。まあ、それなら「大摩邇」を見ろよ、というところだが、「大摩邇」にも糞記事は多いので、すべての人にお勧めするわけにもいかない。

(以下引用)

英オックスフォードシャー州議会が「地球温暖化に対抗するためのロックダウン」の2024年からの開始を可決。地域外に自由に出られるのは「年間100日のみ」

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/oxfordshire-council-to-trial-a-climate-lockdown/
<転載開始>

英オックスフォードシャー。この閑静な地域で2024年から地球温暖化に対しての移動制限が始まります。

新しい形の移動制限計画が議会で可決される

欧米を含めて、いわゆる「コロナ対策としてのロックダウン」というものは、ほぼ完全に終わっているわけですが、しかし、当局のロックダウンへの野望というようなものが、そう簡単に消えるものではないだろうとは、多くの人たちが考えているようです。私もです。


最近、イギリスのオックスフォードシャーの州議会で、


「地球温暖化から地球を救うために、住民たちの移動を制限する法律」


が可決され、2024年から実施される運びとなりました。



オックスフォードシャー州


 


議会提案では、オックスフォードシャーの街を「6つのゾーン」にわけ、それぞれの出入り口に電子ゲートを設置して、自由な出入りを制限します。


居住者がゾーンを離れたい場合、州の評議会からの許可が必要になると書かれてあります。また、すべての自動車に、トラフィックモニターをつけることで、「どれくらいの距離を移動したか」を当局が把握できるようにする計画だそうです。


可決されたのは、1月の末ですが、私は最近知りました。


オックスフォードメールという地元メディアに報道があります。


こういう試みは世界中で増えていくのかもしれません。


中国も最近、いわゆる「ゼロコロナ政策」を大幅に緩和したと報じられていますが、その直後に、「気候変動に対する二酸化酸素排出量の規制等が必要だ」と中国人民銀行(中央銀行)の副総裁が述べ、ゼロコロナ政策の後は、ゼロ二酸化炭素政策というような形の行動制限、生産制限が起きる可能性が出てきています。


ロイターは以下のように伝えています。


中国でも気候変動リスク関連の規制強化必要=人民銀行副総裁


中国人民銀行(中央銀行)の宣昌能副総裁は 12月10日、気候変動と世界的な低炭素化の動きは国内の金融機関にとってさまざまなリスクをもたらすと指摘した上で、規制強化は必要になるとの見方を示した。


…「だからこそわれわれは金融規制を強化しストレステスト(健全性審査)などの措置を実行して、金融機関が二酸化酸素排出量のピークやその後の排出量実質ゼロ化の時期の目標に沿う形でグリーン金融の能力を持続的に向上させるよう指導していくべきだ」と訴えた。ロイター 2022/12/12)


コロナの次には、各国で地球温暖化対策ということになっていきそうで、いろいろと窮屈な状態が続きそうですが、オックスフォードシャーでの 2024年からの気候変動ロックダウンについて、いくつかのメディアの報道をまとめていた記事をご紹介します。

2024年から気候ロックダウンを試行するオックスフォードシャー議会

Oxfordshire Council to Trial a Climate Lockdown Starting 2024
wattsupwiththat.com 2022/12/04


以下のようなことが、英国のオックスフォードシャーで試行される予だと報じられている。ビジョンニュースからの抜粋だ。


オックスフォードシャー州議会、2024 年に開始する気候ロックダウン「トライアル」を可決


オックスフォードシャーの州議会は、11月29日、地球温暖化から「地球を救う」ため、住民を 6つのゾーンのどれか 1つに組み入れる計画を​​承認した。


「15 分都市」 (※ 1つのゾーンは15分以内で移動できる広さという意味だと思います)のアジェンダの最新段階は、都市に出入りする主要道路に電子ゲートを設置し、居住者の立ち入りを自分の近隣に限定することだ。


この新しいスキームの下では、居住者たちがゾーンを離れたい場合、誰が自由に移動できるか、誰がそうでないかを決定する評議会からの許可が必要になる


この新しいスキームの下では、居住者は年間最大 100 日間自分のゾーンを離れることを許可されるが、取得するためには、すべての居住者が自分の車の詳細を評議会に登録する必要がある。


オックスフォードシャーすべての居住者が、車を郡議会に登録する必要がある。郡議会は、ナンバープレート認識カメラを介して地区を離れた回数を監視する


visionnews.online


 


最初はこのような話は信じられなかったのだが、その後、英国のメディア「オックスフォード・メール」で報じられた。


交通フィルターは都市を6つの「15分」地区に分割することを高速道路評議員は同意する


州が 6つの「15 分」地区に分割されると、道路封鎖により、ほとんどの自動車運転者が オックスフォード中心部を運転できなくなると、評議会の旅行責任者は述べている。


そして責任者は、住民たちが好むと好まざるとにかかわらず、この計画は進行すると主張した。


オックスフォードシャー州評議会の旅行および開発戦略担当閣僚であるダンカン・エンライト氏は、サンデー・タイムズのインタビューで当局のトラフィック・フィルターの提案について説明した。


彼は、このフィルターがオックスフォードを「15分の都市」に変え、地元のサービスが徒歩圏内にあることになると述べた


…人々は自分の近所について自由に運転することができ、年間 100 日まで、フィルターを通り抜けて他のゾーンに入る許可を申請することができる。これは、週平均 2日に相当する。


oxfordmail.co.uk


 


オックスフォードシャーには、英国の主要な教育機関の 1つであるオックスフォード大学があるが、今回の可決に対して、オックスフォード大学や学者たちから公的な怒りの発言は見出されてはいない。


ほぼ千年間、オックスフォード大学は知的自由の標識として立っていた。権威主義への抵抗のために、何世紀にもわたって多くのオックスフォードの主要な知識人が絞首刑にされたり、迫害されたりした。


そのことを考えると、その誇り高き伝統を受け継ぐ人々が、前任者たちが命をかけて守ってきた自由に背を向けようとするこの姿勢は、信じられないほど悲しいことだ。

 

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向精神薬の怖さと恩恵

或る種、専門的な内容なので知らない言葉が頻出するし、一般人には無縁な内容だとは思うが、これを載せるのは、人間の精神がいかに容易に改変できるか、という話としてである。言い換えれば、向精神薬の怖さだ。
なぜ彼女は、それまで幸せな状態だったのに、精神科に行ったのか。
なお、私も軽い喘息の持病があるので、たいていは麻薬成分を含むと言われる喘息薬のジャンキー(は言いすぎだが、常用者)であるww 喘息薬が発売禁止になったら、おそらく死ぬ。までは行かなくても地獄の毎日になるだろう。咳が止まらず、やがてゲップまで出始め、吐き気までして、実際、時には吐いたりするのだ。徴候(ほとんど予感であり、精神的なものである)があった時に薬を飲んでおけば見事に抑制できる。飲まなければ、確実に発作が起こる。

(以下引用)

ストラテラを服用したら二次元萌えられなくなった

タイトルでわかると思うが私は先日ADHDという診断を貰いストラテラを服用し始めた。そしていつものようにpixiv推しカプの作品を漁ってたら異変に気がついた。


「え……? なんで知らないカップルのいちゃいちゃを見せつけられてるの?」と思ってしまったのだ。


私は昔から空想癖が激しくて小学生の頃は授業中や休み時間、寝る前の布団の中などで少女漫画ならきらりん☆レボリューションミルモでポン、ゲームならポケモン世界主人公になりきって色々と空想を繰り広げていた。内容はだいたいイケメンキャラに迫られるみたいなしょうもない内容だったと思う。そして中学生くらいになるとネット二次創作を漁り始めた。だいたい女主人公受けの内容が多かったと思う。そしてその二次創作を元に布団の中でまた妄想…というルーティーンを繰り返していた。


自分二次創作し始めたのはつい2年〜3年前だ。今までは布団の中の妄想で満足していたのが突然、アウトプットしたいと思うようになった。別に絵を描くのが好きというわけではなかったが、ポスターやら絵画やらが受賞したことは何度もあり、親も絵を描くのが趣味なこともあって子供の頃からコピックや水彩、油彩にアクリルガッシュパステルなど様々な画材を与えてくれた(別にコピックだけでよかったのだが)。今まではアナログしか絵を描いたことがなかったが、ADHD特有衝動性でなぜかいきなり高い液タブとクリスタを購入。そして買ってみたらびっっっくりするくらい描きやすかった。私はアナログよりデジタルが向いてる人間だったんだと知った。両親よ、ごめん。


これまたADHD特有衝動性でスカルプターとかソッカとかモルフォとか有名所の教本を買って(ルーミスはさすがに古いらしく買わなかった)、ADHD特有の過集中で一週間程度で全ページの模写を終えた。画力は高くなった気がするが二次をするならやっぱ今風の絵柄を身に着けないとと思い、好きな作家イラストを保存しまくって、最大公約数的な絵柄を試しに描いてみる。「おお、個性はないけど今風じゃないか?」


試しにハマってるジャンルの一枚絵を適当に描いてpixivに上げてみた。あっさり4桁ブクマ。お次は男女カプ(というより夢?おもくそ自己投影してるので)の漫画を描いてみる。これまた4桁ブクマ


せっかくだしと思いTwitterも作って趣味の合う人とそれなりに楽しくやっていた。それから精神科に行ってADHDという診断を受けてストラテラを処方してもらった。そこまではいい。服用してから数日したら二次元にめっきり萌えなくなってしまったのだ。今までは容易に感情移入できてたのに、推しカプを見ても知らない人のイチャイチャを見せつけられてる気分になってしまう。そもそも二次創作なんて長時間作業しても読まれときは一瞬、コスパ悪すぎるし馬鹿げてると妙に冷静になってしまった。


これが健常者の感覚なんだろうか…。妙に気分が落ち着いていて変な感覚不思議なことに創作意欲が全く湧かない。二次キャラに対しても「こんな意思疎通の取れない相手に今まで何恋愛感情に近いものを抱いてたんだろう…」と思ってしまう。すごく悲しかった。


Twitterタイムラインを眺めていても全然ピンと来なくて、知らない国に来たみたいだ。


次に病院に行ったときにこの薬はやめてもらおうと決心した。


彼氏二次創作が捗らないことを嘆いたら「正直、○○(私)の推し嫉妬してたから俺の相手をしてくれて嬉しい」と言われてしまった。いや、二次元に嫉妬って心狭いな。

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凡人が自分の手が届かない事柄を支配しようとする愚

政木和三というのは面白い人物で、有益な発明を幾つもしていながらその特許権を放棄して世間に知られない社会奉仕をする一方で、私のような凡俗には信じがたいような神秘主義的思想の持ち主でもある。「大摩邇」に引用された彼の文章の中で、一般人にも大きな便宜である「考え方」をここに転載しておく。
ここに書かれた事例の本質は簡単なことで、(古い事例になるが)ボーリングの球を投げる(転がす)時、はるか彼方のピンの群れを目掛けて投じると、ほぼ必ず失敗する。だが、間近にあるスパット(と言ったと思うが、レーンの途中に描かれた印である)を目標にして投げると、かなり正確に投げられるのである。あるいは、銃の射撃でもいい。遠くの目標を睨みつけ、それを目掛けて撃つのではなく、目標と銃の照準(と言うと思うが、目の近くの目印)と照星(銃の先端の目印)を合わせて撃つのである。見ているのは主に照星と照準だ。つまり、近いところを見ている。
これを大きく言えば、ヴォルテールの「カンディード」の末尾に書かれた人生訓「自分の足元を耕せ」ということになるだろう。
下の事例は、大きなゴルフ場を意識から追放して、自分の足元1平方メートルだけが『自分のゴルフ場』だ、とする発想が非常に面白い。つまり、自分がコントロールできるのはそのわずかな面積の中だけなのである。さらに言えば、自分が支配できるのは自分だけであり、それさえもできない人間は膨大にいる。つまり、精神異常である。ゴルフでミスをするのは「瞬間的な小さな精神異常」であるとも言える。これはプロでも免れない。
もちろん、これ(自己制御可能な範囲の問題)は金力や権力で他者を支配する類の話とはまったく別問題だ。



(以下引用)

 筆者は

 『無欲の大欲』

 の意義をゴルフによって体得した。

 昭和五十二年十月、田辺カントリークラブにおいて実施された関西シニア選手権試合の当日である。

 第一打を打とうとしたとき、インスピレーションの形で頭にひらめいた。

 『なんじのゴルフ場は足許一米(メートル)平方である』

 この言葉である。

 いままでは真ん中へ飛ばそうとか、グリーンの旗の近くへ寄せようとか思って打つために、頭が動いたり、手に力が入ってとんでもない方向に飛んでいったが、この神示、

 『なんじのゴルフ場は足許一米平方』

 と考えれば、飛ばそうと思わなくてもよい。

 方向は最初構える時に決めるだけでよい。

 スパットを見付け、その方向に素振りをする気持ちでクラブを振り、クラブヘッドをボールに当てるだけでよい。

 ボールに当たれば、ボールはその力だけ飛んでゆく、目の前に川があろうと、池があろうと、バンカーがあろうとも、それらは全て地上にあるものであった。

 ボールの飛ぶ空中とは何の関係もない存在である。

 ゴルフをはじめたころは、目の前に大きな池があれば、力んで池の中に何個もボールを打ち込んだものである。

 空中を飛ぶボールにとっては、無関係な川や池を意識したために力がはいり、そのような不首尾な結果を招いたものである。

 自分のゴルフ場が、自分の足許一米平方だけであって、広い草原の上はボールの飛ぶ空間であり、飛んでいるボールには地上は無関係である。

 落下したとき、ボールの近く数平方米だけが必要なゴルフ場となる。

 当日は、第一打の瞬間に頭の中にひらめいた言葉によって、目先の欲望を捨て去ることができて、選手権の二日目を無欲のプレーが続き、そのために状勢が有利に展開し、ついに優勝の栄をになうことになった。

 無欲の大欲。

 この相反するような言葉は、目前の欲望を捨てて、自分のすべきことを黙々とやっておれば、大きな成果が自分のものとなることを教えている。

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