駐車場から出る時、機械が呑み込んでくれないので、途方に暮れたことがある。結局、どこかに、1000円札が、見つかったので、事なきを得たのだけど、
誰もいないし、連絡する方法もなく、まっさおになったよ。
今日は、レジで、使えなかった。
偽コインかと思った。
やっぱりね、新500円玉は自動販売機では使えないと思った方がいいんだね。
気の赴くままにつれづれと。
今日、ある方から「日本人のエイジングについて」質問をいただいたこともあり、久しぶりに日本人の平均寿命についてググってみたんですよ。そうしたら、以下のような読み取りやすいグラフがあって。
*こちらのグラフは高齢者住宅ジャーナルさんが出典となります*
皆さんは、この表を見て何を感じますか。病院に勤務している人なら、2020~2021年あたりは高齢者があまり亡くならない年だった、そのぶん2022年は亡くなる高齢者が多かった、などと思い出すかもしれません。コロナ禍の影響はここにも現れていますね。
私は、ぼんやりグラフを眺めながらこう疑問に思いました。「20年後、同じぐらい高齢者の平均寿命は長いものだろうか?」と。
このグラフの目の付けどころはどこでしょう? 医療行政の充実や医療技術の発展によって平均寿命が延びているさま、ひいては国民の健康が促進されているさま、と着眼する人は多いでしょうし、それ自体、事実でもあるでしょう。実際、そうした変化の経済的基盤であるところの、医療費や介護費も順調に伸び続けているわけですからね。
しかし、我に返った私はこうも思ったのでした──「これって、人間の寿命が人工的な手段でここまで延びに延びたってことだよね?」とも。
男性81歳女性87歳の平均寿命は、太古の昔からそうだったわけではありません。それぐらいの年齢まで生き残る幸運な人は、狩猟採集社会や農耕社会にも稀にはいたでしょう。けれども平均寿命はもっともっと短かったはずで、その短かった平均寿命を延長したのは人工的な手段によるものです。それは医療技術やインフラ技術のおかげだったり、社会保障制度の浸透だったり、経済的基盤のおかげだったりします。人々の健康に対する意識の変化、死生観の変化もあるかもしれません。
ともあれ、こうした平均寿命の長い状況が成立しているのは人工的な手段のおかげに違いないのです。けっして! 自然が・勝手に・このような平均寿命の長い状態を生み出しているわけではありません。このグラフが示しているのは、1980年との比較で男性の平均寿命が8年延びるぐらいには人工的な手段と人為が積み重ねられたってことでしょう。大正時代や明治時代の平均寿命と比較すれば、その差はもっと大きくなるに違いありません。
が、しかし。
その人工的な手段は持続可能でしょうか?
上掲の国立社会保障・人口問題研究所さんのグラフを眺めながら、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能かどうか考えてみましょう。なんだか無理っぽくないですか。現在でさえ、国債を刷りまくって今という瞬間をしのいでいるのに、社会保障費は今後もドシドシ増えていくでしょうし生産年齢人口はドシドシ減っていくでしょう。もちろん未来においても社会保障制度は健在で、無敵で、正しいはずです。が、いくら将来にわたって社会保障制度が健在でも私たちに提供される社会保障の内実が2023年のソレと全く同じとはあまり思えません。かりに同じだとしたら、生産年齢人口にあたる現役世代が強いられる負担と出血は今とは比較にならないほど高まるでしょう。
案外、それこそが国民の合意なのかもしれないな、と今宵は思ったりもします。日本って、20世紀から「理想の社会主義国家はソビエト連邦ではない。理想の社会主義国家は日本だ」って言われてたじゃないですか。それで言うなら、現在の日本は理想の社会主義国家、ですよね。で、未来においても理想の社会主義国家のはず。以下のツイートのように。
七年前、私は以下のようなことをブログで書きました。
「長生き」=「豊かさ」なんですよ、わかっているんですか - シロクマの屑籠
現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90代は当たり前で、100歳超えも珍しくない。昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、最近のアルツハイマー型認知症の患者さんは、レーガン大統領のごとく、十余年の歳月を生き延びる人もザラにいる。高齢者の多くは、病院に通って診察や投薬を受けながら、あるいは種々の健康診断などを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない。
高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや宅配サービスといったアメニティも、部分的には高齢者の命を支えている。昭和時代には60代70代で死ぬ人が多かったが、平成時代に入って80代90代で死ぬ人が多くなった背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
医療・福祉分野の出費が増えているあれは、そのまま命の値段である。
それから七年が経って、日本の経済的先細りがそろそろ見えてきたきたんじゃないでしょうか。平均寿命の長さを成立させていた「命を買う」という営み、その経済的基盤がいよいよ失われようとしています。かりに社会保障制度そのものが存続してもそれ以外の経済的与件、さらに精神的与件等々が現在より厳しくなっていたら、私たちが20世紀から積み上げ続けてきた「命を買う」という営みの内実は細くなってしまいます。日本は理想の社会主義国家であるはずなので、浮かぶ時も沈む時もみんな一蓮托生のはず。そんな未来においても長生きする人は長生きするでしょうけど、私たちのひとりひとりが男性81歳女性87歳まで生き残る蓋然性は低くなっていると想像せざるを得ません。
いちおう繰り返しますが、理想の社会主義国家であるとするコンセンサスが成っているのであれば、民主主義国家としてそれは尊いもののはずなので、そこは批判せず、尊んでおきましょうね。
平均寿命がこれから低下に向かうとするなら、これからの私たち、人生、どうすればいいんでしょうね?
数年前ぐらいでしょうか、60歳を「第二の人生の出発点」みたいなことを言っている人がいっぱいいたように記憶しています。いや、今でもそう言える人はいるでしょう。60歳を過ぎても働かなければならない時代ですから、それはそれでわかる気もします。
でも、私たち、60歳から先、だいたいどれぐらい生きられるんでしょうかね?
ここまでお読みになって「未来のことはわからないじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。
ええ、そうですとも。未来のことはわからない。だからこそ、男性81歳女性87歳まで生きられるって前提で「人生設計」するとか、わけわかんなくないですか。今の日本がドシドシ経済発展していて、ドシドシ医療や社会保障がやれるご時世だったら、そういう「人生設計」も良かったかもしれない。でも今はそういうご時世ではありません。日本は斜陽の国です。そのうえでまたまたパンデミックが来るかもしれないし、「国際的緊張」があるかもしれない。未来のことはわからないですからね。
いや、だからって結論らしい結論があるわけではありません。結局私たちのひとりひとりは生きるだけ生きるし、死ぬ時には死ぬのでしょう。それを正確に予測することはできないのですから。ただ、今日の平均寿命の長さに基づいて万事を計算したつもりになるのは、これからを想定するにあたってなんだか違いませんかと、そういうことを今宵は考えずにいられなかったのです。
未来はわからない。そのことに対して私たちがとる態度や行動はさまざまであるはずです。ひたすら貯蓄する人もいれば、今をこそ太く生きようと考える人もいるでしょう。そのひとつひとつの是非善悪や成否はここでは考えません。ただ、この長寿の国とされる日本を長寿の国たらしめているのは人工的な手段で、その成立与件がぶっ壊れてしまえば長寿だってぶっ壊れるのはたぶんそうなんです。そのことを憂いながら、屋根を叩く雨の音を聴いています。
地政学(ちせいがく、独: Geopolitik)は、国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問である[1]。
19世紀から20世紀初期にかけて形成された伝統的地政学は国家有機体説と環境決定論を理論的基盤とし、ドイツ・イギリス・日本・アメリカ合衆国などにおいて、自国の利益を拡張するための方法論的道具として用いられてきた。第二次世界大戦後の国際社会において、地政学という言葉はナチス・ドイツの侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある[2]。