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武道的思考と「資本主義の終わり」

私は内田樹の「世渡り上手」な感じが嫌いなのだが、下の文章は彼の本気の文章であり、ある種の人生哲学でもあるようで、かなり高度な内容だと思う。(まあ、最後の「資本主義はもうオワコンだ」という意見が気に入ったという点が大きいがwww)
武道論として、私のようにブドウを食うしか能の無い人間でも納得できる内容である。ただし、宗教に関しては、私は現代においては効用よりも有害性が大きいのではないかと思っている。まあ、これもオワコンだろう。そこで、「神を前提としない道徳(誰でも納得できる、という意味での通俗道徳)が必要だ」と言うのである。公共の利益を個人利益(強欲)より優先するという点では、それが社会主義の本当の本質だと思っている。(「公共の利益=一部特権階級の利益」では絶対にない。)

(以下引用)


朴先生からこんな質問を頂いた。韓国のYuYu出版社から出す本のためのQ&Aの一つ。今回は「武道的思考」についてだった。


-内田先生がお書きになった『 武道的思考 (ちくま文庫) 』と、『 武道論: これからの心身の構え( 河出書房新社)』そして『私の身体は頭がいい (文春文庫)』という本をとても面白く拝読いたしました。
 こういう素晴らしい論考を僕一人だけで読むのがもったいないと思い、先生が考えていらっしゃる「武道的思考の真骨頂」を韓国の読者にぜひお伝えいしたいと思ったことがありました。
 それでいくつかの出版社に翻訳出版の提案をしてみましたが「武道的思考ってなんですか」と言われてキッパリ断れてしましました。たぶん韓国人にとっては「武道的思考」ってなじみの薄い言葉だからなんでしょうね。
 このエピソードを奇貨として韓国の読者に「武道的思考の神髄」についてぜひ教えていただければ幸いです。
 それから、その「武道的思考」が先生の生き方に及ぼした影響についても聞かせてくださればと思います。


 なんと、そうなんですか。「武道的思考」って韓国では日常語彙に登録されていないんですか。なるほど。そうかも知れないですね。日本の武道は宗教的なものとの関係が深いんですけれども、それはなかなか理解されにくいかも知れません。せっかくですので、この機会に日本の武道の「精神性」についてちょっと解説をしてみたいと思います。
 日本の武道の最大の特徴は、武道の術技の向上と宗教的成熟との間には相関関係があるという仮説を採用していることだと思います。つまり、武道の技量が向上してゆくと、宗教的な深みを獲得する。逆に、宗教的な修行を積むと、武道の術技に上達する。この二つは一つの人間的成長の二つの現れである、と。
 スポーツの場合はそんなことは言われません。たしかに高度のパフォーマンスを達成できるアスリートは総じて自制心が強く、あまり感情的にならず、政治イデオロギーであれ信仰であれ、あまりのめり込むことがない傾向にあります。当然だと思います。というのは、そういう要素はすべて「対人関係のトラブル」を引き起こす要因になるからです。あちこちで人と喧嘩したり、批判したりされたり、恨んだり恨まれたりするリスクを適切に回避できるアスリートは、すぐに感情的になって人を怒鳴りつけたり、政治イデオロギーやカルトを宣布したりするアスリートよりは、高いパフォーマンスを発揮する確率が高い。
 と言ってすぐに前言撤回してしまうのも申し訳ないのですが、そのような「市民的な抑制」が身体的パフォーマンスの発揮にとってプラスになることということは、スポーツの世界では必ずしも常識ではありません。むしろ、天才的なアスリートの中には、市民的な常識を平気でふみにじるようなタイプの「型破り」の人がたくさんいます。
 自分は例外的な存在なのだ。「ふつうじゃない」んだということを誇示することはアスリートだけでなく、俳優やミュージシャンにも見られます。「オレはただものではないよ」という印象を進んで広めることによって、「ただものではない自分」を創り上げてゆく。
 デビュー直後のビートルズや、ソニー・リストンとの対戦前のカシアス・クレイのインタビュー映像見ると、彼らが「オレたちは世間の常識なんかぜんぜん気にしないぜ」ということをアピールするために必死であることがわかります。もちろん、それが有効だと直感しているからそうするのです。「とんでもなく傲慢な態度」をとれば、失敗したときにめちゃくちゃに叩かれるに決まっている。だから、絶対に失敗できない。そうやって自分を追い込んで、爆発的なパフォーマンスを達成する。その機制は理解できると思います。
 だから、スポーツにおいては、すべてのアスリートに「紳士たれ」とか「市民的に成熟しろ」とか「宗教的深みを求めろ」というようなことは、あまり推奨されることはありません。もちろんアスリートの中にも、ディセントな人や、「成熟した大人」や、篤信の人はいます。でも、「そういう人だったからアスリートとして大成した」というふうに相関関係を見ることをふつうはしません。それは「犬が好き」だとか「料理が上手」とかと同じような個人的エピソードに過ぎない。
 
 武道はその点が違います。武道では、術技の向上と宗教的成熟がリンクしている。術技が高まれば武道家は必ず宗教的な深みを獲得する。宗教的な研鑽を重ねれば、術技においてめざましい進歩が見られる。そういう完全な相関関係が想定されている。これはたぶん世界でも日本の武道だけに見られる「民族誌的偏り」と申し上げてよろしいかと思います(似た傾向がイスラームのスーフィズムにも見られるということをイスラーム研究者の山本直輝さんからうかがったことがあります。でも、日本とトルコだけじゃ「世界標準」にはなりません)。
 日本の武道家であればおそらく誰でも知っている澤庵禅師の言葉があります。
「蓋(けだ)し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず、一歩を出(い)でず、一歩を退(しりぞ)かず、敵我を見ず、我敵を見ず、天地(てんち)未分(みぶん)陰陽(いんよう)不到(ふとう)の処(ところ)に徹して直(ただ)ちに功を得べし。」
 現代語訳すれば「武道家は勝負を争わない。強弱を競わない。一歩前に出ることもないし、一歩後ろに退くこともない。敵は私を見ないし、私も敵を見ない。そうして、天地が未だ分かれず、陰陽の別もない境位において、ただちに果たすべきことを果たす」ということになります。
 澤庵禅師は江戸時代初期の禅宗の僧侶です。柳生新陰流の宗家である柳生宗矩に武道の要諦を説いた『不動智神妙論』を与えた人です。この『太阿記』も剣客に向けて武道の神髄を説いたものです。
 澤庵自身は武道家ではありません。禅僧です。でも、禅の奥義は剣の奥義と相通じるということについては、この時代には宗教家と武道家の間に完全な合意があった。
 それは一言で言えば「我執を去る」ということをめざすということです。「勝敗を争う」「強弱を競う」「巧拙を論じる」といったことは、すべて向かい合う二人の間の相対的な優劣を比較することですけれども、日本の宗教と武道はこの「相対的な優劣を比較するマインド」をどうやって解除するか、ということを修行上の目標に掲げてきました。
 奇妙な話ですけれども、「勝とうと思うと負ける」「強くなろうとすると弱くなる」「うまくやろうとすると下手になる」という逆説は、修行者にとっては共通の了解でした。
 修行の妨げになるのは「自我」とか「主体」とか「アイデンティティー」とかいうものである。おのれを他と比較して、「勝者」であるとか「強者」であるとか「上手」であるとか見なすことは「我執」であり、それがある限り、修行の道は先に進めない。そんなものは振り捨てなければならない。
 これは前に「論破」の話をしたときに書いたので、そのことの繰り返しになりますけれど、「勝つ」というのは決してよいことではありません。勝つとそれが「成功体験」になるからです。人は成功体験に「居着く」。「成功したパターン」を繰り返そうとする。でも、それでは「連続的な自己刷新」は果たせない。勝ったことを喜ぶ人間は、そのときの自分を手離すことに強い心理的抵抗を感じるようになる。
 激しい論争をして、論敵を完膚なきまでに論破したあとになって、自分の理論に間違いがあったことに気づいたら、すごく困ったことになります。「すみませんでした。僕が間違ってました」と謝罪することは、論争での勝利が華々しければ華々しいほど困難になる。もう取返しがつきません。ですから、論争が好きな人は、「自分の理論に間違いがあったことに気づく機会」を無意識のうちに忌避するようになる。無意識のうちですから、どうしようもない。でも、自分の間違いにできるだけ早く気づいて、それをただちに補正する以外に、学術的知性が進歩するチャンスはありません。「論破する人」はそのチャンスを自分でつぶしているのです。
 武道修行は、学術における「仮説の書き換え」と構造的には同じです。連続的な自己刷新です。昨日までの自分とは違う自分になる、昨日までとは違う心と体の使い方をする、それが修行です。
 でも、試合に勝ったり、人より強くなるということが気になると、その自己刷新が困難になる。だから、「一歩を出でず、一歩を退かず、敵我を見ず、我敵を見ず」という境地に至る必要がある。相対的な優劣を意に介さない。そして「天地未分陰陽不到の処」に立つ。言葉は難しいですけれども、「未だ記号的に分節されていない世界、未だなんらかの価値のシステムによって秩序づけられていない、アモルファスな、星雲状態の境位」に立つということです。そこで果たすべきことを果たす。
「直ちに功を得べし」の「功を得る」は「みごとな成果をあげる」ということですけれど、重要なのは「直ちに」という副詞の方です。「直ちに」というのは「間髪を容れず」ということです。「何が正しいのか、どうすれば効果的か、どうすれば自分の利益になるのか」というような賢しらをすべて去って、無心に対処するという意味です。
 この「無心の境地」を武道は重く見ます。武道的状況では、ふつう相手が自分に向かって攻撃を加えてくるという設定がなされます。ぼおっとしていると殺傷されるリスクがあるので、「何か」をしなければならない。でも、そのときに「敵を見て」、その攻撃について予測を立てて、それに「最適解」を以て応じるという仕組みで対処していると間に合いません。必ず負ける。「直ちに」対処するためには、何も考えないで動かなければならない。「攻撃に適切に対処する」ではなく、「不意にあることがしたくなる」。「不意に」というのが「直ちに」ということです。無文脈的に、ということです。
 日本のJRという鉄道会社の卓越した観光ポスターのコピーに「そうだ、京都へ行こう」というものがあります。非常によくできたコピーで、最初に見てから、数年経つのにまだ使われていますから、とても集客上効果的だったのでしょう。
 この宣伝コピーの「そうだ」というのが「無心」「無文脈的」ということです。あれこれと旅行の行く先を考えて、資料を取り寄せて、日程を考えて、それで「それでは、最適解として、京都に行くことにしよう」ではないんです。街を歩いていて、あるいはご飯を食べていて、仕事の手をふと止めたときに、急に「そうだ、京都へ行こう」と思い立った。これは武道における「機」に通じるものです。前段がない。いきなり生起する。
 武道的な「無心」「無文脈的」な動きというのは、そのことです。不意にある動作がしたくなる。そして、それが結果的には、攻撃に対する最適の対応になっていた。結果的には、です。それをめざしたわけではないんです。「何となくそのような動作がしたくなった」だけなんです。「応じた」わけではない。だから、決して「相手に遅れる」ということがない。
「応じる」というのは「後手に回る」ということです。攻撃という「問題」を出されたので「正解」で応じようとするというスキームだと、攻撃してくる「敵」が作問者・出題者で、「我」は受験生です。出題するのも、採点するのも、「敵」です。「難問に最適解で応じる」というマインドで動くと、いきなり圧倒的に不利なスキームに巻き込まれてしまう。
 ですから、「困難な状況に投じられたので、これを何とか切り抜ける」という考え方をしてはいけない。絶対にしてはいけない。それは「困難な状況」を設定した者に対して「後手に回る」ことになるからです。だから「無心」になることで「先手/後手」「出題者/受験生」「難問/正解」という枠組みそのものを無効にする。
「無心」というのは、「そうだ、これをしよう」という自発だけがあって、達成すべき目的がないということです。何のために「そんなこと」をしたくなったのか、自分でもよくわからない。


 よく大記録を打ち立てたアスリートがインタビューに「これはただの通過点ですから」というコメントをすることがありますね。周りが「すごいですね、すごいですね」と囃し立てるのを気にしないで、「ただの通過点です」と気のないコメントをするのは、このアスリートが「成功体験に居着く」ことを怖れているからです。自分の達成を「成功だ」とみなし、他の競争相手に「勝った」というふうに総括すると、そこで進歩が止まってしまうリスクがあるということを彼らはその経験から知っているのです。
 でも、「これはただの通過点です」というような気のないコメントをできるのは、トップアスリートに限られています。昨日今日、そのスポーツを始めた人が、試合に勝ったときに「これはただの通過点ですから」というような気のないコメントを口にしたら、コーチから「何を生意気なことをほざいているのだ。素直に喜べ、バカやろう」と叱られると思います。気の毒です。
 でも、武道の場合は、昨日今日始めた人こそ、何ができるようになっても、術技のレベルが周りの人と比べて相対的に上位になったとしても(ほんとうはそんなことを気にしてはいけないんですけれど)「これはただの通過点ですから」と絶対に言わなければならない。
「道」というのは「その全行程が通過点であるような運動」を意味します。最初の一歩から、息を引き取る寸前にかろうじて踏み出した一歩まで、そのすべてが「通過点」であって、どこにも「完成」や「最終勝利」や「終点」がない。それが「道を歩む」ということであり、それが「修行」ということです。
「無心」とは「目的がないこと」だと上に書きましたけれど、そういうことです。ただ「道を歩む」ことだけが重要で、「この道の最終目標はどこか」「今、私は全行程のどの辺まで来たのか」「他の人たちと比べて、自分はどれくらいと道をたくさん踏破したのか」というような問いは何の意味も持たない。
 その長い修行の旅のどこかで、誰かに勝っても、誰かより強くなっても、誰かより巧みになっても、あるいは誰かに敗けても、誰かより弱くても、誰かより下手でも、そんな相対的優劣を論じることには何の意味もない。その勝敗に意味があると思うと、そこに「居着いて」しまうからです。決して居着いてはならない。それが武道の最もたいせつな教えです。決して「できた」とか「わかった」と思わないこと。おのれを「永遠の初心者」とみなして、ひたすら歩み続けること。
 こういう精神的な態度が宗教と親和性が高いことはお分かり頂けると思います。
 宗教もまた「超越」と向き合うことで連続的な自己刷新を果たす「行」です。
 どんな宗教でも、ほんとうに信仰を持つ人は「私は神意を完全に理解した」とか「私は摂理のすべてがわかった」というようなことを口にしません(時々そういうことを口走る人がいますけれど、まず間違いなく詐欺師です)。「神意は図りがたい」のです。でも、「図りがたい」から、「神意について考えるのは無駄だから止めよう」と言う人はいません。決して埋められない欠如がそこにあるがゆえに活発に欠如を埋めようとするというのが宗教の逆説です。
 これもよく引く喩えですけれど、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りでは、食卓に一人分だけ空席が設けてあります。そこに皿やカトラリーを並べます。それは預言者エリアのための席です。エリアはメシアの前触れですので、そこにエリアが着席する時についに待ちに待ったメシアが到来するのです。でも、この席は過去数千年にわたってずっと空席のままでした。帰納法的に推理すれば、過去数千年にわたって空席である場合は、今年も空席である蓋然性が高いので、「もうこの席に食器を並べるのは止めない?」ということになりますけれど、ユダヤ人はそうしなかった。エリアのための席が空席であることは、ユダヤ人たちのメシア信仰を少しも傷つけるものではなかったからです。メシアはまさにその不在を通じて、「メシアを待望する」という彼らの信仰の原点を生気づけていたのです。
 人知を以ては図りがたい境位をひたすら求め続ける人と、一生をかけて修行しても達成できない目標(「天下無敵」)をめざして歩み続ける人の精神は同型的です。
 自分が卑小な存在であることを少しも恥じない。自分が未熟であると感じることをむしろ喜びとする。これから踏破すべき終わりなき道を望んで、「ああ、まだまだ歩き続けなければいけないのか。つらいなあ。疲れるなあ」とは考えずに、そのような「終わりなき道」を歩む者であることをおのれの光栄と感じること。それが修行者のマインドです。
 こういうマインドは、資本主義の市場原理や競争原理とはたいへんに相性が悪いことはお分かりになると思います。だって、「株の時価総額を最大化する」とか「競合他社にマーケットシェアで勝つ」とか「ライバルを蹴落とす」とか、そういう相対的な優劣に居着くふるまいは全部「ダメ」なんですから。
 僕は資本主義はもう命脈が尽きかけた経済システムだと思っています。そろそろ、世界中の人は「相対的な優劣」を競い合って、勝った者に資源を排他的に配分し、負けた者には何もやらないという残酷な仕組みを捨ててもよい頃だと思います。
「武道的思考」というのは、僕にとっては、資本主義システムから離脱して、それとは違うもっと深みのある、豊かな「空間」をこの社会の中に現実に創出してゆくための手引きとなるものです。そうい話なら韓国の読者にも共感してくれる人がいると思うんですけどね。どうでしょう?


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性教育と売買春

エプスタイン文書との関係で、性教育と売春の関係を考えようと思い、少しネットで探し、下の記事が引用に適切かと判断した。つまり、「先進国」では、(これは私の偏見だろうが「性教育」推進の事実から見て、実施者の意図はともかく、当然生徒側の自然な反応として)性行為は「推奨すべき行為」とされていて、その「性交可能年齢」も低いというか、先進国に限らず、性交可能年齢、あるいは性交が不法行為とされる年齢は低いのではないか、と推測したわけだ。
たとえば、イギリスだと「性的同意年齢」は16歳だが、現実には15歳での性交経験率が女子で23%男子で18%だ。では、その「相手」はどういう年齢層と考えられるか。たとえば、15歳同志での性交は法的に処罰対象となるのだろうか。あるいは、16歳を超えていても、売春による性交は特別に不法行為とされるのか。その際、処罰されるのは「買った」側だけなのか、自ら積極的に「売った」とすれば、そちらは処罰されないのか。
買うほうの「買春」がほめた行為でないとしても、売るほうは、どうなのだろうか。もちろん、児童誘拐で攫った女子を売春に使うなどの行為は死刑にしてもいいだろうが、世界的には「自らの意志で売春している」女性は膨大にいるだろうし、そうした売買春で「買う側」だけが一方的に非難されるのはおかしくはないか、ということだ。
ちなみに、日本での女子高校生や女子大生の「パパ活」は明白な私的売春である。
はっきりとは記憶していないが、「源氏物語」で光源氏が紫の上を強姦した時の紫の上の年齢は10歳前後で、「たけくらべ」の女主人公が客を取らされたのも、12歳前後だと思う。昔からロリコン男は多かったし、文化が発達したから低年齢性交が違法化したわけでもないだろう。

要は、「不同意性交」かそうでないかの違いだけではないか。そして、その「同意」が低年齢では「判断能力が低い」と見做されるのだろう。で、売買春は、明らかに「合意の上の性交」なのではないか。嫌だけど、商売だから仕方がないというのは「不同意性交」ではなく、「いやだけど仕事だから働く」という、当たり前の話だろう。

(以下引用)

イギリス  性的同意年齢など、法律で多くのことが決められている

15歳での性交経験率

女子23%、男子18%。(WHO 2013~2014年調査)避妊率が低く、10代の妊娠、中絶が多い。

年代別できごと

1988年 コンドームの無料配布
2019年 「人間関係と性の教育」をカリキュラムにとりいれ、義務化された。

国の雰囲気

法律で決められていることが多くある。

  • 性的同意年齢は16歳。
  • 16歳未満の者と性的な行為をすることは法律で禁止。
  • 12歳以下の子どもに対する性的虐待や強姦、性的な勧誘は最大で無期懲役になる。
  • ポルノは、18歳未満の子ども目に触れないように配信しなければならない。

性教育は各家庭で保護者が行うべきだという考えが根強い。学校で行うことは、特定の価値観を押し付ける事になるのではないかという意見があり、そのため、性教育の授業をうけない選択をすることができる。

学校で学ぶ内容

全ての小学校で「人間関係」を学び、思春期や妊娠・出産のしくみなどについて知る。身体の変化が始まる前までに第二次性徴について学んでおくべきということもしめされている。


中学校では、「人間関係と性」を学ぶ。精巣、勃起、陰茎、など器官の名前をきちんとおそわる。女性の生殖器についても、ヴァギナ、クリトリス、陰唇などの機能や、性交についてもきちんと説明される。さらに、胎児の発達や、母親のアルコール摂取や喫煙、風疹のウイルスなど胎児の健康なども学ぶ。流産、中絶、早産、低体重児など、母親や胎児のことをきちんと学ぶ。その他、家族について、思春期の心の変化、恋人との関係性などについて学ぶ。

ドイツ 性教育は親の務め。学校は家庭の教育を補完することが目的

年代別できごと

1977年 性教育を行うことが合法だとされる。
1992年 中絶が合法化

国の雰囲気

性教育は親の務めであり、協力する義務を負うとされている。学校の性教育は、親の性教育を補完することである。早い段階で、性教育や性の多様性(LGBT)を学んだほうがいいという運動が起こっている。これは、性に関する重要なことをポルノから得ている25歳までの女子が16%、男子が49%になるというデータがあるからである。性暴力も5人に1人の割合で起きている。

学校で学ぶ内容

学校では、性教育は教育全体の一部であるとし、特定の教科においてではなく、「さまざまな授業科目や授業外の学校行事」で行うことになっている。小学校3・4年生では、「育ちゆく体とわたし」という単元で、避妊具について、実際に産婦人科に行って聞いてくるなどの活動がある。小学校5.6年生では、生殖器についてや、避妊や性交、出産、パートナーシップなど男女の身体を詳細に学ぶ。


中学校1・2年では、思春期や性感染症などについて学ぶ。思春期では、気分や感情のゆれがおこあったり、反抗して自分で決めようとすることなどを学ぶ。性感染症では、梅毒、淋菌、クラミジア、エイズなどについて患者数のグラフをもとに考える授業がある。

スウェーデン 世界でも有数の性教育先進国。男女平等な国の一つ

15歳での性交経験率

女子26%、男子24%(WHO 2013~2014年調査)

年代別できごと

1955年 性教育がカリキュラムに導入

国の雰囲気

ここ20年ほどで特に性教育の関心が高まる。キリスト教の価値観もあり、導入は、反発の声も大きかった。今では、性病の検査は無料であり、コンドームは無料配布されていて学校にも置いてある。緊急避妊薬も安く手に入る。
親からは、積極的に推進する派と、慎重派に意見がわかれている。高校生の性のイメージは「楽しい」・「きれい」・「恥ずかしいものではない」という肯定的なイメージが多数ある。

学校で学ぶ内容

8歳~10歳で、生理や、性行為、妊娠や出産について男女一緒に学ぶ。コンドームのつけかたなども、学校で学び、親に聞いてさらに深めていくので、親との性に関する会話のタブーがない。

フィンランド  性教育が盛んな国。包括的なアプローチを大切にする

15歳での性交経験率

女子24%、男子25%(WHO 2013~2014年調査)

年代別できごと

1970年 法律で性教育が必修となる。
1990年代 選択科目となるが、2000年代に再び必修化となる

国の雰囲気

性の話をするのは当たり前。女性は産婦人科、男性は泌尿器科にかかりつけがある。何もなくても受診する。家族の形もさまざまで、同性カップルの家庭もある。フィンランドもかつては、性教育はネガティブなことととらえられていた。今では、シングルマザーや男性同士のカップルといった家族の多様さも未就園児の段階から学ぶ。

学校で学ぶ内容

幼児期から、多様性・平等・自分の体を尊重することなどを学び、避妊方法は小学校5年生で行う。中学校ではコンドームの使い方や、思春期の変化、セックスのこと、予防や感染症などを学び、避妊について、ロールプレイングなどを行うこともある。

アメリカ  州ごとに異なる性教育。日本人が想像しているよりも保守的で真面目な面も

15歳での性交経験率

女子39.2%、男子43.2%(2015年)

年代別できごと

1980年代 セクシュアリティは人間生活で重要なものであることが認識され、男女混合で性教育が教えられるようになる
1990年頃 HIV感染予防と人権の尊重及び思いやりを基本とする「性の節制教育」プログラムが開発される
2009年~ 無料で避妊器具を提供(コロラド州)
2019年  性教育カリキュラム実施(カリフォルニア州)

国の雰囲気

州や学校の方針でも異なる。多様性を理解しようという雰囲気があり、性的マイノリティとよばれる人々への理解について学ぶ機会が多い。一時期、性は開放したほうがいいという流行があり、性感染症や10代の妊娠が相次いだ。性の節制教育が行われるようになり、一時期は50%近くあった高校生での性交経験率が徐々に下がってきている。(ニューメキシコ州では、10代の半分以上が妊娠したことがあるという記録もある)
日本のアニメの一部が規制されるなど、性に関して真面目で保守的な側面もある。キリスト教の影響が強く、結婚前のセックスを禁じる家庭もある。
学校での性教育について、「親と話すいいきっかけになる」という意見もあれば、「学校が性行為に対してOKしてるようなものだ」という賛否両論ある。性に対し、開放派、保守派、包括的性教育推進派にわかれる。

学校で学ぶ内容

10代での性的虐待、性的暴行、妊娠が問題となっていて、ビデオで考える授業も展開されている。避妊、自慰、同性愛など偏見のない議論がなされている。近年のSNSやネットなどの問題から、セックスやデートDV、いじめ、性的虐待、LGBTQ、同性カップル、人身売買などにも向き合う

(追記)現代の性道徳やそのルールなど、どこかの誰かが適当に作るだけだろう。


フランス、性交同意年齢を15歳に設定 法相「歴史的」

 発信地:パリ/フランス [ フランス ヨーロッパ ]



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【4月16日 AFP】フランスの国民議会(下院)は15日、性交同意年齢を15歳とする法案を全会一致で可決し、同法が成立した。エリック・デュポンモレティ(Eric Dupond-Moretti)法相は、伝統的に性に寛容な同国において「歴史的」な一歩だと述べた。


 法案を提出した上院議員は、同意年齢を欧州で最も低い水準の13歳とするよう主張していたが、エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)政権が引き上げを求め、修正が加えられた。



 新法は15歳未満との性行為について、両者の年齢差がわずかでない限りレイプとみなし、20年以下の禁錮刑を科すもの。近親相姦(そうかん)の場合、同意年齢は18歳とされる。


 同意年齢の設定によって、フランスも多くの欧米諸国と足並みをそろえることになった。


 これまでは、未成年者との性交をレイプまたは性的暴行で起訴するためには、未成年者が強制または脅迫、偽計によって性交させられたことを検察側が証明しなければならなかった。


 デュポンモレティ法相は、「いかなる成人の加害者も、15歳未満の未成年者の同意に頼ることはできない」とし、同意年齢の設定は「歴史的な一歩」だと述べた。


 新法は、15歳未満の子どもと5歳年上までの相手との性行為は認めている。この年齢差について大きすぎると批判する議員もいるが、デュポンモレティ法相は擁護している。(c)AFP




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復興より何より人命救助が最優先

こうした災害の時に被災者に避難所で集団生活を送らせることがいかに不合理で残酷かは何度か書いた。日本国内ならどこでも飛行機で3時間以内に移動させることができるのに、政府がそれをやらないのは愚かだろう。「被災地に残った(かもしれない)財産」への未練がある人が多いとは思うが、生命と健康こそが最大の財産なのであり、新しい土地で新しい生活を始める「人生の転機」だと前向きに考えるのがいいのではないか。寒さの中、一日1個のおにぎりで我慢させるというのは、或る種の殺人行為だ。

低体温症で避難者1人死亡 
輪島の避難所 市長「ぎゅうぎゅう詰め」
社会
2024/1/7 20:57
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1283575


能登半島地震で甚大な被害を受けた輪島市の坂口茂市長は7日、会見し、避難所から搬送された避難者1人が低体温症で亡くなったと明かした。

 輪島市内では避難所が県内最大の160カ所設けられ、1万1932人が身を寄せている。

 坂口市長は同日、県災害対策本部員会議で「避難する場所がない状況で、市内の避難所もこれ以上無理だ。小学校、保育園も傾き、学校としても避難所としても使えない。避難所もぎゅうぎゅう詰めで、ノロウイルスやコロナが発生している」と厳しい状況であることを説明した。


(以下引用)

輪島市の避難所で感染症拡大か、10人以上が下痢や発熱…検査キットなく病名特定できず







  • xrc********

    食べ物や飲み物も満足に摂れないのだから、健康状態も低下しているだろうし、疲弊し切ってみなさん体力も落ちていると思います。免疫力の低下と抵抗力の弱まりから、ウイルスに感染しやすい状況にあるのは想像に難くないです。 災害現場では、感染症の拡大もひとつの二次災害と言えると思います。重症化しないことを願うばかりです。一日早く物資が届いて少しでも栄養をつけて、病気に打ち勝てるだけの体力が回復することを祈っています。





























  • 多様性AIがピックアップしました


    bmb********

    今の被災地支援、救助の状況は、自衛隊もしくは企業の好意によりなんとか成り立っているだけで、国として被災された方の支援や補助が全くと言っていいほど無い状況です。ただでさえ、不安な思いを抱え一日一日を必死に凌いでいるのに、これでは見捨てられて絶望としか言い様がありません。自助で解決するなど到底できるものではないとわかっているのに、政治家はそんなこと知ったことではないと見離し、敢えてその様な対応をしているのでしょうか。国民に対して冷血無慈悲で、先進国とは言い難い有り様です。









  • coc********

    他にコメントされている方もいらっしゃいますが、避難所に避難されていて家族が揃っている方は出来る限り他県移動して、ビジネスホテルや公民館等の施設に分散して避難することはできないのでしょうか? 道が瓦礫で塞がれたりして、車の移動は相当難しいことはわかりますが。。可能な限り集団生活は避けたほうが良いし、とにかく安全な場所に移動して温かいものを食べて、ほっとしてほしいです。



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「エプスタイン文書」が公開されたこと自体の怪しさ

自分ひとりが賢者のように気取っている孔徳秋水氏だが、すべてを疑うことを読者に勧めているくせに、自分が信じている特殊情報(お気に入りの数人からの情報)を疑ったり、自分自身を疑うことは無いようだ。(毎度言うが、「自分自身ほど信じられないものはない」のであるww)

マスコミ情報を信じるな、政府を信じるな、といつも言うくせに、この「エプスタイン情報」が、米政府、あるいは米司法(トランプ事件などで、その信頼性がゼロであることを明白にしている)からの発信であり、その「リスト」内の人物が、単なる名前だけなのか、その行状が克明に記載されているのか、そのエプスタイン情報そのものがどれほど信頼できるのか、ということには思いが至らないようだ。「権力(DS走狗)」からの発信情報はすべて疑うというのが、現代を生きる人間の最低条件だろう。

私の勘では、これもグレートリセットの一環だろうと思っている。つまり、「表の権力(旧権力・傀儡権力、あるいはキリスト教や王室などの権威的存在)」をすべて「告発して無力化し、あるいは無力化したように見せ」、「見えない権力(WHOや情報産業のように『権力に見えない権力』含む)が世界を完全支配する体制」作りである。


(以下「バカ国民帝国日本の滅亡」から引用)

2024-01-05 10:54:27
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(CNN) 性的目的の人身取引を行っていた疑いで起訴され、


その後自殺した米国の富豪ジェフリー・エプスタイン氏に関連する訴訟で、3日、数百ページの文書が公開された。


 


文書には200人近い人物の名前が含まれると予想され、


その中にはエプスタイン氏を批判する人々、著名な実業家、政治家などもあるとみられる。


 


こうした情報の多くはすでにメディアインタビューなどで公表されているが、


司法システムを通じた当該文書の公開は今回が初めて。


 


文書にはエプスタイン氏の元彼女で、


虐待をほう助したと訴えられたギレーヌ・マクスウェル被告の証言録取や、


エプスタイン氏や英アンドルー王子から未成年時に性的虐待を受けたと主張するバージニア・ロバーツ・ジュフリー氏の証言録取の内容が含まれる。


 


また、エプスタイン氏のために働き、時に度を超えた性的なマッサージを強要され、


アンドルー王子にもおどけたやり方で胸を触られたと主張するヨハンナ・ショバーグ氏の証言も含まれる。


アンドルー王子とジュフリー氏は法廷外で和解した。


アンドルー王子は自身に対する主張を否定している。


今回公開された証言録取の内容には、アンドルー王子のほかに、クリントン元米大統領など著名人の名前も含まれる。


 


ショバーグ氏は2016年の証言録取の際、エプスタイン氏がクリントン氏について話していたと供述。


「あるとき彼はクリントン氏が若い人が好きだと話していた。少女のことを言っていた」と述べた。


 


クリントン氏がエプスタイン氏の友人だったかとの質問には、


エプスタイン氏がクリントン氏と「取引」があると認識していたと答えた。


 


クリントン氏の広報担当者は19年、


同氏がエプスタイン氏のプライベートジェットに搭乗したことはあるものの、


「ひどい犯罪」について何も知らないと述べた。


 


クリントン氏の広報担当者は3日、19年と同じ否定を繰り返し、


クリントン氏がエプスタイン氏と最後に接触をしてから20年近く経過しているとも言い添えた。


クリントン氏はエプスタイン氏に関連する犯罪や不法行為で告発されていない。


ショバーグ氏はさらに、エプスタイン氏と自家用機に乗っていた時、


パイロットが東部ニュージャージー州アトランティックシティーに着陸する必要があると伝えてきたとも供述。


エプスタイン氏はドナルド・トランプ氏に接触することを示唆したという。


 


ショバーグ氏は、エプスタイン氏が


「これからトランプ氏に電話して、カジノに行こうと言った。カジノの名前は忘れてしまった」と証言。


その後の証言で、トランプ氏にマッサージをしたことはないとも述べた。


 


トランプ氏は本文書内で、エプスタイン氏に関連する違法行為で告発されていない。


CNNはトランプ前大統領の陣営にコメントを求めている。


前述のジュフリー氏は証言録取において、


マクスウェル被告から様々な人物と性的接触をするように指示されたと述べた。


その中には


ビル・リチャードソン元ニューメキシコ州知事、


アンドルー王子、


コンピューター科学者のマービン・ミンスキー氏、


フランス人モデルスカウトのジャンリュック・ブルネル氏、


米国人投資家のグレン・デュビン氏が含まれる。


 


デュビン氏の広報担当者はジュフリー氏の主張が公になった19年、


デュビン夫妻がジュフリー氏の主張に「憤慨」していて、主張を断固否定するとの声明を出した。


ジュフリー氏の証言録取の同じ部分には、3日時点で氏名不詳の3人の名前がある。


 


ジュフリー氏はマクスウェル被告から「氏名不詳の王子」、「大規模ホテルチェーンのオーナー」、


そして完全に黒塗りされた人物と性的関係を持つように指示されたという。


 


ジュフリー氏がその後実際に性的関係を持ったかどうかは、この文書からは明らかでない。


今回の公開は昨年12月18日の裁判所命令によるもので、この後さらに多くの文書が公開される予定。


 


こうした文書はジュフリー氏による訴訟で和解した案件からの提出物となる。


ジュフリー氏はエプスタイン氏による性的虐待のほか、マクスウェル被告による虐待のほう助があったと主張していた。


 


犠牲者や関係者とされる人物の多くの名前が既にインタビューを通じて公表され、メディアで特定されている。


今回公表された文書に名前が含まれていても、違法行為があったことを示すわけではない。


犯罪の性質上、一部の被害者の氏名は黒塗りにされている。


 


エプスタイン氏は19年に性的人身売買を行い、


未成年の数十人の少女を性的に虐待したとして、連邦法上の罪で起訴されたが、公判前に拘置所で自殺した。


 


マクスウェル被告はニューヨーク州の検察から複数の被害者に絡む性的人身売買の罪で起訴され、


21年に有罪評決を受けた。


 


22年6月に禁錮20年の刑を言い渡されたが、翌月に連邦控訴裁判所に控訴した。


 



CNN.co.jp注:当初、本文中でギレーヌ・マクスウェル被告を受刑者と表記していましたが、被告は2021年の有罪評決と翌年の量刑を不服として第2巡回区連邦控訴裁判所に控訴しています。訂正して、お詫びします。


 


 


⇒ 【緊急ライブ】速報!性的人身売買ジェフリー・エプスタイン文書が公開!!


 


 


CNN


 


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fancy でもfunでもfantasiticでもない fantasyとは何か

記事タイトルを書いた後で、ところで、fancyとはどういう意味かと気になって調べたら、大きく分けてふたつの意味があり、「装飾的な」「空想、幻想、奇想」などの意味のようだ。
で、fantasticは、英語の意味はともかく、日本人としては「空想的、幻想的で素晴らしい」ニュアンスの言葉だろう。当然、fantasyに我々が期待するのもそれで、それは基本的にはfun(面白み、楽しみ)であると思う。
なぜこういうことを書いているのかというと、先ほどまで、寝覚めに読んでいた小野不由美の短編集の冒頭の作品が、面白さ、楽しさとは対極にあるものだったからだ。もちろん、彼女の代表作である「十二国記」自体が「ダークファンタジー」の部類に入るものだろうと私は思っているし、彼女がホラー小説作家としても高く評価されていることは知っている。
では、ダークファンタジーはファンタジーの同類なのか、と言えば、それは「空想的内容」つまり、現実の世界にはありえない話だ、という点で同類というだけで、ファンタジーの特長を「現実から遊離することの『楽しさ』」にある、とすれば、それはファンタジーとは別種のジャンルになるのではないか。そういう点では先ほど読んだ小野不由美の作品は(「十二国記」もたぶんそうだろうが)「指輪物語」の同類で、つまり「空想力によって緻密に構築された、現実とは別の物語世界」であるわけだ。で、その種の作品によくみられる欠点は、「楽しくない」つまりfunなところが無いことだろう。たいていの場合、その種の作品にはユーモアの要素が欠けている。ほとんどゼロなのではないか。笑いは緻密に作られた「真面目な」構築物を破壊する可能性があるわけだ。
だが、私はユーモアの要素の無いフィクションは体質的に「読めない」のである。「十二国記」は最初の数行で投げ出した記憶がある。文章自体が、明らかにユーモアの欠如を示していたからだ。いや、難解な哲学の文章でも読むことはあるが、私が小説に求めるのは慰安と娯楽と「自分の内的世界が広がること」なのだ。単なる作り物(細工物)で世界は広がらない。
ついでに言えば、ドストエフスキーもバルザックもユーモアの要素がある。ドストエフスキーなど、ユーモア満載と言っていい。カフカですらある種のユーモアはあるだろう。「不思議の国のアリス」「鏡の国のアリス」のナンセンスユーモアの偉大さは言うまでもない。
そして、女性作家には、その種のユーモア、特にナンセンスユーモアが欠如した作家が多いと感じる。私は女性にユーモアが欠如していると言うのではない。ただ、そのユーモアは、キャラの失敗や特殊な個性による言動(たいていはその失敗)から来るもので、世界そのものの不条理性を笑いにするというナンセンスユーモアは女性には少ないのではないか、と思っているわけだ。(「赤毛のアン」の中で、一番ナンセンスユーモアに近いのは「物語クラブ」の話の中でダイアナが物語のストーリー作りに難渋して、登場人物をどんどん「殺してしまう」話ではないか。物語の作中人物は筆者の恣意で簡単に殺される不条理世界を生きているわけだ。)それだけ女性は現実主義的なのだろう。(女性は男性より「現実観察眼」があり、些細なことも見逃さない繊細さがあるので、それが一種の笑いや詩情を作品に添えることが多いのだが。)(笑いとは何か、という哲学的問題については、私の宿題にしておく。)

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「安倍見直し論」批判

現在の安倍派一掃の動きから、安倍晋三こそ国士だったのではないか、というアホな意見がネットでちらほらするようだが、安倍政権時の日本の政治の劣化ぶりをもう忘れてしまったのだろうか。安部が死んだからといって、「死んだインディアンはいいインディアン」とはならないww つまり、「死んだ売国奴はいい売国奴」ともならないのである。(安倍は「売国奴」というよりは「日本乗っ取り未遂犯」だが)
(ちなみに、「死んだインディアンはいいインディアン」も本来はニュアンスが少し違い、「いいインディアンとは死んだインディアンだけだ」という、開拓時代のアメリカ人のインディアン憎悪の言である。むしろ「いい白人とは死んだ白人だけだ」と言われても仕方のないことを白人はやったのだが。)

(以下「東海アマ」ブログ」から抜粋転載)



 右傾化した若者たちの多くが、安倍存命当時「アベちゃん」などと親しげに呼んで、「この人に任せておけば安心」などと、絶望的な無知蒙昧をさらけ出していた。
 安倍は「慰安婦問題における韓国の横暴を許すな」などと、あたかも反韓であるかのようなポーズをとり続けたが、実は、安倍晋三の選挙資金と運動員は、韓国宗教である統一教会が全面的に負担してきた。韓国宗教の傀儡首相だったのだ。

(中略)

 私は、安倍晋三が登場したときから、統一教会が日本政府に送り込んできた日本支配のための切り札であることを知っていた。
 文鮮明と岸信介、中曽根康弘らは、共謀して日本に強力な反共団体を産み出した。それを「国際勝共連合」という。主体は、日本の統一教会信者だった。
 
(中略)

 1980年代20歳代でキャリア組官僚に採用された原理研メンバーは、現在定年前後世代なので、ほとんど官庁のトップに君臨している。
 行く先は、防衛省、法務省、文科相などだったといわれる。
 現在の最高裁、防衛省、警察庁、文科相トップは、原理研出身の統一教会である疑いが小さくない。

 だが、検察庁だけは、政府高官への司法権を持っているため、三権からも独立しているといわれていたが、ここに安倍晋三は、自分の息のかかった(原理研出身の疑いの強い)黒川弘務検事を送り込もうとした。
 そして、森本宏や稲田伸夫がギリギリのタイミングで、黒川の賭け麻雀暴露という形で阻止した。
 現在の、検察の総力を挙げた安倍派不正資金問題の追及は、実は、背後にいる統一教会との戦いなのだ。

 すでに、司法は最高裁判事を安倍の息のかかった原理研勢力が占めて反動判決しか出さなくなっている。統一教会の力で首相になった安倍晋三は、日本の司法、防衛、文科を韓国統一教会に売り渡してきたのである。
 
 「福島第一原発巨大事故は国の責任ではない」というインチキ判決を出した裁判官は、全員安倍晋三が任命した 2022年06月18日
 http://hirukawamura.livedoor.blog/archives/5938057.html

 今回、田崎スシローが、安倍晋三が在任中に検察や法務省を影で動かそうとしていたことを暴露した記事が、リテラに出たので紹介する。自民党ヨイショ記者として知られてきた田崎史郎も73歳になって老人ボケしてしまい、過去の自民党の悪行をボロボロと自白するようになっている。

 裏金問題捜査で田崎史郎が「安倍政権時代なら法務省と官邸で内々に」とポロリ! 実際にあった安倍官邸の検察捜査ツブシ総まくり 2024.01.01
 https://lite-ra.com/2024/01/post-6312.html

 
 東京地検特捜部が松野博一・前官房長官、世耕弘成・前参院幹事長、西村康稔・前経済産業相、萩生田光一・自民党政調会長、高木毅・自民党国対委員長ら安倍派幹部への任意の事情聴取をおこなうなど、捜査が本格化している政治資金パーティ裏金問題。ある人物の発言がSNS上で注目を集めた。
 それは、政治ジャーナリスト・田崎史郎氏が昨年12月16日放送『情報7daysニュースキャスター』(TBS)で発したコメントだ。

 「こういう事件の時は、法務省が官邸と内々に打ち合わせをして、黒を白にすることはないですけど、“このへんでね”という(妥協案の提示の)話が、行われるものなんですよ。安倍政権ではあったんです」
「それを岸田官邸は一切やってない。法務省の情報も東京地検特捜部の情報が全然、取れてないから分からない」

 ようするに、安倍政権時は安倍官邸と法務省・検察が内々に“手打ち”していたが、岸田官邸はそれをやっていないから捜査情報を把握できていない、と田崎氏は言うのだ。
 言わずもがな、検察は捜査権と公訴権を有する唯一の機関で、この国で閣僚クラスの大物政治家の汚職を摘発するのも実質的に検察だけだ。そのため検察は行政機関でありながらも政治からの中立性と独立性が求められる。しかし、安倍官邸は法務省を通じて検察の捜査に介入していた、というのである。

 三権分立を踏みにじる安倍政権の横暴を、さも当然のことのように平然と語る政治ジャーナリスト……。これにはSNS上で田崎氏の倫理観を批判する意見が寄せられているが、問題は、安倍官邸が法務省と“手打ち”することで検察の捜査を歪めてきたという事実のほうだ。

 あらためて振り返るまでもなく、安倍政権下では政治家絡みの告発がことごとく潰され、今回の裏金よりも悪質性が高いと思われるような事件でも検察は「不起訴」を連発してきた。田崎氏は「黒を白にすることはないですけど」などと言っていたが、まさに「黒を白にする」行為をしてきたのだ。
 
(中略)

 統一教会の安倍晋三は、日本のすべての権力、官僚機構を自分の思い通り、つまり統一教会の利権のために利用しようとし、法さえ変えてきた。
 さらに憲法さえ変えようとし、統一教会利権を恒久化しようとしたが、統一教会詐欺被害者の山上徹也氏によって射殺された。

 https://www.youtube.com/watch?v=okKxhjBK4a8

 もう上のビデオでは、こそこそ隠れて関係性を保つというものでなく、開き直って、自分が統一教会の立場にいることを明言している。
 まさに、大韓帝国王、李垠の孫である立場から、韓朝日統一帝国ビジョンを視野に入れて、日本を支配し、韓国に奉仕すると宣言しているようにしか見えない。

(中略)

 岸田文雄も安倍を継いで、統一教会の代理人なのである。この男は、韓国の利権のために日本国民を売り飛ばすだろう。「稀代のの大嘘つき」と呼ばれ、誰からも軽蔑されていた安倍晋三を「偉大な政治家」と呼び、国葬にしたことが、統一教会代理人である証拠になっている。
 なお、国際勝共連合が1968年、朴正熙と文鮮明、岸信介によって発足した当時の主張を書いておく。

 【「共産主義をこの地球上から完全に一掃する」「朝鮮半島が突破口に第三次世界大戦が必ずおこらなければならない 」「日本は生活水準を3分の1に減らし、税金を4倍、5倍にしてでも、軍事力を増強してゆかねばならない」】
https://mainichi.jp/articles/20221110/k00/00m/040/102000c
  

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能登大地震と羽田航空機事故は日本への恐喝か

「阿修羅」記事コメントのひとつで、馬鹿な妄想・陰謀論として片づけるのもいいが、可能性のひとつとして考慮材料にするのが理性的姿勢だろう。
下のコメントがガザをガサと書いているので思いついた洒落。「ガザのガサ入れ」
まあ、「核の傘」ならぬ、「核のガザ」にならなければ幸いだ。ガザを更地にするのがイスラエルの願望(あるいは計画)だろうから。

戦後史の常態である自民党支配政治において非常に不自然な、安倍派一掃自体が、岸田への脅しだとも考えられる。「お前が命令に逆らえば、次はお前だよ」。1日2日と連続した「災害と重大事故」は、その目に見える象徴であるわけだ。

(以下引用)


21. 自民解体[18] jqmWr4nwkcw 2024年1月05日 16:56:10 : bkL7BpKnoo QkY2aC9XaWR6OGM=[104]  報告
<△26行くらい>

↓ 航空法により、空港周辺飛行の場合は、「VHF無線機とATCトランスポンダの搭載」が義務づけられている。

トランスポンダとは、簡単に言えばその飛行機の位置を自動的に管制官に知らせる装置だ。



Q1 海保機はトランスポンダを搭載していなかったのか?!いなかったとしたら何故だろうか?!


Q2 また、VHF無線機に何者かが管制官を装って保安機に滑走路侵入を許可したのではないか?!



【 ATCトランスポンダ 】


ATCトランスポンダ(ATC Transponder、ATC XPDR、航空交通管制用自動応答装置) という。


航空法第六十条、航空法施行規則第一四六条第二項により、
全国の主要な空港の周辺で飛行場管制を行う航空交通管制圏や航空路を管制する航空交通管制区を飛行する場合は
VHF無線機とATCトランスポンダの搭載が義務づけられている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%80#ATC%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%80%EF%BC%88%E6%B0%91%E9%96%93%E8%88%AA%E7%A9%BA%E7%94%A8%EF%BC%89



海保機の機長一人を悪者にするようなメディアの作為が感じられる。


JAL123便の時と全く同じ洗脳の手口だ。


羽田の事件と能登半島の小型核による人工的に起こされている地震の裏には、


絶対に米国、イスラエルからの恐喝、がある。


ガサ攻撃のための戦費を日本から略奪するための恐喝だ。


今後も同時多発テロが起こる可能性がある。


要注意!!

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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