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日本の平均寿命と高齢者問題

「シロクマの屑籠」記事で、筆者は精神科医である。
言葉の端々に「理想の社会主義国家日本」への反感が感じられる文章で、では社会保障制度に反対なのかというと、そうは明言していない。もちろん、医者である以上は社会保障制度に頼って生きているわけだ。で、高齢者だけでなく、新コロワクチンで(超過)死亡者が激増していることには一言も言わない。まあ、しかし、転載するのは、「問題提起」としての価値はあると思うからである。しかし、「高齢者の平均寿命」って何だよ。高齢者に限定した平均寿命があるのか。
一応言っておけば、新コロワクチンのような意図的殺害以外なら、私は日本人の平均寿命が短くなっても問題ないと思っている。それは「無理に患者を生かす」過剰医療のためだと思うからだ。貧困化によって、そうした医療は庶民には不可能になるから、当然、難病死亡者数と老人死亡者数は増えるだろう。

(以下引用)

いつまでも あるかわからぬ 長寿の国


 
 
今日、ある方から「日本人のエイジングについて」質問をいただいたこともあり、久しぶりに日本人の平均寿命についてググってみたんですよ。そうしたら、以下のような読み取りやすいグラフがあって。
 

*こちらのグラフは高齢者住宅ジャーナルさんが出典となります*
 
皆さんは、この表を見て何を感じますか。病院に勤務している人なら、2020~2021年あたりは高齢者があまり亡くならない年だった、そのぶん2022年は亡くなる高齢者が多かった、などと思い出すかもしれません。コロナ禍の影響はここにも現れていますね。
 
私は、ぼんやりグラフを眺めながらこう疑問に思いました。「20年後、同じぐらい高齢者の平均寿命は長いものだろうか?」と。
 
このグラフの目の付けどころはどこでしょう? 医療行政の充実や医療技術の発展によって平均寿命が延びているさま、ひいては国民の健康が促進されているさま、と着眼する人は多いでしょうし、それ自体、事実でもあるでしょう。実際、そうした変化の経済的基盤であるところの、医療費や介護費も順調に伸び続けているわけですからね。
 
しかし、我に返った私はこうも思ったのでした──「これって、人間の寿命が人工的な手段でここまで延びに延びたってことだよね?」とも。
 
男性81歳女性87歳の平均寿命は、太古の昔からそうだったわけではありません。それぐらいの年齢まで生き残る幸運な人は、狩猟採集社会や農耕社会にも稀にはいたでしょう。けれども平均寿命はもっともっと短かったはずで、その短かった平均寿命を延長したのは人工的な手段によるものです。それは医療技術やインフラ技術のおかげだったり、社会保障制度の浸透だったり、経済的基盤のおかげだったりします。人々の健康に対する意識の変化、死生観の変化もあるかもしれません。
 
ともあれ、こうした平均寿命の長い状況が成立しているのは人工的な手段のおかげに違いないのです。けっして! 自然が・勝手に・このような平均寿命の長い状態を生み出しているわけではありません。このグラフが示しているのは、1980年との比較で男性の平均寿命が8年延びるぐらいには人工的な手段と人為が積み重ねられたってことでしょう。大正時代や明治時代の平均寿命と比較すれば、その差はもっと大きくなるに違いありません。
 
が、しかし。
その人工的な手段は持続可能でしょうか?
 

 
上掲の国立社会保障・人口問題研究所さんのグラフを眺めながら、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能かどうか考えてみましょう。なんだか無理っぽくないですか。現在でさえ、国債を刷りまくって今という瞬間をしのいでいるのに、社会保障費は今後もドシドシ増えていくでしょうし生産年齢人口はドシドシ減っていくでしょう。もちろん未来においても社会保障制度は健在で、無敵で、正しいはずです。が、いくら将来にわたって社会保障制度が健在でも私たちに提供される社会保障の内実が2023年のソレと全く同じとはあまり思えません。かりに同じだとしたら、生産年齢人口にあたる現役世代が強いられる負担と出血は今とは比較にならないほど高まるでしょう。
 
案外、それこそが国民の合意なのかもしれないな、と今宵は思ったりもします。日本って、20世紀から「理想の社会主義国家はソビエト連邦ではない。理想の社会主義国家は日本だ」って言われてたじゃないですか。それで言うなら、現在の日本は理想の社会主義国家、ですよね。で、未来においても理想の社会主義国家のはず。以下のツイートのように。
 

 
「働けない人を働ける人が食わせる。働ける人から働けない人に再分配を行い、一億総活躍社会をやっていく。」 日本には、これをやっていくってコンセンサスができているんですよね? そのことの是非を私はここでは判断しません。ただ「現下の政治状況からいってそのようなコンセンサスが存在するに違いない」と勝手に思い込んでいるだけです。国民のコンセンサスは民主主義国家にとって尊いものなので、どうあれ、理想の社会主義国家をやっていくのも尊い営為であるはずでしょう。
 
とはいえ、日本を長寿の国たらしめている人工的な手段が持続可能じゃないとしたら、結局、何かを変えていかなきゃいけないのでしょう。そういえば最近、退職金課税の見直しについての報道がありましたよね。
 
www.nikkei.com
 
報道から察するに、就職氷河期世代が退職するぐらいのタイミングで退職金への課税が厳しくなるみたいです。理想の社会主義国家をやっていくためには仕方がないことだと、皆さん割り切るしかなさそうですね。しかし、こういうことが今後繰り返されて、ますます国債を刷りまくって、そのうち一万円札がもっとぺらっぺらのお札になって、だというのに人口減少が約束されているとしたら、どんなに重税を課したところで、未来の高齢者の生活って2023年よりも苦しいですよね?
 
社会保障制度が提供してくれるもの&社会保障制度に支払わなければならないものも含め、日本を長寿の国たらしめている与件は、15年後・20年後には今よりずっと厳しくなっているんじゃないでしょうか。
 
日本人のエンゲル係数を眺めていると、そういう予感がどうしても禁じ得ません。2023年のエンゲル係数はどのレポートを見ても26%を上回っていそうな勢いで、第一生命経済研究所によれば、高齢者や低所得世帯においてその度合いは一層激しい、といいます。エンゲル係数が高くなれば、摂取する栄養素は偏りやすくなり、それはきっと健康の基盤をも左右するでしょう。人は健康のことだけ考えていればいいわけではなく、色んなことにリソースを割かなければならないので、経済的基盤が厳しくなれば健康にとってあまり良くない食生活や食習慣が増える可能性は高い、と想像せざるを得ません。
 
それはきっと、余暇やスポーツについても当てはまります。就職氷河期世代の老後を想像した時、現在の高齢者たちと同じぐらいの割合の人がフィットネスジムに通っているとは、どうにも思えません。現在の高齢者たちに比べて、フィットネスジムに通える人の割合は低下するでしょう。登山やトレッキングを楽しむ余裕のある高齢者も低下するでしょう。メンタルヘルスにとってプラスになる活動だって、経済的基盤が弱くなれば難しくなるかもしれない。余暇やスポーツや娯楽だって健康の基盤の一端をなしているんですよ。で、それらが今後、だんだん難しくなっていくとしたら……。
 
そうやってひとつひとつ考えていくと、今日の平均寿命の長さを成り立たせている与件、その人工的な手段が私たちの世代が高齢者になった頃にはすっかり弱り果てているよう、思えてならないのです。そうなった未来において日本の平均寿命が今日と同等であるとしたら、びっくりするほかありません。テクノロジーの進歩に期待する向きもあるでしょうけど、どんなにテクノロジーが進歩したって、良質なたんぱく質にはお金がかかりそうだし、介護にも医療にもお金がかかりそうだし、少子化と経済的縮小はキツいんじゃないか……という予感を今宵はぬぐえません。
 
 

繰り返しになりますが、「長寿=豊かさ」だったんですよ。

 
七年前、私は以下のようなことをブログで書きました。
 


「長生き」=「豊かさ」なんですよ、わかっているんですか - シロクマの屑籠
 
現代の高齢者は、とにかく長生きである。80~90代は当たり前で、100歳超えも珍しくない。昔の精神医学の教科書には「アルツハイマー型認知症は予後不良、五年以内に亡くなる人が多い」と書いてあったが、最近のアルツハイマー型認知症の患者さんは、レーガン大統領のごとく、十余年の歳月を生き延びる人もザラにいる。高齢者の多くは、病院に通って診察や投薬を受けながら、あるいは種々の健康診断などを利用しながら、とにかくも健康を維持して老後生活をおくっている。
私は、このこと自体が現代の高齢者の「豊かさ」だと指摘したいのだ。
命、とりわけ高齢者の命は無料で手に入るものではない。
高齢者の命は、医療や介護によって守られている。バリアフリーや宅配サービスといったアメニティも、部分的には高齢者の命を支えている。昭和時代には60代70代で死ぬ人が多かったが、平成時代に入って80代90代で死ぬ人が多くなった背景には、そうした諸々の進歩と普及があったことを忘れてはならない。
医療・福祉分野の出費が増えているあれは、そのまま命の値段である。


 
それから七年が経って、日本の経済的先細りがそろそろ見えてきたきたんじゃないでしょうか。平均寿命の長さを成立させていた「命を買う」という営み、その経済的基盤がいよいよ失われようとしています。かりに社会保障制度そのものが存続してもそれ以外の経済的与件、さらに精神的与件等々が現在より厳しくなっていたら、私たちが20世紀から積み上げ続けてきた「命を買う」という営みの内実は細くなってしまいます。日本は理想の社会主義国家であるはずなので、浮かぶ時も沈む時もみんな一蓮托生のはず。そんな未来においても長生きする人は長生きするでしょうけど、私たちのひとりひとりが男性81歳女性87歳まで生き残る蓋然性は低くなっていると想像せざるを得ません。
 
いちおう繰り返しますが、理想の社会主義国家であるとするコンセンサスが成っているのであれば、民主主義国家としてそれは尊いもののはずなので、そこは批判せず、尊んでおきましょうね。
 
平均寿命がこれから低下に向かうとするなら、これからの私たち、人生、どうすればいいんでしょうね?
 
数年前ぐらいでしょうか、60歳を「第二の人生の出発点」みたいなことを言っている人がいっぱいいたように記憶しています。いや、今でもそう言える人はいるでしょう。60歳を過ぎても働かなければならない時代ですから、それはそれでわかる気もします。
 
でも、私たち、60歳から先、だいたいどれぐらい生きられるんでしょうかね?
 
ここまでお読みになって「未来のことはわからないじゃないか」とおっしゃる人もいるでしょう。
 
ええ、そうですとも。未来のことはわからない。だからこそ、男性81歳女性87歳まで生きられるって前提で「人生設計」するとか、わけわかんなくないですか。今の日本がドシドシ経済発展していて、ドシドシ医療や社会保障がやれるご時世だったら、そういう「人生設計」も良かったかもしれない。でも今はそういうご時世ではありません。日本は斜陽の国です。そのうえでまたまたパンデミックが来るかもしれないし、「国際的緊張」があるかもしれない。未来のことはわからないですからね。
 
いや、だからって結論らしい結論があるわけではありません。結局私たちのひとりひとりは生きるだけ生きるし、死ぬ時には死ぬのでしょう。それを正確に予測することはできないのですから。ただ、今日の平均寿命の長さに基づいて万事を計算したつもりになるのは、これからを想定するにあたってなんだか違いませんかと、そういうことを今宵は考えずにいられなかったのです。
 
未来はわからない。そのことに対して私たちがとる態度や行動はさまざまであるはずです。ひたすら貯蓄する人もいれば、今をこそ太く生きようと考える人もいるでしょう。そのひとつひとつの是非善悪や成否はここでは考えません。ただ、この長寿の国とされる日本を長寿の国たらしめているのは人工的な手段で、その成立与件がぶっ壊れてしまえば長寿だってぶっ壊れるのはたぶんそうなんです。そのことを憂いながら、屋根を叩く雨の音を聴いています。
 
 



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「地政学」という馬鹿思想

あまり、こちらのブログには似合わない話題だが、妄想・妄論ブログとしてはおかしくないだろう。最初に「地政学(知性が苦)」の定義から引用しておく。
この引用の中の

しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある[2]

というのは秀逸である。
私は原則として、「地政学」という言葉を振り回す著述者を信用しない。
政治が地理的条件と深く結びつくのは当たり前の話であり、実際の使用場面ではこの「地政学」という言葉は(現実重視の政治学という見かけを伴うが)単に、欧米政治の基本思想としての「ロシア・中国敵視政策」であるにすぎない。そのために日本や東南アジア諸国が利用されるわけだ。で、問題はなぜロシアや中国を敵視する必要があるのか、ということで、それをこれまでの「地政学」は実にいい加減に扱ってきた。
まあ、単純に言えば「白人国家以外の強国は認めない。存在を許さない」という欧米優越主義で、ロシアは「アジア」と見做されているから白人国家の仲間外れなのだろう。で、ロシアの場合は、そこからユダヤ人の大半が追い出されたという経緯もある。


(以下引用)


地政学(ちせいがく、Geopolitik)は、国際政治を考察するにあたって、その地理的条件を重視する学問である[1]


19世紀から20世紀初期にかけて形成された伝統的地政学は国家有機体説環境決定論を理論的基盤とし、ドイツイギリス日本アメリカ合衆国などにおいて、自国の利益を拡張するための方法論的道具として用いられてきた。第二次世界大戦後の国際社会において、地政学という言葉はナチス・ドイツの侵略行為との結びつきから忌避されてきたが、しばしば著述家により「自らの著作に一種の荒っぽい格を付与させる」短縮表現として用いられることがある[2]






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「ローマの休日」という映画題名のこと

世間的にはどうでもいい問題だが、私は誤謬が世間に広まるのが我慢できない性格なので、「逝きし世の面影」ブログが固執する、「『ローマの休日』の映画タイトルは、裏に「他者を犠牲にして得る娯楽」の意味が隠されている」、という説を考察してみる。

第一に、この題名にそういう意味が隠されているとしたら、それは

誰の利益(娯楽)なのか

という問題だ。映画の内容からすると、ローマの休日を楽しんだのはヘップバーン扮する某国の王女だろう。で、それは誰を犠牲にして得た娯楽なのか。グレゴリー・ペック扮する新聞記者やその相棒の写真家が「特ダネをあきらめて、公表しなかったこと」か。はたして、それが「他人を犠牲にして得た娯楽」なのだろうか。まあ、百歩譲って、そういう「些細な」犠牲でも犠牲は犠牲だ、としてもいいが、それは「自分の自由な人生を半分あきらめて王女として生きる」王女の決心より小さな犠牲だろうか。

第二に英語原題の「Roman Holiday」は本当にそういう意味があるのか。これは調べてみる。romanは形容詞で「ローマの」の意味だ、と英語辞書にはある。つまり、「ローマの休日」は英語の直訳であり、まさにそのままで英語タイトルの意味を伝えているのである。確かにromanには「ローマ人の」の意味があるが、それはjapaneseが「日本の」でもあり「日本人(の)」の意味でもあるのと同じで、ごく普通のことだ。何も、roman holidayを、誰かを犠牲にして成り立つ娯楽、の意味に解することはない。少なくとも、この映画のどこにも、古代ローマのコロッセウムで剣闘士が殺し合ったり野獣と戦ったりしたような殺伐としたものは存在しない。唯一のバイオレンスは、ヘップバーン扮する王女が、彼女たちを捕まえに来た連中のひとりの頭をギターか何かでぶん殴る(カメラマンがその決定的シーンを撮り逃して、「もう一回」と注文すると、もう一度殴るというギャグがある。)シーンだけだwww

私は「ローマの休日」は歴代映画の中でも一、二番に好きな作品なので、宗純氏の度重なる「ローマの休日」への発言は神聖なものへの冒涜としか思えないのである。


(以下引用)


ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)



映画史に残る不朽の名作『ローマの休日』(オードリー・ヘプバーン主演、1954年日本公開)は、ローマ滞在中に自由を求めて宮殿を抜け出した王女アン(オードリー・ヘプバーン)と、町で偶然出会ったアメリカ人の新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)の恋を描くラブストーリー(★注、当時のハリウッド映画の定番のハッピーエンドではなく王女は恋を諦め記者はスクープ記事を諦めて別れる悲恋として描かれる)

脚本を担当したダルトン・トランボのオスカー に対する画像結果.サイズ: 184 x 170。ソース: eiga.com

日本語版タイトルは英語を日本語に直訳したものだが、この映画の正しいタイトルは「Roman Holiday」(=ローマ人の休日、「ローマの休日」はホリディ・イン・ローマ)


映画「ローマの休日」の原題の「ローマ人の休日」とは古代ローマ帝国においてコロッセウムでキリスト教徒をライオンに食わせるとか剣闘士の戦い(奴隷同士の殺し合い)を、ローマの民衆たちが見世物として楽しんでいた史実に由来する慣用句で「他人を犠牲にして得る娯楽・利益」という恐ろしい英語表現で、密かにタイトルにもう一つの意味が隠されていた。脚本を担当したダルトン・トランボは当時のアメリカで吹き荒れた「赤狩り」(マッカーシズム)の標的になって投獄され、ハリウッドから追放されたハリウッド・テンの一人で、「ローマの休日」には別人(偽名)で参加。死後の1993年「ローマの休日」アカデミー原案賞がトランボに贈られた。2011年米脚本家組合が『ローマの休日』のクレジットをトランボに変更したと発表した。2022年05月13日 | 経済 ローマの休日(他人を犠牲にして得る娯楽・利益)

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MAIDーI=MAD

私は安楽死肯定論者なので、下の記事を引用するのはただ「MAID」から「I(愛)」を引けば「MAD」になる、という駄洒落を言いたいだけである。ただし、これは世間の「メイド(コスチューム)好き」な人々に喧嘩を売っているわけではない。
岡氏(あるいは岡氏ではなく「大摩邇」主催者か?)は「安楽死反対論者」のようで、「安楽死させられている」と、まるでそれが強制であるかのように書いているが、記事から分かるとおり、これは「希望者を安楽死させている」のである。ただし、それが巧妙な「人口削減手法」である可能性も高く、犯罪的行為になる場合も多いことは注意すべきだろう。



(以下「大摩邇」から転載)

現在のカナダでは「毎日平均36人が安楽死」させられている

BrainDead Worldさんのサイトより
https://nofia.net/?p=15832
<転載開始>

(参考記事)異端が排除される狂気の時代に、カナダの新しいT4作戦による大量死を眺め見て、さてそれをどう感じるか
In Deep 2022年12月21日



カナダは現在、毎日平均36人の国民を安楽死させている

N/A 2023/11/17


Canada Now Euthanizes an Average 36 Citizens Every Day


カナダの自由な安楽死法により、現在、毎日平均 36人の国民が政府によって安楽死させられている。


政府による自殺幇助に関するカナダ保健省の最新報告書によると、現在、安楽死は全国の死亡者の 4.1%を占めている


この数字は 2021年の 3.3%から大幅に増加した。


先月末に発表された、2022年の死亡医療援助(MAID)に関する第4回年次報告書では、 2016年以来、安楽死によって約 4万5000人のカナダ人の命が奪われたと述べている。


MAIDが合法化された 2016年には、1,018人のカナダ人が政府の自殺幇助によって死亡することを選択した。2022年には、その数は驚くべき 13,241人に膨れ上がり、これはカナダで毎日平均 36人が安楽死させられていることを意味する。


これは、2019年以降の平均年間増加率が 31.1%であることを示している。


データによると、MAID に対する書面による要求の 81%が許可された残りの19%のうち、MAID に不適格とみなされた申請者はわずか 3.5%であり、その数は 2019年以降減少している。


 

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「ロンドンデリーエアー」の各種ミックス

今朝の夢の中で、なぜか昔の職場の同僚(ひとりはなぜか皆川猿時だったようだが、もちろんテレビでしか見たことがない俳優だ。)と雑談して、なぜか、「島崎藤村の『椰子の実』は実は監獄で刑死した我が子を偲ぶ母の歌だ」という「驚異の発見」が生じて、職員一同が驚くという変な出来事があったのだが、起きて考えてみると、その歌(曲)は『椰子の実』ではなく、「ロンドンデリーの歌」だった。まあ、「ロンドンデリーの歌」は確かに(下の記事の津川圭一作詞だと)「我が子の不在(兵士となって、椰子の実と同じく流離している)を嘆く母の歌」ではある。だが、監獄での刑死ではない。
昨日だったか、終身刑になろうとして人を2人殺したアホの記事を書いたが、その残留記憶がこの夢につながったのだろう。
その一節を夢(覚醒前の朦朧状態)の中で作ったので、その部分を載せておく。

暖かき春の日差しに
監獄に光はめぐる
耐えがたき母の悲しみ
さなり我が子は逝きぬ

最後の2行は誰かが作詞した「ロンドンデリーの歌」の詞をそのまま使った。私が作った前の2行だと、母親を監獄に呼んで、その目の前で殺したみたいだが、まさかそういう習慣は無いだろう。津川圭一作詞の歌詞とミックスすると、こうなる。(「愛(いつく)しむ」は「慈しむ」が一般的だろうからそう書いた。)(「暖かき」は最初は「暖かな」だったが、古文文法に従って「暖かき」とした。すると自動的に「き」「に」「き」「り」と語尾が「イ音」で揃うことになり、少し通韻(押韻)がうるさいかな、と思ったが、そのままにする。各行の語尾も1行ごとに「イ音」と「ウ音」が交替し、これも押韻になっている。)(光は「めぐる」ものではない、という批判は受け付けない。母親が感情の問題でそう感じただけだ。)(この「母親」は刑死した犯人の母親ではなく、殺人犯の死刑に立ち会った、殺人事件の被害者の母親としてもいい。)

吾が子よ 愛しの汝(なれ)を
父君の形見とし
心して慈しみつ
今日まで育て上げぬ

暖かき春の日差しに
監獄に光はめぐる
耐えがたき母の悲しみ
さなり吾が子は逝きぬ

ロンドンデリーの歌 Londonderry Air

18世紀から伝わる古いアイルランドの旋律

『ロンドンデリーの歌』(The Londonderry Air)、または『デリーの歌』(The Derry Air)は、18世紀から伝わる古いアイルランドの旋律『若者の夢(The Young Man's Dream)』に基づく歌詞の無い器楽曲。


1855年出版の楽譜集「The Ancient Music of Ireland(アイルランド古代音楽)」に収録され、ロンドンデリー出身のジェイン・ロス(Jane Ross/1810–1879) が収集したことから、後年この曲名がついた(出版当時は無名だった)。


このメロディには様々な歌詞がつけられているが、『ダニーボーイ(Danny Boy)』が最も有名と思われる。


ロンドンデリーの街並み


写真:ロンドンデリーの街並み(出典:Wikipedia)


『Londonderry Air』のメロディにつけられた数多くの歌詞の中では、キャサリン・タイナン・ヒンクソン(Katherine Tynan Hinkson)が1894年に発表した『アイルランドの恋の歌(Irish Love Song)』が世界的に知られている。


歌詞の一行目から、『私がリンゴの花だったら(Would God I were the tender apple blossom)』の曲名で呼ばれることも多い。


このページでは、この『アイルランドの恋の歌(Irish Love Song)』の歌詞について、その意味・和訳を掲載しておく。

【YouTube】ロンドンデリーの歌 Londonderry Air

歌詞の意味・日本語訳(意訳)

『Irish Love Song』(アイルランドの恋の歌)


作詞:Katherine Tynan Hinkson


1.
Would God I were
the tender apple blossom
That floats and falls
from off the twisted bough,


To lie and faint
within you silken bosom,
Within your silken bosom
as that does now!


もし私がリンゴの花だったなら
ねじれた枝から
ふわり浮かんでふわり落ちて
貴方のシルクの胸元に
舞い降りたい


Or would I were
a little burnish'd apple
For you to pluck me,
gliding by so cold,


While sun and shade
your robe of lawn will dapple,
Your robe of lawn,
and you hair's spun gold.


もし私が磨かれたリンゴの実だったら
木漏れ日の中で ローブが揺れる
金色の髪の貴方に
もぎ取ってほしい


2.
Yea, would to God
I were among the roses
That lean to kiss you
as you float between,


While on the lowest branch
a bud uncloses,
A bud uncloses,
to touch you, queen.


もし私が野薔薇だったら
軽やかに舞う貴方に
身を傾け口づける
貴方に触れたいがため
開く下枝の芽


Nay, since you will not love,
would I were growing,
A happy daisy,
in the garden path;


That so your silver foot
might press me going,
Might press me going
even unto death.


貴方が愛してくれないのなら
庭の小道に咲くヒナギクとなって
銀色の靴を履いた貴方に
枯れるまで踏み潰されたい

日本語で歌える訳詞

『ロンドンデリーの歌』には、日本語で歌える訳詞がつけられている。


まずは、訳詞:近藤玲二による日本語の歌詞を次のとおり引用し、その内容を原曲と比較してみたい。


1.
北国の港の町は
リンゴの花咲く町
したわしの君が面影
胸に抱きさまよいぬ


くれないに燃ゆる愛を
葉かげに秘めて咲ける
けがれなき花こそ君の
かおりゆかしき姿


2.
さぎり降る港の町は
リンゴの花咲く町
いつの日も匂いやさしく
夢はぬれてただよいぬ


たそがれにほほすりよせて
リンゴはなにを語る
誓いせしあの夜の君の
かおりゆかしき姿


近藤玲二による訳詞では、「リンゴの花」という原曲との共通点が見られるが、それ以外は独自の内容で日本語歌詞がつけられているのが分かる。

津川主一による訳詞

『ロンドンデリーの歌』の訳詞としては、フォスター歌曲の訳詞で知られる津川主一(つがわ しゅいち)による次のような日本語歌詞が知られている。引用してご紹介したい。


1.
わが子よ いとしの汝(なれ)を
父君の形見とし
こころして愛(いつく)しみつ
きょうまで育て上げぬ


古き家を巣立ちして
今はた汝は何処(いずこ)
よわき母の影さえも
雄々しき汝には見えず


2.
はてしもなきかの路の
あなたに汝はゆきぬ
むなしき我が家見れば
亡き父君おもわる


足もとの草むらより
立つはさえずる雲雀(ひばり)
ああ われも強く立ちて
我が家の栄誉(ほまれ)を守らん


津川氏による日本語歌詞を見ると、『ロンドンデリーの歌』原曲の歌詞とはまったく関係のない内容である事がわかる。


おそらくこの日本語歌詞は、『ロンドンデリーの歌』に別の英語の歌詞がつけられた『ダニーボーイ Danny Boy』の内容を念頭においたものと推測される。

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人が病気になる原因としての免疫力低下

「隠居爺の世迷言」記事で、冒頭の「話の枕」部分は省略。
下の記事と直接の関係は無いが、さきほど、ふと「そう言えば手塚治虫の死因は何だったのだろう」という疑問が湧いてきて、それを私が知らないこと自体がおかしい気がした。私がもっとも敬愛するのが手塚治虫だったからだ。もしかしたら、今に至るまで死因が秘匿されているのではないか。あるいは、「過労による死亡」で、彼を酷使したマスコミ的には公表できなかったのか。昔から天才は早死にすることが多いが、それは過労から「不健康(体の不調)が通常営業」となるからではないだろうか。とすれば、下の記事につながる話である。

(以下引用)


 


" 日和見(ひよりみ)感染 " という言葉を聞かれたことがあるのではないかと思う。事典で意味を調べてみると「通常は病原性を発揮しない細菌、真菌、ウイルス、原虫といった微生物が、免疫力の低下した宿主に感染し発症すること。・・・抵抗力の弱まった宿主、あるいは乳幼児、老齢者に感染してさまざまな症状をもたらす。」(ブリタニカ国際大百科事典小項目事典)と書いてある。


 


 これがとっても大切な考え方で、これを本当に理解できれば、今回のコロナ騒動など、あるいはワクチン接種の問題などは立ち所に消える。それどころか、日々健康な生活を送るためにも大変に有用な考え方になる。

 しかし、特に2020年に新型コロナ騒動が持ち上がって以降というもの、アメリカも、WHOも、日本政府も、日本の医者たちも、マスメディアも、一斉に真っ赤な嘘をついて人々を騙すようになった。その破廉恥ぶりは、真実を理解している者にとっては空いた口が塞がらないものだ。

 そして、日本人ときたら、世界の中でもその嘘を見抜く力に特に乏しい民族であるようだ。これはもう如何ともしがたい。「あなたたちはなぜそんなに馬鹿なのか」と問うたところで、お馬鹿な人たちがその問いを理解することはなく、適切な答が返ってくることもない。

 まあ、そうはいってもねえ、こうして無駄な抵抗をしてまでも本当のことを書き続けるのは、意味がないと決まったものでもないと思っているせいだろう。時間はかかるかもしれないが、そのうちには本当ことを理解できる人が多くを占める日本になるかもしれない。

 さて、どこから説明したらいいだろうか。新型コロナでも、インフルエンザでも、あるいは、結核でも、赤痢でも、コレラでも、食中毒でも、その他どんな感染症でもいいのだけれども、流行していると騒がれる時でさえ、大体においては発病しない人の方が多い。あるいは発病したとしても、軽く体調不良を感じる程度で終わる人の方が多い。

 私ごとで恐縮だけれども、ワクチンは子供の頃に打ったBCG接種が最後であり、もう何十年もあらゆる種類のワクチンを打ったことがない。もちろんマスクはせず、アルコール消毒もしない。そんな私が、こんな田舎から東京に出向いて、駅地下の雑踏の中を歩き回ったり、混んだ電車に乗ったりしたけれど、だからといって医者に診てもらいたくなるような病気にはなっていない。これは一体どういうことだろうか。

 私の周りのコロナウイルスやインフルエンザウイルスは、私を避けているのだろうか。ウイルスがいちいち人を見て、感染するかしないかを判断しているはずがないのは誰にでも分かることだ。ということは、私の中にもコロナウイルスやインフルエンザウイルスがいくらでも入ってきているけれど、私の場合は騒ぐほどの病気にならずに終わっていることになる。なぜだろう。私は人一倍頑健なのだろうか。

 結核という病気をご存知のことと思う。上に挙げたBCGは結核用のワクチンになる。コロナ同様空気感染する病気であり、昔は死因第1位の重大な病気だった。コロナどころではない。おまけに、その当時は抗生物質が行き渡っておらず、満足な治療法がなかった。さらに、BCGというワクチンも、普及するようになったのは1951年以降のことになる。つまり、1950年以前の日本は、結核を防ぐことができず、発病しても治療法がないというお寒い状況だった。

 では、昔の人は次々と結核に感染して、次々と命を落としていったのだろうか。結核による死亡率が一番高かったのは1918年(大正7年)で人口10万人当たり257.1人だったという。(「人口動態統計からみた結核の100年(結核 分析 日本):人口動態統計からみた20世紀の結核対策:(東京都健康安全研究センター)

 ちなみに、現在のがんによる死亡率は、2022年で人口10万人当たり316.1人であり、かつての結核は大変な感染症であったけれども、がんまではひどくないと把握しておけばいいだろう。(現在の結核による死亡率は1.4人と激減した。)

 ここで興味深いことが一つある。1918年に死亡率がピークとなって以降、結核の死亡率は低くなりはじめ、1932年には179.4人まで下がったが、その後再び増加に転じ、1943年には235.3人にまで増えた。それ以降は減少の一途をたどり、1950年には146.4人、1955年には52.3人になっている。
 
 これは何を示しているのだろうか。一つ確実に言えることは、少なくとも1950年くらいまではワクチンや特効薬が結核を減らしたのではないということだ。ワクチンも特効薬もなかったのだから。ちなみに、現在海外では結核ワクチン(BCG)の接種を停止している国も多い。理由は簡単で、ワクチンを打ったから結核を防げるという確証が得られないからだ。さらに、ワクチンを停止した国で結核が猛威を振るっているという話も聞かない。
 
 一つヒントがあって、日本での結核が1932(昭和7年)年に底を打った後、1943年(昭和18年)にピークを迎えたことだ。これはおそらく、日本人の健康状態、栄養状態、衛生状態といったものが影響したのではないだろうか。結核の療養というと、田舎の空気の綺麗なところで、栄養のあるものを摂って安静にしているというイメージがあるが、実際にそれが効果を持っていた可能性はある。

 一方、再ピークの1943年といえば、大東亜戦争真っ盛りのときで、栄養状態も、衛生状態も、ストレスも、おおよそ文化的な水準から外れた余裕のない頃だった。そういう環境が結核を増やしたと考えることには無理がない。

 鋭い人はもうお分かりになったかと思うけれども、結核というかつてメジャーで死亡率の高かった感染症ですら、日和見感染だった可能性があることになる。つまり、ワクチンや薬がなくても、発病しない人は発病せず、死なない人は死なない。そして同じ条件下でも、発病する人は発病し、死ぬ人は死ぬ。

 そのことを説明できるのは、それぞれの人の健康状態であると考えていいように思う。病原体が体内に入るか否かはさしたる問題ではなく、大切なことは、体内に入ってきた病原体(結核の場合は結核菌)に打ち勝つ健康状態をその人が持っているかどうかであり、それが発病、あるいは死の分かれ道になる。

 新型コロナ騒動真っ盛りの時に、ワクチン未接種の私が、東京のど真ん中の雑踏をマスクなしで練り歩いても何事も起きないのもそれが理由であると考えていいだろう。私は体内にコロナウイルスが入ってきても、それで発病するほど不健康ではなかったということになる。

 同じ私であっても、疲れがたまっていたり、栄養が偏っているときには、あるいはこの先さらに老化して健康状態が不安定になったときには、現在発病しないコロナで熱を出すかもしれない。

 滑稽だったのは、あれだけ、まるで小姑であるかのように口うるさく感染対策の重要性を訴えていた医者のお膝元である病院において、新型コロナがしばしば集団発生したことだ。これが何を意味するかといえば、病院に入院しているような健康状態の悪い人たちには、どんなに神経質に防止対策を施したところで、発病を防ぐことが難しいことだ。コロナウイルスなどはどこにでも存在しているものであり、ウイルスを防ごうという発想がそもそも誤りである可能性が高い。

 日和見感染の代表例は、帯状疱疹だ。帯状疱疹を引き起こすウイルスは人間の体内に常時存在しているヘルペスウイルスであると考えられている。人間はいつも帯状疱疹ウイルスを体内に持っている。その体内に持っているヘルペスウイルスが、体力の落ちたときに芽を出すのが帯状疱疹になる。感染防止対策など無意味であり、ワクチンも無意味だ。大切なのは、いかにして体の健康状態を保つかであり、それが1番の方法になる。

 悪いことに、2021年から接種が続いてきた新型コロナ用ワクチンは、人の免疫状態を操作する毒劇物であり、体の免疫機能のバランスを壊す性質を持っている(免疫機能を弱体化させる)。だから、ワクチン接種が進むことで日本人の平均寿命が短くなってしまった。せっかく長年かけて育ててきた自分の免疫機能を、ワクチン一つでぶち壊しにしていると思えばよい。

 あらゆる感染症に対して、大切なことは自分の健康状態をいかに良好な状態に保ち、維持していくかということであり、体調の良い人であればあるほど、どんな病気にもかかりにくい。反対に、体調の不良な人はコロナばかりではなくあらゆる病気にかかりやすい。

 通常、現在の10代から60代くらいまでの人間は何もしなくても元気であることが多い。よって病気を
跳ね返すし、死ぬことも少ない。乳幼児や高齢者は本来的に体が弱く、健康状態が不安定であるために病気にかかりやすく死にやすい。ポイントは、いかに日頃から体調を良好に維持しておくかであり、それが健康を保つ最大の秘訣になる。いうまでもなくワクチンや薬の力で体調が良くなることは、原則としてはない。もっとも、これは日本で大半を占める悪徳医師の一番嫌う考え方になる。ワクチンや薬がドル箱だからだ。

 人間は必ず死ぬ。ただの一つも
例外はない。色々さまざまな死に方がある中で、老齢になって体が弱り、体調を良好に維持できなくなったときに、何かしらの病気に取りつかれてあの世に行くのが一番平和な死に方になる。それを天寿という。

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殺した人数と刑罰の相関関係www

人相学的に顔写真が興味深いので転載。
世間で言う「チー牛」顔だが、この顔で殺人を犯すというのは珍しい気がする。まあ、オタク顔とされている顔で、オタクは興味を持った分野への異常な没入と他の分野(社会常識など)への異常な無関心という視野の狭さが特性だろうから、一度、「人を殺すとどうなるか」という疑問を持ち、「それで一生刑務所に入り、一生働かずに済む」という結論を得たのなら、これはある種の「人生設計」であり、学校の優等生が東大や医学部を目指すのと同じではあるwww
わざわざ言う必要もないだろうが、馬鹿な人間のために言っておけば、私は「殺した人数と量刑の関係」という裁判所仕草を軽蔑しているのである。殺した相手によっては山上被告のように、殺人が英雄的行為になり、相手が赤ん坊や幼児なら、殺した相手がひとりでも殺人は鬼畜の行為である。何人殺すまでは死刑にならない、というこの被告の馬鹿な考えを産んだのが裁判の死刑量刑の慣習の愚劣さなのである。

(以下引用)

死刑制度が有効だと証明されたこの事件・・・・

 
1: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:48:52.51 ID:zybj/BBx0.net
小島被告「3人殺すと死刑なので、2人までと」 新幹線殺傷公判

昨年6月、東海道新幹線で乗客の男女3人が殺傷された事件で、殺人や殺人未遂の罪に問われた無職、小島一朗被告(23)の裁判員裁判の第3回公判が4日、横浜地裁小田原支部(佐脇有紀裁判長)で開かれた。被告人質問で小島被告は「無期懲役で(刑務所に)永遠に入っていたかった。無差別殺人が一番簡単だと思ったから選んだ」などと犯行の動機を語った。

 小島被告は、長野県内でホームレス生活をしていた昨年3月中旬から同下旬の間に、新幹線内で無差別殺人事件を起こすことを計画。「3人殺すと死刑になるので、2人までにしようと思った。1人しか殺せなかったら、あと何人かに重傷を負わせれば無期懲役になると思った」と話した。

(以下省略)

※全文、詳細はソース元で
https://www.sankei.com/article/20191204-PETZWQ3QCNIZBKTTQ7HATLKTTY/

no title

48: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 11:03:06.34 ID:7P9rMXtLa.net
>>1
なんj民みたいな顔してて草
2: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:49:24 ID:zybj/BBx0.net
被害者の数を抑えることに成功した模様
5: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:51:14 ID:1rrLksJ1p.net
顔が幼すぎやろ
こどおじか?
6: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:51:41.51 ID:/1nb/+Da0.net
死刑囚の再犯率0やぞ
7: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:03.79 ID:776wUh08a.net
二人でも死刑にできるんだよなあ
11: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:41.95 ID:1rrLksJ1p.net
>>7
そんなこともわからないアホにすら有効やったということやぞ
8: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:13.12 ID:ZnddJLeQa.net
2人でもアウトな時あるじゃん
9: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:29.50 ID:t2XWgFXLd.net
笑い抜きで本当に命救ってるじゃん
10: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:33.14 ID:RtSkMb7o0.net
3人に攻撃しとるやん
12: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:42 ID:kfxAPO3ja.net
こいつ言うてること全部嘘やん 夢は刑務所に入るとか
13: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 10:52:47 ID:hsZyAfGV0.net
3種チーズ牛丼面がムカつくから死刑で
56: 風吹けば名無し 2019/12/04(水) 11:05:09.60 ID:SpT05hJVd.net
こんなチーズ牛丼食ってそうな奴に殺されるなんて可哀

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