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内田樹という人物への評価

私は内田樹という人間に関しては、肯定と否定のふたつの見方をしている。
肯定的なのは

1:物の見方が(ユダヤ問題関係を別としたら)客観的で合理的(理系的)であり、(ユダヤ問題を別としたら)比較的党派性が少ない。

2:現代の「知識人」の中では、(ユダヤ人問題を除けば)妥当な意見を言うことが多い。

3:論述が(当人に言わせたら「官僚的作文」が)上手い。必要事項を満遍なく網羅し、そのひとつひとつに(当人がそれを信じているかどうかは別として)適切な説明と答えを書く。

で、否定的なのは、上記のカッコ内に入れた部分である。一言で言えば、「必要なら嘘をつく」人物で、それを隠すのが非常に上手い人間という印象だ。だが、頭が良く多識なので、有益な発言も多い。

下の文章については、「嘘(悪質な意図)がほとんど無い」内容だと思えるし、「他人の評価を気にしない」というのは、老年以降の私も同じで、「同じ陣営だ」という気もするので、転載する。

子供のころから他人の評価を気にしなかったというのは、少し嘘くさい。孔子が40(四十にして惑わず),あるいは70(心の欲するままに従えども矩を超えず)になって達した境地に、生まれながらにして達していたのかwww 
まあ、「嘘」ではなく、当人が本気でそう信じているのかもしれない。自分で自分を騙すのは人間に普遍の現象であり、科学者や哲学者も政治家も例外ではない。だからファシズムは容易に起こるのである。新興宗教信者も同じだ。


(以下引用)


ネットで発信するときは旧Twitterには「身辺雑記と愚痴」を、ブログにはある程度まとまった「演説」を書くことにしているのだが、どちらの媒体においても私は「炎上」ということを経験したことがない。
 時々知り合いから「先日の内田さんの発言が炎上してますよ」というお知らせを頂くのだけれど、私は気づかない。ネットに書き込まれた読者の反応を読まないからである。これはネット上に投稿するようになってからずっと変わらない。
「私の考え方に賛成」という人がいるのを知るはうれしい。でもそれを通じて私の考えが変わることはない。「内田の考え方に反対」という人も(たくさん)いる。ただ、その批判の多くは私に不快感や屈辱感を与える目的で書かれており、私の書き物の質を上げたいからではない。そんなものを読むために時間を割くほど人生は長くない。
 そう言うと驚かれる。「自分が他者からどう評価されているか興味がないんですか?」と訊かれる。「ありません」と答えるとさらに驚かれる。
 ほんとうにそうなのだ。子どもの頃からそうだった。中学生の頃から「変なやつ」と言われ、「そんなふざけた生き方をしていたら、世間が許さないぞ」と長じても叱られ続けた。でも、ずっと「そんな生き方」をしてきた。気が付けば74歳になっていた。今さら変えられない。
 他人の意見に興味がないのは、自分がどれくらい無知で、どれくらい偏見に満ちた人間かは私自身がよく知っているからである。私は知らないことを「知っている」とは言わないし、「私は正しい」とも言わない。語るのは「限定的な知しか持たない、性根の歪んだ個人の意見」である。だから「お前は限定的な知しか持たない、性根の歪んだ野郎だ」と言われても「はい」という以外に返答のしようがない。
 そもそも私は「論争」ということをしたことがない。いろいろな方から手厳しく批判されたけれど、反論しない。先方が正しいなら反論すべきでないし、先方がお門違いなら反論するに及ばない。正否を決めるのは当事者ではなく、読者たちである。そう思っているので「炎上」とは無縁なのである。(AERA、10月9日)

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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