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うちわたす遠方びとにもの申す

今朝の散歩の浮遊思考である。まあ、自分の思考を思い出すこと自体がボケ防止策のつもりだから、書く内容はどうでもいいのである。
最初に考えたのが、源氏物語の一節の、その中のある発言である。なぜそれを考えたのか、きっかけは分からない。(今思い出したが、散歩の最初に通りかかった家の庭に白い、匂いの良い花が満開に咲いていたのだった。)とにかく、頭に浮かんだわけだ。ただし、私は源氏物語は原文はもとより現代語訳も読んだことがない。覚えているのは、たぶん田辺聖子の「文車(ふぐるま)日記」からだと思う。田辺聖子の本も、まともに読んだのはこれだけだが、これは素晴らしい本で、すべての日本人が古典文学、特に女流古典文学への案内役として読むべき本で、読めば一生の精神的財産になる。
で、その中に源氏物語のある場面が紹介されていて、その中の登場人物(たぶん、光源氏か)が、夜中にある女性の家を訪ね、どこかの家の庭に咲いている白い花に気を惹かれて、その花の傍にいた人間にこう聞くのである。私の記憶のままに書くので、間違いがある可能性が高いが、こういう言葉だ。
「うちわたす遠方(をちかた)びとにもの申す それ、そのそこに咲けるは何の花ぞも」
何ということもない台詞だが、私がこれを読んだ時から今まで、そのだいたいを覚えているほど、この言葉が記憶に残っている。まあ、こういうのが精神的財産だ、と私は言うのである。今でも、闇の中に咲く白い花を見たら、たぶんこの言葉が胸に浮かぶだろう。(実際、そうだったことに後で気づいたのだが。)
「それそのそこに」という言葉のリズムが素晴らしい。しかも、心理的に自然である。最初は「それは」と言おうとして、次に「その花は」と言おうかと迷って、さらに「そこに咲いている花は」にしようかと迷い、一瞬のうちに「それそのそこに咲ける(花)は」となったのだろうと読む人に想像させる。こういう描写を無駄と思うなら、小説など読む必要はない。まあ、三島由紀夫が言うように、小説を読むとは「文章を(味わい)読む」ことなのだが、今の人は大衆小説しか読まないだろうし、大衆小説にまでいちいち文章を味わいながら読む人は多くはないだろう。

その後、暖かいので山道ではなく海岸の道を散歩コースに選び、視野の上3分の2は美しい朝空、下3分の1は鏡のような朝凪の海という素晴らしい景色を見ながら散歩し、その歩いている間に「朝日のように爽やかに」の曲が頭の中をスキャットで流れ、その歌詞のことなど考えたのだが、それは前にも書いた気がするので、ここには書かない。

*厳密に言えば、散歩コースを海岸道路に決めたのは最初からだったので、「白い花」の浮遊思考の後ではない。で、その思考の分析をしているのは散歩から帰って、ゴミ出しをし、庭猫に餌をやってからである。これもついでに言えば、私は「うちわたす」をどう現代語訳するのか分からない。私の古典への教養はその程度だし、書いていることのたぶん半分は妄想と誤解である。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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