市民図書館から借りて来た、リンドグレーンの児童文学「ラスムスくん英雄になる」を、気の向いた時に間断的に読んでいるが、リンドグレーンというのは、少し前の流行語で言えば「根が暗い」作家だな、という気がする。つまり、脳天気な子供の世界の背後に、常に、どこか暗い大人の世界がチラチラしている感じが私にはある。たとえば、「名探偵カッレくん」などだと、子供の探偵ごっこの世界に実際に現実の殺人事件が起こるのである。(子供のころ読んだ記憶で書いているので、本当にそういう内容だったか確かではないが。)
で、ここで論じたいのは、昨日書いた「エランヴィタール」と「フランヴィタール」の話である。その定義を私なりにすれば、エランヴィタールとは「無秩序な生命力」、フランヴィタールとは「秩序ある生命力」で、後者は、「生命力」の本質とは異なるもので、前者だけが本当の生命力だろう、と私は思う。鋳型にはめられた生命力というのは本質的生命力ではなく、外的な力の産物だろう。だが、その概念を使うなら、人間の人生とは、(その良し悪しは別として)エランヴィタールがフランヴィタール化される過程である、と言えるのではないか。
たとえば、性欲の発現の仕方は原始的な無秩序性から、倫理や法律や習慣(風習・制度)という社会的強制によって「許容される性発現」と「許容されない性発現」に分けられていく。これは女性を「所有物」としていた男社会の産物で、女性は概してこの分化に否定的な感情を持っている、つまり性的アナーキズムに惹かれる傾向があると感じる。女性の自然性と言ってもいい。だが、性的アナーキズムの下では、性交(強姦含む)はあっても恋愛や結婚は無い、と私は考えているので、恋愛や結婚という人工的文化を完全に否定していいのかどうか、非常に疑問視するわけだ。
これが児童文学とどう関係するかと言えば、児童文学がなぜ「腕白小僧」を主人公にするか、という問題を私は論じたいわけだ。
腕白小僧の言動は周囲の迷惑だが、外部の観察者や観客の目からは「面白い」から彼らを主人公にする、というのがその理由だろう。では、彼らはなぜ周囲に迷惑な行動をするのか。それが「エランヴィタール」の発現だからである。彼らは社会について無知だから、やっていい行動といけない行動の区別がつかない。だから、結局は、活発な子供は傍迷惑な腕白小僧の行動をし、おとなしい子供はやりたいことをじっと我慢する。どちらが「話として面白い」かは明白だろう。
子供の頭の中の知識は、「理解されず、知っているというだけの、ゴミのような、無秩序な知識」と「整理され、理解された有益な知識」に分類される。前者でも、その知識が冗談のネタにはなるから、無益だとばかりは限らないが、人生の指針や参考にはならないわけだ。学校で習う知識の大半が、結局はそういうもので終わることは誰でも認めるだろう。まあ、進学に有益なだけだ。
で、知識についても、「無秩序から秩序へ」という進行が頭の中で起こるのが知的進化だろう、というのが私の説だ。つまり、エランヴィタールからフランヴィタールへというわけである。
だが、どんな大人の中にも、子供のころの「無垢な(白紙の)状態で」世界を見ていた、あのころへの懐かしさというものがあり、それが子供期をある種の「黄金時代」と思わせるのだろう。
ついでに書いておく。私は2週間に1回、市民図書館から10冊の本を借りてくるが、そのほとんどは最初だけ読んで、読む価値がないと判断したら、それ以上読まないで返す。で、借りる本の半分くらいは児童書である。児童書を「大人の目」で読むと非常に面白いのである。もちろん、その大半は屑であるが、中に非常に優れたものがある。逆に、高名な作家の「大人向け文学」でも、私にはまったく興味を惹かないものもゴマンとある。むしろ、興味を惹くもののほうが希少である。それ以前に、「読むのが面倒くさい」ものが多い。(今回は気まぐれで大江健三郎の「宙返り」という小説を借りてきたが、彼がどういう意図でこれを書いたのか、さっぱり分からず、興味も惹かれないので途中放棄した。登場人物の女性が、奇妙な「事故」で処女喪失する話が冒頭にあるのだが、そのエピソードがどういう「重要な」意味を持って、わざわざ話の冒頭に書かれたのか、理解する気にもなれない。)大衆小説は読みやすさはあるが、たいていは「読むのが時間の無駄」だったということが多い。人生の残り時間が少ない年齢だと、「読むのが面白い」や「読んで有益だった」ということが大事になるのである。
たとえば、現代のアメリカインディアンの少年が、白人の高校に転校する話を書いた「はみだしインディアンの物語」という小説は、現代のインディアンの置かれた状況(主人公の家族や知人が無意味にゴロゴロ殺される。あるいは他人の過失で事故死する。)を舞台に、主人公が悪戦苦闘する様がユーモアを持って書かれて、面白い。まあ、そのユーモアの質はかなりブラックなので、読む人に不快感を与える可能性が高いが、「読んで有益な」作品であるのは間違いない。そういう本が児童文学の書棚(YA、つまりヤングアダルト本だが)にあったりするのである。あるいは、R・L・スチーブンソンの「誘拐されて」などが児童文学に分類されていたりする。これは作者が「宝島」の作者だからという偏見からだろう。実際は、彼の時代のスコットランドの置かれた政治状況を舞台にした高度な「大人向け」小説だが、子供でも読める娯楽性の高い冒険小説だ。それが大人の目に触れない場所にあるわけだ。
で、ここで論じたいのは、昨日書いた「エランヴィタール」と「フランヴィタール」の話である。その定義を私なりにすれば、エランヴィタールとは「無秩序な生命力」、フランヴィタールとは「秩序ある生命力」で、後者は、「生命力」の本質とは異なるもので、前者だけが本当の生命力だろう、と私は思う。鋳型にはめられた生命力というのは本質的生命力ではなく、外的な力の産物だろう。だが、その概念を使うなら、人間の人生とは、(その良し悪しは別として)エランヴィタールがフランヴィタール化される過程である、と言えるのではないか。
たとえば、性欲の発現の仕方は原始的な無秩序性から、倫理や法律や習慣(風習・制度)という社会的強制によって「許容される性発現」と「許容されない性発現」に分けられていく。これは女性を「所有物」としていた男社会の産物で、女性は概してこの分化に否定的な感情を持っている、つまり性的アナーキズムに惹かれる傾向があると感じる。女性の自然性と言ってもいい。だが、性的アナーキズムの下では、性交(強姦含む)はあっても恋愛や結婚は無い、と私は考えているので、恋愛や結婚という人工的文化を完全に否定していいのかどうか、非常に疑問視するわけだ。
これが児童文学とどう関係するかと言えば、児童文学がなぜ「腕白小僧」を主人公にするか、という問題を私は論じたいわけだ。
腕白小僧の言動は周囲の迷惑だが、外部の観察者や観客の目からは「面白い」から彼らを主人公にする、というのがその理由だろう。では、彼らはなぜ周囲に迷惑な行動をするのか。それが「エランヴィタール」の発現だからである。彼らは社会について無知だから、やっていい行動といけない行動の区別がつかない。だから、結局は、活発な子供は傍迷惑な腕白小僧の行動をし、おとなしい子供はやりたいことをじっと我慢する。どちらが「話として面白い」かは明白だろう。
子供の頭の中の知識は、「理解されず、知っているというだけの、ゴミのような、無秩序な知識」と「整理され、理解された有益な知識」に分類される。前者でも、その知識が冗談のネタにはなるから、無益だとばかりは限らないが、人生の指針や参考にはならないわけだ。学校で習う知識の大半が、結局はそういうもので終わることは誰でも認めるだろう。まあ、進学に有益なだけだ。
で、知識についても、「無秩序から秩序へ」という進行が頭の中で起こるのが知的進化だろう、というのが私の説だ。つまり、エランヴィタールからフランヴィタールへというわけである。
だが、どんな大人の中にも、子供のころの「無垢な(白紙の)状態で」世界を見ていた、あのころへの懐かしさというものがあり、それが子供期をある種の「黄金時代」と思わせるのだろう。
ついでに書いておく。私は2週間に1回、市民図書館から10冊の本を借りてくるが、そのほとんどは最初だけ読んで、読む価値がないと判断したら、それ以上読まないで返す。で、借りる本の半分くらいは児童書である。児童書を「大人の目」で読むと非常に面白いのである。もちろん、その大半は屑であるが、中に非常に優れたものがある。逆に、高名な作家の「大人向け文学」でも、私にはまったく興味を惹かないものもゴマンとある。むしろ、興味を惹くもののほうが希少である。それ以前に、「読むのが面倒くさい」ものが多い。(今回は気まぐれで大江健三郎の「宙返り」という小説を借りてきたが、彼がどういう意図でこれを書いたのか、さっぱり分からず、興味も惹かれないので途中放棄した。登場人物の女性が、奇妙な「事故」で処女喪失する話が冒頭にあるのだが、そのエピソードがどういう「重要な」意味を持って、わざわざ話の冒頭に書かれたのか、理解する気にもなれない。)大衆小説は読みやすさはあるが、たいていは「読むのが時間の無駄」だったということが多い。人生の残り時間が少ない年齢だと、「読むのが面白い」や「読んで有益だった」ということが大事になるのである。
たとえば、現代のアメリカインディアンの少年が、白人の高校に転校する話を書いた「はみだしインディアンの物語」という小説は、現代のインディアンの置かれた状況(主人公の家族や知人が無意味にゴロゴロ殺される。あるいは他人の過失で事故死する。)を舞台に、主人公が悪戦苦闘する様がユーモアを持って書かれて、面白い。まあ、そのユーモアの質はかなりブラックなので、読む人に不快感を与える可能性が高いが、「読んで有益な」作品であるのは間違いない。そういう本が児童文学の書棚(YA、つまりヤングアダルト本だが)にあったりするのである。あるいは、R・L・スチーブンソンの「誘拐されて」などが児童文学に分類されていたりする。これは作者が「宝島」の作者だからという偏見からだろう。実際は、彼の時代のスコットランドの置かれた政治状況を舞台にした高度な「大人向け」小説だが、子供でも読める娯楽性の高い冒険小説だ。それが大人の目に触れない場所にあるわけだ。
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