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戦争が始まる前に国民はすべて白痴化する

「大摩邇」から久しぶりに生チョコぽん酢さんの記事を引用する。
引用は記事の末尾で、そこに言及されている伊丹万作の不朽の文章(「戦争責任者の問題」)を広く知らせたいがための引用だ。その文章そのものも引用する予定である。これは中学校社会科教科書かその補助教材、あるいは国語教科書に全文を載せるべき文章だと思う。少なくとも、その存在を言及しておくべきだろう。

(引用1)

この数年間で様々なものが見えてきましたが、今になって分かるのが、

要職にいる認知症のおじいちゃん達がパニックに陥ったことで世の中めちゃくちゃにされただけだったわけです、最初は。

でもふたを開けてみれば、気づいた時には実は世の中殆どの人が同類になっていた。

こんな世界で私は、この先も生きていくことができるのか、ふと疑問に感じてしまいます。

マジで、夢も希望もない馬鹿ばかりの世界なのです。

ちなみに私は今、見下すような表現を使いましたが、私が頭がいいみたいなことではないのですね、むしろ私は元々お馬鹿な側です。

でもね、頭が良いとか悪いか、良い人間とか悪い人間という高次元の話ではなく、もっと低次元の根本的な話なのですね。

それを馬鹿と表現する以外に、どんな表現をすればいいのかが馬鹿な私には分かりません。

つまり馬鹿な私では表現しがたい程の次元の低さなのです。

伝わりますかね・・・

私の想像ですが、恐らくこういう人間を辞めた人々が増えると、戦争が起こるのだろうなと。
 
伊丹万作さんの手記を読んでみると、なんとなく確信に近いものが湧いてきます。

そりゃそうですよ、だって当たり前のことが分からなくなっているのですもの。

当たり前の事が当たり前に分かる人間なら、人殺しが英雄になる狂った世界になるハズがないのです。

そして残念ながら、今も昔もこういう時代では、馬鹿達によって普通の人間が抑圧され淘汰されてしまうものなのでしょう。

つまり歴史的に見る戦争と、現在の状況を見比べてみると、そろそろなのかなぁと、思わざるを得ません。

あと2年も経てば大規模な戦争に発展してもおかしくない、みたいな話なのです。
 
こんな時に図ったように自然災害のリスクが過去最高に高まっていますよね。
 
地震、噴火(富士山だけではありません、静岡の辺りは危ないです)、細菌感染症の増加、水害etc、
 
こんな時に戦争や災害が起これば、どんな事態が待っているのでしょうか?

私にはもう、夢も希望も何も感じられない世界なのです。
 
この先も付き合わされることを考えると、疲れますね。


(引用2)

戦争責任者の問題

伊丹万作




 最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。
 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。
 いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。そして、もしも諸君がこの見解の正しさを承認するならば、同じ戦争の間、ほとんど全部の国民が相互にだまし合わなければ生きて行けなかつた事実をも、等しく承認されるにちがいないと思う。
 しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。
 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。
 しかし、このような考え方は戦争中にだました人間の範囲を思考の中で実際の必要以上に拡張しすぎているのではないかという疑いが起る。
 ここで私はその疑いを解くかわりに、だました人間の範囲を最少限にみつもつたらどういう結果になるかを考えてみたい。
 もちろんその場合は、ごく少数の人間のために、非常に多数の人間がだまされていたことになるわけであるが、はたしてそれによつてだまされたものの責任が解消するであろうか。
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 もちろん、純理念としては知の問題は知の問題として終始すべきであつて、そこに善悪の観念の交叉する余地はないはずである。しかし、有機的生活体としての人間の行動を純理的に分析することはまず不可能といつてよい。すなわち知の問題も人間の行動と結びついた瞬間に意志や感情をコンプレックスした複雑なものと変化する。これが「不明」という知的現象に善悪の批判が介在し得るゆえんである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。
 こうして私のような性質のものは、まず自己反省の方面に思考を奪われることが急であつて、だました側の責任を追求する仕事には必ずしも同様の興味が持てないのである。
 こんなことをいえば、それは興味の問題ではないといつてしかられるかもしれない。たしかにそれは興味の問題ではなく、もつとさし迫つた、いやおうなしの政治問題にちがいない。
 しかし、それが政治問題であるということは、それ自体がすでにある限界を示すことである。
 すなわち、政治問題であるかぎりにおいて、この戦争責任の問題も、便宜的な一定の規準を定め、その線を境として一応形式的な区別をして行くより方法があるまい。つまり、問題の性質上、その内容的かつ徹底的なる解決は、あらかじめ最初から断念され、放棄されているのであつて、残されているのは一種の便宜主義による解決だけだと思う。便宜主義による解決の最も典型的な行き方は、人間による判断を一切省略して、その人の地位や職能によつて判断する方法である。現在までに発表された数多くの公職追放者のほとんど全部はこの方法によつて決定された。もちろん、そのよいわるいは問題ではない。ばかりでなく、あるいはこれが唯一の実際的方法かもしれない。
 しかし、それなら映画の場合もこれと同様に取り扱つたらいいではないか。しかもこの場合は、いじめたものといじめられたものの区別は実にはつきりしているのである。
 いうまでもなく、いじめたものは監督官庁であり、いじめられたものは業者である。これ以上に明白なるいかなる規準も存在しないと私は考える。
 しかるに、一部の人の主張するがごとく、業者の間からも、むりに戦争責任者を創作してお目にかけなければならぬとなると、その規準の置き方、そして、いつたいだれが裁くかの問題、いずれもとうてい私にはわからないことばかりである。
 たとえば、自分の場合を例にとると、私は戦争に関係のある作品を一本も書いていない。けれどもそれは必ずしも私が確固たる反戦の信念を持ちつづけたためではなく、たまたま病身のため、そのような題材をつかむ機会に恵まれなかつたり、その他諸種の偶然的なまわり合せの結果にすぎない。
 もちろん、私は本質的には熱心なる平和主義者である。しかし、そんなことがいまさら何の弁明になろう。戦争が始まつてからのちの私は、ただ自国の勝つこと以外は何も望まなかつた。そのためには何事でもしたいと思つた。国が敗れることは同時に自分も自分の家族も死に絶えることだとかたく思いこんでいた。親友たちも、親戚も、隣人も、そして多くの貧しい同胞たちもすべて一緒に死ぬることだと信じていた。この馬鹿正直をわらう人はわらうがいい。
 このような私が、ただ偶然のなりゆきから一本の戦争映画も作らなかつたというだけの理由で、どうして人を裁く側にまわる権利があろう。
 では、結局、だれがこの仕事をやればいいのか。それも私にはわからない。ただ一ついえることは、自分こそ、それに適当した人間だと思う人が出て行つてやるより仕方があるまいということだけである。
 では、このような考え方をしている私が、なぜ戦犯者を追放する運動に名まえを連ねているのか。
 私はそれを説明するために、まず順序として、私と自由映画人集団との関係を明らかにする必要を感じる。
 昨年の十二月二十八日に私は一通の手紙を受け取つた。それは自由映画人集団発起人の某氏から同連盟への加盟を勧誘するため、送られたものであるが、その文面に現われたかぎりでは、同連盟の目的は「文化運動」という漠然たる言葉で説明されていた以外、具体的な記述はほとんど何一つなされていなかつた。
 そこで私はこれに対してほぼ次のような意味の返事を出したのである。
「現在の自分の心境としては、単なる文化運動というものにはあまり興味が持てない。また来信の範囲では文化運動の内容が具体的にわからないので、それがわかるまでは積極的に賛成の意を表することができない。しかし、便宜上、小生の名まえを使うことが何かの役に立てば、それは使つてもいいが、ただしこの場合は小生の参加は形式的のものにすぎない。」
 つまり、小生と集団との関係というのは、以上の手紙の、応酬にすぎないのであるが、右の文面において一見だれの目にも明らかなことは、小生が集団に対して、自分の名まえの使用を承認していることである。つまり、そのかぎりにおいては集団はいささかもまちがつたことをやつていないのである。もしも、どちらかに落度があつたとすれば、それは私のほうにあつたというほかはあるまい。
 しからば私のほうには全然言い分を申し述べる余地がないかというと、必ずしもそうとのみはいえないのである。なぜならば、私が名まえの使用を容認したことは、某氏の手紙の示唆によつて集団が単なる文化事業団体にすぎないという予備知識を前提としているからである。この団体の仕事が、現在知られているような、尖鋭な、政治的実際運動であることが、最初から明らかにされていたら、いくらのんきな私でも、あんなに放漫に名まえの使用を許しはしなかつたと思うのである。
 なお、私としていま一つの不満は、このような実際運動の賛否について、事前に何らの諒解を求められなかつたということである。
 しかし、これも今となつては騒ぐほうがやぼであるかもしれない。最初のボタンをかけちがえたら最後のボタンまで狂うのはやむを得ないことだからである。
 要するに、このことは私にとつて一つの有益な教訓であつた。元来私は一個の芸術家としてはいかなる団体にも所属しないことを理想としているものである。(生活を維持するための所属や、生活権擁護のための組合は別である)。
 それが自分の意志の弱さから、つい、うつかり禁制を破つてはいつも後悔する羽目に陥つている。今度のこともそのくり返しの一つにすぎないわけであるが、しかし、おかげで私はこれをくり返しの最後にしたいという決意を、やつと持つことができたのである。
 最近、私は次のような手紙を連盟の某氏にあてて差し出したことを付記しておく。
「前略、小生は先般自由映画人集団加入の御勧誘を受けた際、形式的には小生の名前を御利用になることを承諾いたしました。しかし、それは、御勧誘の書面に自由映画人連盟の目的が単なる文化運動とのみしるされてあつたからであつて、昨今うけたまわるような尖鋭な実際運動であることがわかつていたら、また別答のしかたがあつたと思います。
 ことに戦犯人の指摘、追放というような具体的な問題になりますと、たとえ団体の立場がいかにあろうとも、個人々々の思考と判断の余地は、別に認められなければなるまいと思います。
 そして小生は自分独自の心境と見解を持つものであり、他からこれをおかされることをきらうものであります。したがつて、このような問題についてあらかじめ小生の意志を確かめることなく名まえを御使用になつたことを大変遺憾に存ずるのであります。
 しかし、集団の仕事がこの種のものとすれば、このような問題は今後においても続出するでありましようし、その都度、いちいち正確に連絡をとつて意志を疎通するということはとうてい望み得ないことが明らかですから、この際、あらためて集団から小生の名前を除いてくださることをお願いいたしたいのです。
 なにぶんにも小生は、ほとんど日夜静臥中の病人であり、第一線的な運動に名前を連ねること自体がすでにこつけいなことなのです。また、療養の目的からも遠いことなのです。
 では、除名の件はたしかにお願い申しました。草々頓首」(四月二十八日)
(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)

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「努力」とは奴隷階級の美徳かwww

まあ、単純にSNSの普及で、社会は最初から階級が決まっているという真実を多くの人が知ってしまったからだろう。www

(一例)




(以下引用)



       
       
       
       
       
       
7e60c59f8eca3706b03e14731f44219f-e1469068569611 (1)
1: ななしさん@発達中 ID:86soGESv0
なぜ?
    2: ななしさん@発達中 ID:0jSiNvLS0
    どうにもならんことが多いことがバレたから
    13: ななしさん@発達中 ID:YS0aa9yQ0
    親ガチャが全てということがバレたから
    6: ななしさん@発達中 ID:EuNsAtCz0
    努力するのは当たり前として歴然とした差があるのよ
    24: ななしさん@発達中 ID:2sKhL9CV0
    SNSで自分よりも"上"が見れるようになったのアカンわね
    しかも有名人や政治家もおるから青天井の"上"や
    31: ななしさん@発達中 ID:ydx+vt2n0
    >>24
    しかも上は自己顕示欲にとらわれて凡人労働者たちをバ○ですって真実を言ってしまったからね
    ワイみたいなバ○はゲームに参加するのすら嫌になったわけです
    14: ななしさん@発達中 ID:0jSiNvLS0
    5ちゃんも10年くらい前までは努力厨で溢れてた
    5: ななしさん@発達中 ID:bjmDb8A00
    平成の頃から嫌いだったぞ
    3: ななしさん@発達中 ID:XDbV4gZF0
    単純に国民の思想が左に傾いてきてるんや
    9: ななしさん@発達中 ID:oxCcG5e60
    嫌な努力はしなくてもいいんや
    夢中になれることがいつか君をすごい奴にするんやで
    40: ななしさん@発達中 ID:pdFa3LbW0
    >>9
    そう言って夢中になれるもの見つけるのに何十年経ったの?
    19: ななしさん@発達中 ID:1SZJhLIQ0
    個人的には努力は否定できないけど努力努力努力みたいなのは嫌い
    努力信仰者みたいな生存者バイアスバリバリかかった言葉は論理的に見えない
    経済学とか社会学を知らずに努力してるんだから格差は当たり前とか言ってそう
    26: ななしさん@発達中 ID:mlahK7SB0
    努力は嘘つかないとか体制側が広めた嘘だから
    25: ななしさん@発達中 ID:6i6uFGuB0
    中国父さんの若者が社会の本質は親ガチャやルッキズムで努力は無駄と寝そべり族になったのは流石やわ
    韓国も競争が激しくてニートが過去最多やっけ
    27: ななしさん@発達中 ID:q15TChyl0
    手軽にネットと繋がれることで「上」が沢山居ることが可視化されたから
    努力しても追いつけない人達や努力しなくても自分より恵まれてる人がいっぱい見えてしまう
    7: ななしさん@発達中 ID:cpzRWnOc0
    努力信仰が努力の価値を毀損する事もあるんや
    37: ななしさん@発達中 ID:OszX6sjA0
    努力してまで手に入れる価値のあるものが無くなってしまった
    38: ななしさん@発達中 ID:IrT95jDkd
    >>37
    今の日本ってなんかもう別物だよな

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    欧州の王族とカトリック

    「神戸だいすき」パリオリンピックについての記事から、2か所を転載。
    私の言いたいこともこれに尽きる。

    なお、私は、日本の天皇と欧州の王族の歴史的・社会的意味はまったく違うという考えである。それについては前に何度か述べたと思う。

    ただし、明治から敗戦までの天皇制(明治天皇制・帝国主義的天皇制)は日本本来の天皇の在り方とは異なる、まさに欧州的王族絶対主義思想にカトリック的な「神の利用」を加えた複合体だった。
    ただし、それによって江戸幕府の欠陥(主として身分制度による)の大部分が是正されてもいる。だから日本は急激な近代化が可能になったのだ。

    国民全体の福祉(生活向上)の面から見て、明治維新全否定論は愚論の極みである。

    (以下引用)

    あれはね、市民の祭典になっていたのよ。何世紀も自分たちを押しつぶして、窓にまで税金をかけた王族、普通の生活を拘束しまくったキリスト教。

    反キリストって!ローマが、本物のキリスト教を曲げまくったのに、それに反対するのは悪魔なの?


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    海流の変化と気候変動

    「大摩邇」所載の岡氏の記事の一部である。
    例によって私の愚説を述べれば、地球の海流の状態変化は、地球の回転軸(地軸)の傾きが変化した結果である。地軸の傾きが変化したら、地表にある海流も影響を受けるのは当然だろう。
    そして、海流に変化が生じたら、それは地表の気候を変化させるという、当たり前の話である。これも毎度言うが、二酸化炭素など、気候変動と何の関係もない。全校生徒の集まった体育館、いや、運動場で誰かが屁をひったら、その場の全員が臭いを感じるか?




    (以下引用)

    海流の問題

    私はずいぶん以前から「地球の海流の消失傾向」ということに興味を持っていました。14年前の「海の終焉: すべての海流が死につつある」という記事が最初ですかね。


    その後、14年間、地球の海流は死んではいないですが、弱体化はし続けていて、2015年には、「メキシコ湾流が減速している」ことが、研究で明らかになりました。


    気候変動研究は、メキシコ湾流の減速を明らかにした


    メキシコ湾流は、地球上で最も重要な熱輸送システムのひとつだ。メキシコ湾流は、効率的に海流を通して北半球に赤道から熱をもたらす。


    しかし、このメキシコ湾流が減速してきていることが最近の研究で示された。


    このことは興味深い。なぜなら、世界の多くが温暖化している中で、世界の一部の地域は寒冷化に向かうことが予測されるからだ。


    ペンシルベニア州立大学の名誉教授であり、気象学が専攻のマイケル・マン氏は以下のように述べる。


    「現在の一般的な気候モデルは、私たちが現在直面している変化を過小評価しています。その理由は、大西洋の熱循環が安定しているためかもしれないですし、あるいは、気候学者たちが、グリーンランドの氷床の融解を正しく見積もっていないか、またはその両方の理由により、過小評価されているのだと思われます」


    Pioneer News 2015.03.25



    Hadal Environmental Science/Education Program


    2015年のこちらの記事に全文の翻訳があります。この 2015年ころから現在にいたるまで続く、ややカオスな気象や天候も、このメキシコ湾流の減速や、あるいは、海流は地球海洋上ですべてつながっていますので、「地球規模の海流の異常」と結びついている可能性も高いです。


    つまり、気候変動の原因のひとつには、この海流の異常や海流の変化というものが関係していると思います。あくまでひとつですが。







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    天皇制の考察

    胸中に成案があるわけではないが、「天皇制とは何か」について考えてみたい。政治学者も、この問題を真剣に考察した人は少ないのではないか。まあ、昔の「神皇正統記」くらいしか思い浮かばないが、あれも多分、南北朝のどちらが正統か、という問題を論じているだけなのではないか、と推測する。
    で、私の腹案としては

    1:天皇とは権力ではなく権威である。
    2:権力でないからこそ、異常な永続性があった。
    3:天皇とは平和の象徴である。

    という3点が、今思い浮かんだものである。特に2は、かなり確信がある。
    1に関しては、「天皇そのものが『錦の御旗』である」と言えば、分かりやすいかと思う。つまり、権力の正当性を保証するのが、「天皇がこちら側に付くこと」だったわけだ。

    権力そのものは武力によってしか保証されないが、それが逆に権力の不安定さや、永続性の無さの理由でもあった。
    古代中国には無数の政権や王朝が成立しては滅んでいったが、それは彼らがただ「権力的存在」でしかなく、その永続性を保証する「権威」の後ろ盾が無かったからだ、というのが私の仮説である。武力で打ち立てられ、武力で維持されてきた権力は、それより強大な武力的存在が出てきた時、必ず打倒され、滅びるのである。
    そして、中国には権力を背後で支える「権威」が無かったから、たとえば黄巾の乱や太平天国の乱など、新興宗教が突然に力を持ち、政府を揺るがしたわけだ。道教も仏教も、それらの新興宗教を阻止する力にはなれなかった。いや、道教など、新興宗教に利用されたのである。
    つまり、宗教を土台にした「権威」は、中世西洋のカトリックくらいのレベルでないと、社会秩序維持の基盤にはなれないのである。で、それは「唯一神」という狂信が疑われるようになると、力を失った。現在の西洋の無道徳さは、その宗教心の崩壊が原因である。

    日本の「天皇制」というか、天皇の存在は、宗教ではないのに、動揺する人心をひとつにまとめる不思議な力があった。明治以後の「国家神道」は、宗教でもない神道を宗教化し、天皇を神格化するという異常なやり方で近代国家形成の土台とし、それは国力増大の大きな力になったが、それが第二次大戦での破滅の原因にもなったわけだ。
    それは「天皇という権威」を「権力と一体化する」歴史的失敗だった、というのが私の説である。(現在の「象徴天皇制」こそが、「権威」としての天皇制のもっとも純粋な形だろう。天皇は、「ただ存在するだけでいい」のである。それが存在することで、人の心の奥底に安心感が生まれ、日本の歴史や伝統や日本人への誇りと信頼が生じ、日本という国が安定するのだ。それが「天皇は日本の象徴である」ということの意味だ。)

    3についての考察は宿題として、「権力」と「権威」の違いを簡単に言っておく。
    権力とは文字通り、力である。それは「武力」や「資力」を土台とする。現代世界では資力こそが政治や社会を動かす権力なのである。そして、天皇には資力も武力もないのは明白だろう。天皇家の資力など、雀の涙程度のものとしか私には思えない。
    だが、大富豪の資力も天皇の前では無力である。それが1000年以上もの歴史の上に成立する「権威」というものだ。
    武力は、簡単に天皇を殺せるだろう。だが、それをやる時、その権力はこの日本で存続する力を失うと思う。だから、信長も秀吉も家康も天皇制に手を触れなかったのである。


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    地球の傾きの変化と気候変動

    「大摩邇」から転載。
    日本など、部分的な気象だけを見ていると分からないことが、視野を大きくすると見えてくる。
    明らかに、中国西部の寒冷は、そこが冷帯化していることを示しているかと思う。そして、日本の場合(酷暑に関して)は温帯が亜熱帯化しつつあるのだろう。つまり、地球の自転の回転軸の傾きの変化で、気候区分に変化が生じているのである。これまでの、赤道を中心とした気候区分(地軸を垂直にして気候帯をその真横にして決めた気候区分)は、かなりズレてくるわけだ。将来はシベリアまで一部温帯化し、農業が発展するのではないか。欧州はかなり寒冷化すると思う。つまり、衰退する。

    (以下引用)

    中国甘粛省で突然の夏の大雪

    BrainDead Worldさんのサイトより
    https://nofia.net/?p=21294
    <転載開始>

    東アジアで 7月の雪は珍しいですが、気温分布を見てみますと、日本はたいそう暑いですけれど、中国のかなりの部分が平年より極度に気温が低いようです。


    2024年7月7日の平年との気温の差異

    tropicaltidbits.com

    甘粛省張掖市の突然の大雪で苦情が噴出

    ntdtv.com 2024/07/04


    肃张掖夏日突降大雪 网民



    中国本土では異常気象がますます頻繁になっている。暑い夏の日、甘粛省張掖市に突然大雪が降った。 Weiboネットユーザーたちは「深刻な問題があるに違いない」とコメントした。


    7月4日は旧暦 5月29日で、あと 2日で旧暦 6月になる。その日ネット上に投稿された動画には、張掖山脈に突然の大雪が降った様子が映っていた。


    動画でも見られるように、山道には雪が舞い、多くの人が傘を差してバスを待っている。彼らは夏服を着ていたが、寒さを防ぐためにコートを追加していた。動画を撮影した男性は「2024年7月4日、夏なのに雪が降りました」と語った。


    Weiboネットユーザーは、このビデオが甘粛省祁連山脈の合流点にある甘粛省張掖市で撮影されたことを明らかにした。


    ここ数日、中国本土で夏に雪が降る映像が報道されている。


    6月24日、四川省甘孜県の哲多山で大雪が降り、高速道路で交通渋滞が発生し、閉じ込められた車の所有者は寒さに震えた。6月21日には一部のネットユーザーも雪の動画を投稿した。


    近年、この奇妙な現象は中国本土全土に広がり、そのため「夏の雪」は中国共産党当局による禁止の対象となっている。上述の夏の降雪のニュースは本土のメディアでは報じられておらず、散発的な動画がソーシャルメディア上で拡散しているだけだ。




    <転載終了>

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    「私的所有」と「個人的所有」の個人的解釈

    タイトルどおり、これから書くのは私の「個人的解釈」にすぎない。

    思考の出発点は「私的」の対立概念は「公的」だということだ。
    つまり、「私的所有」とは、「公的所有」すなわち共同体全体の所有となるべきものを、個人が、その社会の合意に反して所有することである。たとえば、地下資源や生産手段や、労働の結果を個人が不適切に(そしてしばしば過度に)所有することだ。この行為は資本主義社会では当たり前に行われているが、社会主義国家では不適切な行為(反社会的行為)となる。
    それ以外のもの、つまり「社会の共有財産」以外のものの所有は、「個人的所有」が許される。たとえば、人間という存在の社会的所有(共有)は「非常識(アンコモン)」な行為であるから、結婚や恋人関係は「所有概念」に属さないことになる。個人的創作物の創作者自身による所有も同様だ。社会的資本を使った利殖行為の結果は、基本的に社会の所有になる。
    マルクスの言う「共産主義」が、上記の「公的所有」概念にとどまるなら、それはキチガイ思想ではなくなるわけである。しかし、その場合、それと通常の社会主義との境目も無くなるわけで、そこに「共産主義と社会主義の同一視」「共産主義(社会主義)嫌悪思想」の発生源があるのではないか。つまり、人間というのは平等・公平が実は大嫌いなのであるwww

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