たとえば、鴨川がどういう川か、私は京都在住(名目上は一応市内ではあるが、ほとんど郊外というか山中と言うか、1時間に1本しかバスの出ない、辺鄙なところである。)だが、鴨川のイメージは漠然としている。
おおよそ、京都市の北西部の山から出て京都市北部を西から東に流れ、京都市の東の端で南に曲がって南下していき、京都市の南端に至る、というイメージだが、問題は、その後鴨川がどうなるのか、さっぱり分からないことだ。(こういうのをどうでもいい問題だ、と言うなら、それこそ微積分も英語も、普通の人が生きる上ではどうでもいい問題だ。)
言うまでもなく京都市は盆地内にあるから、その南端は京都と奈良を遮る山地になるはずだ。川は下から上に流れることはできない。そうすると、京都を南に流れてきた鴨川は南の端でどうなるのか。天に昇るのか地に潜るのか、それとも名前を変えるのか。
ウィキペディアの「鴨川」の説明も、そこまではしていないのである。
なお、鴨川は雨季と渇水期で水量の増減が非常に大きく、治水の難しい川で、現在でも大雨の時には洪水が起こることはよくニュースになる。渇水期に見れば今にも消えそうな本当に細々とした流れで、こんな川の治水すら平安時代から今まで完全にできないのだから、人間、特に為政者というのは無能なものである。まあ、為政者のほとんどは自分や自分の縁者以外の人間、特に庶民がどうなろうと何の関心も無い連中だったというのが事実だろう。(為政者の鴨川治水への関心は、豊臣秀吉が「お土居」を作ることで京都の水害をかなり軽減した、ということと、昭和初期にかなり大掛かりな河川改修工事をしたことくらいではないか。毀誉褒貶の多い秀吉だが、この「お土居」は彼の善政として、もっと知られるべきだろう。)
地理[編集]
河川法における鴨川の起点は、京都市北区雲ケ畑の出合橋付近である。
北区雲ケ畑の桟敷ヶ岳東部の谷を源とする祖父谷川と、桟敷ヶ岳南部の薬師峠を源とする雲ケ畑岩屋川が雲ケ畑岩屋橋で合流し雲ケ畑川となる。雲ケ畑川は、雲ケ畑の魚谷山南部の谷を源とする中津川と出合橋で合流し、これより「鴨川」となる。鴨川起点の表記は中津川下流域にあるため、これに従うと源流は中津川であると考えられるが、これはあくまでも河川法上での扱いであり、伝統的には桟敷ヶ岳を源流と見なす人も多い。
また、この鴨川本流とは別に、京都市右京区の芹生峠を源とする貴船川と、京都市左京区の花脊峠を源とする鞍馬川がある。両者は貴船口で合流し鞍馬川となり、山幸橋で鴨川と合流し大きな流れとなる。なお、貴船神社社伝においては玉依姫命が淀川・鴨川の源流を遡上した際にたどりついたのが貴船の地とされる。
鴨川は鞍馬川と合流後、北区上賀茂で京都盆地に出る。上賀茂神社(賀茂別雷神社)、下鴨神社(賀茂御祖神社)脇を南南東に流れ、賀茂大橋(加茂大橋)手前で高野川と合流する。そこから京都市内を真南に流れ、四条大橋付近から南西へ流に振り、五条大橋から再度南下、九条高架橋を越えた後に南西へと流れを変え伏見区下鳥羽で西高瀬川と合流、そのまま桂川に注ぐ。また、中京区で西に高瀬川を分け、以南で並行して九条付近で再度合流する。
表記[編集]
1964年(昭和39年)公布、翌年施行の河川法により、起点よりすべて鴨川の表記に統一されているが、通例として、高野川との合流点より上流は賀茂川または加茂川と表記される(例:上賀茂神社、下鴨神社)。「日本紀略」では「鴨川」「賀茂川」どちらの表記も混在しているが、平安時代には流域により表記を区別していたわけではない。
平安京の東部を流れることから、古くは東河とも呼ばれた。