私の別ブログに書いた記事だが、明治憲法下での「国家(天皇)無答責原則」と、基本的法理である「法の不遡及原則」を知らない人が多いかと思うので、こちらにも載せておく。
(以下引用)一部追加
(以下引用)一部追加
太平洋戦争と「責任問題」
この本は持っているが未読である。まあ、天皇の戦争責任をどう論じているかだけは読んでみたい気がする。
私の意見は、「責任はあったが、法的に『無答責』だったのだから、無罪である」というものだ。つまり、責任があることと、「責任に応える(罰を受ける)責任」はイコールではない。前者は道義と法の問題であり、後者は、罰則契約が存在するかどうかの問題だ。当時の法律(あるいは今もか?)には「命令者責任」は無かったのである。それを問題視した政治家も学者もいなかったと思う。
そして、法律は「不遡及」原則がある。つまり、過去に無かった法律(現在の法律)を根拠に過去の事件を裁いてはいけないわけだ。戦争の勝者が敗者を裁くことの法的根拠も無いはずだ。つまり、東京裁判などは「無理が通れば道理が引っ込む」話にすぎない。米国は日本への原爆投下(非武装民間人大量殺戮)で裁かれたか?
なお、私は、天皇制は「象徴天皇制」としてこのまま存続すれば、それでいいと思う。天皇や天皇家が政治に関与しなければ、単なる日本文化の一部である。まあ、一度失ったら二度と得られない貴重な「日本の飾り」のようなものだ。まさしく「象徴」なのである。
あるいは、いつの日か天皇を担いで「令和維新」を起こすのも、悪くはない気がする。今の腐り切った社会と政治を正すには、それが一番というか、それしかないのかもしれない。「維新」という言葉自体がすっかり汚されたので、あまり使いたい言葉ではないが。それとも「維新」ではなく「ご一新」とするか。
国の権力行使により個人が損害を受けた場合でも、昭和22年(1947)国家賠償法施行以前の行為であれば国は賠償責任を負わないとする原則。国家無答責の原理。
(以下引用)
私の意見は、「責任はあったが、法的に『無答責』だったのだから、無罪である」というものだ。つまり、責任があることと、「責任に応える(罰を受ける)責任」はイコールではない。前者は道義と法の問題であり、後者は、罰則契約が存在するかどうかの問題だ。当時の法律(あるいは今もか?)には「命令者責任」は無かったのである。それを問題視した政治家も学者もいなかったと思う。
そして、法律は「不遡及」原則がある。つまり、過去に無かった法律(現在の法律)を根拠に過去の事件を裁いてはいけないわけだ。戦争の勝者が敗者を裁くことの法的根拠も無いはずだ。つまり、東京裁判などは「無理が通れば道理が引っ込む」話にすぎない。米国は日本への原爆投下(非武装民間人大量殺戮)で裁かれたか?
なお、私は、天皇制は「象徴天皇制」としてこのまま存続すれば、それでいいと思う。天皇や天皇家が政治に関与しなければ、単なる日本文化の一部である。まあ、一度失ったら二度と得られない貴重な「日本の飾り」のようなものだ。まさしく「象徴」なのである。
あるいは、いつの日か天皇を担いで「令和維新」を起こすのも、悪くはない気がする。今の腐り切った社会と政治を正すには、それが一番というか、それしかないのかもしれない。「維新」という言葉自体がすっかり汚されたので、あまり使いたい言葉ではないが。それとも「維新」ではなく「ご一新」とするか。
国の権力行使により個人が損害を受けた場合でも、昭和22年(1947)国家賠償法施行以前の行為であれば国は賠償責任を負わないとする原則。国家無答責の原理。
(以下引用)
かつての日本が何故、勝ち目のない太平洋戦争に突き進んだのかを、歴史学者の加藤陽子氏が、高校生との質疑応答形式を採りながら平易に解説したのが、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』2009 でした。 それ故か、菅政権は2020年度の日本学術会議の新会員候補だった加藤氏の任命を拒否しました。
PR