別ブログに今朝早い時間に書いた記事で、先ほど(今は午後1時半)問題の本を読み終えたので、記念に転載する。この推理が正解かどうかはご自分で確かめればいい。推理そのものの合理性は、我ながら自慢である。私は推理小説を読んで謎を自分で解けたためしがないというか、これまでは筋をたどるだけだったのだが、今は読書できる時間がたくさんあるので、推理を楽しんで読めるわけである。あるいは、純文学なら描写を楽しみ、評論なら理屈(論理)を楽しみ、漫画なら一コマ一コマの描写やコマからコマへの展開の妙を楽しめる。まあ、脳内の生活が本当の生活だ、という思想の私にとっては、ここまで生きてきた甲斐はある。ただ、読んでいると眠気がさすか、目がショボショボするのが、老齢の悩みである。
(以下自己引用)「ABC殺人事件」を未読の人は、以下の文章を読まないほうがいいかもしれない。
(以下自己引用)「ABC殺人事件」を未読の人は、以下の文章を読まないほうがいいかもしれない。
アガサ・クリスティーの「ABC殺人事件」のネタバレになる可能性もあるので、そういうのが嫌いな人は、以下の記事を読まないほうがいいかもしれない。ただし、作品を半分まで読んだ時点での私の推理を書くだけだから、真の意味でのネタバレにはならないが、そこまでの話に関する記述は避けられないから、初独の楽しみを幾分か毀損する可能性はある。
で、私の推理が正解なら、むしろそのことは、クリスティーの作品が基本的にフェアプレーであり、クイーンのような、謎のための謎、不自然なトリックの作品ではないということであり、推理小説初心者にとっては理想的な作品だということだ。
で、実は、私の推理は、この作品の冒頭(あるいは表紙裏)の人物紹介だけで半分は終わっており、作品を半分ほど読んだ時点でほぼ確信したのである。事件の構造は「ABC殺人事件」というタイトルだけで暗示されている。つまり、Dは「必要ない」のである。その証拠に第四の事件の被害者はDという頭文字の人物ではない。そこまでは地名の頭文字と人名の頭文字が常に一致していたのに、である。さらに、AとBの事件では殺された人物を殺して利益のある人間がいない。どちらも貧しいか庶民である。怨恨による殺人なら、他の事件と連続する犯罪のはずがない。で、Cの事件では殺された人物は資産のある人間で、しかも、その資産の相続者は余命短い病人だ。とすれば、その財産を最終的に相続する者が犯人だろう、というのは論理の必然だろう。そうでなければむしろ驚きだ。AとBはCの偽装のための殺人だったのである。(細かく言えば、Cの殺人予告手紙がポワロの手に届いたのが、殺人阻止がほぼ不可能な日時だったことも、Cが本命だったことを示している。)これを書いているのは、総ページ317の途中の138ページ時点である。
まあ、基本的には「死体を隠すなら死体の山の中」という、おそらくチェスタトンが最初に示したアイデアの発展形である。あるいは、逆に、このクリスティの作品からチェスタトンがアイデアを得たのか?
で、私の推理が正解なら、むしろそのことは、クリスティーの作品が基本的にフェアプレーであり、クイーンのような、謎のための謎、不自然なトリックの作品ではないということであり、推理小説初心者にとっては理想的な作品だということだ。
で、実は、私の推理は、この作品の冒頭(あるいは表紙裏)の人物紹介だけで半分は終わっており、作品を半分ほど読んだ時点でほぼ確信したのである。事件の構造は「ABC殺人事件」というタイトルだけで暗示されている。つまり、Dは「必要ない」のである。その証拠に第四の事件の被害者はDという頭文字の人物ではない。そこまでは地名の頭文字と人名の頭文字が常に一致していたのに、である。さらに、AとBの事件では殺された人物を殺して利益のある人間がいない。どちらも貧しいか庶民である。怨恨による殺人なら、他の事件と連続する犯罪のはずがない。で、Cの事件では殺された人物は資産のある人間で、しかも、その資産の相続者は余命短い病人だ。とすれば、その財産を最終的に相続する者が犯人だろう、というのは論理の必然だろう。そうでなければむしろ驚きだ。AとBはCの偽装のための殺人だったのである。(細かく言えば、Cの殺人予告手紙がポワロの手に届いたのが、殺人阻止がほぼ不可能な日時だったことも、Cが本命だったことを示している。)これを書いているのは、総ページ317の途中の138ページ時点である。
まあ、基本的には「死体を隠すなら死体の山の中」という、おそらくチェスタトンが最初に示したアイデアの発展形である。あるいは、逆に、このクリスティの作品からチェスタトンがアイデアを得たのか?
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