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「体罰」問題の基礎考察 (1月16日追記)

私の一生の思想的課題は、「この世から悪を無くすことはできないか」という質問に答を出すことだが、おそらく世間の99.999……%の人は、それは不可能だ、と最初から決め込んでいると思う。だが、私はへそ曲がりだから、全世界の人がこの問題を考えていけば、いつかこの世から悪を消せ、「地上の天国」が実現する可能性はある、と能天気に考えている。(私の少年小説『天国の鍵』はそれを扱ったものなので、お暇ならどうぞ。)
もちろん、これは悪の定義をどうするか、どの程度までの悪なら認容するかという「放射能基準値」みたいな部分があり、福島原発以後は「放射能基準値」を引き上げれば放射能被害は「無い」ことになる、というずるい手もあるのだが、まあごく常識的な範囲で「悪は、理想的な法と理想的な行政と理想的な社会道徳によってこの世から消せる」という解答を何とかして出したいと思っているわけだ。

さて、「体罰」は「悪」だろうか。
もちろん悪だ、と言う人が多いとは思うが、「体罰は必要だ」という意見の持ち主もたくさんいる。いわば「必要悪」という考えだろうか。それとも、積極的に「体罰によって根性が鍛えられ、選手としてのその後の成功にも結びつくのだから、完全に善だ」という考えだろうか。案外、スポーツ関係者には後者の考えの人が多いような気がする。だからこそ、スポーツの世界は「体罰社会」のモデルみたいになっているわけだ。
まだ私自身、体罰の是非についての最終結論は出していないが、その考察のための材料として、二つほど引用をしておく。

桜宮高校の「体罰自殺事件」について、

「引用1」は「ライブドアニュース」の自由人という人の記事の一節。どちらかというと「体罰容認派」のようだが、今回の桜宮高校の場合は、体罰ではなく「いびり」だ、という意見である。こういうように分析的な意見には私などすぐに、なるほど、と感心する傾向があるのだが、「ちょっと待てよ」と考えてみると、体罰といびりは、現象は同じであり、この論法で体罰を容認したら、いびりをする側が「これはいびりではなく体罰だった」と主張したら、すべて無罪になるのではないか。(1月16日の追記参照。予感が当たったようだ。)
むしろこのような「言葉の付け替え」で悪を容認する手法こそが悪を存続させる一因ではないかと思うので、その点だけ留保すれば、言っている意見自体には私はほぼ賛成である。つまり、「物理的な力の行使」によってしか制御できない悪が社会には溢れている、ということだ。だからこそ警察という「暴力装置」が社会には必要なのだが、暴力とは制御されない力のことだから、「暴力装置」は言いすぎか。問題は、この「装置」が実際には使う側の恣意によって悪の擁護機関にもなっているという現実である。もともと警察や軍隊自体が「体罰社会」の縮図のような部分もあるし。
なお、この自由人氏の文章の中で「しごき」は事例が不適切である。「しごき」は運動能力向上の目的で度外れた訓練を課すことだから、「試合に遅刻した」ことを理由とするなら、それは「しごき」ではなく「体罰」だろう。しかし、「体罰」と「しごき」と「いびり」という区分けを提唱したのは、今後の議論に非常に有益である。
「引用2」は「BLOGOS」の猪野亨という人の記事の一節。体罰否定論者のようで、記事全体はよくある意見なので省略するが、最後のこの部分は「体罰」そのものよりも「体罰社会」が問題だ、という、問題の根本を見据えた意見なので転載した。





(引用1)

毎度思うことながら、現在の報道を観ていると、なにやら「体罰」という言葉だけが独り歩きしているように感じられる。今回の事件の場合、「体罰という言葉を使用するのはおかしい」という比較的冷静な意見も聞かれるものの、では何がおかしいのかということになると、「暴力だ」「虐待だ」と言う意見が多いようだ。
しかし、肉体への体罰を「暴力」だとし、それが生徒を自殺に追い込んだ原因であるから体罰を禁止しなければならないと言うのであれば、少しお門が違っている。
暴力には、暴力を伴わない「言葉の暴力」というものがある。もし、今回の事件が物理的な暴力を伴わずに「言葉の暴力」のみで自殺問題に発展していた場合は何と言うのだろうか?
この質問に対して「体罰だ」と言う人はおそらく誰もいないだろう。つまり、今回の問題は「体罰」ではなかったということになる。
では何と言うべきなのか?答えは「いびり」である。
既に多くの人が述べていることだが、そもそも論として、「体罰」というものは、何か悪いことをした生徒に対して罰を与える行為を意味するので、単に試合に負けたとか、能力が足りないといった理由で生徒に暴力を振るうことは「体罰」では有り得ない。なぜなら、生徒を殴ったり蹴ったりしても、その生徒の能力が向上するわけではないからだ。こういう因果関係を無視した暴力行為は特訓的な意味合いの「しごき」にも該当しない。
いじめを行ったという理由で、
「顔面を平手打ち(ビンタ)」・・・・体罰
試合に遅刻したという理由で、
「校庭を100周走らせる」・・・・しごき
能力が足りないという理由で、
「生徒を殴る・蹴る」・・・・肉体的いびり
「生徒を罵倒する」・・・・・精神的いびり
簡単にまとめると以上のようになると思うが、教師が生徒に対して、その行為を行うことによって、事態の改善に繋がることであれば、体罰やしごきを特に問題視する必要もない。鼻血が出るとか骨折するような体罰や、健康を害するとか死の危険が伴うようなしごきは問題だが、通常の体罰であれば、有っても構わない…と言うよりも、全く体罰が無い学校の方が危険だと言える。
例えば、生徒によるいじめ事件があれば、教師がいじめを行った生徒を平手打ち(ビンタ)することは仕方がない。それは必要悪というものである。
まずは言葉で注意すべきであることは言うまでもないが、言葉で言っても解らない人間には、暴力をもって教えるしかない。他人の痛みが解らない人間には、自らも痛みをもって解らせるしか方法がない。
正気を失った犯罪者を警官が暴力行為によって諌めるのと同様、他人を傷付けても心が痛まない異常者には正義の鉄槌が時には必要だ。学校には子供を叱るべき親がいないのだから、親に代わって教師が体罰を与える行為は事情によっては認めるべきだ。
まともな体罰までも禁止にすれば、元々、事勿れ主義で無法化している学校が更なる無法地帯と化し、野獣の如く野放し状態となったいじめっこは、ますます手が付けられなくなってしまい、いじめによる自殺問題は更にエスカレートすることになるはずだ。そんな地獄のような学校なら、存在自体が悪であり、もう必要無いということになってしまう。「体罰は絶対悪」と言っているような人は、学校の更なる地獄化を望んでいるとしか思えない。
家庭内でキッチリと子供の教育ができない不出来な親が「教師が生徒を殴ってはいけない」などと言う資格は無いし、教師がそんなクレーマーのような親の存在を許しておく必要もない。教師も生徒も言いたいことをハッキリと言える学校にすることこそが、今回のような問題を防ぐには最も重要なことである。
今回、自殺した生徒も、おそらくは多くのいじめ自殺者と同様、「逃げ場が無い」と思ったのだろうと思う。単に暴力が嫌だったのではなく、クラブのキャプテンという責任ある立場(または将来ある地位)にいながら、期待通りにいかない状況に不安を感じ、そこに教師からの体罰という名のいびりが重なり、自殺に追い込まれたのだろうと推察する。
実際はもっと複雑が事情が絡んでいるのかもしれないが、結局のところ、いじめ自殺問題同様、閉鎖された教育空間が齎した悲劇であることには違いはないだろう。


(引用2)


未だに根性論が蔓延っているスポーツ界。
学校現場で体罰禁止が一般的になる中で、まるで別世界です。
しかも、スポーツ界とは無縁の管理職や教員までもが黙って見ているだけという、いかにも日本的な風潮。
このような場合に、声を上げると必ず異端視されてしまうのですから、ただただ何事も起こらないように、あるいは問題が表面化しなよう、時だけが過ぎ去っていって欲しいと願う浅はかさ。
これは、もちろん体罰以外の組織内の違法行為についても言えることです。

今回の事件は体罰が問題なのはもちろんのこと、体罰という違法行為が蔓延していたのは何故か、体罰を擁護するような声が恥ずかしげもなく表明できるのは、どういうことなのかなど、検討すべきことは多々あります。

①体罰に限らず違法行為が蔓延し、しかも、それを指摘する声を、ことさら敵視し、かえってその声を押し潰そうとする社会のあり方そのものが問われているのではないか。

②体罰であろうと違法行為であろうと結果ばかりが求められはしていないか。そして、その結果さえ出せば、それに至った経緯などは不問に付されてしまってはいないか。

③そのような体罰という違法行為を擁護する声が大きくなりがちなのは、やはりその声にも同様に恫喝的な傾向があるのではないか。あるいは学校に限らず、職場、家庭などで暴力を容認する人たちが少なくないのではないか。








(1月16日追記) 「小田嶋隆ツィッター」から転載。私はもともとこの「ヤンキー先生」という奴は大嫌いだったんだが、その本性がここからも見えるようだ。だいたいが、この義家(元ヤンキーの元教師、現代議士)のように、自分の過去の悪事を「反省」してみせることで社会的に上昇できるという手段が社会的に許容されていることがおかしい。それなら、悪事は「したもの勝ち」ではないか。むしろ、過去の悪事が売名に利用されている。まあ、どの程度の「ヤンキー」だったかは知らないが。
バルザックの作品中の哲学的悪党ヴォートランの名言を借りれば、「美徳というものは切り売りできないんだぜ」、つまり、道徳的な意味では、一度なされた悪は取り返しはつかない、ということだ。法的な処罰とは別の話である。最初からそのつもりで生き、悪を遠ざけるのが世間一般のまともな人間というものだ。元ヤンキーであるだけで、すでに人間として終わっている、と見るのが当たり前の感覚だろう。
まあ、本人の人間としてのレベルの話はともかく、「体罰」と「暴力」を区別してみせることで結果的に体罰が温存されるという、この誤魔化しはよくよく注意する必要がある。
これもある種の「東大話法」「官僚話法」つまり、「詐欺的話法」として国民の間に周知徹底させることが必要だろう。




小田嶋 隆‏@tako_ashi

「体罰とは生徒へ懲戒として行われるものだが、今回は継続的に行われた暴力という認識を持つべきだ。物事を矮小(わいしょう)化して考えるべきではない」と言う義家文科政務官は、生徒を自殺に追いやった体罰を「体罰とは別の個人的な暴力」と定義することで、問題を矮小化している。




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

文科省の政務官は「体罰は暴力」と言うべき立場であるはず。だが彼は「体罰と暴力の線引きをすべき」と言っている。つまり両者は別のものだと。なんだこいつ。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』』 http://bit.ly/104083n




18時間小田嶋 隆‏@tako_ashi

この人が強調しているのは「体罰≠暴力」ということ。体罰と暴力を切り分けることで体罰を擁護しています。→『義家政務官「体罰ではなく暴力だ」 自殺の事実解明指示』 http://bit.ly/104083n







(1月17日追記) 「2ちゃんねる」から拾った記事だが、義家とは要するにこういう人物であるわけだ。
権力亡者のクズ人間だから、その自分の権力が無視されるとファビョる(発狂する、ヒステリーになる:もう死語か?)わけである。



(以下引用)


神奈川16区選出の自民党衆院議員で、
文部科学政務官の義家弘介氏が地元の神奈川県厚木市の成人式に出席した際、
比例復活した民主党議員より後に紹介されたため、
「民意を否定する話ではないか」などと同市に抗議していたことが16日、分かった。


義家氏の事務所によると、成人式は14日に開かれ、
国会議員は義家氏と民主党の後藤祐一氏の2人が出席。
司会者が後藤氏から紹介した。


義家氏の抗議を受け、厚木市は「担当課長が会場の司会者に指示を出さなかった。
二度とミスがないようにする」と回答したという。


選挙区内の伊勢原市などほかの自治体の成人式では義家氏が先に紹介されたという。
義家氏が成人式後に自身のフェイスブックで明らかにした。


義家氏の事務所は「与党議員で政務官に就いていることを重視してほしかった。
申し訳ないとの返事があったので、この問題は終わっている」と話した。


[2013年1月16日22時42分]
http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp0-20130116-1072880.html









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