下の記事はひろゆきというカリスマ弁論家と一般人のネットリテラシーを論じたもので、なかなか面白く思って読んでいたら、最後の節で、「サバルタン」という聞きなれないカタカナ語が出てきて面食らった。そもそも、これが英語なのかフランス語なのか、その他の言語かも分からないし、文脈から意味を推定するという作業も何だか癪に障る。何で、そんな面倒な作業を読み手に押し付けるのだという憤慨である。まあ、「お前は俺の読者として想定していない」という、書き手からの拒絶のサインだ、とも考えられるが、そこまでは非常に分かりやすい内容だったので、この一語で突然、目の前のドアを閉められたわけである。単純に「知的気取り(カッコつけ)」のためのカタカナ語だという気はするが、それとも、日本人の中で「サバルタン」というカタカナ語を知らないのは私だけなのだろうか。サバイバルともサルタンともサルバルサンとも関係は無いよなあ。そんなに、一般に熟知された言葉か? ちなみに、サルバルサンは梅毒の特効薬で、末尾は「酸」ではない。
一応、言っておくが、こうしたカタカナ語の使用は百害あって一利なし、とまでは言わないが、害のほうがはるかに多いと私は思っている。一般人があまり知らないカタカナ語を使うなら、原語で書くべきである。それなら調べようもある。まあ、単なる知的気取りである、と私は思っている。インテリ層の唾棄すべき悪習慣である。あるいは、ゲーム界あたりでは常識の言葉なのかもしれない。
これも一応言っておくが、文脈から推定するなら、サバルタンは「有象無象」という感じではないだろうか。もっと限定的に「知的劣等者」「無知蒙昧な輩」かもしれない。あるいは、それを象徴するような人名の可能性もある。
(以下引用)
結局彼等はサバルタンのままでしかない
インターネットが完全に普及し、誰でも情報発信ができる時代が到来したとは、よく言われることだった。実際、シェアや「いいね」機能をとおして、何も書けない人でもインターネット上のオピニオンやメンションに vote できる時代になったという点では、確かに情報発信は万人に開かれた、のだろう。
他方、あまりにもインターネットが普及し、そこにアメリカ大統領やらイーロンマスクやらひろゆきさんやらがひしめいている状況となった結果、インターネットは影響力争奪戦の戦場となり、カリスマや雄弁家の草刈り場になり果ててもいる。カリスマや雄弁家が間近に感じられる今の環境のなかで、彼等の劣化コピーとならないこと、誰かの意見ではなく自分自身の意見を持つことは、本当は難しいはずである。だとしたら。
だとしたら、ネットのカリスマや雄弁家に出会ったことで何かを言えるようになったと感じている人は、結局、もの言えぬ人々のままなのではないか。彼等が何かを言っているつもりでいて、実はカリスマや雄弁家のスピーカーになり果ててしまっているとしたら、結局彼ら自身は物言わぬ人々のままでしかない。なまじ、カリスマや雄弁家が間近に感じられるものだから、自分自身の意見とカリスマや雄弁家の意見の境界は曖昧になりやすい。リテラシーが乏しければ、そうした傾向に拍車もかかろう。
弁論術も含め、リテラシーとは、自己主張していくためのツールとして必要不可欠なわけだけど、そのリテラシーが欠如している限り、SNSがあろうとも、自分の意見を代弁してくれている誰かの追っかけをやろうと、結局自己主張は困難なのだと思う。のみならず、リテラシーが欠如しているからこそ、カリスマや雄弁家の巧みな弁舌から自分の意見を守ることも難しい。そうやって、タイトルしか読めない人やタイトルすら読めない人がネットのカリスマや雄弁家に浸食されているのが、ここ十数年の間にできあがったインターネットの風景だと思う。
もしそうだとしたら、「大衆の声」に相当するものは今、どこで聞こえるのだろうか。いや、そもそも大衆とここで言われる人々に、声や意見は持ち得るのだろうか。インターネットをとおして影響力が刈り取られまくっている現在の環境下で、自分自身であること、自分の意見を持つことはどこまで可能だろうか。それは他人に問うだけでなく、自分自身にも問わなければならないことだ。たとえば私がここに書いてあることだって、冒頭の小山さんの影響下にあって書いたものと疑ってかからなければならない。
ネットに限らずだが、このメディア全盛の時代、緊密に人と人とが繋がり合った時代において、声とは、いったい誰のものなのだろう? そして自分の意見とは?
(夢人追記)気になる人のために、一応調べてみた。まあ、私の推定は正解ではないが、大きく外れてもいなかったようだ。要するにインテリ用語である。
ちなみに、少し意味は違うが、「無告の民」という言葉もある。サバルタンよりは分かりやすい。
四字熟語 | 無告之民 |
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読み方 | むこくのたみ |
意味 | 貧しい人や老人、孤児などの弱者のこと。 苦しみを訴える相手や手段が存在しない人たちのことから。 「無告」は苦しみを訴える相手が誰もいないこと。 |
サバルタン
[subaltern]
自らを語る声を持たない従属させられた社会的集団を意味し、とりわけ植民地主義の文脈で、周縁化された先住民や奴隷を指す用語である。サバルタンは元来は「下位階級」を意味する軍隊用語であったが、それをイタリアのマルクス主義思想家のアントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci 1891~1937)が、資本家と国家権力が結託するなかで疎外された「無産階級」を分析する用語として転用した。だがマルクス主義の資本主義批判がなおヨーロッパ中心主義を免れないのに対して、インドを中心とする南アジアの歴史研究者グループが、植民地支配の歴史を批判的に検討するに際して、サバルタン概念を従属的な被支配者層の分析に使い始めた。とくに、インド出身でアメリカ合衆国の思想家であるガヤトリ・C・スピヴァク(Gayatri C. Spivak 1942~)の著書「サバルタンは語ることができるか」(1988)によってこの概念は世界的に知られるようになった。
同書のタイトルに表れているように、サバルタンが自らを語ることは原理的に困難である。被支配者の声をヨーロッパの支配者に届かせるには、支配者の言語や論理を用いて語るしかないが、それだけではサバルタンの声は支配者に都合よく消費され、支配者の優位性とサバルタンの従属性を強めることに帰結してしまうからだ。ましてや、知識人による「代弁」はむしろ生の声を奪うことになりかねない。したがって、サバルタンが語ること、サバルタンを聴くことは、支配―被支配、優劣の関係性を変化させること、とりわけヨーロッパ中心主義を破壊することでしか始まらない。サバルタンは、そうした点で、動的かつ戦略的な概念である。