「谷間の百合」ブログから転載。
ご本人はブログの中で「私は本を読まない人間だ」と謙遜なさっているが、岡潔、稲垣足穂と、渋い趣味の本を読んでいらっしゃるようだ。この読書傾向から、数学的、物理的、宇宙的なロマン、理系的詩情がお好きなのではないかと拝察する。
稲垣足穂は私も好きだが、その作品の大半はほとんど「理解」はできない。ただ「散文詩」として読み、何となく面白い、と感じているだけだ。「山ン本五郎佐衛門ただいま退散仕る」が一番好きで、あれは数回読んだ。その最後に書かれた「愛という経験は、その後ではそれが無いと物足りなくなるという欠点がある」という言葉は、私の大好きなアフォリズムの一つだ。これは、お化け軍団と半年近く(だったと思う)、毎晩のように戦った後、そのお化けの大将が別れの挨拶をして、それきり出なくなった後の、主人公の少年の述懐(付録参照)に関して筆者が補足した言葉である。つまり、お化けとの戦いの日々は、「愛という経験」の一つだったということだ。
まさに「地上とは思い出ならずや」である。
家族と共に暮らす、毎日の平凡な日々も、お化けとの大騒ぎの戦いの日々も、すべては愛の経験かもしれない。ひいては、見上げた空に、光に縁取られた雲を眺めた時の感慨、それに伴って思い出す、幼い頃、心をかすめた思い、すべて愛の経験だと言える。
(以下引用)
岡潔の次に転生について触れたのが稲垣足穂の本でした。
「地上とは思い出ならずや」という言葉に、ナニ?!と思ったのは一瞬で、次の瞬間にはその意味を理解していたと思います。
「兜率上生」より
「俺はもっと人生を愛したい、味わいたい、面白いことをしたい。或いは苦しみたい・・・など言って死に際に喚くには当たらないのである。
自分がいま、ここにいるように、死んだら又別ないまここの裡に閉じ込められるであろうことに、疑いはない。
この論旨が薄弱だと考えるのは、未だ一度も『自分は何故他のだれかではないのか?』『何故たったいま此処にいるのか』について思いを凝らしたことのない者共である。
どこにも居なくなってしまうなんて、そんな気の効いたことがそう簡単に起こって堪るものか!」
(付録)
足穂『山ン本五郎左衛門ただいま退散仕る』より
…………アノアト星ノ光ノ様ナモノガヤガテ蛍ガ乱レ飛ブ様ニ見エテ物哀レヲ唆ツタ……アノ心細サガ、今デハ何カ悲シイ澄ンダ気持ニ変ツテイル。秋ノセイダロウカ? 然シ、コンナ何事カガ一段落付イタ様ナ、ソレトモコレカラ新生活ガ始マルカノ様ナ気持ハ、僕ハ今迄何処ニモ覚エタコトガ無イ。…………山ン本五郎左衛門ノ顔ヲ僕ハ生涯忘レルコトハナイデアロウ。殊ニ「只今退散仕ル」ノ尻上リノ一言ハ、何時々々迄モ忘レハシナイ。槌ヲ打ツ心算ハナイガ、僕ノ心ノ奥ニハ次ノ様ニ呼ビ掛ケタイ気持ガアル。山ン本サン、気ガ向イタラ叉オ出デ!
夢人注:「槌を打つ」の「槌」は、お化けの大将(山ン本五郎佐衛門)が、戦い相手の少年であった主人公を褒めた後、自分を呼びだしたい時は、この槌を打て、と言って与えたものだった記憶があるが、確かではない。
我々が「思い出」に感じる気分はまさに「何か悲しい澄んだ気持ち」ではないだろうか。あらゆる事は、過ぎた後では思い出に変わる、というのは当たり前のことだが、現在という一瞬よりも、思い出の方が遥かに長い時間なのである。
ご本人はブログの中で「私は本を読まない人間だ」と謙遜なさっているが、岡潔、稲垣足穂と、渋い趣味の本を読んでいらっしゃるようだ。この読書傾向から、数学的、物理的、宇宙的なロマン、理系的詩情がお好きなのではないかと拝察する。
稲垣足穂は私も好きだが、その作品の大半はほとんど「理解」はできない。ただ「散文詩」として読み、何となく面白い、と感じているだけだ。「山ン本五郎佐衛門ただいま退散仕る」が一番好きで、あれは数回読んだ。その最後に書かれた「愛という経験は、その後ではそれが無いと物足りなくなるという欠点がある」という言葉は、私の大好きなアフォリズムの一つだ。これは、お化け軍団と半年近く(だったと思う)、毎晩のように戦った後、そのお化けの大将が別れの挨拶をして、それきり出なくなった後の、主人公の少年の述懐(付録参照)に関して筆者が補足した言葉である。つまり、お化けとの戦いの日々は、「愛という経験」の一つだったということだ。
まさに「地上とは思い出ならずや」である。
家族と共に暮らす、毎日の平凡な日々も、お化けとの大騒ぎの戦いの日々も、すべては愛の経験かもしれない。ひいては、見上げた空に、光に縁取られた雲を眺めた時の感慨、それに伴って思い出す、幼い頃、心をかすめた思い、すべて愛の経験だと言える。
(以下引用)
岡潔の次に転生について触れたのが稲垣足穂の本でした。
「地上とは思い出ならずや」という言葉に、ナニ?!と思ったのは一瞬で、次の瞬間にはその意味を理解していたと思います。
「兜率上生」より
「俺はもっと人生を愛したい、味わいたい、面白いことをしたい。或いは苦しみたい・・・など言って死に際に喚くには当たらないのである。
自分がいま、ここにいるように、死んだら又別ないまここの裡に閉じ込められるであろうことに、疑いはない。
この論旨が薄弱だと考えるのは、未だ一度も『自分は何故他のだれかではないのか?』『何故たったいま此処にいるのか』について思いを凝らしたことのない者共である。
どこにも居なくなってしまうなんて、そんな気の効いたことがそう簡単に起こって堪るものか!」
(付録)
足穂『山ン本五郎左衛門ただいま退散仕る』より
…………アノアト星ノ光ノ様ナモノガヤガテ蛍ガ乱レ飛ブ様ニ見エテ物哀レヲ唆ツタ……アノ心細サガ、今デハ何カ悲シイ澄ンダ気持ニ変ツテイル。秋ノセイダロウカ? 然シ、コンナ何事カガ一段落付イタ様ナ、ソレトモコレカラ新生活ガ始マルカノ様ナ気持ハ、僕ハ今迄何処ニモ覚エタコトガ無イ。…………山ン本五郎左衛門ノ顔ヲ僕ハ生涯忘レルコトハナイデアロウ。殊ニ「只今退散仕ル」ノ尻上リノ一言ハ、何時々々迄モ忘レハシナイ。槌ヲ打ツ心算ハナイガ、僕ノ心ノ奥ニハ次ノ様ニ呼ビ掛ケタイ気持ガアル。山ン本サン、気ガ向イタラ叉オ出デ!
夢人注:「槌を打つ」の「槌」は、お化けの大将(山ン本五郎佐衛門)が、戦い相手の少年であった主人公を褒めた後、自分を呼びだしたい時は、この槌を打て、と言って与えたものだった記憶があるが、確かではない。
我々が「思い出」に感じる気分はまさに「何か悲しい澄んだ気持ち」ではないだろうか。あらゆる事は、過ぎた後では思い出に変わる、というのは当たり前のことだが、現在という一瞬よりも、思い出の方が遥かに長い時間なのである。
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