朝の散歩に適当な時間(夜明け前後)に少し間があったので、図書館から借りた本のひとつ、石川啄木の「悲しき玩具・他」の中の短編で、随筆とも小説ともつかない作品(遺稿のひとつ)を読んで、しばらくして散歩に出たが、先ほど読んだものの影響か、変な短歌を作ったので、それを先に紹介する。まあ、一見下品だが、これには深い意味があるのであるwww
宿便の糞の長きをひり出して 朝の散歩のこころよきかな
その「深い意味」は何かというと、我々の生活の中の鬱屈は、宿便と同じだ、ということだ。
啄木の歌や散文は鬱屈が特徴だが、その鬱屈は、彼が自ら溜めこんだ宿便だ、というのが私の考えである。彼と同じ境遇や、彼以上に悲惨な境遇の人は無数にいただろうが、彼の歌はその鬱屈をエネルギーとして生まれたものだろう。それを歌として排出することで、彼は生きることができたのではないか。そして、歌である以上、そこには誇張や修飾がある。その加工の段階で、彼は創造を娯楽としていたはずだ。さらに、歌が完成すると、それは宿便をひり出したのと同じ爽快感を与えるわけである。
たとえば、啄木の有名な歌で、こういうのがある。正確に覚えていない可能性もあるが、私の記憶ではこうだ。
東海の小島の磯の白砂に 我泣き濡れて蟹とたわむる
で、この歌について先ほどの散歩の中で考えたのだが、この歌は完全にフィクションだろう、というのが私の推理である。
第一に、この出来事の舞台である「東海の小島」とはどこか。
そして、舞台のさらに小舞台である場所は「磯」なのか「砂浜」なのか。磯浜と砂浜は別の種類だと私は認識している。
第三に、「我」は、なぜ「泣き濡れて」いるのか。
第四に、なぜ「泣き濡れて」いるにもかかわらず、彼は「蟹と戯れて」いるのか。
すべてが曖昧なのである。だから、私はこれをフィクションだ、と推定したわけだ。
もちろん、見事なフィクションであり、その価値は高い。これを「ひり出した」快感も高かっただろう。
まあ、文芸作品というのは基本的にすべてフィクションなのだが、短歌や俳句だと、それを現実に立脚したものだ、と判断する読者が多いだろうから、私は意図的に意地悪なことを言っているわけで、要するに、芸術活動は「宿便をひり出す」のと本質は変わらない、ということだ。で、見事な宿便が出れば、それを世界は素晴らしい文化的財産とするわけである。いや、私は芸術を見下しているのではない。ただ、宿便をひり出すのも素晴らしいと言っているのである。ちなみに、私は若いころは毎朝ほぼ確実に排便があったが、年を取って、食事量が減ったため2日に一度となり、それに伴って「糞の長きを」ひり出す快感が強くなっているようだwww