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小説の視点と「信頼できない語り手」

今、遅ればせながら、と言うか、10年遅れくらいで「涼宮ハルヒ」シリーズの原作を読んでいるのだが、いろいろと思考ネタを与えてくれる稀有な作品である。ただ、それは「創作技法」についての考察である。特に視点の問題だ。誰の視点で話を語るのかという問題である。
このシリーズの話の語り手はキョンと呼ばれる高1から高2の生徒だが、その語彙が物凄いレベルの語彙で、私は彼が言っている言葉の8割から7割程度しか理解できない。あるいは6割くらいかもしれない。ただし、それは主に「ライトノベル的な語彙」とも言えるもので、SF小説や通俗科学書や高校教科書レベルの歴史や科学の用語が膨大に出て来るのである。私が、「物凄いレベルの語彙」と言ったのは、それを本気で理解しようとしたら、凡人にはほとんど不可能、という意味だ。ただし、それらはいわば「冗談で使われていて、理解の必要性はほとんど無い」のである。何しろ、1行ごとに比喩が出てきて、その比喩は上記の語彙を使った比喩なのである。読んでいる人は、理解できなくても、それらの語彙に接しているだけで、自分の頭が高度になった気がすると思う。
一例を挙げよう。

カノッサ城において神聖ローマ帝国ハインリヒ四世と面会した教皇グレゴリウス七世のような威厳たっぷりな満足笑顔と口調で、

これはハルヒが何かを宣言する前置きだが、これを言っているのは「劣等生」とされているキョンである。もちろん、たいていの高校生は「カノッサの屈辱」という言葉は知っているだろう。だが、それが「ハインリヒ四世」と「グレゴリウス七世」との間の権力闘争だったということまで知っているだろうか。いや、教科書を読んではいても、「四世」とか「七世」まで覚えているだろうか。覚えていないという私が特別に劣等生で、人間ではなくゾウリムシ並みの知能なのだろうか。
ここで、視点の問題が出て来る。この話の語り手であるキョンは、実は作者本人の代理だということだ。キョンの語彙は作者、谷川流の語彙であり、「劣等生」キョンの語彙ではない。しかし、それを読んでいる読者はそれをキョンの言葉として読むのである。そこにはすでに推理小説で言う「信頼できない語り手」という問題が存在しているわけである。

以下は、私の別ブログの旧記事だが、いろいろと間違いや訂正したい部分もある。ただ、小説の「視点の問題」を扱っているので、そのまま載せておく。

映画「羅生門」が欧米映画界に与えた影響は大きなもののようだが、それまで、「複数視点からひとつの事件を見ることで、『真実』に疑義を呈する」という発想は欧米にはほとんど無かったのだろう。「羅生門」が芥川龍之介の「藪の中」を元ネタにし、その「藪の中」は米国のアンブローズ・ピアスの或る作品を下敷きにして書かれたらしいのだが、アンブローズ・ピアスのその作品(私も題名を知らない。あるいは忘れた)を欧米人がほとんど知らないらしいのが不思議である。つまり、そこが「文章表現」と「映像表現」の差だろう。文章は「読解能力」が要求されるが、映像はかなり知的理解力が低くても、かなり理解できるわけだ。逆に、映像は「描かれたものがすべて」になるので、映像で「真実が何かは分からない」ことを描くことはかなり手間がかかることになる。
ちなみに、ディッケンズの「大いなる遺産」は、語り手の一人称で話が進むが、その語り手自身の主観で語られるので、語る内容が真実を伝えているわけではなく、まったく別の解釈もある、ということが、読解力のある読者には分かるように書かれているという、実に極限的技法の作品だが、そのことを指摘した文章を私は知らない。つまり、「一人称視点でありながら、実質的には三人称視点(神の視点)でもある」という作品で、こういう作品は「大いなる遺産」以外に私は知らない。

(以下「竹熊健太郎」のツィートを引用)

リドリー・スコット「最後の決闘裁判」を観た。最近、映画は極力前知識を仕入れないで観るようにしている。この映画もタイトルからスコットの処女作「デュエリスト」みたいな映画かなと思って観たのだが、黒澤明「羅生門」のスコット版みたいな映画だった。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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