年末にふさわしく、昔書いた「死についての詩」という文章を載せておく。
まあ、「正月は冥途の旅の一里塚」ということで、正月を安らかに迎えてもらおうというわけだww 訳は私自身によるもので、誤訳は当然あるだろう。
(以下自己引用)
「死についての詩」
ポオがその詩論の中で言っているように、詩の主題として悲哀に勝るものはない。悲哀の中では死の悲哀が最大のものだろう。もっとも肉体の死だけが死ではない。
愛について語るなお前の愛を
愛について語るなお前の愛を
語られなかった愛もある
優しい風が
静かに 目にも見えず
動くかのように……
私は語った
私の愛を 私は語った
彼の人に
私のすべての思いのたけを
ふるえつつ 凍えつつ
恐れつつ……
おお、彼の人は去った
彼の人と別れた後
旅人一人私のもとを訪れ
音もなく 目にも見えず
溜息とともに
彼の人を連れ去った
(ウィリアム・ブレイク)
この詩は魂の死、すなわち忘却をうたったものだろうと思う。(本人に聞いたわけではないが)
一人の旅人とは「時」であり、時が彼の人の思い出を連れ去った、というのが第三連の意味だろう。溜息をもらすのは誰か。思い出自身か、私の気づかれざる心だろうか。
肉体の死をうたった優しい詩もある。
歌
もしも私が死んだらあなた
悲しい歌を歌わないで
お願い、楽しい歌を……
私の枕元にバラや
陰深い糸杉を植えないで
雑草の生い茂るままにして
通り雨や露の濡らすにまかせ
そして
あなたが望むなら思い出して
そして、あなたが望むなら忘れて
私は影を見ることはないでしょう
雨を感じることもないでしょう
苦しむように鳴く夜鶯の声を聞くこともないでしょう
永遠の夕暮れの薄明かりの中で夢見て
幸せに私は思い出すでしょう
そして、幸せに忘れることでしょう
(クリスチナ・ロセッティ)*夢人注:実は、最後の連の中の「幸せに」は「haply」をhappilyと同義の古語だろうと勘違いした誤訳だが、この誤訳が気に入っているので、そのままにしておく。「haply」は「ことによると」の意味の古語である。
こううたえば死も優しいが、死は本来グロテスクで、こっけいなものである。イギリスの作者不詳の古い詩に、こういうものがある。
二羽の烏
一人で歩いているとき
二羽の烏がささやき合うのを聞いた
一方が他方に言う
(どこへ行って今日は飯にありつこう)
(お前の後ろの古壁の向こうに
騎士の新仏があるのを俺は知っている
俺以外には誰も知らない
彼の鷹も彼の犬も彼の愛した女も)
(彼の犬は狩りをしている
彼の鷹は野のフクロウを追っている
彼の女は新しい愛人を作っている
俺たちはたっぷり御馳走をいただこう)
(お前は首の骨にとまるがいい
俺は青い美しい眼をつつきだそう
石で頭蓋を割った後
中身を巣に持っていってやろう)
(多くの人が彼の不在をささやくだろう
だが彼の行方は誰も知らない
すっかり白骨になったその上には
風がいつまでも吹くだろう)
我々が死を儀式化するのは、もしかしたらこういう真実に目をおおっていたいからかもしれない。我々の生とは、そして死とはしょせんこんなものであるという真実に。この詩は死を描きながら、生の姿をも描いているのである。
まあ、「正月は冥途の旅の一里塚」ということで、正月を安らかに迎えてもらおうというわけだww 訳は私自身によるもので、誤訳は当然あるだろう。
(以下自己引用)
「死についての詩」
ポオがその詩論の中で言っているように、詩の主題として悲哀に勝るものはない。悲哀の中では死の悲哀が最大のものだろう。もっとも肉体の死だけが死ではない。
愛について語るなお前の愛を
愛について語るなお前の愛を
語られなかった愛もある
優しい風が
静かに 目にも見えず
動くかのように……
私は語った
私の愛を 私は語った
彼の人に
私のすべての思いのたけを
ふるえつつ 凍えつつ
恐れつつ……
おお、彼の人は去った
彼の人と別れた後
旅人一人私のもとを訪れ
音もなく 目にも見えず
溜息とともに
彼の人を連れ去った
(ウィリアム・ブレイク)
この詩は魂の死、すなわち忘却をうたったものだろうと思う。(本人に聞いたわけではないが)
一人の旅人とは「時」であり、時が彼の人の思い出を連れ去った、というのが第三連の意味だろう。溜息をもらすのは誰か。思い出自身か、私の気づかれざる心だろうか。
肉体の死をうたった優しい詩もある。
歌
もしも私が死んだらあなた
悲しい歌を歌わないで
お願い、楽しい歌を……
私の枕元にバラや
陰深い糸杉を植えないで
雑草の生い茂るままにして
通り雨や露の濡らすにまかせ
そして
あなたが望むなら思い出して
そして、あなたが望むなら忘れて
私は影を見ることはないでしょう
雨を感じることもないでしょう
苦しむように鳴く夜鶯の声を聞くこともないでしょう
永遠の夕暮れの薄明かりの中で夢見て
幸せに私は思い出すでしょう
そして、幸せに忘れることでしょう
(クリスチナ・ロセッティ)*夢人注:実は、最後の連の中の「幸せに」は「haply」をhappilyと同義の古語だろうと勘違いした誤訳だが、この誤訳が気に入っているので、そのままにしておく。「haply」は「ことによると」の意味の古語である。
こううたえば死も優しいが、死は本来グロテスクで、こっけいなものである。イギリスの作者不詳の古い詩に、こういうものがある。
二羽の烏
一人で歩いているとき
二羽の烏がささやき合うのを聞いた
一方が他方に言う
(どこへ行って今日は飯にありつこう)
(お前の後ろの古壁の向こうに
騎士の新仏があるのを俺は知っている
俺以外には誰も知らない
彼の鷹も彼の犬も彼の愛した女も)
(彼の犬は狩りをしている
彼の鷹は野のフクロウを追っている
彼の女は新しい愛人を作っている
俺たちはたっぷり御馳走をいただこう)
(お前は首の骨にとまるがいい
俺は青い美しい眼をつつきだそう
石で頭蓋を割った後
中身を巣に持っていってやろう)
(多くの人が彼の不在をささやくだろう
だが彼の行方は誰も知らない
すっかり白骨になったその上には
風がいつまでも吹くだろう)
我々が死を儀式化するのは、もしかしたらこういう真実に目をおおっていたいからかもしれない。我々の生とは、そして死とはしょせんこんなものであるという真実に。この詩は死を描きながら、生の姿をも描いているのである。
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