SF作家山本弘のブログ記事だが、フィクションに対する男と女の好みの違いというのが出ていて面白い。
女性というのは「現在がすべて」のようなところがあり、大人になれば、大人である今の自分という心でしか物事は見ないだろう。保育士などのように子供を相手にしていてもべつに自分が子供の心になっているわけではない。そういうものである女性が「子供(一部のオタク大人)向け」の怪獣映画を観るはずが無いではないか。
なお、私は、「シン・ゴジラ」は良作だとは思うが、もともとゴジラ映画やウルトラマンや仮面ライダーの類をほとんど見ていないし興味も無い。SF映画は好きだしゴジラの第一作は傑作だと思うが、その他の怪獣映画はもともと子供向けの作品だし、いい大人が鑑賞するのはきつい類の映画だと思っている。縫いぐるみ(着ぐるみ)のプロレスを楽しめる大人がいるというのが不思議な気がする。本物のプロレスもお芝居であり、それらを楽しめるというのは「一時的な理性の棚上げ」ができる羨ましい精神だな、とは思う。「ラドン」も子供のころ見た時は面白かったが、ラドン自体は子供心にもチャチな作りでがっかりした記憶があり、むしろ映画前半の「語り口」の見事さが印象に残っている。
最近は、オタクがそういう子供向けジャンルを、「子供をそっちのけにした内容」で作るのが流行っているが、それもどうなのかなあ、と疑問も感じている。「シン・ゴジラ」は大人(昔の子供心を維持している、と言えば良く聞こえるが、どちらかと言えばオタク)向けの怪獣映画という不思議なジャンルなのである。
まあ、作り物を否定したらあらゆる芸術は滅びるわけで、私が懸念しているのは、現在の映画界やアニメ界には黒澤明もフェリーニもベルイマンもいない、ということなのである。黒澤明の「生きる」やフェリーニの「道」やベルイマンの「野いちご」は彼らが三十代か四十代初めで作った作品のはずだ。その若さで彼らがなぜそれほど重みのある「人生映画」を作れたか、と言えば、昔の人はそれだけ深く人生というものを若いころから見つめていた、ということだろう。
(以下引用)
女性というのは「現在がすべて」のようなところがあり、大人になれば、大人である今の自分という心でしか物事は見ないだろう。保育士などのように子供を相手にしていてもべつに自分が子供の心になっているわけではない。そういうものである女性が「子供(一部のオタク大人)向け」の怪獣映画を観るはずが無いではないか。
なお、私は、「シン・ゴジラ」は良作だとは思うが、もともとゴジラ映画やウルトラマンや仮面ライダーの類をほとんど見ていないし興味も無い。SF映画は好きだしゴジラの第一作は傑作だと思うが、その他の怪獣映画はもともと子供向けの作品だし、いい大人が鑑賞するのはきつい類の映画だと思っている。縫いぐるみ(着ぐるみ)のプロレスを楽しめる大人がいるというのが不思議な気がする。本物のプロレスもお芝居であり、それらを楽しめるというのは「一時的な理性の棚上げ」ができる羨ましい精神だな、とは思う。「ラドン」も子供のころ見た時は面白かったが、ラドン自体は子供心にもチャチな作りでがっかりした記憶があり、むしろ映画前半の「語り口」の見事さが印象に残っている。
最近は、オタクがそういう子供向けジャンルを、「子供をそっちのけにした内容」で作るのが流行っているが、それもどうなのかなあ、と疑問も感じている。「シン・ゴジラ」は大人(昔の子供心を維持している、と言えば良く聞こえるが、どちらかと言えばオタク)向けの怪獣映画という不思議なジャンルなのである。
まあ、作り物を否定したらあらゆる芸術は滅びるわけで、私が懸念しているのは、現在の映画界やアニメ界には黒澤明もフェリーニもベルイマンもいない、ということなのである。黒澤明の「生きる」やフェリーニの「道」やベルイマンの「野いちご」は彼らが三十代か四十代初めで作った作品のはずだ。その若さで彼らがなぜそれほど重みのある「人生映画」を作れたか、と言えば、昔の人はそれだけ深く人生というものを若いころから見つめていた、ということだろう。
(以下引用)
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