37:家人(風火家人)【○○× ○×○】「家庭の道徳」
家人(の卦)は女性が貞潔である(きちんとしている)と利がある。
*この卦辞では女性のことしか言われていないので、象伝で補うなら「君子は言葉は事実に基づき、行いは恒心に基づいて行う」ということで、男女を問わない。そして、彖伝では「父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしくして初めて家は正しく治まり、家が正しく治まって天下は定まる」とある。まあ、封建道徳だが、個人が自分勝手な主張だけをするようになれば、家どころかどんな組織も存続できないだろうし、誰も責任を取らなくなるだろう。上には上の苦労があるわけだ。封建道徳というのは、馬鹿にはできないと思う。もちろん、行き過ぎればすべて大きな欠点となる。被支配層が批判精神を失えば心まで奴隷化する。
38:睽(火沢睽)【○×○ ×○○】「そむきあう時」*「睽」は「けい」と読む。
睽(の卦)は小事には吉である。
*簡単な卦辞だが、つまり、大きな事に手を出すな、ということで、前項の「家人」の秩序が崩れると、家の中が背きあう状態になるわけだ。当然、そういう状態では大事はできない。これは大きな組織も同じだろう。下の沢卦は子供が喜んでいるような状態、上の火卦は責任者が「表面を飾るだけ」というイメージか。ただ、彖伝では「天地は背きあっても、大きく見れば天地という構造の一部であり、男女は性質が背きあっていても、一緒になりたいという志は同じ、万物は区別があっても、同じ宇宙内の一部である」という趣旨の言葉があり、「背くこと」を全否定するべきではない、としている。象伝にも「君子は、君子という中身は同じでも、その見かけや言動は異なっている」(意訳)とある。大きく言うなら、革命的な「背き」があってこそ社会は大きく発展する、とも言える。弁証法的に見れば、「正」に対する「反」があって、その解決である「合」で進歩するわけである。
39:蹇(水山蹇)【×○× ○××】「足なえ、進みにくい時」*「蹇」は「けん」と読む。
蹇(の卦)は優れた人や年配者に相談すると利がある。貞固であるのがよい。
*蹇はいざり、足なえの意味で、上卦は水、下卦は山という、どちらも険難を表す卦である。雨の中で登山(山越え)するイメージか。卦辞の中に「西南に利あり、東北に利あらず」という意味不明の言葉があるが、古人の解釈も屁理屈ばかりという感じなので、無視するか自分で勝手に解釈すればいい。ストレートに、西南の方角に行けば、問題解決の手がかりが得られる、と解釈してもいいかと思う。
40:解(雷水解)【××○ ×○×】「困難が解ける」
解(の卦)は西南に利がある。行くところがあれば早く行くのが吉で、解決の手がかりが無ければ、帰ってきても吉である。
*蹇に続いて、方角にこだわった卦辞(西南うんぬん)があるが、「无所往 其来復吉」をどう解釈するかだ。本田済氏は「艱難が解けて何も行動の必要がないときには、それこそ本来の場所に帰ってきて安らぐがよい」としているが、「无所往」は行く所が無い、意味なのだから、存在しない場所から帰ってくるのは変である。「復」を「復(かえ)る」と読んでいるわけだが、解決の道を求めてどこかに行き、そこで解決の手がかりが得られなくても、帰ってきたら、解決の機運が生じており、それは「西南に行ったこと」の間接的結果だ、ということかと思う。まあ、「无所往」を「行くところが無い」ではなく、「行くところに何もない」意味だとする強引な解釈なので、あまり強弁はしない。岩波文庫版だと、占う者が既に西南の地(坤の方位、つまり平坦安全の地)にいるという解釈で、そこからどこかに行ってもいいし、行かなくてもいいという意味だ、とする。こちらが合理的か。
家人(の卦)は女性が貞潔である(きちんとしている)と利がある。
*この卦辞では女性のことしか言われていないので、象伝で補うなら「君子は言葉は事実に基づき、行いは恒心に基づいて行う」ということで、男女を問わない。そして、彖伝では「父は父らしく、子は子らしく、兄は兄らしく、弟は弟らしく、夫は夫らしく、妻は妻らしくして初めて家は正しく治まり、家が正しく治まって天下は定まる」とある。まあ、封建道徳だが、個人が自分勝手な主張だけをするようになれば、家どころかどんな組織も存続できないだろうし、誰も責任を取らなくなるだろう。上には上の苦労があるわけだ。封建道徳というのは、馬鹿にはできないと思う。もちろん、行き過ぎればすべて大きな欠点となる。被支配層が批判精神を失えば心まで奴隷化する。
38:睽(火沢睽)【○×○ ×○○】「そむきあう時」*「睽」は「けい」と読む。
睽(の卦)は小事には吉である。
*簡単な卦辞だが、つまり、大きな事に手を出すな、ということで、前項の「家人」の秩序が崩れると、家の中が背きあう状態になるわけだ。当然、そういう状態では大事はできない。これは大きな組織も同じだろう。下の沢卦は子供が喜んでいるような状態、上の火卦は責任者が「表面を飾るだけ」というイメージか。ただ、彖伝では「天地は背きあっても、大きく見れば天地という構造の一部であり、男女は性質が背きあっていても、一緒になりたいという志は同じ、万物は区別があっても、同じ宇宙内の一部である」という趣旨の言葉があり、「背くこと」を全否定するべきではない、としている。象伝にも「君子は、君子という中身は同じでも、その見かけや言動は異なっている」(意訳)とある。大きく言うなら、革命的な「背き」があってこそ社会は大きく発展する、とも言える。弁証法的に見れば、「正」に対する「反」があって、その解決である「合」で進歩するわけである。
39:蹇(水山蹇)【×○× ○××】「足なえ、進みにくい時」*「蹇」は「けん」と読む。
蹇(の卦)は優れた人や年配者に相談すると利がある。貞固であるのがよい。
*蹇はいざり、足なえの意味で、上卦は水、下卦は山という、どちらも険難を表す卦である。雨の中で登山(山越え)するイメージか。卦辞の中に「西南に利あり、東北に利あらず」という意味不明の言葉があるが、古人の解釈も屁理屈ばかりという感じなので、無視するか自分で勝手に解釈すればいい。ストレートに、西南の方角に行けば、問題解決の手がかりが得られる、と解釈してもいいかと思う。
40:解(雷水解)【××○ ×○×】「困難が解ける」
解(の卦)は西南に利がある。行くところがあれば早く行くのが吉で、解決の手がかりが無ければ、帰ってきても吉である。
*蹇に続いて、方角にこだわった卦辞(西南うんぬん)があるが、「无所往 其来復吉」をどう解釈するかだ。本田済氏は「艱難が解けて何も行動の必要がないときには、それこそ本来の場所に帰ってきて安らぐがよい」としているが、「无所往」は行く所が無い、意味なのだから、存在しない場所から帰ってくるのは変である。「復」を「復(かえ)る」と読んでいるわけだが、解決の道を求めてどこかに行き、そこで解決の手がかりが得られなくても、帰ってきたら、解決の機運が生じており、それは「西南に行ったこと」の間接的結果だ、ということかと思う。まあ、「无所往」を「行くところが無い」ではなく、「行くところに何もない」意味だとする強引な解釈なので、あまり強弁はしない。岩波文庫版だと、占う者が既に西南の地(坤の方位、つまり平坦安全の地)にいるという解釈で、そこからどこかに行ってもいいし、行かなくてもいいという意味だ、とする。こちらが合理的か。
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