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生活の技術(4)

この章は、日本が不況とはいえ、まだまともだった頃に書いたものなので、章の内容が現在の状況には合わないところがあるとは思う。しかし、原則である「時間をカネに換える」という方法を今の状況に当てはめる方法も探せばあるのではないか。

(以下自己引用)



第二章 財産形成について


 


 「人生問題のほとんどは経済問題である」、というのは清水幾太郎の名言だが、金持ちの親を持って生まれなかった貧しい若者にとって、いかに財産を形成するかは、人生の最大問題の一つである。これに比べれば、恋愛など、幻想的な問題にすぎない。つまり、人生の基本問題は二つ。一つは、いかにして健康な状態を維持するか。もう一つが、いかにして財産を形成するかである。その後者について述べよう。


 まず、犯罪的手段で財産を形成することは、避けたほうがいい。犯罪を行うには犯罪者としての性格と才能(平気で嘘をつく能力など)が必要なのであり、犯罪者的素質の無い人間は犯罪者としての成功はまず不可能なのである。これを良く示しているのが、ドストエフスキーの『罪と罰』である。あれは、犯罪者の資質の無い善人が、自らの超人思想に取り憑かれ、柄にも無い犯罪を実行してしまった一部始終の記録である。ただし、犯罪者的資質は養成することも可能であり、少年院や刑務所が、その種の「教育機関」であることは一部では良く知られている。大企業にも似た面はあり、企業の利益になることなら何でもやる人間こそが出世するのが資本主義のシステムであるため、大企業の上層部は、たいていは非人間的な怪物になる。これはマイケル・ムーアの「シッコ(シック・コーポレーションの意味か?)」などに如実に顕れている。軍隊が殺人者の訓練所であることなども言うまでもない。


 そうした華やかな修羅の道を選ぶのも一つの生き方ではあるが、あまり冴えなくても「人間らしく」生きたいなら、堅実な人生設計をする必要があるだろう。


 まず、人生の生き方には大別して二つある。一つは個人事業主として生きることであり、もう一つは組織の中で生きることである。芸術家やスポーツマンは前者である。個人商店の店主なども前者だろう。後者の中には、親しい仲間だけでチームを作って小さな組織の中で生きる方法もあり、これは両者の中間的形態である。大組織に比べて自由度は高く、個人事業主の孤独からは免れているのだから、理想的形態かもしれない。だが、交友関係に恵まれていないとできないことだから、ここでは考察しない。個人事業主の中でも、才能が前提となる芸術家やスポーツマンの人生も無視することにする。


 


 たいていの人間は、学校を出ると会社に入り、社会人生活を始める。最初の頃は給料も安く、仕事はきついが、会社の仕事に慣れてくると、仕事は楽になり、給料も少しずつ上がってくる。


 さて、ここで問題は、多くの若者は、貰った給料のほとんどを使い切ってしまうことである。もともと給料が低いのは分かるが、しかし、その金の使い方は、はたして意味のある使い方だろうか。若い男性なら、酒や女に使うだろうし、若い女性でも化粧品や洋服、音楽や娯楽に過度の浪費をしていることが多いのではないだろうか。その中でも書籍の購入に使うのは、ましな使い方だが、実は、私から見れば、これも無駄遣いである。なぜなら、文明国には、公立図書館というものがあるからだ。自宅に数千冊の書籍を保存していることを誇るのもいいが、図書館の数万冊の書籍をすべて読破した人間のほうが、はるかに高レベルな知識人だろう。もちろん、読んだ本が身についているかどうかはまた別の問題だ。要するに、教養を身につけるにも、知的娯楽を得るのにも、実は金などいらないということである。現在はインターネットもあるから、中古品のパソコンを安く手に入れれば、意欲さえあれば、インターネットを通じて何の勉強でもできる。まあ、これは無料とはいかないから、やはり公立図書館ほどの貧乏人の友はないが。


 酒や女も含めた、遊興娯楽に使う金については、幾分かは若い頃の思い出にはなるだろうが、やはりほとんどは無駄金と言うべきだろう。まったく使わないのも無理だろうから、できるなら、使う金を自分でセーブするのがいいだろう。


 さて、ここで本題に入ろう。いかにして財産形成をするかである。ギャンブルや犯罪以外の方法で、ある程度の資産を作るには、時間がかかるのは当然だ。しかし、真面目な人間なら、何の才能が無くても、ある程度の資産形成はできるのである。


 あなたが、ある程度しっかりした会社に入社したなら、まず、そこで10年は勤めることである。そうすれば、銀行はあなたが住宅取得をするための貸付に応じてくれる。現在の世の中は、大不況の時代であるから、かつて作られた豪華な住宅が、格安の値段で売りに出されていることがある。そうした物件を根気よく探すのである。新築をしてはいけない。現在のような不況の時代の建築は、建築費を安く上げるための安普請で作るに決まっているからである。中古住宅ならば、かつては3000万円くらいしていたものが、1000万円程度で手に入る例もある。築20年だろうが、しっかりした物件なら、新築当時とほとんど変わらない状態であることもあるのだ。ところが、中古住宅販売は、築年数で値段が大きく下落していくから、物件の内容に比べて、格安の値段で売られる住宅が多いのである。つまり、あなたは、本来なら3000万円の住宅を、1000万円そこそこで手に入れることになる。


 もちろん、銀行の融資を受ければ、それからはローンの返済が始まる。だが、1000万円程度のローンなら、利息も含めて、10年もあれば返済できるはずである。20歳で入社して、10年後に住宅を取得したなら、あなたはわずか30歳で一国一城の主である。そして、この家は、あなたに金が必要になった時には担保にもなってくれるのである。


 借金が気になる? 借金も財産のうちである。あなたが借金をしているということは、あなたにそれだけの社会的信用があることの証明なのである。信頼性の無い人間に金を貸す人はいない。


 そして、さらに十年後には、ローンも完済して、あなたは借金も無くなる。だが、ここで、もうワンランクアップをしてみよう。今度は、自分が住むための住宅ではなく、投資のための住宅を取得するのである。40歳なら、定年もまだまだ先だ。前と同様に、中古物件の掘り出し物を探し、それを見つけたら、思い切って勝負に出よう。前のローンを完済したことで、あなたの信用度は上がっているから、今回も銀行は快く融資してくれるはずである。もし、融資を渋るなら、他の金融機関を試してみよう。銀行よりも審査がゆるやかで、条件も有利な金融機関もあるはずだ。


 だが、現在の不況の中では、今勤めている会社がいつ倒産するかもわからない。ローンを抱えたまま職を失ったら大変ではないか、と考える人もいるだろう。確かにそうだが、借金は、払える限度以上に払うということはない。払えなくなれば残りはチャラである。それが資本主義のシステムなのである。ローンの途中で失職したなら、今住んでいる家を売って、借金の返済に当て、また一からスタートするだけである。もともと裸で生まれた人間ではないか。裸でやり直すのに、何の文句があろうか。


 こうして二つ目の不動産を手に入れれば、その新しく取得した住宅は他人に貸して家賃が稼げる。場合によっては、その家賃がローンの支払いを上回ることもあるだろう。ローン以下であっても、いずれにしてもあなたはそれほどの負担無しにローンの返済を続けていけるのである。そして、ローン期間が終われば、あなたはまったく借金は無く、二軒の家の所有者になっているわけである。


 人間の苦労は、毎日の生活費をどうして手に入れるかということである。そのために、いやな宮仕えもしなければならない。だが、家賃不要の住宅があり、毎月の食費程度を稼ぎ出すもう一軒の家があれば、人生の主要問題は、もう解決したのである。


 これは地味な生き方であり、才能のある人間にとってはお笑いぐさかもしれない。だが、世間の大半の人間は平凡人である。平凡な人間でも真面目に生きていけば、人生の末期には経済問題から解放された晩年が期待できるというのは、大きな希望ではないだろうか。


たとえば、太宰治という人は、頭の良さや文学的才能は抜群の人間である。だが、彼の人生と私の人生を取り替えたいとは、私はまったく思わない。いや、現在自分を恵まれていない運命だと思っている人間でも、主観的生活としては、太宰治よりもはるかに幸福だろう。それは、太宰治が自分で自分の不幸を選び取るような生き方をしてきたからである。平凡人の人生は、けっして不幸な人生ではないのである。案外と華やかな生活を送る有名人のほうが、精神的には不幸な生き方をしているかもしれない。


 財産形成は、何千万人もの人間が毎日頭を悩ませている問題であり、確実な方法など無いが、その要点を言えば、「資本蓄積」「投資」を適切に行うことだろう。貯蓄だけでは、大きな財産の形成はできない。資本主義の社会においては、「投資」は財産形成の必要条件だと言えるだろう。それはもちろん、ギャンブルではある。馬券を買おうが証券を買おうが、宝くじを買おうが、すべてギャンブルなのである。しかし、そうした勝負を避けてばかりいては、満足な老後資金程度も残らないだろう。というのは、この社会は貧乏人のわずかな金を搾り取ろうとする金持ちでいっぱいだからである。つまり、広く薄く、カオス階級全体から金を取り上げて、上の人間に配分するようにこの社会の仕組みは作られているのである。聖書ではないが、「持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているわずかな物も奪われる」というのが、この社会なのだ。




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生活の技術(3)

2 遊び


 


 遊びにおける能力開発という点では、私には本当は発言資格は無い。何しろ、生まれつきの運動音痴で、運動会の徒競走ではいつもビリだった人間である。なまじ顔が良かったものだから(これは私の主観ではなく、たいていの人はそう言ったのだが)、そのみっともなさは私の主観では言語に絶していた。学生時代の遊び事は、たいていはスポーツだから、私が遊び下手なのは言うまでもない。トランプや麻雀などの頭脳ゲームも、あまり強くはなかったから、頭もたいしたことは無かったのだろう。


 私が言えることは、遊びが上手になる必要は無いが、どんな遊びでも参加できる程度には知っていたほうがいいということである。碁も将棋も麻雀も知っていたほうがいいし、スキーもスケートもゴルフも野球もできたほうがいいということである。そうすれば、メンバーが足りない時に、参加できる。もちろん、こちらは下手クソなのだから、その遊びで活躍することは無いが、その代わりに、他の人間に活躍の機会を与えて、彼もしくは彼女に幸せな時間を贈ることができる。これも陰徳というものである。


 下手だろうが何だろうが、機嫌良く、楽しく遊び、他人を良い気持ちにさせることができるなら、たかが遊びでまで勝利至上主義を振り回して他人を不愉快にする「遊び上手連中」よりも、はるかに価値ある存在だろう。


 音楽という遊びもあるが、これも私は音痴に近いので、発言できない。音痴でも聞いて楽しむことはできるから、そうした遊びは鑑賞する立場にとどまっているだけでいいだろう。ついでながら、苦手なスポーツでも、私は見るのは好きである。「スポーツは見るものじゃなく、するものだ」という傲慢な発言をするスポーツ強者もいるが、見るだけでも十分に楽しいのだから、わざわざ自分でするまでもないのである。


 絵を描くのも遊びの一つになることがある。これも私には才能が無いから、発言資格は無いが、才能があろうがなかろうが、絵を見たり描いたりすることが楽しければ、それはそれで結構である。俳句や短歌などを趣味とするのもいいし、書道などもいい。


 だが、遊びが肯定されるのは、「本業」がきちんとうまくいっている場合である。遊びに淫して、本業が疎かになっている素人画伯の類は多い。多少上手な絵が描けようが、個性的な絵が描けようが、本業が半端な人間は偉くもなんともない、というのが私の考えだ。相撲取りが絵が上手だろうが歌が上手だろうが、相撲が弱ければ、価値は無い。芸人が多少上手に日本画を描けるというので、タレント業をやめて「画伯」ぶっているのなども嫌みなものである。


 もちろん、遊びが遊びの範疇にとどまっていれば、結構な話である。


 「独楽」という漢字は「こま」のことだが、独楽の回転が落ち着いて「澄んだ」状態になっているのは、まさしく「独りを楽しむ」という状態に見える。このように、他者の目とは無関係に、物事に夢中になっている状態は、まさしく「遊び」の状態である。この境地になれば、それが仕事でも、それは遊びと同じなのである。 


 


3 身体能力


 


 前の「遊び」の項目から分かるように、私は、身体能力は著しく劣っている。要するに、運動神経がゼロに近い。ボーリングなどでは、100点も出せないし、2回に1回は溝にボールを落っことす人間である。


 これは、小さい頃に運動をしなかった結果ではないかと思っているのだが、ただの遺伝かもしれない。しかし、後で「健康」の項目を長々と書くつもりだが、現代人にとって(あるいはいつの時代の人間にとっても)、大事なのは運動能力ではなく、健康だというのが私の信念なのである。人より少し速く走れようが、少し高く跳べようが、どれほどの意味があるのか。走り高跳びで1メートルしか跳べない人間と、1メートル50センチ跳べる人間とで、生きていく上で何の違いがあるのか。それらは、すべて「スポーツ」という土俵においての意味しか無いのである。確かにスポーツが学校生活の中で持つ意味は大きい。スポーツマンは学校の王侯貴族なのである。だが、社会に出たら、スポーツマンの存在価値など、アフターファイブの遊び事の場にしかない。仕事でも家庭でも、運動能力など不要なのである。


 まあ、しかし、人生の一時期だけでも輝く時期があった連中は幸せかもしれない。


 とりあえず、ここで私が言いたいのは、人間、健康でありさえすればそれ以上言うことは無いのであり、身体能力も運動能力も、実社会ではほとんど無用の能力だということである。したがって、それを向上させる必要などないし、そのノウハウが知りたければ、図書館で運動関係の本を探せばよいということだ。


 


4 対人関係能力


 


 対人関係能力を大別すれば無意識的部分と、B意識的部分に分かれる。Bの意識的部分とは、「計算と演技力(弁舌能力を含む)」である。Aの無意識的部分とは、「自然な人間的魅力」である。Aに恵まれている人間なら生きていくのに苦労は無い。だが、通常はBの修練を通して、それがAに移行していく例が多いかと思われる。ここでは、Bを中心に述べるが、その前に、一般的に人間的魅力とは何か、あるいはどういう人間が魅力的な人間かを見ておこう。


 まず、外貌は大事ではあるが、それはここでは論じない。私が考える魅力的な人間の条件・資質は次のようなものだ。


 


① 善良さ


② 他者への愛情(優しさ・思いやり)


③ 正義感


④ 勇気


⑤ ユーモア感覚


     謙虚さ


     本質的な賢さ


 


 実は、これは私がフィクションの主人公で一番好きな、「未来少年コナン」の性格・資質と思われるものを列挙したものである。フィクションの主人公なら誰でも魅力があるわけではない。特に、最近のフィクションの主人公は「面白いけど厭な奴」が主流だから、ここで挙げた資質は、昔風のヒーローの特徴と言えるかもしれない。


 フィクションの主人公なら、上に挙げた以外に、何かの特殊能力が必要だろうが、現実人生の人間は上に挙げただけで十分以上である。問題は、①、③あたりと⑦が一致しづらいところである。つまり、賢い人間なら、この世が善良では生きていけないことにすぐに気づいて、自分の善良さを棄てて、社会に対応していくはずだからである。しかし、これらの資質が現実でも共存できると仮定して話を進めよう。


 「善良さ」がなぜ魅力的か。これは言葉の定義次第だ。「善良」とは「良い」ことなのだから、悪いはずがない。周囲の人間がその人に接して「良さ」の影響を蒙るなら、その人を悪く思うはずはないのである。ただし、「退屈な人間」と思うことはありうる。刺激的かどうかならば、悪人のほうが刺激的には決まっているのだから。


「他者への愛情・優しさ・思いやり」が魅力的なのは論証不要だろう。我々は自分に愛情を向ける存在を愛するものである。愛されない人間は、たいていはその本人が自分しか愛していない人間であることが多い。


「正義感」があることも、魅力の条件である。我々の生きるこの世界は、様々な不正に満ちている。弱者を虐げる人間への怒り、すなわち正義感は人間として当然の資質だ。


「勇気」は、悪と戦うための条件である。


「ユーモア感覚」とは何か。それは高揚しすぎて足が地上から離れそうになった心を地上に引き戻すことである。自分の人間的な弱さを自覚し、笑うことだ。そうしたバランス感覚の無い「シリアス型・緊張型」の人間は魅力が無いものだ。


「謙虚さ」は「ユーモア感覚」と同様に、バランス感覚である。傲慢さとは自己の過大評価であり、その本人の本質的な頭の悪さを示してもいるが、それはまた、他人への思いやりの無さの現れでもある。


「本質的な賢さ」とは、学校の成績などとは無関係な賢さであり、現実人生の様々な問題に正解を与える能力を持っていることである。東大出の官僚のほとんどは、そういう意味では賢くないようだ。


善良で、謙虚で、ユーモア感覚があるだけでも、この世界では十分に魅力的な人間だろう。その上に、正義感と勇気があれば、ヒーローにもなれる素材である。ただし、「ユーモア感覚」には微妙な部分があり、「意識的に自ら笑いを作る」人間と、「見ていて何となく楽しい人間」のうち、魅力的なのは、実は後者である。前者はただのお笑いタレントであり、彼の作る笑い自体は魅力があっても、その当人が魅力的なわけではない。


 


では、以上に述べた性質や能力は、意識的な努力で身に付くものだろうか。半分はそうだろうし、半分は、意識的な努力とは無関係に身に付くものだろう。しかし、たとえば、善良さなどというものは、無意識に身に付くものではあるだろうが、幼い頃の読書の影響や、身近な人間の影響が大きいのではないだろうか。つまり、無意識的ではあっても、そうなるだけの原因はあったと思われる。だが、人間は、家族を選んで生まれるわけにはいかないから、幼児期の周囲の人間の影響をここで論じても仕方がない。


ここでは、前にも書いたように、人間の性格や行動は、その人間の生活信条の現れであるという観点から、対人的能力をいかにして養成するかを論じてみる。


前にあげた「人間の魅力」を大きくまとめると、


 


1 善良さ


2 賢さ


3 ユーモア


 


の三点に絞れそうである。


 このうち、個人的な努力が効果があるのは2と3だろう。特に、ユーモアは修練による習得が可能な能力だと思われる。


 しかし、賢さの養成とか、ユーモア能力の養成については、ここではなく、「心術」の項目で扱うことにする。

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生活の技術(2)

 


第一章     能力開発


 


1 学習


 


 より良い人生を送るためには、自らを優れた武器または道具として作り上げる必要がある。後の章の「心術」や「生活習慣」の部分でも述べるつもりだが、自己コントロールの能力は、人生を生きる上で、もっとも大事な能力だと私は思う。それは、この章の続く部分の「遊び」「身体能力」「対人関係能力」のすべてに必要な能力である。(ただし、ここで挙げる項目の中には、無理に向上させる必要性などない、と私が思うものもある。)


 まず、ライフステージの中の、「被扶養者段階」にある青少年の場合は、学校での勉強をどうするかが大きな問題である。世の中には、勉強に関しては天才的な人間たちもたくさんいるし、その中には、授業で一度聞けば、数学でも物理でも容易に理解し、一度読んだ本は忘れないという強靱な記憶力を持った人間もいる。だが、そういう連中はほんのわずかであり、世の青少年の大半は私同様の凡人だろう。その凡人が、凡人なりに、どう勉強をすれば効果的かという話である。


 


 まず、すべての基本から始めよう。


 


 人間は、言葉に支配される存在である。誰でも、その人なりの生活信条や人生観があり、毎日の生活はその発現なのである。つまり、「言葉」が「生活」に変化するのである。


 「どうせ何をやったってうまくいくはずがない」という考え方を「敗北主義」と言う。アメリカなどでは、男への悪口として「負け犬(ルーズ・ドッグ、またはルーザー)」という言葉をよく使うが、失敗した人間だから負け犬なのではない。敗北主義になった人間が負け犬なのである。(もっとも、アメリカでの「負け犬」は、単なる失敗者への悪口であることも多いが。)一度や二度の失敗・敗北では負け犬にならない。「負け犬根性」が染みついた人間を負け犬と言うのである。そして、それは、意識的・無意識的に「自分はどうせ負けるんだ」と常に自分に言っている人間のことなのである。それは、言葉が人間を作っているということだ。


 ナポレオン・ヒルとかデール・カーネギーなどの「成功哲学」の基本は、「まず、自分の夢を具体的に言語化せよ」である。つまり、「人生で成功したい」ではなく、「いついつまでに何万ドル欲しい」というように具体的な言葉にするのだ。そして、それを自分自身に何度も言い聞かす。そのうちに、自分のその夢(または計画)に関係した情報がアンテナに引っかかるようになり、そして、毎日の生活も、その夢の実現に向けて少しずつ蓄積が始まる。たとえば、月給が20万円のサラリーマンが、1億円の金が欲しいと思うのは、かなり非現実的な夢だろう。だが、1000万円なら、実現可能な夢である。毎月の給料のうち10万円を貯金していくだけでも、10年後には1200万の貯蓄になる。そして、1000万円の元手があれば、それを投資して1億円にするのも不可能ではない。しかし、大半の人間は、貰った給料のほとんどを無駄遣いして、何一つ蓄積しないままで時間を過ごしていく。そして、10年後にも、同じく貯蓄ゼロの生活になるのである。


 これは金の話だが、勉強も同じである。


 「具体的な計画を立てよ」というのが、生活のコントロール、そして自己コントロールの出発点だ。その計画は、「東大に入りたい」というような漠然とした言葉ではなく、「東大に入るために、これこれの知識と能力を身につけよう」という具体的なものでなければならない。センター試験なら何点、二次試験なら何点という計画を科目ごとに立てる。それが成功するとはもちろん限らない。だが、何も計画しないままで漫然と勉強することに比べたら、はるかに成功可能性は高いはずである。模擬試験ごとに、計画の進捗状況は分かるから、軌道修正などは当然あってもいいのだ。


 具体的な計画とは、単なる夢想や願望を明確な言葉にするということである。


 


 より良い人生を送るための基本的な考え方として、「時間の貯蓄」という発想を説明しよう。時間はもちろん貯蓄できない。だが、別の形で貯蓄することはできるのである。たとえば、あなたが1日のアルバイトをして5000円の給与を得たとしよう。それは、あなたの1日という時間が、5000円という具体物に変化して貯蓄されたということだ。では、その1日という時間は無駄に消えたのか? もしもそのアルバイトが苦痛なだけの仕事ならば、そう言えるかもしれない。だが、そのアルバイトの職場に、可愛い女の子でもいて、その時間が楽しかったなら? あなたは、1日を楽しく過ごした上に、5000円という金まで手に入れたのである。いや、苦痛なだけの労働でも、若い頃の時間を(金に限らず)別の形で貯蓄することが、将来の人生において、大きな意味を持つのである。


 あなたが学生ならば、学校での勉強が終わって自宅に帰り、そこでも家庭学習をするのは辛いと思うだろう。だが、その家庭学習の3時間、4時間が、私の言う「時間の貯蓄」なのである。一日のうち1時間でもいい、将来の自分のために、意義あることに使いなさい、ということである。


 もちろん、広い意味では、小説を読むのも漫画を読むのも、テレビを見るのも、意義が無いことはない。だが、そういう安逸の時間は、やはり時間の貯蓄としては薄すぎるのである。あなたがいくら小説を読んでも、将来文芸評論家や作家になれるわけではない。そうした仕事に就く人たちは、また、彼らなりの修行をしているのだ。それも彼らの「時間の貯蓄」だったのである。


 一日に、英単語一つでもいい。毎日覚えていけば、10年後には3650単語を覚えることになる。それを17歳くらいから始めたら、27歳の頃には、海外で生活するのに十分な語彙力を身につけるわけだ。もちろん、「たかが3000語程度で!」と馬鹿にする人もいるだろう。だが、中学程度の英文法力と、3000語程度の語彙力があれば、英語圏での日常生活は可能なはずだ。大学になど行かなくても、必要十分な英語力を身につけることは難しいことではない。のんべんだらりと大学に行った人間と、「時間の貯蓄」をしてきた人間と、どちらがより良い人生を送れるだろうか。

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生活の技術(1)

私自身の別ブログに載せてある若い人向けの記事だが、今読んでもなかなか面白いので、こちらにも載せておく。題して「生活の技術」という連続記事で、最後の第6章はまだ書いていないかもしれないが、無くてもどうということはない。いつか気が向いたら書くかもしれない。回にして14回くらいになると思う。最後の回に書いた薬の話は、あるいは不適切かもしれないので、あまり信じないで貰いたい。

(以下自己引用)

生活の技術(1)




   (仮題)「生活の技術」


 


初めに


第一章 能力開発


第二章 財産形成


第三章 ライフ・ステージ


第四章 メンタル・ヘルス(心術)


第五章 日常の習慣


 


第六章 社会生活の必要知識


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


初めに


 


 「生活の技術」について書いてみたいと思ったのは、まだ私が二十代の頃だった。その頃の私は、毎日の生活をどう生きればいいのかに悩んでいたのだ。それも、ごく些細な問題が私を悩ませた。たとえば、私は、世間話が苦手で、他人との会話の輪の中に入ることがなかなかできなかった。それというのも、その会話のほとんどの内容が私にとってはまったく興味の持てないもので、他人の冗談は、私にはまったく笑えないものだったからである。面白くもない冗談を、いかにも面白そうに笑うというのは、人づきあいの基本である。だが、もちろん、悪いのは私の方であり、もしも努力すれば自分を鍛えることもできたのだから、結局私は、「お高くとまっていた」にすぎない。しかし、世の若者の中で一定割合の人間は、こうした対人関係の悩みを持っていると思う。それも、本を読むのが好きで、人間とのつきあいより本とのつきあいが長い「ブッキッシュ」な若者がそうなりがちだと思われる。


 その頃、森鴎外の「智慧嚢」という本を興味深く読んだことがある。これは、人間関係についてのドイツの通俗ハウツー書を鴎外がアレンジして訳した本だが、その内容にはなかなかうなずけるところがあった。しかし、それ以上に、鴎外がこの本を訳したのは、鴎外にも人間関係での悩みが深かったのだな、と思われて興味深かった。だが、人間関係は、生活の一部分であり、生活にはそれ以外の部分もある。たとえば読書や趣味の時間などだ。それに、運動能力や体力、健康の向上の秘訣、精神能力の向上の秘訣など、人間関係だけではなく、「生活全般の技術」について書いた本があったら、世慣れない若者にとって、大きな救いになるのではないか、というのがその頃私が考えていたことである。


 現在の私は50代後半にさしかかっている。特に珍しい人生経験も無い平凡な人間だが、たいていの人間は私と同じように平凡な人生を送るはずである。ならば、そのような人生を幸福に送る「生活の技術」を、まだ人生をあまり知らない若者に贈るのは、無意味なことではないだろう。実際、私は持って生まれた性格や能力の割にはかなり幸福な人間だと思う。もちろん、若い頃は、自分の人生の未来について様々な夢想をしていたが、それらのほとんどは、生来の怠け癖と対人関係の欠陥のために実現しなかった。しかし、もともとそれらの夢想は夢想でしかなく、そうした夢想を現実的可能性に置き換えていくか、あるいはあきらめるのが「良い人生」の大事な要素なのである。つまり、若者には自分や周囲や社会全体についての正しいパースペクテゥブ(遠近感)が無く、それを身につけるのが成熟なのだが、それは一面では自分の野心や可能性を捨てることにもなる、ということである。野心に賭ければ、あるいは思いがけない大成功を収めることもあるだろうが、また大失敗の可能性もそれ以上にある、ということである。あなたが勇敢な(それとも無謀な)人間なら、前者の英雄的人生を目指すのもいいだろう。そのあたりは、本人の意志次第だ。いずれにせよこの一文が、人生に不慣れな青年の助けになれば幸いである。


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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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