「zeraniumのブログ」から記事の一部を転載。チャネラー シェラドン・ブライスとか言う人の文章らしい。
私はチャネラーと自称する連中の大半は詐欺師だと思っているが、下記の文章には面白い発想があるので、備忘的に転載しておく。
つまり、我々の自我(「自分」という意識)の本体は、脳ではなく、記憶であり、記憶は「電磁域」内にある、ということだ。この電磁域を「オーラ」と言うと途端に話がいかがわしい感じになるのだが、実際、オーラとは電磁域とそう異なるものでもないだろう。それをやたらと神秘的な感じで言うから、逆に誰にも信じてもらえなくなるのだ。
パソコンを考えれば分かるように、記憶(記録内容)とはソフト(の中身)であり、ハード(記録媒体)のことではない。ならば、我々の脳がただのハードに過ぎないことは自明だろう。そして、その脳に記録されたものを我々自身が自由に変更できないことは、我々に本当に自由意思があるのか、という哲学的な大問題につながっていく。つまり、我々は自分が考えていることに、ある程度の道筋をつけ、コントロールすることはできるが、それをコントロールしているのが本当に自分なのか、あるいは他の何者かなのかは最終的には分からないのである。
そういう面倒な話はいい。
話のポイントは、我々の「電磁域」は、他の電磁域からの影響を常に受けている、ということだ。これは電波の混戦が容易に起こることを考えれば、納得できるだろう。そして、人間の生命活動とは結局は電子の活動であることは明らかである。(危篤の患者の心臓の脈拍が電子的に画像化できるのをイメージすればよいだろう。つまり、人間とは有機的ロボットなのである。)ならば、下記文章の説は、筋が通っている、と私には思える。
私は最近、夢を見ることが多いが、起きると肝臓のあたりに疲れを感じていることが多い。「夢は五臓の疲れ」と、昔の人はうまいことを言ったものだ。最近は「唯脳論」とやらで、やたらと脳の優位が説かれてきたが、脳とは身体全体の記憶、あるいは身体全体の情報を可視化(意識化)する情報端末程度のものではないか。もちろん、そこには情報加工のシステムが存在しているのだが、フロイトの言う「無意識」の領域は、脳にではなく、「オーラ」の中にあり、しかもそれは日夜、他のオーラ(そこには動物や植物のオーラも混じる、というのも可能性として考えてよい。)の影響を受けている、という考えは、「電磁域」としての記憶という考えとともに、今後、新たな人間論の一つの土台にもなりうる考えだと思う。
我々が他のオーラの影響を常に受けている、というのは、嫌いな人間が傍にいると我々の心がひどく憂鬱になる、という一事でも理解できそうだ。もちろん、それを嫌う自分自身の心に原因がある、とも言えるのだが、実際に他者の持つオーラの影響を受けている、という考えもなかなか面白い、と思うのである。もちろん、オーラという言葉を使うまでもなく、我々は自分の好きなものに取り囲まれていれば愉快な気分になるし、嫌いなものが身近にあれば不愉快になる、というだけの話としてもいいのだが。
(以下引用)
心臓だけでなく肝臓もまたこの時期には、何かと問題が起きてくることが多いのです。優しくしてあげることです。疲労感で頭がボンヤリして、何にも集中できないこともあるでしょう。何か宙に浮いているようで変になりそうだと感じたり、何を考えていたのか思い出せなかったりするので年齢のせいかと思ったりするでしょう。でもそれは年齢とはまったく関係ないのです。
そのわけとはこうです。
あなた方は記憶とはすべて頭の中に保存されていると思っていますが、実際には記憶というマインドはあなたの電磁域、つまり呼び方はどうであれあなた方の言うオーラ域内にあります。ですから頭の中にあるのは脳であり、脳は行為や本能、生存と呼ばれる一時的な記憶を抱えているだけなのです。ですから思考や概念が出てくるところはマインドであり、そのオーラがあなたの肉体周辺を取り巻いています。
あなた方はいまマインド、つまりオーラ域のもっといろいろな部分にアクセスすることを学んでいますが、それまでのずっと窮屈な方法に慣れている結果、脳がデータを容易に拾ってくることに慣れています。それで頭の中にあってほしいデータは、実はずっと外側のオーラ域の中にあるのです。脳はそこから思考を拾って戻そうとするのですが、その道を覚えていないので途中でそれを落っことしてしまいます。つまりすぐそこにあるのに、今何を話していたのか思い出せず、それは話の途中で消えてしまうのです。
そうしたことは誰もが経験することであり、年齢とは無関係なのです。
高齢ならそれを歳のせいにするでしょうが、20代であっても同じ経験をするのです。脳は、あなた自身のマインドにもっと遠くまでアクセスすることを学んでいるところなので、ときにはうまく出来ないこともあるわけです。
遺伝的シフトのためには、肉体のDNA構造にある古い記憶を落としていかなければなりません。古い記憶とは、感情的な情緒のことです。あなたが受け継いでいるあなたの祖先が感情的情緒的に抱えてきたものは、すでにクリアしたものを除いて一つ残らずすべて、あなたがいま肉体のなかで向き合っているものです。
人生を振り返ってみれば、ほとんどの人は何らかの強烈な体験を持っています。
そうした感情的に取り込まれたものがトラウマになります。そうした多くのものは辛く、実に惨めで、かなり情緒的なものです。でもいま、少し愛が入ってきています。あなた自らの感情的情緒的パターンを見て、あなたの祖先たちはおそらく、もっと多くのドラマやトラウマを抱えていたことを察してください。
遺伝子の再構築の際、あなたはそうした細胞レベルでの記憶をすべて捨て、自らが望むものだけを取り込みます。そうすると、あなたがいま入っているこの肉体がマインドの望み通りに適合していくのです。
あなた方の肉体はいま、他のいろいろな人たちによって動かされています。
それがあなたの祖先たちであり、近所の人たち、飼っているペット、スーパーマーケットのレジの人、見るものなど、そうしたすべての存在から受け取っている影響力のことです。つまりあなたの肉体は、この空間を埋め尽くす思考や感情などのあらゆるものと回路をつなげており、そうした影響力によって他のさまざまな人々から利用され、動かされているのです。
そうした回路を捨てることが、まず一つです。
自分に対するイメージを捨てることでそれをする人もいますが、何であれ、効果があるならやってみてください。深い安らぎのうちに自分自身と向き合い、自分で自分の心と意識を動かし、自分から肉体に(その逆ではなく)指示をするようにしてください。
私はチャネラーと自称する連中の大半は詐欺師だと思っているが、下記の文章には面白い発想があるので、備忘的に転載しておく。
つまり、我々の自我(「自分」という意識)の本体は、脳ではなく、記憶であり、記憶は「電磁域」内にある、ということだ。この電磁域を「オーラ」と言うと途端に話がいかがわしい感じになるのだが、実際、オーラとは電磁域とそう異なるものでもないだろう。それをやたらと神秘的な感じで言うから、逆に誰にも信じてもらえなくなるのだ。
パソコンを考えれば分かるように、記憶(記録内容)とはソフト(の中身)であり、ハード(記録媒体)のことではない。ならば、我々の脳がただのハードに過ぎないことは自明だろう。そして、その脳に記録されたものを我々自身が自由に変更できないことは、我々に本当に自由意思があるのか、という哲学的な大問題につながっていく。つまり、我々は自分が考えていることに、ある程度の道筋をつけ、コントロールすることはできるが、それをコントロールしているのが本当に自分なのか、あるいは他の何者かなのかは最終的には分からないのである。
そういう面倒な話はいい。
話のポイントは、我々の「電磁域」は、他の電磁域からの影響を常に受けている、ということだ。これは電波の混戦が容易に起こることを考えれば、納得できるだろう。そして、人間の生命活動とは結局は電子の活動であることは明らかである。(危篤の患者の心臓の脈拍が電子的に画像化できるのをイメージすればよいだろう。つまり、人間とは有機的ロボットなのである。)ならば、下記文章の説は、筋が通っている、と私には思える。
私は最近、夢を見ることが多いが、起きると肝臓のあたりに疲れを感じていることが多い。「夢は五臓の疲れ」と、昔の人はうまいことを言ったものだ。最近は「唯脳論」とやらで、やたらと脳の優位が説かれてきたが、脳とは身体全体の記憶、あるいは身体全体の情報を可視化(意識化)する情報端末程度のものではないか。もちろん、そこには情報加工のシステムが存在しているのだが、フロイトの言う「無意識」の領域は、脳にではなく、「オーラ」の中にあり、しかもそれは日夜、他のオーラ(そこには動物や植物のオーラも混じる、というのも可能性として考えてよい。)の影響を受けている、という考えは、「電磁域」としての記憶という考えとともに、今後、新たな人間論の一つの土台にもなりうる考えだと思う。
我々が他のオーラの影響を常に受けている、というのは、嫌いな人間が傍にいると我々の心がひどく憂鬱になる、という一事でも理解できそうだ。もちろん、それを嫌う自分自身の心に原因がある、とも言えるのだが、実際に他者の持つオーラの影響を受けている、という考えもなかなか面白い、と思うのである。もちろん、オーラという言葉を使うまでもなく、我々は自分の好きなものに取り囲まれていれば愉快な気分になるし、嫌いなものが身近にあれば不愉快になる、というだけの話としてもいいのだが。
(以下引用)
心臓だけでなく肝臓もまたこの時期には、何かと問題が起きてくることが多いのです。優しくしてあげることです。疲労感で頭がボンヤリして、何にも集中できないこともあるでしょう。何か宙に浮いているようで変になりそうだと感じたり、何を考えていたのか思い出せなかったりするので年齢のせいかと思ったりするでしょう。でもそれは年齢とはまったく関係ないのです。
そのわけとはこうです。
あなた方は記憶とはすべて頭の中に保存されていると思っていますが、実際には記憶というマインドはあなたの電磁域、つまり呼び方はどうであれあなた方の言うオーラ域内にあります。ですから頭の中にあるのは脳であり、脳は行為や本能、生存と呼ばれる一時的な記憶を抱えているだけなのです。ですから思考や概念が出てくるところはマインドであり、そのオーラがあなたの肉体周辺を取り巻いています。
あなた方はいまマインド、つまりオーラ域のもっといろいろな部分にアクセスすることを学んでいますが、それまでのずっと窮屈な方法に慣れている結果、脳がデータを容易に拾ってくることに慣れています。それで頭の中にあってほしいデータは、実はずっと外側のオーラ域の中にあるのです。脳はそこから思考を拾って戻そうとするのですが、その道を覚えていないので途中でそれを落っことしてしまいます。つまりすぐそこにあるのに、今何を話していたのか思い出せず、それは話の途中で消えてしまうのです。
そうしたことは誰もが経験することであり、年齢とは無関係なのです。
高齢ならそれを歳のせいにするでしょうが、20代であっても同じ経験をするのです。脳は、あなた自身のマインドにもっと遠くまでアクセスすることを学んでいるところなので、ときにはうまく出来ないこともあるわけです。
遺伝的シフトのためには、肉体のDNA構造にある古い記憶を落としていかなければなりません。古い記憶とは、感情的な情緒のことです。あなたが受け継いでいるあなたの祖先が感情的情緒的に抱えてきたものは、すでにクリアしたものを除いて一つ残らずすべて、あなたがいま肉体のなかで向き合っているものです。
人生を振り返ってみれば、ほとんどの人は何らかの強烈な体験を持っています。
そうした感情的に取り込まれたものがトラウマになります。そうした多くのものは辛く、実に惨めで、かなり情緒的なものです。でもいま、少し愛が入ってきています。あなた自らの感情的情緒的パターンを見て、あなたの祖先たちはおそらく、もっと多くのドラマやトラウマを抱えていたことを察してください。
遺伝子の再構築の際、あなたはそうした細胞レベルでの記憶をすべて捨て、自らが望むものだけを取り込みます。そうすると、あなたがいま入っているこの肉体がマインドの望み通りに適合していくのです。
あなた方の肉体はいま、他のいろいろな人たちによって動かされています。
それがあなたの祖先たちであり、近所の人たち、飼っているペット、スーパーマーケットのレジの人、見るものなど、そうしたすべての存在から受け取っている影響力のことです。つまりあなたの肉体は、この空間を埋め尽くす思考や感情などのあらゆるものと回路をつなげており、そうした影響力によって他のさまざまな人々から利用され、動かされているのです。
そうした回路を捨てることが、まず一つです。
自分に対するイメージを捨てることでそれをする人もいますが、何であれ、効果があるならやってみてください。深い安らぎのうちに自分自身と向き合い、自分で自分の心と意識を動かし、自分から肉体に(その逆ではなく)指示をするようにしてください。
PR