「混沌堂主人雑記」から抜粋転載。
この前の部分に載っていた戦争の「人を殺す心理」の話も面白かったが、長くなるので割愛する。
実は、今朝の覚め方(がた)の朦朧思考の中で、「戦争での『捕虜』の扱いというのは、戦争という非人権の場と人権思想(あるいはヒューマニズム)の葛藤する場面ではないか」というのを考えたのだが、要するに、「捕虜は殺してはならない、虐待してもならない」という、近代戦争の「常識」は戦争という非人権の場と完全に矛盾する、ということである。たとえば海戦で相手軍艦が沈没して敵の乗組員が海に大量に浮かんでいる場合、これを救助するか、上から機銃掃射して皆殺しにするか、という問題である。もちろん、こういう場合は救助すべきだ、というのが近代戦争での考え方だろうが果たしてそこに矛盾は無いか、ということである。(もちろん矛盾してるが、無視されてきたのだろう。)
まあ、下の記事とは別の問題になるから、この問題は私の宿題としておく。
学校の部活動が軍隊とよく似ている、あるいは学校そのものが軍隊とよく似ている、というのは時々言われる言葉だが、それをかなり詳細に論じている点で、下の記事は価値があると思う。
特に、
先任兵の言葉は絶対である。
しごきに次ぐしごき、休みなく演習がある。
当然、鬱積したものが溜まり、私的制裁へ。
鉄拳制裁は当たり前、いかがわしい芸をさせて興ずる事もよくあること。
それでも、一体感が強く、脱退しようとすると何故か慰留する。
というのは、強豪部活の日常的風景ではないか。PL(すでに廃部決定だが)とか大阪桐蔭とか、その代表だろう。もちろん野球だけではないし、文化部でも、なぜか吹奏楽部などはこうした「軍隊式訓練」がかなり一般的なようだ。それほど鍛えないといい成績は残せない、ということだ。
「集団競技」だから、「足抜け」「敵前逃亡」は犯罪視されるし、いい結果を残せば「勲章」が貰え、本人もそれに大満足で、「相手をたくさん殺してよかった(チームが勝ってよかった。)俺たちのやってきたすべては結局正しかったのだ」となるわけでる。まして、その「人殺し」や「軍事教練」を批判する人々がいたら、それこそ「何も知らない部外者が、何を余計なことを言うか」となる。まあ、その状態から各自がある種の利益が得られるからこそ、こういう非人間的習慣がいつまでも続くわけである。
これが日本の部活が軍隊体質から抜けられない理由だろう。
(以下引用)
部活の「軍国的効能」の指摘は
ヤフー知恵袋 より
上記文抜粋
・・・・・・・
sorimatigoriさん2010/5/1417:55:52
日本の部活動は、戦前の兵役嫌い対策や、戦場での実力発揮のための政策ですか?
部活動は集団生活だし、合宿とか特に。軍事演習に近いものがある。よって、兵役嫌い対策。
公式戦を奨励して、本番に強い国民に育てる。
学校の部活動を盛んにして、国民全体に行き渡らせる。諸外国のようにクラブチームが盛んな体制では困る。
現に、日本の部活の体質は特異だ。さらに、戦前に庶民レベルで様々な兵役嫌い対策があった。
兵役を嫌う風潮があったから、隠密に引き起こした政策ではないか。
そのような文化を根付かせたのではないかと思う。
・・・・・中略・・・
ベストアンサーに選ばれた回答
one_aristocratさん 2010/5/1609:47:54
どうも硬派の部活動は、帝国陸軍の内務班に似ている。
徴兵された初年兵(1年生)が入営し、古参兵にこき使われる。
星の数より、メシの数。
先任兵の言葉は絶対である。
しごきに次ぐしごき、休みなく演習がある。
当然、鬱積したものが溜まり、私的制裁へ。
鉄拳制裁は当たり前、いかがわしい芸をさせて興ずる事もよくあること。
それでも、一体感が強く、脱退しようとすると何故か慰留する。
この内務班特有の嫌らしさは、自分がひどい目にあっても次の世代へ引き継がれる。
兵役が満期になると除隊(卒業)する。
中隊長(監督)や小隊長(コーチ)は、兵の事について絶対的な命令を下すが、完全な支配権は有していない。
むしろ公式戦は、単調できつい演習に目標を与えられるのでよい。
帝国陸軍も、実戦の時の方が兵士には歓迎された。
前線の方が、あまり階級を意識したりする事がなく、私的制裁もかなり減ったそうである。
大学(ただし戦前の大学、現在の推薦で集められた者は除く)の場合、良家の子弟が欧米の学校のようにスポーツに興じるためで、いわゆる部活動と異なる。
比較的民主的で景気のよかった大正時代や昭和初期は、軍人は「狂犬」「税金の無駄遣い」といって蔑まれていた。
当時も兵役はあったが、全員入営するといったものではない。
帝国陸軍を研究すると、日本の暗部の深層心理みたいのが見えてくる。
もともと、兵役とは違う概念で作られたものが、いつの間にかああなってしまったのだろう。
・・・・・中略・・・・・
onia222さん 2010/5/1500:08:33
ご指摘の懸念は略合っていると思います。
日本の部活動は、戦前の兵役嫌い対策や、戦場での実力発揮のための政策の延長です。ただ体育会系の頭の弱い人たちは、そうとは気付かずやって来た。
部活動は集団生活だし、合宿とか特に。軍事演習に近いものがある。よって、兵役嫌い対策にもなった。
公式戦を奨励して、本番に強い国民に育てる。
学校の部活動を盛んにして、国民全体に行き渡らせる。
大体スポーツは古代ローマの時代から奴隷たちを戦士に登用するために行われた。或いは奴隷同志を戦わせてローマ市民の娯楽とした。従って何もステイタスではなくて下層市民の娯楽であり、奴隷がするものだった。
その点で今の日本人は勘違いが甚だしい。オリンピックも元々は戦争を回避する手段だったとする説があるが、その話も怪しいものだ。ユダヤの「シオンの議定書」と云うのが100年以上前(イスラエル建国のため)に出来た。
彼らは世界支配のためにスポーツ振興、セックスの蔓延、スクリーン活動を推進して来た。スクリーンとは映画であり、今はテレビやインターネット支配の戦略である。
其れに日本はすっかり毒されて来た。自民党の政策と低質な教育の場や映像を通じてスポーツを美化し、併せてセックスを美化して日本人全体を、すっかり腰抜けと腑抜けの国にしたのである。
日本ではスポーツマンシップなどは全くない、手段を選ばず何をしても良いとする「勝てば官軍」の低質な奴らの支配するマフィア構造にしたのです。
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
ふと思うのが「頭の弱い体育会系の人」は、すぐ隣が「極悪人・異常人」であると思う。
そういう「異常人・極悪人予備軍」が「体育会系」と、尊ばれる現代日本が異常なのは当然なことなのである。
なんというか、読んでもらえたらいいと思う。
お読みくださりありがとうございます。
この前の部分に載っていた戦争の「人を殺す心理」の話も面白かったが、長くなるので割愛する。
実は、今朝の覚め方(がた)の朦朧思考の中で、「戦争での『捕虜』の扱いというのは、戦争という非人権の場と人権思想(あるいはヒューマニズム)の葛藤する場面ではないか」というのを考えたのだが、要するに、「捕虜は殺してはならない、虐待してもならない」という、近代戦争の「常識」は戦争という非人権の場と完全に矛盾する、ということである。たとえば海戦で相手軍艦が沈没して敵の乗組員が海に大量に浮かんでいる場合、これを救助するか、上から機銃掃射して皆殺しにするか、という問題である。もちろん、こういう場合は救助すべきだ、というのが近代戦争での考え方だろうが果たしてそこに矛盾は無いか、ということである。(もちろん矛盾してるが、無視されてきたのだろう。)
まあ、下の記事とは別の問題になるから、この問題は私の宿題としておく。
学校の部活動が軍隊とよく似ている、あるいは学校そのものが軍隊とよく似ている、というのは時々言われる言葉だが、それをかなり詳細に論じている点で、下の記事は価値があると思う。
特に、
先任兵の言葉は絶対である。
しごきに次ぐしごき、休みなく演習がある。
当然、鬱積したものが溜まり、私的制裁へ。
鉄拳制裁は当たり前、いかがわしい芸をさせて興ずる事もよくあること。
それでも、一体感が強く、脱退しようとすると何故か慰留する。
というのは、強豪部活の日常的風景ではないか。PL(すでに廃部決定だが)とか大阪桐蔭とか、その代表だろう。もちろん野球だけではないし、文化部でも、なぜか吹奏楽部などはこうした「軍隊式訓練」がかなり一般的なようだ。それほど鍛えないといい成績は残せない、ということだ。
「集団競技」だから、「足抜け」「敵前逃亡」は犯罪視されるし、いい結果を残せば「勲章」が貰え、本人もそれに大満足で、「相手をたくさん殺してよかった(チームが勝ってよかった。)俺たちのやってきたすべては結局正しかったのだ」となるわけでる。まして、その「人殺し」や「軍事教練」を批判する人々がいたら、それこそ「何も知らない部外者が、何を余計なことを言うか」となる。まあ、その状態から各自がある種の利益が得られるからこそ、こういう非人間的習慣がいつまでも続くわけである。
これが日本の部活が軍隊体質から抜けられない理由だろう。
(以下引用)
部活の「軍国的効能」の指摘は
ヤフー知恵袋 より
上記文抜粋
・・・・・・・
sorimatigoriさん2010/5/1417:55:52
日本の部活動は、戦前の兵役嫌い対策や、戦場での実力発揮のための政策ですか?
部活動は集団生活だし、合宿とか特に。軍事演習に近いものがある。よって、兵役嫌い対策。
公式戦を奨励して、本番に強い国民に育てる。
学校の部活動を盛んにして、国民全体に行き渡らせる。諸外国のようにクラブチームが盛んな体制では困る。
現に、日本の部活の体質は特異だ。さらに、戦前に庶民レベルで様々な兵役嫌い対策があった。
兵役を嫌う風潮があったから、隠密に引き起こした政策ではないか。
そのような文化を根付かせたのではないかと思う。
・・・・・中略・・・
ベストアンサーに選ばれた回答
one_aristocratさん 2010/5/1609:47:54
どうも硬派の部活動は、帝国陸軍の内務班に似ている。
徴兵された初年兵(1年生)が入営し、古参兵にこき使われる。
星の数より、メシの数。
先任兵の言葉は絶対である。
しごきに次ぐしごき、休みなく演習がある。
当然、鬱積したものが溜まり、私的制裁へ。
鉄拳制裁は当たり前、いかがわしい芸をさせて興ずる事もよくあること。
それでも、一体感が強く、脱退しようとすると何故か慰留する。
この内務班特有の嫌らしさは、自分がひどい目にあっても次の世代へ引き継がれる。
兵役が満期になると除隊(卒業)する。
中隊長(監督)や小隊長(コーチ)は、兵の事について絶対的な命令を下すが、完全な支配権は有していない。
むしろ公式戦は、単調できつい演習に目標を与えられるのでよい。
帝国陸軍も、実戦の時の方が兵士には歓迎された。
前線の方が、あまり階級を意識したりする事がなく、私的制裁もかなり減ったそうである。
大学(ただし戦前の大学、現在の推薦で集められた者は除く)の場合、良家の子弟が欧米の学校のようにスポーツに興じるためで、いわゆる部活動と異なる。
比較的民主的で景気のよかった大正時代や昭和初期は、軍人は「狂犬」「税金の無駄遣い」といって蔑まれていた。
当時も兵役はあったが、全員入営するといったものではない。
帝国陸軍を研究すると、日本の暗部の深層心理みたいのが見えてくる。
もともと、兵役とは違う概念で作られたものが、いつの間にかああなってしまったのだろう。
・・・・・中略・・・・・
onia222さん 2010/5/1500:08:33
ご指摘の懸念は略合っていると思います。
日本の部活動は、戦前の兵役嫌い対策や、戦場での実力発揮のための政策の延長です。ただ体育会系の頭の弱い人たちは、そうとは気付かずやって来た。
部活動は集団生活だし、合宿とか特に。軍事演習に近いものがある。よって、兵役嫌い対策にもなった。
公式戦を奨励して、本番に強い国民に育てる。
学校の部活動を盛んにして、国民全体に行き渡らせる。
大体スポーツは古代ローマの時代から奴隷たちを戦士に登用するために行われた。或いは奴隷同志を戦わせてローマ市民の娯楽とした。従って何もステイタスではなくて下層市民の娯楽であり、奴隷がするものだった。
その点で今の日本人は勘違いが甚だしい。オリンピックも元々は戦争を回避する手段だったとする説があるが、その話も怪しいものだ。ユダヤの「シオンの議定書」と云うのが100年以上前(イスラエル建国のため)に出来た。
彼らは世界支配のためにスポーツ振興、セックスの蔓延、スクリーン活動を推進して来た。スクリーンとは映画であり、今はテレビやインターネット支配の戦略である。
其れに日本はすっかり毒されて来た。自民党の政策と低質な教育の場や映像を通じてスポーツを美化し、併せてセックスを美化して日本人全体を、すっかり腰抜けと腑抜けの国にしたのである。
日本ではスポーツマンシップなどは全くない、手段を選ばず何をしても良いとする「勝てば官軍」の低質な奴らの支配するマフィア構造にしたのです。
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
ふと思うのが「頭の弱い体育会系の人」は、すぐ隣が「極悪人・異常人」であると思う。
そういう「異常人・極悪人予備軍」が「体育会系」と、尊ばれる現代日本が異常なのは当然なことなのである。
なんというか、読んでもらえたらいいと思う。
お読みくださりありがとうございます。
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