最近の人間(特に若者)が、「人前で怒りを示すこと」をすべて「キレる」で表すことを疑問視したツィートに反応したツィートの一部だが、私も、これは良くない傾向だと思う。いや、そのツィートによって初めて意識したのだから偉そうなことは言えないが、たとえば、若いころの流行語で、それを耳にするたびに腹が立った「ウザい」という言葉も、今の私はさほど気にならなくなった(まあ、さすがに、自分が「ウザい」と言われる対象になると、その言葉に殺意が湧くが、他人にはこの感覚は理解できないかもしれない。)ように、言葉というのは慣れてしまうものだが、その慣れてしまうこと自体が良くないのではないか。
話を「キレる」に戻すと、怒りというのは理性でコントロールできる段階とコントロールできない段階があり、「キレる」はその後者を意味したはずだ。ところが、例のテレビ番組での若一氏の怒りは(音声無しの動画でしか見ていないが)十分に抑制されたものだったと思う。つまり、怒ってはいたが「キレて」はいない。ただ、周囲の人間が凍り付いた空気は無声の動画でも感じられた。それは「オンエア中のテレビ番組生放送」の中で有りうべからざる事態が現出したからだろう。つまり、プロデューサーその他、偉い人たちがGOサインを出した番組内容が目の前で批判されているという驚天動地の事態に為す術を知らないという状態だったのではないか。
まあ、それはともかく、「怒りの表出」は必ずしも「キレる」と単純に言えるものばかりではない、ということだ。映画やドラマなどに毒されて、怒った人間は周囲の物をぶっ壊すような行動を取るものだ、と思っている若者は多いと思うが、冷静で理性的な人間は物に当たったりはしない。だが、その怒りが、「キレた」人間の怒りより小さいわけではない。そもそも、その手の行動(物体破壊行為や大声での威嚇)は、周囲の人間に見せるための「お芝居」なのだから、むしろ「本当はキレてはいない」のだ。
- 町山智浩さんがリツイート

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