吉田所長が癌で死んだのは、事故現場での被曝が原因だったかと思われるので、つまり「特攻隊員は英雄」という靖国神社的思想で英雄視されたわけである。
(以下引用)
地震の3年前の2008年、東電でも本店の技術者たちは、「福島第一でも津波対策は不可避」と結論づけていた。それにもかかわらず、東電幹部は対策を2016年まで先送りすると決めた。当時、経営状態が厳しかったためと見られている。 その意思決定の中心にいたのは、ほかならぬ吉田だった。彼は、2007年4月から2010年6月まで、東電本店の原子力設備管理部長を務めている。津波の想定や対策の担当部長である。もちろん最終決定は、より上層の役員らであったが、津波想定潰しには、吉田にも相応の責任があった。 そのころ、原子力設備管理部に所属する吉田の部下たちは、津波の専門家たちに根回ししたり、文部科学省の地震予測の報告書を書き換えさせたりして、東電の津波対策が遅れていることを露見させないように工作を続けていた。 日本原電は、前述した東海第二の津波対策をこっそり進めていた。日本原電の幹部は、NHKの取材にこう話している。 「他の電力のことも考えながら対策をやるというのが原則でして。東京電力とかに配慮をしながら、物事をすすめるという習慣が身についている。対策をやってしまえば、他の電力会社も住民や自治体の手前、安全性を高めるため対策をとらないといけなくなる、波及するわけです。だから気をつけている」 福島第一から北に115キロ離れた東北電力女川原発は、2008年11月に、大津波を予測する報告書をまとめていた。宮城〜福島沖で発生した貞観地震(869年)についての最新の研究成果を取り入れていた。 ところがこの内容は東電にとって都合が悪く、福島第一に適用すれば想定される津波は敷地の高さを超え、対策を迫られるものだった。 そこで東電は、東北電力に圧力をかけ、報告書を書き換えさせた。その決定がされた東電社内会議(2008年11月13日)のトップは、当時の社内メールによると吉田だったとみられている。 2010年6月、吉田は福島第一所長に異動。わずか9カ月後、大津波に襲われる。 映画の中で説明されるように、「想定外の大津波」ではなかった。映画パンフレットに書かれているような「人間の想定を超えた事態」でもなかった。日本原電や東北電力と同じ程度に津波対応を進めていれば、避けられた事故だったのだ。
(以下引用)
福島核災害を「美談」に仕立て上げた映画『Fukushima50』が描かなかったもの
2020.03.11
津波対策担当の部長だった吉田昌郎
東北電力の報告書を書き換えさせた東電
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