「晴耕雨読」から、笹田惣介氏のツィッターまとめを転載。
もちろん、ハーンの「日本の面影」は、私自身大好きな文章であるから転載するのだが、改めて読むと、今の日本は西洋文化の侵入によって精神そのものがまったく変わってしまったと思う。夏目漱石が「三四郎」の中でこれからの日本はどうなるという質問に対し、「滅びるね」と書いたのは、この西洋文化に精神が汚染された状況を意味していたのだろう。その懸念は「吾輩は猫である」にも繰り返し述べられているのだが、あの中で作者に憎まれ、攻撃されている金満家金田氏こそが、資本主義国として「発展」しつつあった日本を代表する精神であったわけだ。
なお、「日本の面影」は小泉八雲の伝記としてテレビドラマ化されたもののタイトルにもなっているが、そちらも見事な出来(脚本は山田太一だったと思う)なので、一度はご覧になることをお勧めする。ジョージ・チャキリスもなかなかの好演だし、壇ふみは、一世一代の名演である。
(以下引用)
2013/10/4
「【ラフカディオ・ハーン「日本の面影」】:笹田 惣介氏」 天皇と近代日本
https://twitter.com/show_you_all
>紀瀬美香 ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」 http://t.co/x1hPf0end8 人生の喜びは周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を我々の内に培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は他にあるまい。
【ラフカディオ・ハーン「日本の面影」】
日本の生活にも、短所もあれば愚劣さもある。
悪もあれば残酷さもある。
だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しの良さに目を見張るばかりだ。
> その時代は何処に?
1894年より以前の日本を描いているようです。
日本人には「古くからの質素で健全な、自然で節度ある誠実な生活様式を捨て去る危険」があると彼は忠言。
質素さを保つ限り日本は強いだろうが、贅沢な思考を取り入れたなら弱くなっていくと。
----------------------
http://t.co/x1hPf0end8
ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」
ラスカディオ・ハーン氏(1850~1904) はギリシア生まれのジャーナリスト・作家で、明治23(1890))年に通信記者として来日し、明治29年に帰化して小泉八雲と名乗りました。
そのハーン氏によって著わされた『日本の面影』
は来日後初の作品で、1894年にボストンとニューヨークで出版されました。
以下はその『日本の面影』の抜粋です。
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日本の生活にも、短所もあれば愚劣さもある。悪もあれば残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しの良さに目を見張るばかりだ。
田舎の人たちは外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちが一休みをするたびに、村の老人が私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。
こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。
この村落は美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には日本人の造型に対する優れた美的感覚を表してないものは何一つとしてない。花の金蒔絵が施された時代物の目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。
実際に今日の日本のどこかで、全く面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。
これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも私に実に親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、他の国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、決してわざとらしいものではない。彼らの善意は全く意識したものではない。そのどちらも心から素直に溢れ出てきたものなのである。
この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強く何かを期待しているような、何ともいえない表情が浮かんでいる。何か面白いものを待ち受けている雰囲気が顔からにじみ出ている。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に自分の方から出かけてゆくのである。
日本人は、野蛮な西洋人がするように、花先だけを乱暴に切り取って意味のない色の塊を作り上げたりはしない。日本人はそんな無粋なことをするには、自然を愛しすぎているといえる。
日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、一体どれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなことも分からずにただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。
私が思うに、日本の生徒の平均的な図画の才能は、西洋の生徒より少なくとも五十パーセントは上回っている。この民族の精神は、本来が芸術的なのだ。
神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとってはどうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない神道という存在に舌を巻くしかないのだ。
日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やその他の面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。
日本人のように幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を我々の内に培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は他にあるまい。
もちろん、ハーンの「日本の面影」は、私自身大好きな文章であるから転載するのだが、改めて読むと、今の日本は西洋文化の侵入によって精神そのものがまったく変わってしまったと思う。夏目漱石が「三四郎」の中でこれからの日本はどうなるという質問に対し、「滅びるね」と書いたのは、この西洋文化に精神が汚染された状況を意味していたのだろう。その懸念は「吾輩は猫である」にも繰り返し述べられているのだが、あの中で作者に憎まれ、攻撃されている金満家金田氏こそが、資本主義国として「発展」しつつあった日本を代表する精神であったわけだ。
なお、「日本の面影」は小泉八雲の伝記としてテレビドラマ化されたもののタイトルにもなっているが、そちらも見事な出来(脚本は山田太一だったと思う)なので、一度はご覧になることをお勧めする。ジョージ・チャキリスもなかなかの好演だし、壇ふみは、一世一代の名演である。
(以下引用)
2013/10/4
「【ラフカディオ・ハーン「日本の面影」】:笹田 惣介氏」 天皇と近代日本
https://twitter.com/show_you_all
>紀瀬美香 ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」 http://t.co/x1hPf0end8 人生の喜びは周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を我々の内に培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は他にあるまい。
【ラフカディオ・ハーン「日本の面影」】
日本の生活にも、短所もあれば愚劣さもある。
悪もあれば残酷さもある。
だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しの良さに目を見張るばかりだ。
> その時代は何処に?
1894年より以前の日本を描いているようです。
日本人には「古くからの質素で健全な、自然で節度ある誠実な生活様式を捨て去る危険」があると彼は忠言。
質素さを保つ限り日本は強いだろうが、贅沢な思考を取り入れたなら弱くなっていくと。
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http://t.co/x1hPf0end8
ラフカディオ・ハーンの「日本の面影」
ラスカディオ・ハーン氏(1850~1904) はギリシア生まれのジャーナリスト・作家で、明治23(1890))年に通信記者として来日し、明治29年に帰化して小泉八雲と名乗りました。
そのハーン氏によって著わされた『日本の面影』
は来日後初の作品で、1894年にボストンとニューヨークで出版されました。
以下はその『日本の面影』の抜粋です。
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日本の生活にも、短所もあれば愚劣さもある。悪もあれば残酷さもある。だが、よく見ていけばいくほど、その並外れた善良さ、奇跡的と思えるほどの辛抱強さ、いつも変わることのない慇懃さ、素朴な心、相手をすぐに思いやる察しの良さに目を見張るばかりだ。
田舎の人たちは外国人の私を不思議そうな目で見つめる。いろんな場所で私たちが一休みをするたびに、村の老人が私の洋服を触りに来たりするのである。老人は、謹み深く頭を下げ愛嬌のある笑みを浮べて抑えきれない好奇心を詫びながら、私の通訳に変わった質問をあれこれぶつけている。
こんなに穏やかで優しい顔を、私はこれまで見たことがない。その顔は、彼らの魂の反映であるのだ。私はこれまで怒鳴り声をひとつも耳にしたことがないし、不親切な行為を目にしたこともないからである。
この村落は美術の中心地から遠く離れているというのに、この宿の中には日本人の造型に対する優れた美的感覚を表してないものは何一つとしてない。花の金蒔絵が施された時代物の目を見張るような菓子器。飛び跳ねるエビが一匹小さく金であしらわれた透かしの陶器の盃。巻き上がった蓮の葉の形をした青銅製の茶托。さらに、竜と雲の模様が施された鉄瓶や、取っ手に仏陀の獅子の頭がついた真鍮の火鉢までもが私の目を楽しませてくれ、空想をも刺激してくれるのである。
実際に今日の日本のどこかで、全く面白味のない陶器や金属製品など、どこにでもあるような醜いものを目にしたなら、その嫌悪感を催させるものは、まず外国の影響を受けて作られたと思って間違いない。
これまで立ち寄った小さな田舎の村々と変わらず、ここの村の人たちも私に実に親切にしてくれた。これほどの親切や好意は想像もできないし、言葉にもできないほどである。それは、他の国ではまず味わえないだろうし、日本国内でも奥地でしか味わえないものである。彼らの素朴な礼儀正しさは、決してわざとらしいものではない。彼らの善意は全く意識したものではない。そのどちらも心から素直に溢れ出てきたものなのである。
この国の人はいつの時代も、面白いものを作ったり探したりして過ごしてきた。ものを見て心を楽しませることは、赤ん坊が好奇心に満ちた目を見開いて生まれたときから、日本人の人生の目的であるようだ。その顔にも、辛抱強く何かを期待しているような、何ともいえない表情が浮かんでいる。何か面白いものを待ち受けている雰囲気が顔からにじみ出ている。もし面白いものが現れてこないなら、それを見つける旅に自分の方から出かけてゆくのである。
日本人は、野蛮な西洋人がするように、花先だけを乱暴に切り取って意味のない色の塊を作り上げたりはしない。日本人はそんな無粋なことをするには、自然を愛しすぎているといえる。
日本の古い庭園がどのようなものかを知った後では、イギリスの豪華な庭を思い出すたびに、一体どれだけの富を費やしてわざわざ自然を壊し、不調和なものを造って何を残そうとしているのか、そんなことも分からずにただ富を誇示しているだけではないかと思われたのである。
私が思うに、日本の生徒の平均的な図画の才能は、西洋の生徒より少なくとも五十パーセントは上回っている。この民族の精神は、本来が芸術的なのだ。
神道は西洋科学を快く受け入れるが、その一方で、西洋の宗教にとってはどうしてもつき崩せない牙城でもある。異邦人がどんなにがんばったところで、しょせんは磁力のように不可思議で、空気のように捕えることのできない神道という存在に舌を巻くしかないのだ。
日本がキリスト教に改宗するなら、道徳やその他の面で得るものは何もないが、失うものは多いといわねばならない。これは公平に日本を観察してきた多くの見識者の声であるが、私もそう信じて疑わない。
日本人のように幸せに生きていくための秘訣を十分に心得ている人々は、他の文明国にはいない。人生の喜びは周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐を我々の内に培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は他にあるまい。
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