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イスラム的規範から見た「性の自由化」問題

「混沌堂主人雑記」から記事全文を転載。
記事タイトルどおり面白い記事である。
細部には首をかしげる部分もあるのだが、現在の性的社会状況への貴重な一石になるのではないだろうか。
特に、「性自認」の問題、つまり、自分の性を、外的条件に関わらず当人が勝手に決めることのおかしさについては私も奇妙な話だと思っていたが、専門家に、それは「性同一障害」とか何とかいう医学的な障害だ、と言われると、「気の毒な障害者なんだから、仕方ないな」と、何となく受け入れるしかなさそうな気がしたし、どうせ他人事なのだから、さほど気にもしなかったわけである。しかし、「自分は肉体的には男性だが、精神的には女性である」と自称する男が銭湯や温泉の女風呂に入ってきたら、女性たちはそれを許すのだろうか。「かえって嬉しがるさ」という野次を飛ばす連中もいるだろうが、不快に思う女性のほうが大半だろう。小学生の男の子が銭湯の女風呂に入るのを嫌がる女性も多いのである。
同性愛者の問題は、まあ趣味の問題であり、べつに社会的な法規制が必要だとは思わない。しかし、何もかもが性的問題に還元されてしまうために、同性間の友情が困難になってしまったように思う。今時、男同士で行動しようものなら、あいつらはホモだ、と後ろ指をさされることになりそうな気がする。性的交渉が前提であるホモやレズと友情はまったく別だと思う私のほうが現代では異端者なのだろうか。いやまあ、年齢的には自分自身とはまったく無関係な話題なのだが、性問題は結婚制度などの現代社会の根幹につながる問題なので、考慮する価値があるのである。
婚前交渉の禁止などの問題も興味深い。はたして性の自由化は人間を幸福にしてきたのだろうか。

なお、少女マンガは昔から同性愛を漫画の大きなテーマとしてきて、私もそれを愛読してきた人間なので、同性愛者が社会から忌避され、周囲から孤立することの悲しみへの理解はあるつもりである。




(以下引用)




これは面白い。


読めないニックネーム(再開版)  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・


イスラム教のLGBTに関する考え方が世界で1番優れている件
http://eraitencho.blogspot.jp/2017/07/lgbt.html
” どうも。宗教ネタも得意な「えらいてんちょう」です。渋谷区で同性婚が認められるなど、LGBTに対する理解・配慮は急速に進んできております。私は性的マジョリティですが、マイノリティに対する理解が進んでいくのは、喜ばしいことだと思っております。
 さて、店ではLGBT系のイベントも多くやっているわけですが、最近とくに話題になる「Xジェンダー」などの議論に関してはちょっと疑問に思うところがあり、今回の更新に至ります。ぜひさまざまな意見を聞かせてほしいところです。



 【イスラム教にはLGBTは存在しない】
 イスラム教では、LGBTという概念自体想定しません。男は男であり、女は女である。それはペニスの有無で見分けることになります。身体の性だけを考慮する、ということですね。性自認など一切無視です。いや、どこが進んでるんだよ!と思われた皆さん、順を追って説明していきますので、そう焦らないでくださいな。

 【イスラム教は内心に立ち入らない】
 イスラム教は原則として、他人の内心に立ち入ることをしません。一つ、とても興味深いエピソードを紹介します。
 預言者ムハンマドの弟子であったウサーマ٠ブン٠ザイドが、征伐戦争の際に、いままさに敵兵を切り伏せようとしたところ、その敵兵が「ワー、やめてくれ、ラーイラーハイッラッラー(アッラーのほかに神はなし)!」というのです。普通に考えれば、さっきまでイスラム教を迫害していたやつが何を調子のいいこといってんだ、となります。ウサーマ٠ブン٠ザイドもまさにそのように考えて、それを無視して切り伏せ、軍最高司令である預言者ムハンマドにそれを報告したそうです。
 預言者ムハンマドはそれに対して、「まさにそのときに、神に帰依するこころが生まれたかもしれないのに」といって、ウサマを叱責したとのことです。どんなに苦しい状況であっても、外形的に神に帰依する姿勢を見せていれば、その内心は問われない、ということですね。内心を他人がはかることは恣意的判断を生じさせるので、外形だけを基準に法は作られるべきである、というイスラム教の考え方が見てとれます。そしてまさに、内心を自分がはかることも、これまた恣意的判断を生じさせるのを忘れてはいけません。

 【同じものを同じというのは同義反復であり、違うものを同じというのは偽である。】
 ウィトゲンシュタインはそういっているそうです(出典探せず)。ここに「男女平等」という考え方のバカバカしさを見てとります。
 身体的な意味で、男と女は違います。たとえば男にはペニスがありますが、女にはペニスはありません。男は妊娠することができませんが、女は妊娠することができます。男は乳房が大きくなりませんが、女は乳房が大きくなることが多いです。なにより、私たちはある人を見て、男か・女かを区別することができます。男と女は、違っているものなのです。
 もちろん、人間とチンパンジーも違います。われわれは、それを区別することができます。哺乳類と鳥類も違いますし、私という個人とあなたという個人も違うでしょう。違ったものには、違った法規範が妥当する、というのがイスラム教の根本的な考え方です。例えばチンパンジーに礼拝の義務はありません。あるいは、私はある程度お金をもっていますので浄財の義務が生じますが、あなたがお金をもっていなければ浄財の義務は生じません。このように、個人単位でそれぞれ違った義務が生じるほか、違ったカテゴリーには違った法規範を妥当させるわけです。それはあくまでも、外形的なものであり、あなたのこころのなかがどうであるかは問いません。そして、それはどちらの性が上であるとかいったこともありません。ただ、違うものなので違う法規範があるだけのことです。
 
 【性自認が自由なのであれば、私は人間ではないという種自認の自由があるのが論理的必然ではないか】
 ひとには、自分が思う自分の性があり、それが体の性と一致しない場合性同一性障害といわれる、ということになっています。私の友人にもいわゆる性同一性障害の友人が複数人おります。ある種のつらさがあると思います。
 しかし、性自認に基づいて、体を変更させたり、戸籍を変更させたりするのは、ちょっと違うのではないか、というのが私のいまの考えです。
 例えば、私は自分が人間であることに多少なりとも違和感を覚えております。私の友人にも、「自分はサルである」と宣言する人間が複数おります。しかし、それで以て「自分は種自認に基づいてチンパンジーだ。人語をしゃべるチンパンジーなので、そこにあるものをとって食べても人間に対する法である刑法は妥当しない。人権もいらないので、駆除されるのはやぶさかではないが、刑務所にいれられるのは不当である。」と主張するのはどうでしょうか。ちょっと無理があると思います。法はあくまで、外形的な性質に着目するものであるからです。イスラム法ではその考えが徹頭徹尾妥当していますが、日本の法律は、あるいはひとびとの考え方は、そこらへんがちょっとごちゃごちゃになっているパターンが見受けられるのではないでしょうか。

 【同性性交について、あるいは女性の権利としての婚前交渉の禁止について】
 そもそもイスラムの教えでは、婚前交渉が禁じられるため、同性同士は結婚できない以上、同性同士の性交も認められない、という結論になります。
 婚前交渉の禁止は、前近代的な制度とみなされがちですが、私はかなりの合理性を持った教えだと思います。たとえば、日本では中絶率が15%を数えるそうです。いろいろな理由があるので、個々のケースについて良い・悪いということは私には申し上げられませんが、妊娠したら無事生んで育てられるのが良いことはいうまでもありません。婚前交渉の禁止は、望まぬ妊娠とその結果としての中絶を有意に下げます。
 イスラム圏の女性に、日本の結婚せずとも性交するのが当たり前である文化を伝えると、「女性がかわいそう」「養育費はどうなる」といった意見が多くでます。一般的には、イスラム圏では女性は抑圧されている、という意見が出がちですが、婚前交渉の禁止は、養育費や生活保証といった契約がないのに女性と性交をしてはならない、とする規範であるとも考えられるわけです。
 性の自由は、性を売る自由です。サウジアラビアにアダルトビデオに出演する女性はいませんし、アダルトビデオ出演強要問題も生じません。借金が返せなくて、風俗で働く女性もいません。それが良いか悪いかは、読み手の判断に任せますが、私は現在の「性の自由」よりも優れた考え方だと思っております。
(ちなみに、レイプされた女性が石うちになったりするのは、イスラム法上根拠がないと思われます。名誉の殺人とか、あれはイスラムではなく、もともとあった部族の規律かなんかではないでしょうか。)

 同性性交から話がずれました。イスラム法によれば、婚姻をしていない、親族でない男女はいっしょに住むことができません。要するに、性交のチャンスを物理的に制限するわけです。男性同士や女性同士がいっしょに住むことは何らの制限がありません。また、イスラムには他人の家を暴いてはならないという規範もありますので、同性が性交をしているところを暴くのは、違法証拠収集で違法性阻却になるでしょう。よって、隠れてやってくれればよい、ということになります。
 違法証拠収集に関する、非常に興味深いエピソードがありますのでご紹介します。二代目正統カリフのウマルは厳格な人物で、家探しをしてイスラムに反する事態がないかを調査していたそうです。すると、自宅で酒を飲んでいる老人を発見、裁判にかけました。老人は、預言者ムハンマドは「他人の家を暴いてはいけない」といったではないかと抗弁しまして、ウマルは改心し、老人を釈放したそうです。その後、ウマルは老人に無実の罪でとらえていたことを謝罪しにいき、老人はあれ以来酒を飲んでいないことをウマルに報告したそうです。イイハナシダナー

 また、なにを以て性交とするのかも微妙なところです。同性性交では、男性器の女性器への挿入は生じえません。たとえばイスラム圏では男性同士手をつないで歩くのもふつうですし、接触一般は禁じられていません。射精の補助などはいけないのだろうか、ここは勉強不足でわからない(あまりわかろうという気もない・・)。
 
 【愛は禁じられていない】
 イスラム法はあくまで行為を規制するのであって「同性愛」を否定するものではありません。預言者ムハンマドは「自分を一番に愛するのでなければムスリムとはいえない」といっております。預言者ムハンマドは男性ですから、男性から男性への愛は認められるどころかムスリムである必要条件ということになります。類推解釈すれば、女性から女性への愛も、男性から女性への愛も、女性から男性への愛も許されている、というものです。愛は許されています、どのような愛もイスラムは禁じません。

 【まとめ:異性性交も同性性交も、隠れてしよう】
 長くなりました。イスラム教の、LGBTに対する考えをまとめると、このようになります。
 ①イスラム教では、性同一性障害は存在しない。性はあくまで身体の性で決定され、それは「男らしさ」や「女らしさ」とは関係なく、ある法的地位を与えるだけのものである。心の中で自分は女だ、男だ、Xだ、と思うのは自由だし、誰もそれに関知しない。
 ②イスラム教では、性自認に基づく法的地位の変化は生じない。それは、種自認に基づいてあなたがチンパンジーにならないのと同じ理屈である。
 ③イスラム教では、婚前交渉が禁止されるので、同性は結婚できない以上、同性性交は禁じられる。しかし、隠れてやっていることを暴くのは、違法証拠収集であり、違法性阻却事由になる。隠れてやろう。(個人的には、人の性交の話、聞きたくない。)
 ④愛は禁じられていない。愛すべきひとをおおいに愛そう。

以上です。今後の日本でのLGBT運動の一参考にでもなれば幸いです。本当は両性具有の話もあるけど、複雑になるから触れないでこれでオワリ。返信はできればします。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

これ面白いね。

なぜ「内心の自由」に、耶蘇は立ち入るのか?

それ「信仰」の内心こそが、かの宗教の肝だからに思える。

その延長に、西欧近代文明がある。

これは儒教の朱子学も似たところがあるが、そうなるのは両方とも「ルサンチマン」ていうか「現実の世界では、成功なり勝利できなかった思想・宗教」だったから。

特にイエス死後の耶蘇など、ただの糞カルト。
朱子学も「理想を実現できない・中原は金や元に奪われたまま」と恨みつらみを残している。

そういう外になにか形を残せない・出せない宗教・思想だったから他人の「内心」を突っ込んで、「自分は偉い」と勘違いする。
仏教や老荘なら「そんな暇なことするな」ってことだが。

仏教は「修行して悟る」のが肝心で、内心はその過程で重要だが、それ以外はあまり干渉しないように思える。干渉うんうんよりも、「さっさと瞑想しろ・修行しろ」てなる。




てなことで


お読みくださりありがとうございます。




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