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「自分は戦場に行かない連中」が戦争を企図する

浦添市の広報紙から転載。
私の妻の実家が浦添にあり(とは言っても、浦添には戦中にはいなかったのだが)、下の地図の中にある嘉数高台には何度か登っている。まあ、今ではただの展望台のようなものだが、沖縄戦有数の激戦地のひとつだったらしい。
私は前田丘陵は知らないが、嘉数高地の戦闘も同じようなものだっただろう。


 「前田丘陵に、はげしい争奪戦がくりひろげられた。いくたびか攻め、いくたびか攻められた。手榴弾は飛びかい、洞窟やタコ壺壕には弾薬がなげこまれ、夜は夜で、双方とも敵のいつくるともしれぬ夜襲におびえていた。米軍は地上軍に加えて、空からも応援をたのみ、爆弾やナパーム弾が毎日のように投下された。戦車と装甲車は南東の方面から猛烈に攻めたてたが、丘の頂はいまなお頑強な日本軍の手中にあって、兵隊の言葉をかりていえば『ありったけの地獄を一つにまとめた』ようなものであった。(一三五〜一三六頁)
 一方、第二七師団右翼のほうでは五月一日、第三〇七連隊第三大隊が仲間部落を攻め、そこから学校のほうにむかって進撃をつづけていった。ところがこの作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして五名が戦死、米軍はかなりの時間、弾薬にこと欠いてしまった。二日になっても戦況は進展しなかった。3日になって、同連隊の第一大隊では手投弾戦で死闘をくりひろげたが、日本軍もまた、反対側丘腹から手投弾や機関銃弾を雨あられのようにそそいではげしく応戦し、加えて遠距離から八一ミリ砲白砲で攻撃したのである。
 それは全く地獄絵図だった

なお、アメリカは現在は世界最悪の国だと思うが、第二次大戦中の兵士の扱いに関しては、実に「民主国家」らしい理性的な扱いだったと思う。(もちろん、日系兵士や黒人兵士の扱いは別だっただろうが。)その「理性的」であると言う所以は、「良心的兵役拒否」が認められていたことである。「(信仰上の理由から)自分は殺人はできない。したがって兵役を拒否する」ということが容認されていたという点だけでも、当時のアメリカはまだキリスト教の理念が生きている部分はあったと思う。もちろん、キリスト教の指導者の中にも戦争の旗振りをした連中は無数にいただろうが。

映画「ハクソー・リッジ」のキャッチコピーの中で言う「世界一の臆病者」とは、「人を殺せない人間」のことである。戦争中には、人を殺せない人間は臆病者であり、非国民として扱われることになる。まさに、戦争とは狂気の世界である。


(以下引用)



『ハクソー・リッジ』の公開によせて



公開日 2017年06月28日


最終更新日 2017年06月28日



映画ポスター

沖縄戦、前田高地での戦いの実話をベースにした映画作品

 2017年第89回アカデミー賞にノミネートされたメル・ギブソン監督作品『ハクソー・リッジ(原題:HACKSAW RIDGE)』。
 この作品は沖縄戦に従軍した衛生兵デズモンド・T・ドスを主人公とし、ドスが前田高地にある険しい崖での攻防戦の最中、衛生兵として多くの負傷兵の命を救ったことを中心に描く物語です。
 既に米本国では昨年の11月に公開され、多くの人々がこの前田高地での戦いに関心を持ち、日本人、外国人を問わず前田高地、浦添城跡に足を運ぶ数が増えています。


 浦添における日米両軍の戦闘は実に激しく、当時の浦添村の状況は住民の44.6%にもおよぶ4,112人が死亡。 一家全滅率も22.6%という状況で、多くの住民が犠牲となりました。
 以下のグラフは『浦添市史』に掲載された「戦災実態調査票」をマッピングしたものです。青は生存者、赤は戦死者の数を各字別にグラフ化したものですが、ハクソー・リッジ周辺となる浦添市の前田高地周辺の戦死率の高さが目立ち、ハクソー・リッジをめぐる戦いの激しさ、それに巻き込まれてしまった住民の苦しみが可視化されます。
 


繊細実態マップ


戦災実態調査票


 


 毎年6月は沖縄県にとっては大切な時期であり、平和を願い、あの激しかった沖縄戦を忘れることなく、後世に伝えるための数々の催し物が行われます。
 浦添市では、本作『ハクソー・リッジ』を通じて沖縄戦や前田高地での戦いに関心をもった人への平和学習や、平和パネル展といった企画の実施により平和を学ぶ機会を設けるなど、平和事業に取り組んでまいります。各事業については以下の内容でご案内する予定です。準備が整い次第、市民のみならず県内外の皆さんに広くご案内してまいりますので、よろしくお願い申し上げます。


名称日程場所所管課
広報誌の特集展開広報誌6月号に掲載広報うらそえ国際交流課
過去、現在…そして未来へ -平和な未来を考える-6月1日〜29日市立図書館図書館
浦添城跡出土の沖縄戦遺物展6月6日〜7月30日浦添グスク・ようどれ館文化課
「戦がやってきた」原画展 儀間比呂志 作6月14日〜7月2日浦添市美術館美術館
映画「ハクソー・リッジ」から見る浦添・前田高地の戦い6月16日中央公民館3階ホール中央公民館
前田高地の戦跡めぐり6月18日浦添グスク・ようどれ館文化課
沖縄戦パネル展「沖縄・浦添戦(いくさ)展」6月19日〜29日市役所1階ロビー国際交流課

追記>ご要望がたいへん多かった現地のガイドツアーを、浦添市観光協会が『映画「ハクソー・リッジ」の舞台となった浦添城跡前田高地を巡るツアー』としてご用意しました。7月からの土日に設定されております。ご希望の方はリンク先をご参照ください。


 


前田高地学習会の様子
6/16開催 映画『ハクソー・リッジ』から見る浦添・前田高地の戦い から


 


前田高地の戦跡めぐり
6/18開催「前田高地の戦跡めぐり」から


前田高地の戦跡めぐり
6/18開催「前田高地の戦跡めぐり」から


先行上映会の様子
6/19開催『ハクソー・リッジ』先行上映会から


 

『ハクソー・リッジ』関連コンテンツ

 

浦添市史 第五巻資料編4 戦争体験記録より抜粋

前田高地の全景


嘉数高地と前田高地


前田高地の戦闘
写真は米国陸軍公刊戦史 「Okinawa The last battle」 より。


日本軍の総反撃と死闘の末


 態勢を整えた日本軍は、前田守陣地を死守すべく物量に勝る米軍と死闘を展開していった。戦闘のあまりの激しさに米兵の中には発狂者も続出したといわれている。次にその戦闘状況を資料で跡づけていく。


「四月二十九日の未明から朝にかけて、日本軍は、第九六師団前線の前面にかけて総反撃にでた。午前五時十五分、第三八三連隊の第二大隊は、手榴弾や槍をもった日本軍の強襲をうけ、G中隊の一小隊などは、この戦闘で三十名から九名になってしまった。とはいえ、第三八三連隊では二回にわたる日本軍への猛反撃で、およそ二百六十五名の日本兵を倒し、またその日の午後の戦闘では、戦車隊や火炎砲装甲車を先頭に、二百名以上の日本軍をやっつけたのである。(一三四頁)
 四月二十九日に前線交替をするまでに、第三八一連隊は戦闘能力四〇パーセントに激減、損害じつに一千二十一名にのぼった。そのうち五百三十六名は、前田丘陵四日間の戦闘でなくしたものであった。また小隊の中にはわずか五名ないし六名しか残らないところもあった。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、そこまで兵器をもっていく気力さえ失っていた。
 第三〇七連隊が、四月二十九日浦添丘陵分水嶺に達しておどろいたことには、ニードル・ロックのてっぺんは、幅六十センチそこそこの広さしかないということだった。丘陵の南側はけずられたように急に落ち、高さは北側ほどではなかったが、日本軍が洞窟を掘り、トンネルを通したのはここである。地下壕でそれぞれの洞窟を連絡していることがわかったのはまったく偶然からで、五月二日、一台の戦車が一つの洞窟に六発の黄燐弾をうちこんだところ、十五分ほどたったころ、三十名ほどのかくれた陣地からもくもくと煙がでてきたのが目撃できたのである。
 前田丘陵に、はげしい争奪戦がくりひろげられた。いくたびか攻め、いくたびか攻められた。手榴弾は飛びかい、洞窟やタコ壺壕には弾薬がなげこまれ、夜は夜で、双方とも敵のいつくるともしれぬ夜襲におびえていた。米軍は地上軍に加えて、空からも応援をたのみ、爆弾やナパーム弾が毎日のように投下された。戦車と装甲車は南東の方面から猛烈に攻めたてたが、丘の頂はいまなお頑強な日本軍の手中にあって、兵隊の言葉をかりていえば『ありったけの地獄を一つにまとめた』ようなものであった。(一三五〜一三六頁)
 一方、第二七師団右翼のほうでは五月一日、第三〇七連隊第三大隊が仲間部落を攻め、そこから学校のほうにむかって進撃をつづけていった。ところがこの作戦中、日本軍の砲弾が後方の弾薬集積所に落ち、大爆発音とともに一瞬にして五名が戦死、米軍はかなりの時間、弾薬にこと欠いてしまった。二日になっても戦況は進展しなかった。3日になって、同連隊の第一大隊では手投弾戦で死闘をくりひろげたが、日本軍もまた、反対側丘腹から手投弾や機関銃弾を雨あられのようにそそいではげしく応戦し、加えて遠距離から八一ミリ砲白砲で攻撃したのである。
 それは全く地獄絵図だった。帰ってきた兵隊は『もう二度とあんなところへなんかいくもんか』と叫んだ。だが小隊長の話によると、そういった兵隊自身、五分もたつとふたたび手投弾をもって引返していって、栓をぬくが早いか、日本軍めがけて投げつけたのである。(一三六頁)
 前田高地の戦闘で、とくにめざましい働きぶりを示したのは、B中隊の衛生兵ドス一等兵。彼はセブンスデー・アドベンチスト教会の信者で、信教上銃はもたないことになっていた。そのため衛生兵に回されたわけだが、高地攻略戦中、他の兵が撃退されても彼だけは頂上にふみとどまり、何回となくロープで、負傷兵を下方に降ろし、洞窟から洞窟にとび回って、負傷者に救急手当てをほどこし、こうして日本軍の猛砲火の中を、実に多くの兵のいのちを救ったのである。彼はのちに議会名誉勲章を授けられた。
 浦添丘陵の戦闘で、米軍の損害は大きかった。三十六時間もつづいた一回の戦闘で、第三〇七連隊の第一大隊は、少なくとも八名の中隊長を失ったことがあった。また四月二十九日、八百名で丘陵を攻めたてた部隊の、戦いすんで五月七日、丘をおりるときは、三百二十四名に減っているところもあった。だがこの戦いで日本軍は推定三千の兵を失ったのである。」(一三七頁)


 この前田の戦闘では、血なまぐさい肉弾戦の末、米兵でさえ、日本軍の“バンザイ攻撃”を地でいくような行動に出たことが記録されているが、第三十二軍残務整理部資料によると、弾の尽きた日本軍の中には、石を投げつけて抵抗しようとした部隊もあったことが記録されている。

 

映画のご案内


映画公式サイト


※本作品は、シネマQ、シネマライカムにおいて6月24日(土)より公開されます。




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