まあ、私はずっと前から「論理などというのは他人に説明するためのもので、さほど創造的なものではない」という考えなのだが、E・A・ポーが「探偵には数学的能力(論理性)だけではダメで、詩人的能力(思考の飛躍や直観力)が必要だ」とその作品の中で書いているのは、まさにその「論理の限界」というものを知っていたからだろう。
ただし、これまでの国語教育が「文学性」に偏りすぎ、文学的感性ゼロのアホ教師が「自分の解釈」や「虎の巻による公式的解釈」を生徒たちに押し付け、国語劣等生を量産してきたことは事実である。
なお、「倫理国語」と「文学国語」という命名に籠められた悪意については、私もまったく同感であり、「文学とは非論理的なものであり、学ぶに値しないし、社会に不要なものである」と思う生徒が今後膨大に増えていくと思う。
ただし、これまでの国語教育が「文学性」に偏りすぎ、文学的感性ゼロのアホ教師が「自分の解釈」や「虎の巻による公式的解釈」を生徒たちに押し付け、国語劣等生を量産してきたことは事実である。
なお、「倫理国語」と「文学国語」という命名に籠められた悪意については、私もまったく同感であり、「文学とは非論理的なものであり、学ぶに値しないし、社会に不要なものである」と思う生徒が今後膨大に増えていくと思う。
ふと思ったのだが、「論理国語」「文学国語」という底意地の悪い用語法を発案したのは、国語教育ならびに文芸批評の現場で、文学的超絶テレパシー読解のマウンティング合戦が繰り広げられてきたことへの反発を抱いている人間なのではあるまいか。
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