反応&感想
ワイは10分も歩いたら腰が痛い
双方に配られたカードに共通点が無いと想像する所にすら至らない事もあるし、知識で多少カバー出来るのもたかが知れてるから、丁寧なコミュニケーションも大事…
気の赴くままにつれづれと。
単純な話、この世の富は有限であり、奪い合いこそが人類の基本姿勢だ。
その為、『必死に奪おうとする弱者』が、いちばん哀れで穢らわしいゴミ――いちばん性格が悪い存在に思われるのは必然である。
たとえば格闘技一つとっても、拳のサラブレッドとして、優秀な両親によるサポート――食事管理、幼少期からジムに所属させ、愛を与えて自信を付与させる……など、与えに与えられた裕福なガキほど、よく仕上がった大人になり、さらなる賞賛を得やすい。
対称的に、ブレイキングダウンに参加するような荒くれ者は、貧乏で団地育ちで、まともな教育も受けられず、治安が乱れた街には悪が渦巻いていて、いつだって心は混沌としているからこそ、「俺は今ココに生きているぞ!」とアウトサイドな生き方の中で、危なっかしく命を燃やしている。
でもって、そんな歪みきった世界にも関わらず、那須川天心や、武井壮のようなエリートが、下の下の下の世界にも出しゃばってきて、とことん雑に悪を見下してゆく。
持つ者はいいよな~?
それっぽい言葉と、神が与えた才能と、お手軽な優しさをぶちまけりゃ、なんぼでも光り輝ける人生なんだから。
畢竟、くそ喰らえな構造の中で、ガンガンと綺麗事が響き渡るとき、虚しさが悪へと切り替わってゆく。
金も地位も名声も、愛と平和も、優しさも善行も、その他ありとあらゆる可能性を、強者が根こそぎ奪ってしまうからな。
じゃあどうする?
そうやって我々は、敵意を育て、破滅主義になり、世界を憎むようになる――
とても悲しい事だが、持たざる者が努力をすると、自律神経が乱れ、情緒が不安定になり、ノルアドレナリン(闘争か逃走のホルモン)が分泌し、すごくリスキーな毎日に突入しやすい。
怒り、焦り、悲しみが噴き上がり、「何もかもが悲劇だ!」「誰も彼もが敵だ!」などと、心が荒ぶりやすくなってしまう。
そらそうで、発達障害/双極性障害/社会不安障害/不眠症/過眠症/低収入/孤独など、弱者属性を持っている人々は、社会的に弱い立場であり、そうした現状を客観視し過ぎると、惨めな気持ちにもなるってモンだ。
しかしながら、試行錯誤――破壊と再生を繰り返して、1%のチャンスでも掴み取る為には、心の痛みと戦いながら、冷たい現実を直視し、真の自分に辿り着き、最適解を模索するしかない。
そして、「変わりたい」「強くなりたい」という願望は、『今この瞬間を否定する』思考でもある為、似たような弱者たちの反感を買いやすく、ちょっとした揉め事に繋がりやすい。
一例を出すと、弱者界隈の者たちに言わせれば、『自己責任論』『努力論』は、耳にするのもおぞましいツートップのワードだろう。
ただし、歯を食いしばって勝負に打って出なければ、一生変われない……可能性の芽を摘んでしまいかねない……ってのもまた確かな話であり、『他者への配慮』『過度な優しさ』ばかりまき散らしていると、人生がでろでろに腐ってゆく。
だからこそ、ファイトクラブの名言――【ワークアウトは自慰行為だ。男なら自己破壊を】よろしく、フルスイングで開き直って、「人生は自己責任だ!」「負け犬のままで終わりたくない!」と力強く叫び、ハイリスクな一歩を踏み出すしかない。
というのも、代表的な弱者属性――鬱で貧乏などに苛まれると、余裕がなくて選択肢を増やせない中で、鬱々しさと甘えが混ぜこぜになり、ちょっとやそっとでは抜け出せない、転落の日々に陥りがちだ。
そんな絶望の境遇から、むりやり這い出る為には、「こんなところで終わらねぇからよ!」「これは俺様の復讐戦だ!」などと、躁的な攻撃性のエネルギーが必要になってくる。
寺山修司も『書を捨てよ、町へ出よう』の中で、【勝負の世界で、何よりも大きな武器は「不幸」ということである。これは「何が何でも勝たねばならぬ」というエネルギーを生み出す力になる】と書いているように、どん底の寒さを思い知ったうえで、這い上がる熱量を高める事が、下の下の下の住人には求められる。
そもそも論、ただでさえ深刻な格差社会――ガチモンの弱者のみならず、中流層以上の人々にしても、「途中で足を止めたら終わる……」という、止まらない不安に追われ、みんなぎりぎりで生きている。
であるから、ハンディキャップだらけの弱者が、「もっと稼ぎたい」だとか、「もっと可愛い子を獲得したい」だとか、そういった夢を叶える為には、それなりの自己犠牲が必要になる。
いつまでも、おんおんと泣きじゃくって、お金や愛を得られるのは、それなりの性的魅力を持った女子だけだろう。
その他の者たち――大多数の男や、ノンセクシーな女は、あくまでも自分の力でもって、人生を切り開いてゆく他ない。
その過程で、脳内分泌物のバランスが崩れ、とんでもない気分屋になり、周囲に当たり散らしてしまったり……、かと思いきや、頭を抱えて自虐し始めたりと、ぐっちゃぐちゃな時間もやって来るだろう。
そして、精神的コストを使い果たして、脳も心もすっかすかになって、飢えた獣のようにピリピリとしてしまい、「なんだこの性根が腐った野郎は?」などと、周囲に呆れられ、見捨てられ、嫌われキャラになってしまったりする。
やはり、世界中のみんなが、要領が良くて、人に愛されやすくて、スムーズに人生を渡り歩ける訳じゃない。
人類社会に立ち向かって、一所懸命に努力した結果……、ひたすら空回りしてしまって、全てを失うなんて実例も、この世の中には腐るほどに存在する。
(以下省略)
同じことを言い方を変えて何度も言っているので これは誰かに何かを説明する文章ではなく、 詩なのだろう。
強くなろうとする弱者は、いちばん性格が悪い 女叩きやめろ
文章になっていないところが好き 意味なんて糞食らえだ
まずは私たちにとって浅からぬ関係にあるであろう日本の場合から見ていこう。
日本において、労働の道徳化は江戸時代後期から明治時代にかけて醸成されてきた。それは日本が近世から近代へと移行していく、まさに過渡期にあたる。
歴史学者の安丸良夫は著書『日本の近代化と民衆思想』のなかで、この時期に形作られていった労働にまつわる道徳を「通俗道徳」と名付けた。すなわち、勤勉、倹約、謙虚、孝行、さらには忍従や献身といった徳目からなる生活規範である。これらの「徳」を実践することで、富や幸福がもたらされると信じられていた。当時の大部分の日本人は、社会的な圧力や習慣によってそれらを内面化することで、これらの通俗道徳を自明の当為として生きていたという。
通俗道徳は元禄・享保期に最初に形成されはじめた。当然、そこにはそうした思想形成をうながす導因がなければならない。安丸によれば、この時代の日本人における現実的な課題、それは「どうしたら家の没落をふせげるか」だったという。
江戸時代後期、すでに大阪などの都市部を中心に商業活動が活発化し、商人たちが商品の需要と供給を管理するための仕組みが整備されていた。商品経済が到来しつつあったこの時代、地主階級における「家の没落」はすでに珍しいものではなく、家を失った者の多くは大阪か堺に流出して、そこで都市貧民層を形成した。そうした状況のなかで、「没落」に対する恐れと不安の只中から、倹約や勤勉を「善きこと」として重んじる通俗道徳が発生してきたのだという。
やがて、こうした諸思想は農村部でも展開され、民衆を教化する役割を担うようになる。
一八世紀末以降、おりしも経世家の二宮尊徳や大原幽学などが各地を巡りながら窮乏した農村の復興をはかろうとしていた。尊徳によれば、農村の貧困と荒廃の原因は、農民たちの精神の内部にまで浸透した怠惰・飲酒癖・博打などの悪習であるという。尊徳は、これらの悪習をやめ、倹約と勤勉を身につければ生活を立て直すことができると農民に説いた。これは言うまでもなく通俗道徳である。
だが実際には、農村の窮乏の原因には、封建権力と商業高利貸しによる苛酷な収奪などの経済的な要因が深く絡み合っていた。だがそうした問題はいっさい棚に上げ、尊徳は貧困の問題を農民の生活態度と内面の問題に還元させている。つまり、貧困は一方的に彼らの怠惰と努力の欠如のせいにされたのである。
このように、地主や農村の指導者は、通俗道徳を繰り返し説くことで、農民たちに勤勉で禁欲的な生活規律を内面化させた。
だがここには、安丸も指摘するように、無視することのできないイデオロギー的虚飾が隠されている。
というのも、通俗道徳に従えば、人が貧困に陥るのは当人の努力が足りないからであって、そうであるのならば不幸な境遇を嘆くのは道徳的に堕落した「甘え」にすぎず、日頃から勤勉と倹約に努めない本人の自業自得である、ということになる。これはいわゆる「自己責任」のロジックであるだけでなく、近代化していく社会の内側で生まれてくる歪みや不公正から民衆の目をそらすことができるという意味で一種の詐術でもある。人々は社会を変えようと試みるより、ひたすら自己変革や立身出世に邁進するようになる。かくして、さまざまな困難や矛盾の解決を、忍従や自己規律にもとめる精神主義が形成されていったのである。
2021年から始まった接種キャンペーンでは、地域で最も誠実で、実直で、そして「正義感にあふれる」人たちが、周囲に熱心に接種を奨励してきました。
当時、東日本のある地方に住んでいる読者様からメールをいただきまして、その町か村では「長老」的な方々がいて、毎日、熱心に人々の家をまわり、「打ったか? 打ってないなら早く打とう」と、すべての住民たちに声をかけていたそうです。
その読者の方が言うには、その長老の方々は、ふだんは(つまり、コロナ前までは)確実に誠実であり、そして「正義感」が強く、何より「村の人たちのことを誰よりも大事にしてきた」人だったそう。
「愛に満ちていた」という表現でもいいのでしょう。
読者様は、
「なんでこんなことになってしまったんでしょうか?」
と、あれは 3年前ほどですかね、そう書かれていました。
どうしてそうなってしまったのかは具体的にはわからないにしても、前回の記事に書いた「誠実さ」、「正直さ」、そして「正義感」が誤った方向に突き進んだ場合にこのようなことになるのだとは思われます。
「愛」という言葉もあります。
愛という言葉は曖昧な概念ながら基本的には良い概念、ポジティブな概念として使われます。
しかし、
「愛と共にワクチン接種を熱心に勧めた」
となると、愛の概念が怪しくなってきます。
勧めている本人は当然、それは愛や良心や正義に基づく正しい行動だと信じて疑いません。
しかし、医学的観点、あるいは統計学上の観点から見れば、
「明らかに人倫にもとる行為」
であったわけです。強制的な命の毀損と関係します。
とはいえ、3年前の当時、医学者以外の人で、mRNA ワクチンの作用機序を知っていた人たちは非常に少ないでしょうし、いたとしても、当時の研究あたりまででわかっていたことは、「スパイクタンパク質自身の有害性」あたりまででした(実はこの一点の有害性で十分なんですが)。
医師の人たちでも、当時は正確な作用機序をあまりよくわかっていなかった方々もいたかもしれません。
機序がわからなくて人々に勧めたのでしたら、単に「無知の誠実」ということで、ご本人もだまされていたことになりますが(とはいえ、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という概念もありますが)、
「知っていて勧めた」
なら、これは「悪を自分で認識していた」ことになります。
この場合は「悪い」と対処していいのだと思いますが、しかし、実際は大部分の人たちが、それは医師も一般の人も含めて「機序を知らないで勧めた」のがほとんどでしょう。
では、「悪が本人に認識されていない場合、それは悪ではないのか」ということが問題になります。
これに関しては、今後の歴史の中で「あれは悪だった」と語られることになる局面はあるであろうにしても、今はどうなのか。
そういう人たちに対して、どういう感覚で向かえばいいのか。
難しいことですが、私も今もよくわかりません。
他人に対してだけでなく、たとえば、愛を持って自分の子どもに接種を勧めて、その子どもが一生不可逆の障害を負ってしまった。さて、その場合、親は自分自身にどう向かえばいいのか。
ワクチンについては、政治家や専門家などが責められることもありますが、専門家はともかく、「当時、政治家でワクチンの作用機序を知っていた人がどれくらいいたのか」というと、
「ほぼゼロだった」
と私は考えています。
あるいは、
「わかろうと努力した政治家もゼロだった」
と思います。
医学がこの世を支配しているわけですが、政治家や社会の上層階級にいる人たちは、誰よりも医学洗脳が進んでいる場合が多いです。医師や医療というものを信奉している。
あるいは医師たち自身たちがそうです。
医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史
In Deep 2022年11月15日
以下は、大阪府の 65歳以下の医療従事者のワクチン接種率の推移ですが、1、2回目は 99.6%ですからね。統計的にはほぼ 100%の世界です。65歳以上はもっと高いです。
全職種の中で、最もワクチン接種率が高いのが医療従事者でした。そのような医師たちを信奉している政治家たちがどのように行動したのかの想像は難しくありません。
陰謀論以前に、こういう人たちは、大多数が医療マインドコントロールに完全に染まっています。
当時、これらのほとんどの人たち(政治家はすべての人たち)が、mRNA ワクチンを理解もしていないし、理解しようともしないまま、何のしがらみかは知らないですが、とにかく闇雲に推進した。
今後も、出てくるすべての政治家たちが同じでしょう。
表面上でワクチンに反対の主張をする政治家がいたとしても、作用機序を自分で勉強しない限り、「無理解の反対」であるだけです。「無理解での推奨」と、さほど差はないのです。
今後、ワクチンではなくとも、何か同じような局面は必ず出てきます。
そして、それが「人命の尊重」のキーワードと共に、また「無理解」の政策が展開される事態が、どんなジャンルにしても(医学だけではなく、経済でも軍事でも)出てくるはずです。
そこでまた「愛と正義感を持つ誠実な人々による周囲への伝播」が始まります。
本来であるなら、今後、阻止されなければならないことです。
しかし、どんな分野でも「無知と共に愛と誠実が襲ってくる」と、人はなかなかそこから逃れることは難しいです。
これらの「無知による悪」に私たちはどう対応すればいいのか。
それはわかりません。
わかりませんが、私たちは「私たち自身」を研ぎ澄ませるしかないです。
前回の記事に書きました悪の特性である「ダークトライアド」でさえ研ぎ澄ます必要があるのかもしれません。
たとえば、悪魔という存在は「感情を理解できず、現実と事実しか見ない」とされていますが、それに倣うことも必要です。
コロナワクチン下の世界で自分たちを守るために必要であったのは、まったく感情や心情や協調ではありませんでした。事実と現実と数値だけでした。
冷たい響きに聞こえるかもしれないですが、今後の社会では「愛に満ちた無知の正義」を私たちは振り払うべきです。
時代的に、そろそろサバイバルの本格的な時期もそう遠くもないあたりにさしかかっているともいえなくもないかもしれない時期に、もはや、曖昧な感覚は不要なのかもしれません。
事実の中に、たまに奇跡は起きるかもしれないですが、その奇跡もよく調べて見ると、単に見逃していた事実や理論が働いただけということもあります。