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イルミナティとは何か(「陰謀論」や「陰謀論批判」の陥穽)

これもウィキペディアからの抜粋だが、イルミナティも、フリーメイソン同様の「理想主義」的思想集団にすぎないことが分かる。つまり、これらを「有害組織」だとしたのは、封建時代の権力層とその走狗だったにすぎないのに、その残滓を現代の「陰謀論者」や「『陰謀論』批判者」たちは引きずっているわけだ。彼らの批判対象は、「(自由や平等をめざす)初期社会主義的なもの」という共通点がある。つまり、彼らは「現体制保持」を絶対的任務としているわけだ。昔なら封建体制、それが資本主義なら資本主義体制の擁護者になる。
先に、下記引用記事の重要部分を一部赤字にして転載する。(念のために言えば、私はこの種の「理想主義」の政治的実現可能性には懐疑的だが、その理想は尊いと思う。むしろ、現代社会の悲惨さは人間が「理想主義」や「人道主義」を失ったところに原因があるのではないか。そして現代社会の最大の陥穽は、「無知」と「誤解」にある。つまり、権力層とマスコミによって作られた固定観念で「敵」と誤解した存在を攻撃し、自分の「味方」を滅ぼしてしまうわけだ。)


設立者のヴァイスハウプトはジャン=ジャック・ルソードゥニ・ディドロの思想に大きく影響を受け、自由と平等を何よりも重視した[2]。そして、すべての人は「王」となる素質を潜在的に備えており、教皇君主を頂点とする封建制は不要であるから、大衆の霊性を飛躍的に向上させ平等を重んじたユートピア社会を復活させようと考えたのである[2]イルミナティは理性とキリスト教の隣人愛とに根ざしたユートピア思想を追い求め[15]、世界市民的共和制のなかで自由・平等な人間の自然状態[注 6]を理性によって再建しようとした[


(以下引用)


イルミナティラテン語Illuminati[14][注 4]ドイツ語die Bayerischen Illuminaten[1]Illuminatenorden[7]英語the Illuminati of Bavaria, the Bavarian Illuminati[1])は、イエズス会の修道士であったインゴルシュタット大学教授アダム・ヴァイスハウプトが、1776年に創設した秘密結社である[6]ドイツ南部とオーストリアにおいて一世を風靡し[1]、特にバイエルンで急激に発展した[4]。しかし、その無政府主義的な傾向からバイエルン政府によって1785年に禁圧された[6]


バイエルン啓明結社[1][2]バヴァリア啓明結社[1][2]幻想教団[1][2]イリュミネ教団[1][2]イルミナーテン[1]啓明団[1]啓蒙者教団[1]啓明結社[7]バイエルン幻想教団[7]照明派[1][6]光明会[1][6]とも訳される。


本記事では、アダム・ヴァイスハウプトがバイエルンに設立したイルミナティについて述べるが、歴史上には他にも「イルミナティ」を掲げる様々な狂信的団体がある[4][注 5]

思想[ソースを編集]

イルミナティは啓蒙思想の影響を受けており[4]キリスト教に代わる自由思想や理性宗教の普及を図った[6]イデオロギー的にイルミナティはフランス唯物論的な急進的啓蒙主義を立脚点とした[5]イエズス会からの攻撃を受けて地下に潜って以降は、ピタゴラス教などの古代の秘儀と結びついた[7]。設立者のヴァイスハウプトはジャン=ジャック・ルソードゥニ・ディドロの思想に大きく影響を受け、自由と平等を何よりも重視した[2]。そして、すべての人は「王」となる素質を潜在的に備えており、教皇君主を頂点とする封建制は不要であるから、大衆の霊性を飛躍的に向上させ平等を重んじたユートピア社会を復活させようと考えたのである[2]。イルミナティは理性とキリスト教の隣人愛とに根ざしたユートピア思想を追い求め[15]、世界市民的共和制のなかで自由・平等な人間の自然状態[注 6]を理性によって再建しようとした[10]。儀礼を重視する秘教的共同体たるフリーメイソンとは異なり、イルミナティはイデオロギー的・政治的目的を有していたため政治的秘密結社にも分類できる[8]

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「フリーメイソン」とはどういう思想集団か

私自身、フリーメイソンとはどういう存在か、ほとんど知らない(昔、少し調べて、すぐに忘れた)ので、ウィキペディアから引用する。一部の「陰謀論」サイトで使われる「大東社」が、「東方(非イギリス)フリーメイソン」だというのは初めて知った。
で、私の意見を言えば、これは「友愛組織」「互助協会」だというだけの話で、べつに社会的に有害な存在でも何でもない、というものである。単に、昔の権力層(宗教界含む)から怪しまれて、有害な組織だと見做されただけだろう。つまり、「表の社会的階層を破壊する」から有害だ、というわけだ。

フリーメイソンリーには「自由、平等、友愛、寛容、人道」の5つの基本理念がある

これは、現代の「民主主義国家」の基本的理念ではないか。むしろ、「人道、寛容、友愛」の理念は現在の「みかけだけの自由主義、民主主義」を上回っている。私の主張する「真の社会主義」に近い。

(以下引用)

フリーメイソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


フリーメイソンリーのシンボルマークの一つ。定規コンパス

フリーメイソン: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に判然としない起源から起きた友愛結社。多様な形で全世界に存在し、会員数は600万人を超える[1]


会員のうち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに[2]、200万人は米国のグランドロッジに所属している[3]。日本グランドロッジ傘下の会員数は約1,500人、そのうち日本人は約250人[4]


この友愛結社(組合)は管轄上、独立したグランドロッジ英語版)もしくは一部が東方社(オリエント、大東社系)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管区を管轄している。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否し、境界を形成する[* 1]。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付属団体が存在するが、それらはそれぞれが独立した組織である。フリーメイソンリーは秘密結社[5]または「semi-secret」(半分秘密の)[6][7]団体と表現する場合があるが、いかなる団体であれ団体内部の秘密というものがあり、そうした視点においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社なのであるというフリーメイソンリー側の意見もある[8]。「お前、秘密を漏らしたら首を切るぞ」と脅かして口伝で秘技を伝えた実務的メイソンの時代は400年間続いた[9]


ロータリークラブライオンズクラブは、それぞれの創立者がフリーメイソンであり、フリーメーソンリーから派生したともいえる[10]。また、帝国郵便を担うトゥルン・ウント・タクシス家出身の皇帝特別主席代理は全員フリーメイソンであり、西洋史に深い関わりをもっている。


フリーメイソンリーには「自由、平等、友愛、寛容、人道」の5つの基本理念がある[11]

沿革[編集]

総説[編集]

起源とフリーメイソンリーに関して対外的な資料が少ないため、諸説も存在するが、レギウス・マニュスクリプトとして知られるある詩人は、およそ1390年頃と疑われる、としておりこれは諸説あるメイソン起源説の中では、もっとも早くに上るものである[16]。 16世紀には、スコットランドにメイソンのロッジ(地方支部)Masonic Lodge)が存在していた、とする証拠もある[17]。 

(煩瑣でつまらない内容なので容量節約のため中略)

通説[編集]

石工組合としての実務的メイソンリーが前身として中世に存在した、とする説もある。こうした職人団体としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族紳士知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた(思索的メイソンリー。「思弁的-」とも)。それと共に、フリーメイソンリーは職人団体から、友愛団体に変貌したとするのである。


または、実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を参考に、貴族たちが別個に作ったのが、思索的メイソンリーであるともいう。中世ヨーロッパでは、建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築学や職人の社会的地位は高かった。また、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。その神秘性から、実務的メイソンリーが貴族などに注目され、薔薇十字団の正体ではないかと期待する者もあった。もっとも、これについては実務的メイソンリーはあくまでも石工団体であり、期待は裏切られた結果に終わったようである。


石工団体を元にした名残りとして、石工の道具であった直角定規コンパスSquare and Compasses)がシンボルマークとして描かれ、内部の階位制度には「徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、親方棟梁とも訳す。Master Mason)」の呼称が残っており、集会においては、元は石工の作業着であるエプロンを着用する。なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。


友愛団体に変貌したフリーメイソンリーは、イギリスから、商業や文化のネットワークを介して、ヨーロッパ諸国、ロシアアメリカ大陸、さらには西欧諸国従属下にあるアフリカやアジアの植民地にまで広まった[* 4]。民間人を対象とする国際的な互助組織がない時代だったので、会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンリーは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたかった。ウィーンのロッジに加入していたモーツァルトは、同じロッジのフリーメイソンに借金の無心をした記録が残っている。 フリーメイソンリーが広まった時期は、絶対王政から啓蒙君主、市民革命へと政治的な激動が続く時代でもあり、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ系フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定することから、自由思想としてカトリック教会などの宗教権力からは敵視された。とりわけフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための陰謀組織とみなされた。ナチス・ドイツの時代にはマルクス主義自由主義とともに民族の統一を阻む抹殺されるべき教説[23]として扱われ、弾圧を受けた。ナチスのSDではフリーメイソンを担当するSDII/111課が存在した。独立戦争にかかわった多くの会員がいたアメリカにおいても白眼視される傾向があった。ちなみにニューヨークの自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物という側面もあり、台座の銘板にはその経緯とメイソンリーの定規・コンパス・Gの紋章がきざまれている[24]


フリーメイソンリーの入会儀式は秘密とされたが、そのために、かえってさまざまな好奇心をかきたてた。トルストイの『戦争と平和』では1810年代のロシアのフリーメイソンの会合が描写されている。またモーツァルトの『魔笛』にフリーメイソンリーの入会儀式の影響を指摘する意見もある。


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武道的思考と「資本主義の終わり」

私は内田樹の「世渡り上手」な感じが嫌いなのだが、下の文章は彼の本気の文章であり、ある種の人生哲学でもあるようで、かなり高度な内容だと思う。(まあ、最後の「資本主義はもうオワコンだ」という意見が気に入ったという点が大きいがwww)
武道論として、私のようにブドウを食うしか能の無い人間でも納得できる内容である。ただし、宗教に関しては、私は現代においては効用よりも有害性が大きいのではないかと思っている。まあ、これもオワコンだろう。そこで、「神を前提としない道徳(誰でも納得できる、という意味での通俗道徳)が必要だ」と言うのである。公共の利益を個人利益(強欲)より優先するという点では、それが社会主義の本当の本質だと思っている。(「公共の利益=一部特権階級の利益」では絶対にない。)

(以下引用)


朴先生からこんな質問を頂いた。韓国のYuYu出版社から出す本のためのQ&Aの一つ。今回は「武道的思考」についてだった。


-内田先生がお書きになった『 武道的思考 (ちくま文庫) 』と、『 武道論: これからの心身の構え( 河出書房新社)』そして『私の身体は頭がいい (文春文庫)』という本をとても面白く拝読いたしました。
 こういう素晴らしい論考を僕一人だけで読むのがもったいないと思い、先生が考えていらっしゃる「武道的思考の真骨頂」を韓国の読者にぜひお伝えいしたいと思ったことがありました。
 それでいくつかの出版社に翻訳出版の提案をしてみましたが「武道的思考ってなんですか」と言われてキッパリ断れてしましました。たぶん韓国人にとっては「武道的思考」ってなじみの薄い言葉だからなんでしょうね。
 このエピソードを奇貨として韓国の読者に「武道的思考の神髄」についてぜひ教えていただければ幸いです。
 それから、その「武道的思考」が先生の生き方に及ぼした影響についても聞かせてくださればと思います。


 なんと、そうなんですか。「武道的思考」って韓国では日常語彙に登録されていないんですか。なるほど。そうかも知れないですね。日本の武道は宗教的なものとの関係が深いんですけれども、それはなかなか理解されにくいかも知れません。せっかくですので、この機会に日本の武道の「精神性」についてちょっと解説をしてみたいと思います。
 日本の武道の最大の特徴は、武道の術技の向上と宗教的成熟との間には相関関係があるという仮説を採用していることだと思います。つまり、武道の技量が向上してゆくと、宗教的な深みを獲得する。逆に、宗教的な修行を積むと、武道の術技に上達する。この二つは一つの人間的成長の二つの現れである、と。
 スポーツの場合はそんなことは言われません。たしかに高度のパフォーマンスを達成できるアスリートは総じて自制心が強く、あまり感情的にならず、政治イデオロギーであれ信仰であれ、あまりのめり込むことがない傾向にあります。当然だと思います。というのは、そういう要素はすべて「対人関係のトラブル」を引き起こす要因になるからです。あちこちで人と喧嘩したり、批判したりされたり、恨んだり恨まれたりするリスクを適切に回避できるアスリートは、すぐに感情的になって人を怒鳴りつけたり、政治イデオロギーやカルトを宣布したりするアスリートよりは、高いパフォーマンスを発揮する確率が高い。
 と言ってすぐに前言撤回してしまうのも申し訳ないのですが、そのような「市民的な抑制」が身体的パフォーマンスの発揮にとってプラスになることということは、スポーツの世界では必ずしも常識ではありません。むしろ、天才的なアスリートの中には、市民的な常識を平気でふみにじるようなタイプの「型破り」の人がたくさんいます。
 自分は例外的な存在なのだ。「ふつうじゃない」んだということを誇示することはアスリートだけでなく、俳優やミュージシャンにも見られます。「オレはただものではないよ」という印象を進んで広めることによって、「ただものではない自分」を創り上げてゆく。
 デビュー直後のビートルズや、ソニー・リストンとの対戦前のカシアス・クレイのインタビュー映像見ると、彼らが「オレたちは世間の常識なんかぜんぜん気にしないぜ」ということをアピールするために必死であることがわかります。もちろん、それが有効だと直感しているからそうするのです。「とんでもなく傲慢な態度」をとれば、失敗したときにめちゃくちゃに叩かれるに決まっている。だから、絶対に失敗できない。そうやって自分を追い込んで、爆発的なパフォーマンスを達成する。その機制は理解できると思います。
 だから、スポーツにおいては、すべてのアスリートに「紳士たれ」とか「市民的に成熟しろ」とか「宗教的深みを求めろ」というようなことは、あまり推奨されることはありません。もちろんアスリートの中にも、ディセントな人や、「成熟した大人」や、篤信の人はいます。でも、「そういう人だったからアスリートとして大成した」というふうに相関関係を見ることをふつうはしません。それは「犬が好き」だとか「料理が上手」とかと同じような個人的エピソードに過ぎない。
 
 武道はその点が違います。武道では、術技の向上と宗教的成熟がリンクしている。術技が高まれば武道家は必ず宗教的な深みを獲得する。宗教的な研鑽を重ねれば、術技においてめざましい進歩が見られる。そういう完全な相関関係が想定されている。これはたぶん世界でも日本の武道だけに見られる「民族誌的偏り」と申し上げてよろしいかと思います(似た傾向がイスラームのスーフィズムにも見られるということをイスラーム研究者の山本直輝さんからうかがったことがあります。でも、日本とトルコだけじゃ「世界標準」にはなりません)。
 日本の武道家であればおそらく誰でも知っている澤庵禅師の言葉があります。
「蓋(けだ)し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘(こだわ)らず、一歩を出(い)でず、一歩を退(しりぞ)かず、敵我を見ず、我敵を見ず、天地(てんち)未分(みぶん)陰陽(いんよう)不到(ふとう)の処(ところ)に徹して直(ただ)ちに功を得べし。」
 現代語訳すれば「武道家は勝負を争わない。強弱を競わない。一歩前に出ることもないし、一歩後ろに退くこともない。敵は私を見ないし、私も敵を見ない。そうして、天地が未だ分かれず、陰陽の別もない境位において、ただちに果たすべきことを果たす」ということになります。
 澤庵禅師は江戸時代初期の禅宗の僧侶です。柳生新陰流の宗家である柳生宗矩に武道の要諦を説いた『不動智神妙論』を与えた人です。この『太阿記』も剣客に向けて武道の神髄を説いたものです。
 澤庵自身は武道家ではありません。禅僧です。でも、禅の奥義は剣の奥義と相通じるということについては、この時代には宗教家と武道家の間に完全な合意があった。
 それは一言で言えば「我執を去る」ということをめざすということです。「勝敗を争う」「強弱を競う」「巧拙を論じる」といったことは、すべて向かい合う二人の間の相対的な優劣を比較することですけれども、日本の宗教と武道はこの「相対的な優劣を比較するマインド」をどうやって解除するか、ということを修行上の目標に掲げてきました。
 奇妙な話ですけれども、「勝とうと思うと負ける」「強くなろうとすると弱くなる」「うまくやろうとすると下手になる」という逆説は、修行者にとっては共通の了解でした。
 修行の妨げになるのは「自我」とか「主体」とか「アイデンティティー」とかいうものである。おのれを他と比較して、「勝者」であるとか「強者」であるとか「上手」であるとか見なすことは「我執」であり、それがある限り、修行の道は先に進めない。そんなものは振り捨てなければならない。
 これは前に「論破」の話をしたときに書いたので、そのことの繰り返しになりますけれど、「勝つ」というのは決してよいことではありません。勝つとそれが「成功体験」になるからです。人は成功体験に「居着く」。「成功したパターン」を繰り返そうとする。でも、それでは「連続的な自己刷新」は果たせない。勝ったことを喜ぶ人間は、そのときの自分を手離すことに強い心理的抵抗を感じるようになる。
 激しい論争をして、論敵を完膚なきまでに論破したあとになって、自分の理論に間違いがあったことに気づいたら、すごく困ったことになります。「すみませんでした。僕が間違ってました」と謝罪することは、論争での勝利が華々しければ華々しいほど困難になる。もう取返しがつきません。ですから、論争が好きな人は、「自分の理論に間違いがあったことに気づく機会」を無意識のうちに忌避するようになる。無意識のうちですから、どうしようもない。でも、自分の間違いにできるだけ早く気づいて、それをただちに補正する以外に、学術的知性が進歩するチャンスはありません。「論破する人」はそのチャンスを自分でつぶしているのです。
 武道修行は、学術における「仮説の書き換え」と構造的には同じです。連続的な自己刷新です。昨日までの自分とは違う自分になる、昨日までとは違う心と体の使い方をする、それが修行です。
 でも、試合に勝ったり、人より強くなるということが気になると、その自己刷新が困難になる。だから、「一歩を出でず、一歩を退かず、敵我を見ず、我敵を見ず」という境地に至る必要がある。相対的な優劣を意に介さない。そして「天地未分陰陽不到の処」に立つ。言葉は難しいですけれども、「未だ記号的に分節されていない世界、未だなんらかの価値のシステムによって秩序づけられていない、アモルファスな、星雲状態の境位」に立つということです。そこで果たすべきことを果たす。
「直ちに功を得べし」の「功を得る」は「みごとな成果をあげる」ということですけれど、重要なのは「直ちに」という副詞の方です。「直ちに」というのは「間髪を容れず」ということです。「何が正しいのか、どうすれば効果的か、どうすれば自分の利益になるのか」というような賢しらをすべて去って、無心に対処するという意味です。
 この「無心の境地」を武道は重く見ます。武道的状況では、ふつう相手が自分に向かって攻撃を加えてくるという設定がなされます。ぼおっとしていると殺傷されるリスクがあるので、「何か」をしなければならない。でも、そのときに「敵を見て」、その攻撃について予測を立てて、それに「最適解」を以て応じるという仕組みで対処していると間に合いません。必ず負ける。「直ちに」対処するためには、何も考えないで動かなければならない。「攻撃に適切に対処する」ではなく、「不意にあることがしたくなる」。「不意に」というのが「直ちに」ということです。無文脈的に、ということです。
 日本のJRという鉄道会社の卓越した観光ポスターのコピーに「そうだ、京都へ行こう」というものがあります。非常によくできたコピーで、最初に見てから、数年経つのにまだ使われていますから、とても集客上効果的だったのでしょう。
 この宣伝コピーの「そうだ」というのが「無心」「無文脈的」ということです。あれこれと旅行の行く先を考えて、資料を取り寄せて、日程を考えて、それで「それでは、最適解として、京都に行くことにしよう」ではないんです。街を歩いていて、あるいはご飯を食べていて、仕事の手をふと止めたときに、急に「そうだ、京都へ行こう」と思い立った。これは武道における「機」に通じるものです。前段がない。いきなり生起する。
 武道的な「無心」「無文脈的」な動きというのは、そのことです。不意にある動作がしたくなる。そして、それが結果的には、攻撃に対する最適の対応になっていた。結果的には、です。それをめざしたわけではないんです。「何となくそのような動作がしたくなった」だけなんです。「応じた」わけではない。だから、決して「相手に遅れる」ということがない。
「応じる」というのは「後手に回る」ということです。攻撃という「問題」を出されたので「正解」で応じようとするというスキームだと、攻撃してくる「敵」が作問者・出題者で、「我」は受験生です。出題するのも、採点するのも、「敵」です。「難問に最適解で応じる」というマインドで動くと、いきなり圧倒的に不利なスキームに巻き込まれてしまう。
 ですから、「困難な状況に投じられたので、これを何とか切り抜ける」という考え方をしてはいけない。絶対にしてはいけない。それは「困難な状況」を設定した者に対して「後手に回る」ことになるからです。だから「無心」になることで「先手/後手」「出題者/受験生」「難問/正解」という枠組みそのものを無効にする。
「無心」というのは、「そうだ、これをしよう」という自発だけがあって、達成すべき目的がないということです。何のために「そんなこと」をしたくなったのか、自分でもよくわからない。


 よく大記録を打ち立てたアスリートがインタビューに「これはただの通過点ですから」というコメントをすることがありますね。周りが「すごいですね、すごいですね」と囃し立てるのを気にしないで、「ただの通過点です」と気のないコメントをするのは、このアスリートが「成功体験に居着く」ことを怖れているからです。自分の達成を「成功だ」とみなし、他の競争相手に「勝った」というふうに総括すると、そこで進歩が止まってしまうリスクがあるということを彼らはその経験から知っているのです。
 でも、「これはただの通過点です」というような気のないコメントをできるのは、トップアスリートに限られています。昨日今日、そのスポーツを始めた人が、試合に勝ったときに「これはただの通過点ですから」というような気のないコメントを口にしたら、コーチから「何を生意気なことをほざいているのだ。素直に喜べ、バカやろう」と叱られると思います。気の毒です。
 でも、武道の場合は、昨日今日始めた人こそ、何ができるようになっても、術技のレベルが周りの人と比べて相対的に上位になったとしても(ほんとうはそんなことを気にしてはいけないんですけれど)「これはただの通過点ですから」と絶対に言わなければならない。
「道」というのは「その全行程が通過点であるような運動」を意味します。最初の一歩から、息を引き取る寸前にかろうじて踏み出した一歩まで、そのすべてが「通過点」であって、どこにも「完成」や「最終勝利」や「終点」がない。それが「道を歩む」ということであり、それが「修行」ということです。
「無心」とは「目的がないこと」だと上に書きましたけれど、そういうことです。ただ「道を歩む」ことだけが重要で、「この道の最終目標はどこか」「今、私は全行程のどの辺まで来たのか」「他の人たちと比べて、自分はどれくらいと道をたくさん踏破したのか」というような問いは何の意味も持たない。
 その長い修行の旅のどこかで、誰かに勝っても、誰かより強くなっても、誰かより巧みになっても、あるいは誰かに敗けても、誰かより弱くても、誰かより下手でも、そんな相対的優劣を論じることには何の意味もない。その勝敗に意味があると思うと、そこに「居着いて」しまうからです。決して居着いてはならない。それが武道の最もたいせつな教えです。決して「できた」とか「わかった」と思わないこと。おのれを「永遠の初心者」とみなして、ひたすら歩み続けること。
 こういう精神的な態度が宗教と親和性が高いことはお分かり頂けると思います。
 宗教もまた「超越」と向き合うことで連続的な自己刷新を果たす「行」です。
 どんな宗教でも、ほんとうに信仰を持つ人は「私は神意を完全に理解した」とか「私は摂理のすべてがわかった」というようなことを口にしません(時々そういうことを口走る人がいますけれど、まず間違いなく詐欺師です)。「神意は図りがたい」のです。でも、「図りがたい」から、「神意について考えるのは無駄だから止めよう」と言う人はいません。決して埋められない欠如がそこにあるがゆえに活発に欠如を埋めようとするというのが宗教の逆説です。
 これもよく引く喩えですけれど、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りでは、食卓に一人分だけ空席が設けてあります。そこに皿やカトラリーを並べます。それは預言者エリアのための席です。エリアはメシアの前触れですので、そこにエリアが着席する時についに待ちに待ったメシアが到来するのです。でも、この席は過去数千年にわたってずっと空席のままでした。帰納法的に推理すれば、過去数千年にわたって空席である場合は、今年も空席である蓋然性が高いので、「もうこの席に食器を並べるのは止めない?」ということになりますけれど、ユダヤ人はそうしなかった。エリアのための席が空席であることは、ユダヤ人たちのメシア信仰を少しも傷つけるものではなかったからです。メシアはまさにその不在を通じて、「メシアを待望する」という彼らの信仰の原点を生気づけていたのです。
 人知を以ては図りがたい境位をひたすら求め続ける人と、一生をかけて修行しても達成できない目標(「天下無敵」)をめざして歩み続ける人の精神は同型的です。
 自分が卑小な存在であることを少しも恥じない。自分が未熟であると感じることをむしろ喜びとする。これから踏破すべき終わりなき道を望んで、「ああ、まだまだ歩き続けなければいけないのか。つらいなあ。疲れるなあ」とは考えずに、そのような「終わりなき道」を歩む者であることをおのれの光栄と感じること。それが修行者のマインドです。
 こういうマインドは、資本主義の市場原理や競争原理とはたいへんに相性が悪いことはお分かりになると思います。だって、「株の時価総額を最大化する」とか「競合他社にマーケットシェアで勝つ」とか「ライバルを蹴落とす」とか、そういう相対的な優劣に居着くふるまいは全部「ダメ」なんですから。
 僕は資本主義はもう命脈が尽きかけた経済システムだと思っています。そろそろ、世界中の人は「相対的な優劣」を競い合って、勝った者に資源を排他的に配分し、負けた者には何もやらないという残酷な仕組みを捨ててもよい頃だと思います。
「武道的思考」というのは、僕にとっては、資本主義システムから離脱して、それとは違うもっと深みのある、豊かな「空間」をこの社会の中に現実に創出してゆくための手引きとなるものです。そうい話なら韓国の読者にも共感してくれる人がいると思うんですけどね。どうでしょう?


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性教育と売買春

エプスタイン文書との関係で、性教育と売春の関係を考えようと思い、少しネットで探し、下の記事が引用に適切かと判断した。つまり、「先進国」では、(これは私の偏見だろうが「性教育」推進の事実から見て、実施者の意図はともかく、当然生徒側の自然な反応として)性行為は「推奨すべき行為」とされていて、その「性交可能年齢」も低いというか、先進国に限らず、性交可能年齢、あるいは性交が不法行為とされる年齢は低いのではないか、と推測したわけだ。
たとえば、イギリスだと「性的同意年齢」は16歳だが、現実には15歳での性交経験率が女子で23%男子で18%だ。では、その「相手」はどういう年齢層と考えられるか。たとえば、15歳同志での性交は法的に処罰対象となるのだろうか。あるいは、16歳を超えていても、売春による性交は特別に不法行為とされるのか。その際、処罰されるのは「買った」側だけなのか、自ら積極的に「売った」とすれば、そちらは処罰されないのか。
買うほうの「買春」がほめた行為でないとしても、売るほうは、どうなのだろうか。もちろん、児童誘拐で攫った女子を売春に使うなどの行為は死刑にしてもいいだろうが、世界的には「自らの意志で売春している」女性は膨大にいるだろうし、そうした売買春で「買う側」だけが一方的に非難されるのはおかしくはないか、ということだ。
ちなみに、日本での女子高校生や女子大生の「パパ活」は明白な私的売春である。
はっきりとは記憶していないが、「源氏物語」で光源氏が紫の上を強姦した時の紫の上の年齢は10歳前後で、「たけくらべ」の女主人公が客を取らされたのも、12歳前後だと思う。昔からロリコン男は多かったし、文化が発達したから低年齢性交が違法化したわけでもないだろう。

要は、「不同意性交」かそうでないかの違いだけではないか。そして、その「同意」が低年齢では「判断能力が低い」と見做されるのだろう。で、売買春は、明らかに「合意の上の性交」なのではないか。嫌だけど、商売だから仕方がないというのは「不同意性交」ではなく、「いやだけど仕事だから働く」という、当たり前の話だろう。

(以下引用)

イギリス  性的同意年齢など、法律で多くのことが決められている

15歳での性交経験率

女子23%、男子18%。(WHO 2013~2014年調査)避妊率が低く、10代の妊娠、中絶が多い。

年代別できごと

1988年 コンドームの無料配布
2019年 「人間関係と性の教育」をカリキュラムにとりいれ、義務化された。

国の雰囲気

法律で決められていることが多くある。

  • 性的同意年齢は16歳。
  • 16歳未満の者と性的な行為をすることは法律で禁止。
  • 12歳以下の子どもに対する性的虐待や強姦、性的な勧誘は最大で無期懲役になる。
  • ポルノは、18歳未満の子ども目に触れないように配信しなければならない。

性教育は各家庭で保護者が行うべきだという考えが根強い。学校で行うことは、特定の価値観を押し付ける事になるのではないかという意見があり、そのため、性教育の授業をうけない選択をすることができる。

学校で学ぶ内容

全ての小学校で「人間関係」を学び、思春期や妊娠・出産のしくみなどについて知る。身体の変化が始まる前までに第二次性徴について学んでおくべきということもしめされている。


中学校では、「人間関係と性」を学ぶ。精巣、勃起、陰茎、など器官の名前をきちんとおそわる。女性の生殖器についても、ヴァギナ、クリトリス、陰唇などの機能や、性交についてもきちんと説明される。さらに、胎児の発達や、母親のアルコール摂取や喫煙、風疹のウイルスなど胎児の健康なども学ぶ。流産、中絶、早産、低体重児など、母親や胎児のことをきちんと学ぶ。その他、家族について、思春期の心の変化、恋人との関係性などについて学ぶ。

ドイツ 性教育は親の務め。学校は家庭の教育を補完することが目的

年代別できごと

1977年 性教育を行うことが合法だとされる。
1992年 中絶が合法化

国の雰囲気

性教育は親の務めであり、協力する義務を負うとされている。学校の性教育は、親の性教育を補完することである。早い段階で、性教育や性の多様性(LGBT)を学んだほうがいいという運動が起こっている。これは、性に関する重要なことをポルノから得ている25歳までの女子が16%、男子が49%になるというデータがあるからである。性暴力も5人に1人の割合で起きている。

学校で学ぶ内容

学校では、性教育は教育全体の一部であるとし、特定の教科においてではなく、「さまざまな授業科目や授業外の学校行事」で行うことになっている。小学校3・4年生では、「育ちゆく体とわたし」という単元で、避妊具について、実際に産婦人科に行って聞いてくるなどの活動がある。小学校5.6年生では、生殖器についてや、避妊や性交、出産、パートナーシップなど男女の身体を詳細に学ぶ。


中学校1・2年では、思春期や性感染症などについて学ぶ。思春期では、気分や感情のゆれがおこあったり、反抗して自分で決めようとすることなどを学ぶ。性感染症では、梅毒、淋菌、クラミジア、エイズなどについて患者数のグラフをもとに考える授業がある。

スウェーデン 世界でも有数の性教育先進国。男女平等な国の一つ

15歳での性交経験率

女子26%、男子24%(WHO 2013~2014年調査)

年代別できごと

1955年 性教育がカリキュラムに導入

国の雰囲気

ここ20年ほどで特に性教育の関心が高まる。キリスト教の価値観もあり、導入は、反発の声も大きかった。今では、性病の検査は無料であり、コンドームは無料配布されていて学校にも置いてある。緊急避妊薬も安く手に入る。
親からは、積極的に推進する派と、慎重派に意見がわかれている。高校生の性のイメージは「楽しい」・「きれい」・「恥ずかしいものではない」という肯定的なイメージが多数ある。

学校で学ぶ内容

8歳~10歳で、生理や、性行為、妊娠や出産について男女一緒に学ぶ。コンドームのつけかたなども、学校で学び、親に聞いてさらに深めていくので、親との性に関する会話のタブーがない。

フィンランド  性教育が盛んな国。包括的なアプローチを大切にする

15歳での性交経験率

女子24%、男子25%(WHO 2013~2014年調査)

年代別できごと

1970年 法律で性教育が必修となる。
1990年代 選択科目となるが、2000年代に再び必修化となる

国の雰囲気

性の話をするのは当たり前。女性は産婦人科、男性は泌尿器科にかかりつけがある。何もなくても受診する。家族の形もさまざまで、同性カップルの家庭もある。フィンランドもかつては、性教育はネガティブなことととらえられていた。今では、シングルマザーや男性同士のカップルといった家族の多様さも未就園児の段階から学ぶ。

学校で学ぶ内容

幼児期から、多様性・平等・自分の体を尊重することなどを学び、避妊方法は小学校5年生で行う。中学校ではコンドームの使い方や、思春期の変化、セックスのこと、予防や感染症などを学び、避妊について、ロールプレイングなどを行うこともある。

アメリカ  州ごとに異なる性教育。日本人が想像しているよりも保守的で真面目な面も

15歳での性交経験率

女子39.2%、男子43.2%(2015年)

年代別できごと

1980年代 セクシュアリティは人間生活で重要なものであることが認識され、男女混合で性教育が教えられるようになる
1990年頃 HIV感染予防と人権の尊重及び思いやりを基本とする「性の節制教育」プログラムが開発される
2009年~ 無料で避妊器具を提供(コロラド州)
2019年  性教育カリキュラム実施(カリフォルニア州)

国の雰囲気

州や学校の方針でも異なる。多様性を理解しようという雰囲気があり、性的マイノリティとよばれる人々への理解について学ぶ機会が多い。一時期、性は開放したほうがいいという流行があり、性感染症や10代の妊娠が相次いだ。性の節制教育が行われるようになり、一時期は50%近くあった高校生での性交経験率が徐々に下がってきている。(ニューメキシコ州では、10代の半分以上が妊娠したことがあるという記録もある)
日本のアニメの一部が規制されるなど、性に関して真面目で保守的な側面もある。キリスト教の影響が強く、結婚前のセックスを禁じる家庭もある。
学校での性教育について、「親と話すいいきっかけになる」という意見もあれば、「学校が性行為に対してOKしてるようなものだ」という賛否両論ある。性に対し、開放派、保守派、包括的性教育推進派にわかれる。

学校で学ぶ内容

10代での性的虐待、性的暴行、妊娠が問題となっていて、ビデオで考える授業も展開されている。避妊、自慰、同性愛など偏見のない議論がなされている。近年のSNSやネットなどの問題から、セックスやデートDV、いじめ、性的虐待、LGBTQ、同性カップル、人身売買などにも向き合う

(追記)現代の性道徳やそのルールなど、どこかの誰かが適当に作るだけだろう。


フランス、性交同意年齢を15歳に設定 法相「歴史的」

 発信地:パリ/フランス [ フランス ヨーロッパ ]



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【4月16日 AFP】フランスの国民議会(下院)は15日、性交同意年齢を15歳とする法案を全会一致で可決し、同法が成立した。エリック・デュポンモレティ(Eric Dupond-Moretti)法相は、伝統的に性に寛容な同国において「歴史的」な一歩だと述べた。


 法案を提出した上院議員は、同意年齢を欧州で最も低い水準の13歳とするよう主張していたが、エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)政権が引き上げを求め、修正が加えられた。



 新法は15歳未満との性行為について、両者の年齢差がわずかでない限りレイプとみなし、20年以下の禁錮刑を科すもの。近親相姦(そうかん)の場合、同意年齢は18歳とされる。


 同意年齢の設定によって、フランスも多くの欧米諸国と足並みをそろえることになった。


 これまでは、未成年者との性交をレイプまたは性的暴行で起訴するためには、未成年者が強制または脅迫、偽計によって性交させられたことを検察側が証明しなければならなかった。


 デュポンモレティ法相は、「いかなる成人の加害者も、15歳未満の未成年者の同意に頼ることはできない」とし、同意年齢の設定は「歴史的な一歩」だと述べた。


 新法は、15歳未満の子どもと5歳年上までの相手との性行為は認めている。この年齢差について大きすぎると批判する議員もいるが、デュポンモレティ法相は擁護している。(c)AFP




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「オーバーロード」と「組織悪」

まだ、帰着点のはっきりしない未熟な思想というか、浮遊思考だが、私がいずれ書きたいと思っている「組織悪」の原点のひとつとしての「組織と自分の同一化」ということに関係するかと思うので、書いてみる。
ちなみに、ここで言う「組織」とは、自分と他者の結合体で、小は夫婦や家族や友人から、大は学校や会社、さらには国家まで含む。極端に言えば人類全体も入れてもいいが、さすがに人類は組織化されていない。(NWOが究極の組織で、そこで組織悪も最大になるかと思う。つまり、個々人が単なる細胞の小部分、末端、あるいは分子となり、意思と意志を失う、いや、持つことを許されなくなるのである。)

最初に気楽な話から書いてみる。
私が最近再視聴しているアニメに「オーバーロード」という作品がある。なかなか面白いアニメだが、見る人によってはこの上なく不愉快なアニメだろう。これが欧米で受け入れられない(人気にならない)のは、これが「キリスト的人類愛」の対極にあるからだろう。つまり、「人類否定」思想と言えそうな作品なのである。まあ、簡単に言えば、「世界は設定がすべて」という、ゲーム的人生観だ。つまり、「弱者がいくら道徳や倫理を振り回しても、力の前には無意味である。そして、その『力』は最初の設定で決まっている」という思想だ。ある意味では資本主義の「カネがすべて」あるいは封建社会の「身分がすべて」という思想に近く、人間の尊厳や人間愛という「お題目」など馬鹿にした思想ではないか、と私は見ている。
ストーリーや絵作りや音楽などは非常に優れた作品の部類だと私は思っているが、その根底にある「ゲーム的人生観」というのは、非常な危険性を持っており、それは、その思想が「ヒューマニズム」の対極にあると思うからだ。(私自身、テレビゲームが大好きだが、それが「人生観」になるのは非常に危険だと思うわけだ。)
これが「組織悪」とどう結びつくかというと、主人公の青年はブラック企業に勤め、ブラック労働に疲労困憊した人間として最初に登場するが、彼が「自分が最愛するゲーム内世界」に転生し、「オーバーロード(上主)」となった時、彼は自分の組織防衛のために、あらゆるものを問答無用で踏みにじるのである。それが顕著なのは、彼の居城を単なる廃墟だと思って侵入した盗賊(下級冒険者)一味の人間像を、素晴らしい人間性として描きながら、主人公のアインズは、問答無用で殺戮する、その描写の「人間性の完全否定」「人類憎悪」にある。
つまり、ブラック企業という組織の「組織悪」に疲労困憊しながら、いざ、自分が組織の長になると、その組織の防衛のために他者を殺戮するという、その有様に、まさに組織悪の本性が顕現しており、組織悪とは「自分の悪を拡大したもの」でもあるというわけだ。

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墨子の「兼愛」「非攻」の思想

「櫻井ジャーナル」の櫻井春彦氏が、ブログの冒頭に置いた墨子の言葉だが、私も墨子が大好きで、彼(墨子)の主張の根本である「兼愛・非攻」こそが政治のアルファでありオメガであると思っている。
「兼愛」とは「博愛」と同じ。「非攻」は「自分から攻めないこと。完全防御の戦争のみ肯定」。すべての国がこの「兼愛・非攻」を政治の鉄則として遵守したら、地上の天国が実現するだろう。しかし、冨への欲がそれを不可能にする。そこで、墨子は「清廉」をも教えに入れた。つまり、資本主義という、戦争と不可分の思想を最初から否定したのである。物欲の極限の肥大は、他者からの略奪となるのは理の当然だ。

天下兼相愛則治、交相惡則亂(墨子、巻之四)
順天意者、義政也。反天意者、力政也。(墨子、巻之七)
天下有義則治、無義則亂。(墨子、巻之七)

天下は人々が相愛すれば治まり、互いに憎しみあえば乱れる
天意に従う者は義に従って正す。天意に背く者は強制する
天下に義があれば治まり、義がなければ乱れる



ただし、上の訳文には私には少し不満がある。「順天意者、義政也。反天意者、力政也」は、文字通り「天意に従(順)うは義政である。天意に背くは力政である」と読むべきだろう。「者」という字は、「は」という助詞として読めるというのは漢文の初歩であるが、もちろん、「者(もの)」と読んでもいい。しかし、「義政」を「義によって正す」と読むのはかなり無理がある。「政」は「政治」の意味で十分だろう。「力政」もそのまま、暴力による支配の意味でいい。
私にとっての「社会主義(マルクス以前の社会主義)」が「兼愛」思想であり、「憲法9条」が「非攻」思想である。

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Silent Night

「イスラエル・パレスチナ問題」の深層には、宗教的暗闘があるのではないか。いや、下の記事を見れば、それは暗闘ではなく、明らかにユダヤ教徒による他宗(キリスト教)排斥である。
今のユダヤ人は本来のユダヤ人ではない、とはよく言われるが、実は「ユダヤ人とはユダヤ教を信じる者である」という定義もあり、それが現実に近いだろう。そして、古代ユダヤ教がいかに残忍で非人道的なものであったかは旧約聖書を読めばよく分かる。我々非ユダヤ人から見れば、ユダヤ教の神とはほとんど悪魔である。もちろん選民(笑)ユダヤ人だけは特別扱いだ。
そして、キリスト教の神も、ユダヤ教と同一である(実はイスラム教の神も同じであり、キリストはイスラム教の聖者のひとりである。エホバと言うかアラーの神と言うかは信徒の勝手な都合であり、神は名前を持たないし、人間がつけた名前を呼ぶのは不敬とされている。)のが、今、パレスチナで起こっている悲劇を喜劇にしている。神は「沈黙」している。

(以下引用)

2023年のクリスマスが中止されたベツレヘムの暗闇

マスコミに載らない海外記事さんのサイトより
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2023/12/post-1f1b03.html
<転載開始>

スティーブン・サヒオニー
2023年12月16日
Strategic Culture Foundation


 今年のクリスマス、ベツレヘムのホテルの部屋は空っぽで、益々戦場の様相を呈している地域にキリスト教徒巡礼者が旅行したがらなかったため地元企業は苦しんでいる。


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 イエス生誕の地ベツレヘムは今年のクリスマスを中止した。現代の祝祭が始まって以来初めて、イエス生誕の地が飼い葉桶広場の木を飾らない。


 最初のクリスマスの物語では、ヨセフとマリヤは宿屋から追い出され、全ての部屋が満室だった。今年のクリスマス、ベツレヘム全ホテルの部屋は空っぽで、ジェニンなどの被占領西岸地区をイスラエル国防軍が絶えず襲撃する中、益々戦場の様相を呈している地域にアメリカやヨーロッパからのキリスト教巡礼者が旅行したがらなかったため、地元企業は苦しんでいる。


 「家では祝えるが、心の中では苦しんでいる」とギリシャ正教の司祭イブラヒム・ダブールは述べた。「クリスマスツリーを飾るにはどうしたら良いでしょう?」


 イスラエル政府は、オリーブ山のキリスト教遺跡を国立公園に変える計画を立てている。イスラエルがキリスト教徒を追い払った後、最終的にそれら全てを金儲けのための観光名所に変えたいと考えているため、古代の教会や聖書の遺跡の将来は不確かだ。



 ガザでの戦争とヨルダン川西岸地区の空襲


その後の逮捕も含め、以前から続いていたが、10月7日のハマスによるイスラエル攻撃で1,000人以上のイスラエル人が死亡した後、被占領ヨルダン川西岸地区でのイスラエル国防軍襲撃と攻撃は激しさを増している。


 エルサレム、被占領ヨルダン川西岸地区、ヨルダンの様々な教会の長たちは、ガザのパレスチナ人の苦しみとイスラエルのガザに対する戦争で現在17,000人を超え日々増加している死者数に連帯して今年のクリスマスを暗いクリスマスにする集団的決定を下した。


 イスラム教徒が大半を占めるヨルダンでは、クリスマスは祝日で、街の広場やショッピングモールの多くが季節の飾り付けで飾られている。しかし全国の集会は、公共ツリーの点灯、クリスマ市場、スカウトパレード、子どもへのプレゼント配布などの伝統的なお祭りを見送る。


 アメリカの福音派シオニスト


 「私たちには、西側諸国の友人たちに語りかける役割があります」とヨルダン・アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教会の理事長兼総監督のデビッド・リハニ氏は述べた。「闇雲に誰かの味方をせよとはイエスは教えませんでした。」


 ガザを「駐車場」に変え、岩のドームを爆破して第三神殿のための場所を作り、イエスの再臨を告げるようテネシー州を拠点とするグレッグ・ロック牧師がイスラエルに呼びかけている有名な映像に彼は言及した。そのようなキリスト教シオニズムと関わるのを聖地現地の福音派は拒否しているとリハニ氏は言った。


 エルサレムのパレスチナ人で、小さなパレスチナ福音主義教会に所属するジョン・ムナイヤーは、キリスト教徒への嫌がらせが特に過去6カ月増加しており、国際的影響を及ぼしていると述べた。


 「国際的キリスト教世界には、イスラエルを熱烈に支持する人々や占領に反対するパレスチナ人の闘争に共感する人々や、その中間にいる人々が大勢います」とムナイヤーは述べた。「国際会議やコミュニティを回っています。暴力的な出来事は目立った変化をもたらし、イスラエルとユダヤ人に対する正しい態度は一体何かという疑問を多くの人々に抱かせます。」


 イスラエル人に攻撃されているパレスチナのキリスト教徒


 2002年4月2日から5月10日にかけて、ヨルダン川西岸地区のベツレヘムにあるキリスト降誕教会がイスラエル国防軍(IDF)に包囲された。2002年4月7日、イスラエルに対し、国際的義務に則り、宗教施設を尊重するようバチカン市国が警告した。2002年4月20日、エルサレムのギリシャ正教会が、来る日曜日を教会の人々と教会自体の「連帯の日」にするよう世界中のキリスト教徒に呼びかけ「人々と教会に対する非人道的措置」と呼ぶものを止めるための即時介入を求めた。


 2018年のクリスマスに先立ちガザ地区に住む少数派キリスト教徒がクリスマスを祝うためヨルダン川西岸地区やエルサレムのキリスト教聖地や教会を訪れるのをイスラエルは禁じた


 イスラエルとパレスチナ解放機構が1994年にオスロ和平協定に署名するまで約5,000人のキリスト教徒(ほとんどがギリシャ正教徒)はガザ地区に住んでいた。しかし、イスラエル人とパレスチナ人の紛争が続いているため、その数は劇的に減少した。


 パレスチナ人200万人が暮らすガザ地区のキリスト教徒は、毎年ヨルダン川西岸地区のベツレヘムとエルサレムを訪れ、そこでパレスチナのキリスト教徒と合流しクリスマスと新年を祝っていた。


 2017年の復活祭に先立ち、エルサレムに入ろうとするキリスト教パレスチナ人はイスラエル国防省占領地政府活動調整官組織(COGAT)調整官による承認が必要だった


 2023年1月26日、エルサレム旧市街にあるタブーン・アンド・ワイン・バーのアルメニア人オーナー、ミラン・クリコリアンは、イスラエル人入植者の暴徒がクリスチャン地区にある彼のバーを襲撃し「アラブ人に死を...キリスト教徒に死を」と叫んでいるという電話を受けた。


 彼が警察に行くと、犯罪を報告して手を煩わせたことを警官が叱った。


 数日後、アルメニア人地区で告別式を終えたアルメニア人が棒を持ったイスラエル人入植者に襲われた。入植者がアルメニア人修道院の壁をよじ登り、十字架が描かれた旗を降ろそうとした際、アルメニア人は唐辛子スプレーを浴びせられた。アルメニア人が彼らを追い払うと、入植者たちは「テロ攻撃だ」と叫び始め、警察はアルメニア人に銃を向け、被害者の一人を殴打して逮捕した。


 エルサレムのキリスト教社会に対するユダヤ人の敵意は根強く、あらゆる宗派に及んでいる。2005年以降、聖週間、特に聖なる火の土曜前後のキリスト教祝祭は、軍のバリケードと兵士やユダヤ人入植者からの過酷な扱いを受け、聖墳墓教会に入場できる礼拝者の数は、聖なる火の儀式中11,000人ほどだったが、昨年からわずか1,800人へと大幅に制限されている。


 イスラエルで現在のユダヤ過激派政権が権力を握って以来、エルサレムのキリスト教徒に対する事件は、より暴力的で日常茶飯事になったと報じられている。今年初め、プロテスタントのシオンの山墓地にあるキリスト教徒の墓が30基冒涜された。


 鞭打ち教会(Flagellation church)では、イエス像をユダヤ人入植者がハンマーで攻撃し、日曜礼拝中、ゲッセマネ教会にイスラエル人がやってきて、鉄棒で司祭を攻撃しようとした。イスラエル人に唾を吐きかけられたり怒鳴られたりするのは、キリスト教徒にとって「日常茶飯事」になっている。攻撃者を捕まえたり罰したりするために警察はほとんど何もしていないと、これら事件の被害者は報告している。


 「私が恐れているのは、これらの加害者が知られているのに、彼らが無処罰を享受していることです」と福音ルーテル教会の名誉司教ムニブ・ユーナンは述べた。「それが、彼らがこういうことをしている理由です」


 フランシスコ会は聖地の隅々にカメラを設置しているが、執拗な攻撃のため一般の人々に対して益々閉ざされつつある。


 イデオロギー的には、キリスト教徒とその聖地を標的にした主な原因は、過激派ユダヤ教集団から来ると共同体や教会の指導者は言っている。


 彼らの心は『メシアニック・シンドローム』に取り憑かれている。彼らは全土を乗っ取ろうとしている」と、ギリシャ正教のエルサレム総主教テオフィロス3世は言った。


 自分たちは法の適用を受けないのをユダヤ人は知っており、銃によってさえキリスト教徒に嫌がらせをし、それで咎められずに済むのを知っている。キリスト教徒を彼らは「異教徒」や「偶像崇拝者」と呼んでいる。」


 「国家安全保障大臣はキリスト教施設などを攻撃する過激派ユダヤ人を弁護していた弁護士だ」と、イタマール・ベン・グヴィルに言及して1月に襲撃されたアルメニア人青年の一人が言った。「最高位の役人が最過激主義者だったら一体何を期待できますか?」


 キリスト教徒に唾を吐きかけるユダヤ人


 10月5日、イスラエルのユダヤ人がキリスト教徒に唾を吐くのは犯罪ではないとイスラエルの犯罪・治安担当大臣イタマール・ベン・グヴィルは述べた。少数派の宗教を信仰する人々に唾を吐くのは、ほとんどの国で憎悪犯罪と見なされるだろうが、イスラエル政府にとって、それは単に「古いユダヤ教の伝統」に過ぎない。


 2023年7月、カトリックのペンテコステ儀式中に、約20人の超正統派ユダヤ教徒がラッパを吹き大声で罵声を浴びせて式典を妨害した。「エルサレム・キリスト教徒の信教の自由を我々は非常に懸念している」と式典に出席したアメリカ国務省代表は述べた。


 最後の晩餐が行われたとされる「二階の広間」は6月のミサの舞台となったが、ユダヤ人が外でスピーカで騒音を流し、催しを台無しにし、その2週間後、ユダヤ人の男が「二階の広間」の窓を割った。


 2023年初頭以降、エルサレム旧市街では「娼婦マリアの子イエス」と書かれた落書きなどキリスト教徒に対するヘイトクライム20件を含む多数の破壊行為が記録されている。


 6月に「なぜユダヤ人は非ユダヤ人に唾を吐くのか」と題する会議が旧市街で開かれたが、イスラエル外務省はボイコットした。


 イスラエルのユダヤ人ツアー・ガイド、ロビー・バーマンは唾吐き事件を二件目撃しており、キリスト教徒に対する嫌がらせの取り締まりがないことに憤慨していると語った。ある土曜の朝、ヤッファ門でギリシャ正教の司祭に唾を吐きかける2人の少年を目撃した後、側に立っていた2人のイスラエル警官に注意したが彼らは行動するのを拒否した。


 バーマン自身、ヴィア・ドロローサでパレスチナ人警備員おしゃべりしていた際、唾吐き攻撃の犠牲者だった。彼らが話していた際、非ユダヤ人に間違えられた。「現代の超正統派の家族が通り過ぎた。父親、母親、若い夫婦、そして子どもが沢山いた。青年は私の足に唾を吐きかけた」とバーマンは言った。


 個々の寄稿者の見解は必ずしもStrategic Culture Foundationのものでない。


記事原文のurl:https://strategic-culture.su/news/2023/12/16/darkness-in-bethlehem-as-christmas-2023-is-cancelled/


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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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