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欧米上流階級の性的放恣

「副島隆彦の学問道場」記事の一部で、元記事の脱線部分と言っていいと思うが、むしろ私はここが興味深い。乱交は欧米上流階級(昔は王侯貴族)の「普通の姿」だったということで、これはルイ14世についての記述などと一致する。
それが現代でも同じだ、というのを暴露したのがスタンリー・キューブリックの「広く開かれた目(アイズ・ワイド・シャット)」である。この映画が遺作となってキューブリックが死んだのは、あるいはこの暴露のために殺されたのではないか。

(以下引用)末尾の「プロテスタント運動の本質」についての記述が面白い。


オッペンハイマーはウーマナイザー(womanizer)、女たらしだ。ケンブリッジ大学にいたころから、そしてドイツの ゲッティンゲン大学とか、フランクフルト大学とか、ハイデルベルク大学とかにも行っている。1、2年でどんどん大学教授の職を別の大学に異動する。優秀な学者は次々と招かれて雇われく。行った先の大学教授の奧様たちと寝ちゃうんですよ。とにかく有名な大学教授の奥様と寝ちゃう。それがオッペンハイマーの真実で、そのことは割とみんな知られているよ。


しかし、このことを、さらに私、副島隆彦が、深く解説すると、本当のことを言うと、優秀な大学教授たちは仲間内で、フリーセックスをやっていた。今もそうだ。これは秘密結社の儀式の一種です。ハーヴァード大学の教授たちも、進歩的人間たちだから、奧さんたちも進歩的人間たちだから、乱交パーティーをやっている。ディオニュソスの祭り(Dionysiaques)をね。これはギリシャ語。ローマ語ではバッコスの祭り(The Bacchanal バカナール )と言う。古代も中世もヨーロッパの貴族たちは乱交パーティーをやっていい。今もやる。私の知っているある東大教授が、ハーヴァード大学のパーティの後、「君はいいから、先に帰りなさい」と言われたんです(笑)。

ディオニュソスの祭り


ハーヴァード大学で、パーティで、日本からの客としてスピーチした。その後で、一緒に彼らについていこうとしたら、「君は帰りなさい」と言われた。みんな奧さんたちを連れて、そういうパーティーの後は乱交パーティーの夜会に行く。この欧米の貴族と学者たちの、文化、伝統のことを日本では誰もしゃべらない。だいたい日本人はその夜会に入れてもらえない。


欧米の白人の大学教授たちは、そろってユニテリアン(Uniterian)だ。彼らは、一応教会に通うんだけど、どこの大学も、ヨーロッパ、アメリカで、理科系の大学教授たちでも、一応クリスチャンですというふりをする。そして、大学のそばにあるユニテリアンの教会にゆく。そこは裏側は、フリーメイソンの儀式を行う部屋が有る。この話はもうしません。裏側は秘密結社でもある。この映画の中で、オッペンハイマーは、「ロスアラモスにもすぐに教会をつくれ」と言っていた。

ハーバード大学ユニテリアン・ユニーヴァサリスト教会


ユニテリアンの教会です。そして子供たちがぼこぼこ生まれる。ロスアラモスに、家族を連れて来ていますからね。だから男と女の恋愛は自由だ。これがプロテスタント運動の思想の根幹だ。このことは、この間私が書いた『教養としての ヨーロッパの王 と 大思想家たちの真実』(秀和システム刊) にたくさん書いた。


プロテスタント運動というのは、男女の愛を認めよ、性欲の解放をせよということです。あとは金儲けの自由を認めろ。と金貸し業のユダヤ人まで全部集めて人間を楽しませろ、という思想。このことを私は書いて本にした。

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教育の欺瞞と「善意の虚偽」の問題

「大摩邇」所載の「in deep」記事で、医療の話というより、「『教育』による思考の硬直化」の問題として載せておく。これはほとんどの人類(文明人)が多かれ少なかれ持つ欠陥である。中には意図的に嘘を教える教育もある、どころか、教育の基本は「人を鋳型にはめること」という目的が優先され、その結果、その意図にそぐわない教育内容は排除され、結果的に虚偽を大量に含むのではないか。

(以下引用)長いが、そのまま載せておく。

医療という欺瞞は今後さらに積み重ねられていく

In Deepさんのサイトより
https://indeep.jp/medical-deception-continues/
<転載開始>


医師本人も含めて誰も気づかない欺瞞

最近読んだ記事で、「結局、上塗りの上塗りになっちゃうんだよなあ」と思ったことがありました。


まあ、立派な方だとは思うのですが、内科と心臓病学を専門として、35年の臨床経験を持つトーマス・バインダー博士という方に関しての記事でした。


博士は、2020年にコロナのパンデミック対策に反対を表明した後、精神病院に強制入院させられたとして話題になったこともある方です。


 


> 2020年2月、トーマス氏は真の科学、医学、そして人間性の復活のために立ち上がった。非科学的で非合理的なCOVID政策に声高に反対した結果、逮捕され、強制的な精神科治療を命じられた。 wnd.com



記事では一種ヒーロー的にも扱われているそのトーマス博士が、最近 WHO のパンデミック条約に強固に反対しているという内容の記事でした。


声明はこのように始まります。


トーマス・バインダー博士の声明より


この改変 RNA による大量虐殺は人類史上最大の医療犯罪であり、前例のない規模の人道的災害です。現在、製薬業界はすべてのワクチンを改変 RNA ワクチンプラットフォームに移行しようとしています。


疑惑の改変 RNA ワクチンは、未知の量と未知の期間にわたって体内に毒素を生成させ、文字通りあなたの一部をエイリアンに変えます。したがって、改変 RNA ワクチンプラットフォーム全体を直ちに禁止する必要があります。


…あなたがたの政府は現在、WHO とパンデミック条約を交渉中です。もし署名すれば、WHO はあなたの国の憲法よりも上位に置かれ、あなただけでなく、あなたの政府と議会も選択の自由をすべて失うことになります。


WHO を支配する者は世界を支配します。犯罪的なパンデミックを再び起こさないための唯一の合理的で 100%効果的で安全な予防法は、WHO を即座に粉々に粉砕することです。



wnd.com


これはいいんですよ。立派な訴えかけだと思います。


しかし、声明の後半に以下のようにあります。


トーマス・バインダー博士の声明より


親愛なる人類の皆さん、もしあなたが一度、あるいは数回注射を受け、おそらく改変 RNA 注射の重篤な副作用に苦しんでいるとしても、絶望しないでください。


ますます多くの責任ある医師たちがあなたを助けようとしており、ますます多くの責任ある科学者たちが、いつの日か最も複雑な副作用さえも治療できるように研究しています。


改変 RNA 注射は喫煙と同じだと思います。禁煙してより健康的に暮らすのに遅すぎるということはほとんどありません。



wnd.com


mRNA ワクチンの害を喫煙ごときと比較していることはともかくとして、ここには、「ますます多くの責任ある医師たちがあなたを助けようとしており…」とあります。


誰が聞いても、


「どうやって?」


と思わざるを得ないのではないでしょうか。


スパイクタンパク質の有害性だけなら、もしかすると(あくまで「もしかすると」ですが)、何らかの治療法で、その有害性を排除できるようになる可能性はあるのかもしれません。


しかし、バインダー博士が、その前に、


> 文字通りあなたの一部をエイリアンに変えます。


と書いてある通り、問題は「遺伝子が改変される」ことです。


このバインダー博士の書いている「エイリアン」という表現は、言葉のあやか、あるいは、DNA 混入や、逆転写(RNA がその人の DNA に統合されること)のことに、あえてふれていないか、知らないかのどちらかでしょうが、このエイリアンという表現よりは、ミラノの分子腫瘍学研究所の科学者である荒川央さんが以前 note に書かれていた以下のほうがわかりいいです。


荒川央さんの note より

今回の培養細胞における実験は汚染DNAのゲノム統合の縮図とも言えます。現実問題として、世界中の膨大な数の人間にワクチン接種の名の下に「汚染DNAのトランスフェクション人体実験」が行われたという事です。


note.com


昨年以来、このように「ゲノム統合」にまで話が進んでいる中で、「ますます多くの責任ある医師たちがあなたを助けようとしており…」という言葉には非常に違和感を感じた次第です。


そして、この言葉こそ、


「医者ならでは」


のものだと感じるのです。


「医療はどんなことでも治すことができる」という医療宗教の洗脳の最たるものであり、「治すことのできるものと、決して治すことのできないもの」の差を自らで打ち消してしまう。


指か肋骨かなんかを骨折して、「治りますか?」ときけば、医師は堂々と、「治りますよ」というでしょう。


この、


「治りますか?」
「治りますよ」


という応答が正しい病気や負傷はたくさんあると思います。


何しろ、人間のかかる病気や負傷の多くは、放っておいても自然に治るものですから、たいていは治るわけです。治療を受けなくとも。


実際、現在、病院を受診する人たちの 8割とか 9割とかは「自然に治る病気で受診している」はずです。風邪とか発熱とか、他さまざまで。ほぼ意味なく受診している。


しかし、確かに自然に治らない病気があります。


特に現代社会になって、それは飛躍的に増えました。そのほとんどが、文明、あるいは薬学の発達と共に増加した「弊害病」といえるものなのかもしれないですが、ともかく、放っておいても治らない病気がある。


それに対しても、「治りますよ」というと、これは欺瞞になります


そのことを思ったのです。


「汚染 DNA に統合されたゲノムを元に戻せますよ」


と言っているのと同等だからです。


そんな技術がどこにある。


言いたいことは、先ほどのバインダー博士ご本人が良い悪いということではなく(おそらく本心から述べているので)、そうではなく、「どこまで行っても医師たちは医療信奉を放棄することができない」という洗脳者の哀しみを感じてしまうのです。


医療信奉は実際には、マインドコントロールのひとつですから、薫陶を受けてからの時間が経過すればするほど、催眠状態にまで深化します


若い医師より高齢者の医師のほうが洗脳状態は強いでしょう。


(記事)医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる
In Deep 2022年11月15日


あるいは、一歩引いて別の方向から見て、


「それでも、苦しんでいる人を励ますのはいいことなのではないか」


というほうの話もあると思います。


実際、病気が、ある程度はポジティブな信念でいたほうが良い方向に働くということもあり得ます。


しかし、その話が「実現する可能性がほぼゼロの、ウソに近い話でも?」ということです。


それなら言わないほうがいいのではないかと。


私は以前から、「根拠のないポジティブ思考」が病気の治療には悪影響を及ぼしていると考えています。


それは、「現実を直視しないようになるから」ですが、たとえば、いろいろな治療を医療として受けている人たちは、「本当に機序を考えて、それを受けているだろうか」と思うことが以前からありました。治療を受ければ大丈夫、と漠然と考えてはいないか? ということです。


コロナのずっと前ですけれど、「ポジティブ思考が病気の人たちを殺し続けている…」というようなタイトルの記事で、カナダのガボーテ・マテという医師の著作を抜粋したことがあります。20年以上前の著作です。


ガボール・マテ著『身体が「ノー」と言うとき』より


”思考”という言葉に「ポジティブ」という形容詞をつけたとたん、現実のうちの「ネガティブ」だと思われる部分は排除されてしまう。これはポジティブ思考を信じる人のほとんどに見られる現象である。


本当のポジティブ思考は、あらゆる現実を認めるところから始まる。そこにいたるには、たとえどんな真実が出てこようとそれを直視できるという、自分に対する信頼感が必要なのである。


無理やり楽観主義になろうとするのは、不安に直面しないために不安を封じ込めるひとつの方法である。その種のポジティブ思考は、傷ついた子どもが身につける対処パターンである。


それに気づかず、傷ついたまま大人になった人は、子どものころの自己防衛手段のなごりを一生持ち続けることになる。


病気は一対一になったふたつの問題を突きつける。ひとつは、その病気は過去と現在について何を語ろうとしているのかということ。もうひとつはこれから先、何が助けになるのかということである。


多くの取り組みは、治療にかかわる一対の問いの後者にだけ目を向け、そもそも何が病気をもたらしたのかをろくに考えようとしない。本や雑誌、テレビやラジオにも、そのような「ポジティブ」思考の勧めは数多く見られる。


しかし、治療のためにはネガティブに考える勇気を奮い起こさなければならない。


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コロナワクチンが展開された時にも、このような傾向は見られたと思われます。


「これでもう大丈夫だ」というような。しかし、多くの人たちには実際には「その安心の理由の根源は曖昧なまま」でした。


それが現状(と、そしてこれから)の悲劇につながっているわけですけれど、それでも、多くの医療従事者たちは、「医療の絶対性」を疑いませんでした。今も疑っていません。


当然、患者の多くも疑わない。


この宗教的な関係が、これまでの多くの薬害を生み出し、そして、世界で 170億回などが打たれたコロナワクチンへと繋がり、さらには、次もまた何か「大規模な予防医療キャンペーン」があっても不思議ではない状況を作り出しています。


 


ともかく、最初のトーマス・バインダー博士の声明に反応したのは、


「治せないことを治ると言ってはいけない」


という、わりと普通の感情からのものであり、ご本人に対しての悪意はまったくないです。おそらく、博士は、心底、医療と医学を信じていらっしゃる方ですから。


あるいは、


「予防できないものを予防できると言ってはいけない」


というのも同じです。


 


…15年後くらいまでには、現在の日本の医師はほとんどいなくなっていると見られます。たとえば、それは以前、何度か載せた以下のグラフでわかります。


大阪府の65歳以下の医療従事者のワクチン接種率の推移

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このワクチンは、DNA 汚染の観点からいっても、あるいは、IgG4 と呼ばれる抗体の誘導の観点からでも、2回で十分に作用します。作用の結果が出るのが 10年後か 15年後はわからないというだけで。


それでも、今後も「医療」という名の神様の使徒たちはこの世に君臨し続けるはずです。


そして、どんな美辞麗句が並べられても、その言葉から矛盾を探し出すかということについては、社会からでも世間からでもなく、ひとりひとりの解釈に任されています。


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「東海アマ」氏のユダヤ人否定論

「東海アマブログ」記事の一節で、毎度同じ事を言っているという感じもあるが、私も「ユダヤ的思想」については同じ考えなので、考察題目の参考に載せておく。「東海アマブログ」自体は、奇矯な思想や偏見や誤解としか思えない思想も多く含まれているが、ことユダヤ思想に関しては、正鵠を射ていると思う。(「ユダヤ人」については私は別意見である。)
で、その冷酷非情さがどこから来るかと言えば、「神との契約」思想が最根幹ではないか、というのがここでの私の考えだ。つまり、「神との契約」が最優先されるなら、他の人間との関係はすべて次善、二の次になる。ということは、神との契約のためなら我が子も殺すという、アブラハムの行為こそがユダヤ思想の本質だ、となる。況や赤の他人をや、他民族をや。(「況や~をや」は「~を言わんや」の倒置なので、「~をや」が正しいとは前から書いている。)
なぜ、それほどアホな思想がユダヤ民族に受容されたのかと言えば、それは東海アマ氏が言うように、幼少から膨大な量のトーラー五書(ユダヤ教の聖典)を丸暗記させられるという狂気の教育に原因があるかと思われる。西洋医学を学んだ秀才医師たちが西洋医学に疑問を持つことが不可能になるのは、そのちっぽけな雛型だろう。(まあ、雛型は当然「ちっぽけな」ものだが、これは強調のための畳語であり冗語であり、レトリックだ。)(「レトリック」は「文飾」だが、その中に「トリック」が含まれているのが面白い。)

(参考)「徽宗皇帝のブログ」所載の「革命者キリスト」の一節である。(以下引用)の冒頭部分の参考として載せておく。下記の冒頭の一文の「無い」を「ない」に訂正。「~では無い」は文法的に誤りなので。

結論的に言えば、世間で言う「キリスト教」は、「キリストの教え」ではない、ということだ。キリスト本来の教えは、共産主義に近いほどに、この世の富と栄華を否定する思想であるから、資本主義社会とは両立できない思想である。その資本主義の牙城のアメリカが「キリスト教」国家であるなら、それは「キリストの教え」とは別のキリスト教でしかない。同様に、「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬をさし出せ」という、許しと寛容の教えがあの残虐な十字軍と両立するはずはない。そこには、ユダヤ教独特のダブルスタンダードの思想、つまり、「自分の民族に対しては倫理を守れ、だが、異民族に対してはあらゆる悪が許される」という選民思想がある。ユダヤ民族を白人種に変えれば、これが西欧国家や西欧人種の気風でもあることは、近世近代現代の歴史に明らかである。
「キリスト教」は、西欧人の考えの土台である。したがって、その思想がキリスト本来の思想といかに異なるものであるかを西欧人たちが知れば、(つまり、自分たちがキリスト教だと信じていたのは実は変装したユダヤ教であることを知れば、)彼らが自らを反省し、あるいは西欧の貪欲によって破滅しかかっているこの世界が救済される可能性への道が開かれるかもしれない。そのためにも、この論が書かれる必要性があると私は信じる。

(以下引用)私はユダヤ人全体を否定する者ではない。当然ながら「貧乏ユダヤ人」もたくさんいるはずで、「上級ユダヤ人(DS)」が問題なのだと思っている。また、民族としての本来のユダヤ民族というのはアラブ人たちであり、白人ではない。つまり、「ユダヤ人とはユダヤ教を信じる者だ」という奇妙な定義はまさに正鵠を射ているわけだ。その「ユダヤ人」とは、キリストが否定した「パリサイの徒」であり、「白く塗りたる墓」だと言える。さらに、現在のキリスト教がユダヤ教に内部侵食されてキリスト思想を剥落させた形骸だ、というのは前に書いた。



 とにかく、高度な技術とか、最先端とか、科学優先主義の大半がユダヤ人から出ているものだが、ユダヤ人が、「普通の人」でなく「特別に優れた、神に選ばれた民族」だと思い込んでいる理由を調べると、タルムードによる思想的洗脳からきていることが分かった。

 そして、ユダヤ人のIQが異常に高くなる理由が、バルミツバという教育システムにあることも分かった。
 ユダヤ教徒は、幼いうちから旧約聖書の記憶を強いられ、男子13歳女子12歳になると旧約聖書トーラー五書をラビの前で暗誦してみせないと成人として認められないのだ。
 https://www.scarsdalemura-kara.com/barandbatmitzvah.htm

 だが、この儀式は、「他人に優しくする」という愛の思想の正反対である。旧約聖書は、レビ記を見れば分かるように、最初から最後まで、戒律と殺人、そして陰謀のオンパレードであり、「いったい、旧約の神は、どれだけの人を殺せば腹一杯になるんだ」と評されるほどだ。
 https://www.wordproject.org/bibles/jp/03/1.htm

 世界経済の9割を人類80億人中2000万人に満たないユダヤ人が掌握しているといわれ、アメリカやEUのトップもユダヤ人で占められている。アメリカ経済は、ユダヤ人銀行であるFRBが完全支配している。
 プーチンでさえユダヤ人の噂がある。旧ソ連の指導者ボルシェビキの全員がユダヤ人だった。スターリンでさえジョージアのユダヤ人出身といわれる。

 今、起きているウクライナやイスラエルの戦争にもユダヤ人の影が色濃い。アメリカがウクライナを援助して、いつまでも戦争を終わらせず、若者たちを大量に死なせている本当の理由は、この戦争による巨大な兵器消耗によって、ユダヤ系軍産共同体がボロ儲けできているからだともいわれる。世界の兵器産業の大半もユダヤ企業なのだ。

 イスラエルのガザ侵攻も、ほぼ間違いなく、ハマスを支配しているイスラエルモサドの工作員による「偽旗作戦」といわれている。
 ネタニヤフは、イスラエル政権の大規模な汚職の元締めであり、政府の施政を告発できないという反民主独裁法を強行採決した。
 https://mainichi.jp/articles/20230119/k00/00m/030/018000c

 これに激怒したイスラエルの若者たちはネタニヤフを激しく糾弾していたが、その若者たちが集う音楽祭を自称ハマスに急襲させ、数百名を殺害したとされるが、実は、その多くはネタニヤフの指示によってイスラエル兵が殺害していた。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6088890.html
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6095131.html

 これは、自分の汚職を摘発されることを恐れたネタニヤフが、偽旗作戦でガザにジェノサイドを仕掛け、非常事態にすることで延命を図っているのだ。
 この無謀で人の道を外れた行為によって、イスラエルという国は、あと数年で地上から消えてしまうことになるだろう。
 ユダヤ人は、「偽旗作戦」の教えを幼いうちから暗誦して育ち、いわば十八番なのだ。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/6076077.html

 ユダヤ人は、第一次第二次の世界大戦も含めて、実は人類における戦争の黒幕である。ユダヤ人ホロコーストでさえ、欧州で金貸しとしてぬくぬくとした座布団に座って、「神との約束の地に帰還すること」を忘れた欧州ユダヤ人を、大量殺人の恐怖でイスラエルに送るためのユダヤ教徒=シオニストの陰謀だったと指摘されている。

 世界はユダヤ人の手のひらの上で転がされ続けている。ユダヤ人は、同胞を聖書の目的のため大量殺戮することでさえ躊躇しない。
 何よりも、旧約聖書やタルムードの価値観には、人を愛することが含まれていない。自分たちの優秀さと、神との契約しか視野に存在しないのだ。

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若さは気から

今回の記事タイトルは、私の別ブログ(娯楽話題専門)に書いた記事のタイトルと同じで、もちろん、「病は気から」のもじりである。で、その記事も後で引用するが、冒頭の某アニメへの批判は省略する。

要は、肉体だけ若返っても意味はない、という話だ。で、精神の若さというのは80歳になっても100歳になっても変わらない人は変わらない(いや、進歩し、若返りすらする)のであり、それは「幼稚さ」だと批判もできるが、これを「若さ」だと肯定的に見たらどうか。
何だか、一時期流行ったアメリカの誰かの「青春の詩」のような臭い話にしか聞こえないかもしれないが。いや、言っていることはまったく同じなのだが、これから書くことは、たぶんもう少しマシな話だ。

で、小児や幼児には不可能な娯楽が、「精神世界の娯楽」である。これはある程度以上の知識や知能が必要になるので、ふつうは年齢と共に知能は向上し、知識は増えるから「大人の娯楽」になる。小児や幼児の場合は非常に限定されるわけだ。
つまり、老化(単なる年齢的意味での老化)というのは「精神的娯楽」に関しては、むしろ喜ぶべきことなのである。

数日前に私はバルザックの「暗黒事件」を読み終えたが、これは「いい加減な読書」が普通である私としては珍しく、フランスの「大革命時代」を勉強しながら、ふたつの翻訳を同時に読んでいった、いわば「学問研究」の真似事に近い読み方だったのだが、それでも内容の8割か9割くらいしか理解できていないと思う。つまり、歴史的知識が無さすぎるのである。たとえば「七月革命」、つまりナポレオン失脚後の王政復古に続く二度目の革命などの詳細はまったく知らない。
まあ、学校教育の中では歴史とは年号と人名・地名の暗記だけだったのだから、当然である。
しかし、今朝の寝起きに枕元の本棚から適当に抜き出したホフマンの「黄金の壺」その他の入った文庫本(ほとんど未読。収録作品の題名が魅力が無い)の解説を読んで、ホフマンがナポレオン戦争時代の人間であり、その影響で悲惨な人生を送った人間であることを知って、(解説の中の作品説明からも)がぜん興味が出たのだが、つまり、手近にあっても、所持している当人がその価値を知らない宝物がたくさんあり、それが私の言う「精神世界」の宝物なのである。
で、その宝物も、私の場合はその前に「暗黒事件」を読むということが無かったら、まったく興味も惹かなかったわけだ。

誰の人生でも、RPG(ロールプレイングゲーム)的な「冒険」はあり、それが精神世界での冒険である。だが、その冒険は本(先人たちの作った精神世界)という「広大な未知の大陸」に踏み出す者だけに与えられる冒険だ。

さて、一度読んだ本でも、その大半は未熟な精神での読書で、その価値の半分どころか100分の1しか味わっていないのは確実だから、そのうち、若いころ(十代のころ)に読んだ「戦争と平和」の再読でもしよう。未読の「名作古典」を含め、まさに「老後の楽しみ」は無限にあるのである。これは本だけでなく音楽も絵画も諸学問も「その本当の価値を知らないまま生きて来た」意味では同じことだ。つまり世界は宝に溢れている。


(以下引用)文中の「じいさんばあさん」はたぶん「ぢいさんばあさん」が正しい表記。

私なら、同じ若返りでも、山本周五郎の「大久保彦左衛門実記」をアニメ化する。これは、太平の世になって、戦国時代の質実剛健の気風を失った武士たちの姿を怒り、我が身の老いへの鬱屈とで世をすねていた大久保彦左衛門が、甥の若侍に騙されて、自分が昔書いた(実はその若侍の創作)実録を読んで興奮し、徳川家の御意見番として活躍するうちに、武芸の鍛練によって心身共に若返るというユーモア小説である。つまり、若さは心構えから、という話で、現代の高齢社会にウケルのではないか。

ちなみに、若返りはしないが、武士の老年新婚夫婦(事情があって、新婚早々別離していたが、何十年ぶりに再会して熱々の新婚生活を送っている)を描いた森鴎外の「じいさんばあさん」はしみじみと感動するというか、ニヤニヤしたくなる、ほほえましい名短編なので一読をお勧めする。芝居にもなっているようだ。

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「通俗道徳批判」という、上級国民らしいデコイ(偽物の的)

最近、混沌堂主人をはじめ、時々耳にする「通俗道徳」という言葉を言い出したのが誰か、疑問に思っていたのだが、下記記事の慶応大学教授などがその「犯人」だろうか。
言っていることはやや偽善的というか、大学教師らしい自己防衛的言語修飾もあると感じるが、かなりまともである。しかし、発言の中で出口なおの言葉をしばしば引用するなど、怪し気でもある。大本教信者か? だが、「言っていること」よりも、「言っていないこと」のほうがより問題だろう。
一番の問題は、日本の問題を経済問題でなく「精神の問題」にしてしまっている、いや、意図的にそうしていることで、そうなると「日本人が精神的に変われば幸福な社会になる」という、宗教的煽動にしかならないのである。
日本人の劣化が精神ではなく貧しさからくるものであることは自明だろう。つまり、「貧すれば鈍する」である。他人に構っている余裕など庶民には無いのだ。自分やその周辺が生きるだけで精一杯なのである。「勤労精神」が悪いと言うなら、遊んで暮らせる社会をどのようにすれば実現可能なのか提言しないと、「きれいごと」だけ言って終わりという、いかにも「先生様」のお言葉でしかない。さすがに、上級国民の生産工場である慶応の先生だ。

下記記事でこの先生は長々と御託を言っているが、要は「国民が悪い」「通俗道徳が悪い」としか言っていないのである。

(以下引用)

「獣の世」から「人間たちの社会」へ回帰!(1)

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慶応義塾大学経済学部 教授 井手英策氏


 東日本大震災という歴史的な惨事が起き、世界から日本の「絆」が賞賛されたことは記憶に新しい。しかし、「がんばろう」という大合唱とは裏腹に、私たちの社会はズタズタに分断されている。所得階層間、雇用形態間、性別間、政府間、地域間、世代間などの対立が激化し、私たちはバラバラな存在に追いやられている。日本社会は先進国と呼ぶのが痛々しいほどくたびれ、多くの日本人は、生きづらさ、閉塞感、未来を見通せない不安に怯えている。では、この社会を覆い尽くしている漠然とした重苦しさはどこから来るのか。私たちはこの「分断社会」を終わらせることができるのか。
 新進気鋭の財政社会学者、慶応義塾大学経済学部の井手英策教授に聞いた。井手先生は近著『分断社会を終わらせる』(共著 筑摩選書)において、この命題に迫りその解決策を提唱している。


理不尽な社会を次世代に残してはいけない

 ――今、先生の近著『分断社会を終わらせる』(共著 筑摩選書)や『分断社会・日本』(共編 岩波ブックレット)が巷で大変な話題になっています。まず、その執筆動機からお聞かせ頂けますか。


 井手英策氏(以下、井手) 執筆動機は大きく分けて2つあります。1つ目の動機は「理不尽な社会を終わらせたい」と思ったからです。最近よく巷では、格差が大きくなったという声が聞かれ、新聞、雑誌などでもこの話題が取り上げられることが増えました。国民の多くが漠然と格差は広がったと感じています。しかし、現在の日本と高度経済成長時代の日本を比べれば、明らかに格差は小さくなっています。それでは、なぜ日本社会は先進国と呼ぶのが痛々しいほどくたびれ、多くの日本人は生きづらさ、閉塞感、未来を見通せない不安に怯えているのでしょうか。

慶応義塾大学経済学部 井手 英策 教授<

慶応義塾大学経済学部 井手 英策 教授


 第8回の「世界青年意識調査」(内閣府2009)によれば、他国と比べて日本の若年層(18歳~24歳)は社会で成功する要因として、「運やチャンス」をあげる人が多くなっています。
 運やチャンスで人生が決まるということは、親の所得や環境によって自分の未来が決まるということです。
 私は生まれた時に「運が悪かった」という理由だけで、その人の人生が決まる社会というのは、それは格差が大きいとか小さいとかの問題ではなく、とてもおかしいと思います。裕福な家に生まれる、貧しい家に生まれる、男性に生まれる、女性に生まれる、障害を持たずに生まれる、障害を持って生まれるなどはすべて運です。私は、運が悪かっただけで、その人の人生が決まってしまう社会を「理不尽な社会」と呼んでいます。現在の日本社会は、まさにそれにあたります。


 運が悪かった人たちも、運が良かった人たちと一緒に生存競争の輪に加わり、その後の努力や頑張り次第で自分たちの生き方を決めていくことができる社会をつくる必要があります。運が悪かった人たちに感情的に「かわいそう」と手を差しのべるのは学者の仕事ではありません。私は財政社会学の立場から、このような理不尽な社会をなくす方策を研究、そして提言していきたいと考えています。

子どもたちの未来に不安を感じた

 2つ目の動機は「子どもたちの未来に不安を感じた」からです。私には今3人の子ども(8歳、4歳、0歳)がいます。3人の子どもたちの生きていく世の中を考えたときに、言いようのない不安に襲われることがあります。それは、もし私が運悪く今日帰宅の途中で車に跳ねられ、死亡とか、障害を負うようになった場合、「妻や3人の子どもたちは安心してこの日本社会で生きていくことができるのだろうか」と考えるわけです。
 今日、本の生活保障システムでは、義務教育や子どもの医療費を除き、現役世代にとってのサービスはゼロに等しい状態にあります。残された3人のどもたちが、塾はもちろん高等教育さえ受けられなくなる状況がパッと浮かびます。そのような社会を私たちは次世代の子どもたちに残してはいけない、何とかしなければいけないと考えています。

勤労が義務である国は先進国で日本と韓国だけ

 ――そもそも、今回のテーマである「分断社会」は、どのように形成されてきたのですか。


 井手 日本国憲法第27条に「勤労の権利と義務」というのがあります。勤労とは単に働くことではなく勤勉に(industrious)働くことを意味しています。おそらく「労働や就労が義務」の国はあったとしても「勤労が義務」である国は、先進国では日本と韓国だけだと思います。このことは、なぜ日本社会は引き裂かれ、分断されているかを考えるときにとても重要になってきます。


1.すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2.賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3.児童は、これを酷使してはならない。(日本国憲法第27条「勤労の権利と義務」)


 この「勤労」という言葉は、戦時中の国家総動員体制のもと、定着した概念であるにもかかわらず、日本人の心性に訴えかける言葉として左派にも好んで用いられています。


 1945年11月に出された日本社会党の綱領には、「わが党は勤労階層の結合体」であると最初に記され、翌月に出された日本共産党の運動綱領でも、勤労大衆、勤労者、勤労同胞など、勤労と言う言葉が8度も用いられています。

経済的な失敗者は、道徳的な敗北者になる

 歴史を遡ると、江戸時代の後期の民衆の間に広く定着していた「通俗道徳」的倫理観に注目することができます。江戸時代後期の商品経済の急速な浸透によって、民衆は商品経済に巻き込まれ、「家」まるごと没落の危機に直面しました。そうした事態に直面した民衆は、勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範を内面化し、それに従うことで家没落の危機を回避しようとしたのです。こうした勤勉、倹約、謙譲、分度などの規範が「通俗道徳」と言われるものです。


 その後、この「通俗道徳」というイデオロギーが今日に至るまで、日本国民を縛り続けていくことになります。市場経済において、努力したにもかかわらず、失敗する人間は常に存在します。しかし、通俗道徳、すなわち「勤勉に働き、倹約に務め、努力するものは成功する」というイデオロギーを前提とすると、経済的な失敗者は、そのまま道徳的な敗北者になります。高度経済成長を牽引した、時の内閣総理大臣池田勇人は、「救済金を出して貧乏人を救うという考え方」を批判して、占領期の社会政策を「贅沢過ぎ」だと断罪しています。それは、経済的弱者を救うことは「濫救」「惰眠」を増加させるものだとみなされていたからです。

生き馬の目を抜く万人の万人に対する戦争

 通俗道徳が支配する社会とは、「努力が必ず報われる」という建前のもとで、勝者と敗者が存在する社会です。しかし、個別の人生1つひとつを取りあげてみれば、そこには多くの偶然が介在しますので、実際には努力が必ず報われるという保証はありません。それにもかかわらず、人びとは、自らが通俗道徳を実践したことを証明し、社会的な承認を勝ち取るために経済的に成功しなければなりません。


 その結果、勤勉、倹約、自己規律を求める通俗道徳は、逆説的に、生き馬の目を抜くような、「万人の万人に対する戦争状態」としてのホッブズ的世界を招き寄せてしまうのです。それが、極端な競争社会に全面化するのは、明治維新によって、江戸幕府が崩壊し、それまで人々の行動に枠をはめていた江戸時代の身分制的秩序が崩壊した後のことです。現在の「分断社会」の原型はこの明治時代に生まれています。そして、この状況を大本教の教祖である出口なおは「獣の世」(※)と呼んだのです。

通俗道徳は皇国勤労観へ変貌して延命した

 通俗道徳的な規範に立脚した社会はアジア・太平洋戦争の敗戦で最大の危機を迎えます。
しかし、通俗道徳は、この危機の時代を「勤労」や「倹約の美徳」の思想となって生き延びることになります。日本政府は1つひとつの通俗道徳の実践という従来の価値観を「家の存続と個人の立身出世」を目的とするものから「国家」を目的とするものへと変換させました。それが「皇国勤労観」です。これは後に、労働への義務意識が染み込んだ日本の「勤労国家レジーム」の成立につながっていきます。


 「勤労国家レジーム」のもとでは、勤労者への減税と勤労の機会を保障する公共投資を骨格とし、社会保障には多くの予算を組みませんでした。社会保障は就労ができない人向けの現金給付に集中し、サービスすなわち現物給付の占める割合は「限定」されることになりました。しかも、限られた資源を配ろうとすれば、低所得層や高齢者、地方部といった具合に、分配の対象を「選別」せざるを得なくなります。そして、この限定性、選別性の背景には「自分でできることは自分でしなさい」という「自己責任」の論理が徹底的に貫かれています。


 このことは、現役世代にとって、生活の必要、すなわち、住宅、教育、老後の生活等に必要な費用を、自分たちで稼得しなければならないことを意味していたのです。

しかし、バブルが崩壊後、状況は一変した

 一時は奇跡的とも言うべき高度経済成長による所得増大によって、多くの人々は自らの責任で生活の安定を確保することができました。人々は、「勤労国家レジーム」に基づき、
「倹約の美徳」を称賛し、将来に備えるため「貯蓄」に励みました。勤労を前提として、社会保障を限定する自己責任型の福祉国家を維持することができたのです。ここでは出口なおの案じた「獣の世」は、限定的にしか現れてきませんでした。


 しかし、バブルが崩壊後、状況は一変します。減税と公共事業に支えられた勤労国家の発動も虚しく、国際的な賃金下落圧力が景気回復を妨げ、巨額の政府債務が積み上がりました。また、少子高齢化が進み、専業主婦世帯と共働き世帯の地位も逆転、近代家族モデルは完全に破綻しました。さらにバブル崩壊に追い打ちをかけるように、市場原理や競争原理、自己責任論が持ち込まれました。


今、日本社会は通俗道徳の実践にエネルギーを費やした多くの敗者で溢れています。働くことは苦痛でしかなく、勤労の先に待ち構えるのは貧困のリスクなのです。まさに「獣の世」の再来と言えます。


(つづく)
【金木 亮憲】


(※)明治日本は一般的には、政治指導者から1人ひとりの国民までが一致団結して「近代化」を追い求めた、つまり「価値観が共有された時代」と言われる。しかし、その一方で、この明治日本を「獣の世」と喝破した人物がいる。大本教の教祖である出口なおである。


『外国は獣類(けもの)の世、強いもの勝ちの、悪魔ばかりの国であるぞよ。日本も獣の世になりて居るぞよ。外国人にばかされて、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めん暗がりの世になりて居るぞよ・・・』(出口なお 1837‐1918)


 「獣の世」(「分断社会」はその顕在化の1つ)は明治日本から始まり、一時高度経済成長の陰に隠れて見えなくなっていた。しかしバブルが崩壊、そして今、近代そして資本主義の終焉が近づくにつれて、「新自由主義」などと姿を変えて再びその牙を剥き始めている。
温かみのある、情熱や思いやりに満ちた社会、他者への配慮にあふれ、仲間のために行動することをよしとする誇りある社会、そんな日本社会はもはや昔話になった。そして、今や「貧困」や「格差」という言葉が日本社会を語る日常的なキーワードになりつつある。


<プロフィール>
ide_pr井手 英策氏(いで・えいさく)
 慶應義塾大学経済学部教授。専門は財政社会学。1972年 福岡県久留米市生まれ。東京大学大学院経済研究科博士課程単位取得退学。博士(経済学)。著書に『経済の時代の終焉』(岩波書店、大佛次郎論壇賞受賞)、共著に『分断社会を終わらせる』(筑摩選書)、共編に『分断社会・日本』(岩波ブックレット)、『Deficits and Debt in Industrialized Democracies』(Routledge)など多数。


 




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悪魔より怖いのは人間

先ほど、寝床で起きがけに読んだ、金原瑞人編訳の「ホラー短編集2 南から来た男」の末尾の作品、エレン・エマーソン・ホワイトの「隣の男の子」を読んで、現代アメリカでは人間のほうが悪魔より恐ろしいという気持ちになったのだが、これは当たり前の話で、悪魔など存在などしないから恐ろしいはずがない。
だが、「普通の人間」「自分の隣にいる人間」が、いつ突然、意味不明の暴力や殺人を犯すか分からない世界の怖さがアメリカにはある。そして、新自由主義に侵略された日本もやがてそうなるだろうが、日本には「神を前提としない道徳(公徳心)」という歯止めがあるから、何とか社会が正常を保っている。
ところが、アメリカや西洋社会のモラルはキリスト教という宗教、神や悪魔の存在、天国や地獄の存在を前提としたモラルだから、キリスト教が信じられなくなると、即座にモラルも消えるのである。それが現代のアメリカだ。(もっとも、ユダヤ教は、神が、他民族は殺せ、と積極的に命じる悪魔的宗教だが、だからこそ悪魔的に強い。)
なお、人間のほうが悪魔より恐ろしい、というのは、「隣の男の子(Boy next door)」のひとつ前の、R・L・スチーブンソンの「小瓶の悪魔」が、キリスト教を前提にしたホラーで、日本人である私には少しも怖くない話(むしろ馬鹿馬鹿しい話)だったからである。
ちなみに、現代(特に西欧)ではnext doorの男の子だけでなく、Girl next doorもモラルの無さでは同じである。バルザックのド・マルセーではないが、「神も悪魔も男も女も信じない」というのが現代西欧では普通なのである。当然、バレる恐れが無いか少ないならいくらでも嘘をつくし、公の場では自分の利益目的であることを隠した偽善的発言だけが横行する。世界の地獄化であり、人間の動物化である。(まあ、動物は嘘をつかないから、人間よりは「道徳的」かwww)
ちなみに、経済の根幹は実はモラルであり、西洋の経済的頽落の根本原因もモラルの喪失にある。たとえば富裕者の異常な資本独占などである。「経世済民」の経済とeconomyはまったく性格が違うと言ってもいい。だからeconomic animalは悪口になるのである。

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「世界でもっとも幸福な国のひとつ(笑)」での少子化

引用記事は、私の思索のきっかけであるだけなので、後で大幅にカットするかもしれない。
で、私の「哲学的思索(笑)」は、「フリーセックスは少子化を招来する」という、当たり前の話なのだが、これについてまともに発言した人を私は見た記憶がない。
子供を産むというのはふつう、結婚制度が前提であり、女性が最初からひとりで子供を産み育てるという厳しい人生を選択をする例は少なくて当然だろう。
で、結婚制度というのは、古いと言わば言え、守操義務が前提であり、特に子供を産むかどうかというのは、夫にとっては、それが「自分の子供である」というのがふつうは大前提になる。それが、誰の子供か分からないのでは夫としては「お前が勝手に妊娠したのだから、離婚してひとりで勝手に産んで勝手に育てろ」と思うのが当たり前なのではないか。まあ、他人の子供というだけなら可愛いが、それが「自分の女房を寝取った相手の子供」だとなると、可愛いどころか殺したくなるのが「普通の気持ち」なのではないか。
というわけで、結婚制度とフリーセックスは相反する存在だ、という理屈で、フリーセックスが広まった社会は当然少子化になるわけである。
この問題の解決策も腹案があるが、それは書かない。たぶん、キチガイ思想だと言われるだろうから。いや、書こう。それは「国立孤児院」の普及である。貧困女性や貧困家庭の赤ん坊を国が引き取って成人まで育て上げ、奴隷労働者か兵士にするという案だwww まあ、スイフトの「アイルランドの貧困家庭の乳児を有益ならしめる案」に比べると少しは人道的なのではないか。

(以下引用)

スウェーデンの出生率が「過去300年で最低」に

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/swedens-birth-rate-is-the-lowest-in-300-years/
<転載開始>

population-europe.eu

2024年も出生率低下は継続中

最近はどうもスウェーデン関係の報道に目が行くのですが、少し前には、「スウェーデンの女子高生の 4分の 1が体調不良」という報道から考えるいろいろなことについて書きました。


(記事)「スウェーデンの女子高生の4人に1人が体調不良」という報道から見える世界的な「若年層の機能不全化」の進行と「弱い個体の死」
 In Deep 2024年5月24日


この報道のあった翌日には、「スウェーデンで、注意欠陥・多動症(ADHD)の子どもの数が爆発的に増加している」ことが報じられていました(翻訳記事)。


何が起きているのかなとは思いますが、スウェーデンだけではないですけれど、何となく世界全体が妙な感じです。


最近、スウェーデンの出生率が「過去 300年で最低に達した」ことを報じている記事を見ました。


この「 300年で」というのは、300年前の 1749年にスウェーデンで出生率の記録が開始されたということで、「統計開始以来の最低」ということを意味します。


以下のような記事でした。


スウェーデンの出生率が過去300年で最低に

Sweden reports lowest birthrate in nearly 300 years
aa.com.tr 2025/03/24


世界で最も幸福な国の一つであるスウェーデンの新生児数が、出生率の記録を開始した1749年以来最低となった。



スウェーデンは今週初めに発表された世界幸福度報告書で第 4位となったにもかかわらず、2010年以降、自国のスウェーデン女性と外国生まれのスウェーデン女性の双方で幸福度が下降傾向にある。


スウェーデンの女性は現在、平均 1.45人の子供を出産しており、これは 1749年に調査が始まって以来、最低の数字だ。


「 2024年に入っても、曲線は引き続き下降傾向にあります」とスウェーデン政府統計局の人口統計学者グアダルーペ・アンダーソン氏は声明で述べた。


アンダーソン氏は、昨年の新生児数は 2003年以来最低となり、女性 1人当たりの出生児数もスウェーデンで過去最低を記録したと述べた。


そしてスウェーデンの人口数そのものが新たな最低水準に向かっているようだ。1月には、出生数が最も少なかった 2023年の初めよりも出生数が少なかった。


出生児数で見ると、最も出産が減少したのはスウェーデン南部のマルメだった。


スウェーデンの女性たちの中には、親になることをためらっている人々が多いようだ。そのほとんどは、世界の情勢や不安定さを理由に挙げている。


「子どもたちは、これからどのように暮らすのでしょうか?社会はどうなるのでしょうか?」とスウェーデン人のサンナ・タヤリさんは SVT 放送に語った。


2023年には、出生児数が 40人未満だったスウェーデンの自治体は 26あった。最も少なかったのは北部のドロテア自治体で、出生児数はわずか 8人だった。


このため、スウェーデンでは幼稚園が閉鎖を余儀なくされていることはすでに明らかとなっている。長期的には、より少ない若者たちが、より多くの高齢者人口を支えることにならざるを得ないだろう。




 


ここまでです。


幼稚園の閉鎖について書かれていますが、これは少子化の進む国ではどこも同じ傾向のようです。


韓国では、2023年までの 5年間で 10,000カ所近くの保育園が廃業したと報じられています。


中国でも、急激な幼児数の減少により(一人っ子政策をしていた頃より深刻な減少)幼稚園児が急激に減少していることが報じられています。


なお、スウェーデンの出生数の減少傾向は過去 150年くらい続いていたことがデータでわかります。以下は 2020年までのものです。



statista.com


20世紀の後半くらいまでに、最高のときより 3分の1ほどまで落ち込んだ出生数が、その後 2023年などになり、「さらに加速して出生数が落ちた」ようです。


今後の出生率に関しても、たとえば先ほどの「女子高生の 4人に 1人が体調不良」というような若い女性たちのメンタルの状況では、なかなか出生数が上昇していくという感じは見られません。


結果として、福祉国家としての「福祉」に問題が生じる可能性もあり、そして、若者たちは現在よりさらに福祉のための重い負担を担うことになりかねないのかもしれません。


以前、「福祉国家スウェーデンの福祉が崩壊するとき」という記事を書いたことがありますが、出生率の問題からも、今後 10年内くらいには複雑な問題が表面化しそうです。


もちろん、出生に関しては日本のほうがさらに状況が悪いわけですけれど…。



<転載終了> 

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