その一方で、私が「キリスト教」には批判的であることは「革命者キリスト」という小論などに書いてきた。「キリスト教」はイエスの思想そのものから乖離している、ということである。聖書の中のイエス自身の言行だけがイエス・キリストの思想を示すものだろう。
神が実在し、この世に関与しているなら、なぜ「罪無くして流される一粒の涙」が存在するのか。その一事のために自分は神の存在を否定する、と言ったイヴァン・カラマーゾフの言葉に私は共感する。(それは作者の意図には反しているだろうが、そのように読み取られるのも文学の宿命である。)
下の記事は、キリスト教信徒の目から見た「この世界の片隅に」の評で、私とはまったく立場を異にするが、作品分析として興味深いところがあると思う。
(以下引用)
「この世界の片隅に」を見て、キリスト教牧師が思うこと
話題に事欠かない作品である。まず、この映画は「クラウド・ファンディング」というスタイルで一部の資金を調達し、製作されている。つまり、一般も含めて多くの方面から出資金を出してもらい、それを集めて製作費に充てたというわけだ。ここがまず1つの話題。
第二に、主人公の声を「のん(かつての能年玲奈)」が充てていること。「あまちゃん」以降、下降気味だった彼女の人気回復作となったことは間違いない。
第三に、全国数十カ所での限定公開であったはずが、口コミで話題となり、ついに来年全国ロードショーへと拡大公開へこぎ着けたこと。通常、人気映画は公開第1週がトップで、次第に下降線をたどっていくのだが、これだけは真逆であった。つまり公開日数を経るほど収益が伸びている。
あの「君の名は。」ですら第4週以降は次第に下降していったのに、この作品だけは、公開から1カ月たっても収益が伸び続けるばかり。SNSでの評価も異様に高く、誰もケチをつける者はいない。それが「この世界の片隅に」である。
作品タイトルとは裏腹に、どんどんと劇場公開の主役に躍り出ていく。この2時間余りのアニメーション作品に、どんなすごさがあるのか、またこれをキリスト教という視点から解釈したらどう思えるのかについて述べてみたい。
作品は、日本ではよくある「原爆反戦もの」である。古くは「はだしのゲン」「黒い雨」らに連なる第2次大戦下の市井の日本人を描いている。広島という舞台にこだわらなければ、「火垂るの墓」のような物語にも似ていると言っていいだろう。しかし本作は、今までのどの反戦映画とも異なっている。
まず、絵がおよそ戦時下を描くとは思えないくらい「のほほん」としていること。原作は、こうの史代の同名マンガである。マンガの雰囲気をそのまま動かした感じで、およそ戦争とは縁のない物語に似つかわしいキャラクターとなっている。
さらに、主人公の「すず」という女の子(結婚していくので女性と言ってもいいだろうが、劇中はどうみても「女の子」である)が、全く主体性のない人物として描かれていることも注目に値する。
もう1つ特筆すべきは、呉市(物語の主要な舞台)の街並みや行き交う人々の様子がとてもリアリティーを持っていること。しかし「君の名は。」のように精巧に描き出されているのとも違う。あくまでも淡い水彩画のようなタッチは変わっていない。しかし見ていくうちに、私たちはいつしかこの世界のどこかに自分が佇んでいるような錯覚に陥ってしまう。
主人公の牧歌的な雰囲気とは裏腹に、物語はハードさを増していく。そして時折表示される「八月○日」という表示は、当然、広島原爆の6日に向かってのカウントダウンである。そのことを観客は知っているため、限られた時間を精いっぱい生きる人々の生きざまに胸が締め付けられる。
特に、すずの家族は広島に健在であるため、呉に越してきたすずは、いつも広島の方を見ている。何も知らない夫家族は、親切心からすずに8月の帰省を勧める。そして6日の前日に広島へ帰ることをうれしそうに告げるすずの顔がクローズアップされることで、見ている私たちの顔はこわばることになる。
作品全体を見ると、なぜ、すずをこのようなキャラクターで描いたのか、原作を含めて物語の必然を感じる。それは、名も無き多くの戦争犠牲者たちが、このすずのように一生懸命生き、そしてなぜなのかその理由すら分からないまま、空襲や原爆で命を落としていったという事実を突き付けるためである。
すずの笑顔は、決してどんなことにも負けない芯の強さの体現ではない。彼女の行動は、自分をしっかり持っている女性が、戦争にどんどんとはまり込んでいく日本のことを憂うが故、というドラマチックなものではない。
しかし、そんな彼女が初めて感情をあらわにする瞬間がある。それは、戦争が終わりを告げた時である。玉音放送を聴きながら、彼女は初めてこう吐き捨てる。「飛び去ってゆく・・・うちらのこれまでが。それでいいと思って来たものが、だから、がまんしようと思って来た、その理由が」と・・・。
ここで観客は、初めてすずたち市井の人々が、どんな気持ちで戦争に向き合っていたかを知ることになる。彼女らは、ほんとうに一生懸命、純真無垢だったのである。日本が勝つと信じて疑わず、皆がそのために協力しさえすれば、絶対に自分たちは報われると無垢に信じていたのである。そう思えればこそ、苦労を「苦労」とも思えなかったし、悲しみを「悲しい」と思うことすらなかったのであろう。
だが、その全ての根幹が折れてしまったとき、彼女は自らも爆撃で失った右手を抱えながら突っ伏してこう嘆く。「じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね。ああ・・・何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ・・・」。
こんなに戦争とは程遠い、優しい心根を持った存在にまで、戦争はその恐ろしさを植え付け、牙をむき、そして世界観を変えさせてしまうものなのか、ということを映画は突き付けている。それはひるがえって、観客に「これが戦争の現実だ」と訴えることになる。
見終わって、多くの観客が涙していた。しかしその涙は、単に主人公がかわいそうとか、戦争がこんなに悲惨だっただなんて、という「今までの戦争もの」で流す涙とは違う。何も知らずに生まれ、何も知らずに苦しめられ、そして最後に自らも信じ切っていた国家の大義すら汚されてしまった人々・・・それでも明日食べるもののことを考えなければならず、額に汗して生きなければならない人々・・・。
私たちはこの光景を「神の視線」で見せつけられていたことを知るのである。これは一種の拷問である。スクリーンの中で展開することに一切関与できないまま、その後彼らの上に何が起こる(原爆投下)のか、どんな事件(日本の敗戦)がふりかかるのかを知らされているのだから。
もどかしさを感じざるを得ない。そんな現状の中、健気に生きようとする主人公すずの生きざまに、私たちは涙するのである。それは憐(あわ)れみと慈しみと、そしていとおしいと感じて流す涙である。
ここでふと気が付いた。天の父からすると、私たちも同じように見えているのではないか、ということである。神が永遠なるお方で、全てをご存じで、全てを理解している方だとしたら、私たちの営みは、私たちがすずを見るような気持ちになるのではないだろうか。憐れみと慈しみと、そしていとおしさをもって、日々私たちの営みをご覧になっているのではないだろうか。
私たちと天の父とは、決定的な違いがある。私たちはスクリーンの中に関与できないが、神は私たちの世界に関与できるということだ。だから、独り子イエスを遣わすことを決断した、と考えるのは、あまりにファンタジックだろうか。だからクリスマスの出来事が起こった、と捉えるのは、読み込み過ぎだろうか。
いずれにせよこの映画は、単なる「反戦もの」ではない。全く逆の牧歌的な雰囲気をそのまま、市井の人々の日常を描き切ることで、逆に見る側の私たちの心に重く大きな課題を残してくれる傑作である。神の視点でこの世界を見るとどうなるか?という神学的な体験ができる一作であることは間違いない。ぜひこの冬、年明けに近くの劇場で上映していたら、ご覧ください!
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青木保憲(あおき・やすのり)
1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科卒(修士)、同志社大学大学院神学研究科卒(神学博士、2011年)、現在は大阪城東福音教会(ペンテコステ派)牧師。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(2012年、明石書店)。