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寛容の世界

非寛容というのは狭量とほぼ同義語で、俗な言い方をすれば「尻(ケツ)の穴が小さい奴」となる。
だが、よく考えてみると、非寛容を攻撃する立場は誰の立場かと言えば、「罪を犯した人間」である。そういう人間に、被害者を含む「罪を裁く立場の人間」が「非寛容だ」と非難されるわけだ。
もちろん、罪を犯した人間その人ではなく、罪人を弁護する立場の者、罪人を許せ、とする立場の者が非寛容を攻撃することも多い。だが、それは、「罪人を弁護することで利益を得る者」である。たとえば、罪人の家族や友人、弁護士などだ。
では、世の中が寛容な世になって誰が利益を得るか。当然、罪人、あるいは犯罪を犯す高い可能性を潜在的に持つ人間である。
とすると、非寛容への攻撃というのは、「正義は何の根拠や権利があって不正義(罪)を罰するのか」という奇妙な論理だとなる。つまり、不正義が横行する世の中を望むのか、ということだ。

聖書は法ではなく倫理を説いた書だが、その中に「私は罪を犯した者を何回許せばいいのですか」という質問にキリストか誰かが「7の70倍許せ」と答える場面がある。
さて、現代で法律が寛容の精神で「あらゆる罪を490回まで許せ」としたらどうなるか。当然、あらゆる人が悪の限りを尽くし、489回で打ち止めにするだろう。それまでに何人が殺され、何人が暴行され、何人が財産を奪われ、何人が強姦されるだろうか。
これが論理的に見た「寛容の世界」である。もちろん、ここでは冤罪問題などは考慮していない。

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