「逝きし世の面影」記事の末尾の一節だが、問題として面白い。
「生きていることは死んでいることだ」は、何を意味しているのか分からないが、まるで禅問答みたいである。
「堕胎は殺人だ」は分かりやすいが、これはかなり昔(と言っても近代のことだが)から問題になっていることで、特にキリスト教圏では問題になるようだ。つまり、哲学的な議論の盛んな西洋では、こうした問題を論じること自体がある種の頭の体操にもなるのだろう。ひどい場合は、「針の頭で天使が何人踊れるか」ということすら議論されるwww
日本などだと、口減らしに堕胎をしたり嬰児殺しをすることが昔は割と普通だったから、自己主張のできない嬰児や胎児など最初から「生存権」はなかったのではないか。
つまり、子供というのは親の恩恵によって生かされているだけだから、それを殺そうが生かそうが親の勝手だという思想だったと私は思っている。
西洋渡来の人権思想によって子供の人権というものが考慮されるようになり、その延長で嬰児や胎児の人権というのも倫理的な問題として浮上してきたのであり、つまりもともと日本の思想風土には無い問題だったわけだ。
いや、誤解してほしくないが、私は子供や嬰児や胎児に人権は無いという思想を持っているわけではない。しかし、堕胎は殺人だ、と言われたら、すぐには賛成はできないのである。たとえば、レイプなどの結果、望まない妊娠をした場合、堕胎は殺人だから、必ず産め、とその女性に強要できるだろうか。あるいは、子供を産んだ結果、どうしようもない貧困に陥ることが明白な場合に、子供を産めと強要できるだろうか。その場合、母親となる女性の人権はどうなるのか、ということだ。
私の考えでは、胎児の意思や思考というものが確認できない以上(まあ、脳波などはあるのかもしれないが、明確な思考としては外部から認識はできないだろう。)、胎児はまだ人間ではないし、そうすると、堕胎は殺人とは言えない、と今のところは思っている。
もちろん、普通に成長すれば人間として生まれる存在を殺すのだから、平然と堕胎をするのは人間性としてどうかと思うが、まあ、世の中には偉そうな顔をしてマスコミや新聞やテレビに出ているサイコパスもたくさんいるわけだから、そういう連中より特にひどいとも思わないのである。
とりあえず、堕胎に関しては、太宰治ではないが「子供より親が大事と思いたい」ということだ。
(以下引用)
『死後を語らない仏教と、人の「死」の意味を積極的に説くキリスト教などの一神教の世界感の違い』
以前に付き合いのあった緻密で論理的な展開をすることが特徴のブログですが、唐突に『生きているとは、死んでいることだ』とカルト臭いことを言い出して一歩も譲らない。それ以外にも他のブログ主も『堕胎は殺人だ』と言い出して矢張り一歩も譲らず断絶状態になる。普通に考えれば、ほぼカルトなのです。
何とも不可解ですが、妙に『人の死』に興味があることが分かり、危ないので近寄らない様にしたが、如何もキリスト教の影響があるらしいのです。
ブッダは霊魂とか死後の世界については何も語らなかったが、逆にキリスト教やイスラム教など一神教では『死』とか死んだ後の世界にえらく関心があるので、これが影響しているのでしょうか。何とも不思議である。(日本のキリスト教徒は1%と圧倒的に少数ですが、なぜかインターネト『ブログ』では結構目立つ存在である。同じことが極左にも言えて、実世界なら沖縄県でイリオモテヤマネコやヤンバルクイナに出会える確率より低いが、ネット世界では普通に出会える)
「生きていることは死んでいることだ」は、何を意味しているのか分からないが、まるで禅問答みたいである。
「堕胎は殺人だ」は分かりやすいが、これはかなり昔(と言っても近代のことだが)から問題になっていることで、特にキリスト教圏では問題になるようだ。つまり、哲学的な議論の盛んな西洋では、こうした問題を論じること自体がある種の頭の体操にもなるのだろう。ひどい場合は、「針の頭で天使が何人踊れるか」ということすら議論されるwww
日本などだと、口減らしに堕胎をしたり嬰児殺しをすることが昔は割と普通だったから、自己主張のできない嬰児や胎児など最初から「生存権」はなかったのではないか。
つまり、子供というのは親の恩恵によって生かされているだけだから、それを殺そうが生かそうが親の勝手だという思想だったと私は思っている。
西洋渡来の人権思想によって子供の人権というものが考慮されるようになり、その延長で嬰児や胎児の人権というのも倫理的な問題として浮上してきたのであり、つまりもともと日本の思想風土には無い問題だったわけだ。
いや、誤解してほしくないが、私は子供や嬰児や胎児に人権は無いという思想を持っているわけではない。しかし、堕胎は殺人だ、と言われたら、すぐには賛成はできないのである。たとえば、レイプなどの結果、望まない妊娠をした場合、堕胎は殺人だから、必ず産め、とその女性に強要できるだろうか。あるいは、子供を産んだ結果、どうしようもない貧困に陥ることが明白な場合に、子供を産めと強要できるだろうか。その場合、母親となる女性の人権はどうなるのか、ということだ。
私の考えでは、胎児の意思や思考というものが確認できない以上(まあ、脳波などはあるのかもしれないが、明確な思考としては外部から認識はできないだろう。)、胎児はまだ人間ではないし、そうすると、堕胎は殺人とは言えない、と今のところは思っている。
もちろん、普通に成長すれば人間として生まれる存在を殺すのだから、平然と堕胎をするのは人間性としてどうかと思うが、まあ、世の中には偉そうな顔をしてマスコミや新聞やテレビに出ているサイコパスもたくさんいるわけだから、そういう連中より特にひどいとも思わないのである。
とりあえず、堕胎に関しては、太宰治ではないが「子供より親が大事と思いたい」ということだ。
(以下引用)
『死後を語らない仏教と、人の「死」の意味を積極的に説くキリスト教などの一神教の世界感の違い』
以前に付き合いのあった緻密で論理的な展開をすることが特徴のブログですが、唐突に『生きているとは、死んでいることだ』とカルト臭いことを言い出して一歩も譲らない。それ以外にも他のブログ主も『堕胎は殺人だ』と言い出して矢張り一歩も譲らず断絶状態になる。普通に考えれば、ほぼカルトなのです。
何とも不可解ですが、妙に『人の死』に興味があることが分かり、危ないので近寄らない様にしたが、如何もキリスト教の影響があるらしいのです。
ブッダは霊魂とか死後の世界については何も語らなかったが、逆にキリスト教やイスラム教など一神教では『死』とか死んだ後の世界にえらく関心があるので、これが影響しているのでしょうか。何とも不思議である。(日本のキリスト教徒は1%と圧倒的に少数ですが、なぜかインターネト『ブログ』では結構目立つ存在である。同じことが極左にも言えて、実世界なら沖縄県でイリオモテヤマネコやヤンバルクイナに出会える確率より低いが、ネット世界では普通に出会える)
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