前と後ろをかなり切ってあるので、冒頭部分が意味不明かもしれないが、並列されたうちのひとつは例の岡村発言で、もうひとつは「コロナ騒ぎで高価なカツオが安価で食べられて嬉しい」という話である。
ブログの記事タイトルに書いたのはドストエフスキーの「地下生活者の手記」に出てくる主人公のモノローグで、誰の心にもそういう部分は多少なりともあると思う。ただ、「紅茶」と「世界」という巨大な懸隔のある物を比喩にしたために、それが強く印象付けられるわけだ。
(以下引用)
どちらも「他者の苦境のおかげで自分が利益を得られる話」です。
ただ、この2つの事例への世の中の評価というのは、正反対になっているようにみえるわけです。
僕は冒頭のエントリを読んで、この話を思い出したんですよ。
『ヒトラーとナチ・ドイツ』(石田勇治著/講談社現代新書)より。
僕は「ナチ党政権下のドイツは、ずっと、息苦しい、暗黒時代だった」と思い込んでいたので、この本を読んで、驚いたのです。
でも、当時の様子を知ると、たしかに、「戦争が始まる前までは、多くのドイツ人にとって、『良い時代』と感じられていたのかもしれないな」という気がしてきます。
それは、太平洋戦争前の日本にも言えることなのだけれども。
いくらなんでも、ナチ党のユダヤ人(や障害者、ロマたちへの)絶滅政策は酷すぎるだろう、とは思う。
なぜ、反対の機運が盛り上がらなかったのか? やはり、ナチ党が怖かったのか?
(それでも、強制収容所での「虐殺」については、ドイツ国民に隠されていたそうです。さすがに反発を招くだろう、ということで)
ナチ党政権下のドイツ国民が、あからさまな人種差別政策を受け入れてしまった理由のひとつを、著者はこのように説明しています。
国民が抗議の声をあげなかった理由に関連して、ナチ時代特有の「受益の構造」にふれておこう。それはいったいどんなものだったのだろうか。
先にも雇用についてふれたように、ヒトラー政権下の国民は、あからさまな反ユダヤ主義者でなくても、あるいはユダヤ人に特別な感情を抱いていなくても、ほとんどの場合、日常生活でユダヤ人迫害、とくにユダヤ人財産の「アーリア化」から何らかの実利を得ていた。
たとえば同僚のユダヤ人がいなくなった職場で出世をした役人、近所のユダヤ人が残した立派な家屋に住むことになった家族、ユダヤ人の家財道具や装飾品、楽器などを競売で安く手に入れた主婦、ユダヤ人が経営するライバル企業を安値で買い取って自分の会社を大きくした事業主、ユダヤ教ゲマインデ(信仰共同体)の動産・不動産を「アーリア化」と称して強奪した自治体の住民たち。無数の庶民が大小の利益を得た。(中略)
ユダヤ人財産の没収と競売、所有権の移転は、細部にいたるまで反ユダヤ法の規定にしたがって粛々と行われ、これに携わった国税庁・市役所などさまざまな部署の役人も良心の呵責を感じることなく仕事を全うできるシステムができあがっていたのだ。ユダヤ人の排斥を支える国民的合意が形成されていたとはいえないにせよ、ユダヤ人の排斥を阻む民意は見られなかった。
多数派にとって、自分に「ちょっとした利益」があれば、少数派を排斥する、あるいは、排斥しなくても、「見捨てる」ことは、そんなにハードルが高いことではなかったのです。
それは、いまの世の中でも、同じなのだと思う。