欠点というのは、政治問題を日常性の煩雑さによって忘却することがあらゆる大きな、根本的な社会改善を不可能にするからであり、恩恵だと言うのは、自分が体験した不幸な事実を忘却することでしか人間は生き続ける気力を維持できないからだ。
(以下引用)赤字部分は夢人による強調。
「僕は忘れたくない」と、この小説家は言う。でも、ほぼまちがいなく忘れるだろう。2年もたてば忘れる。ぼくは年寄りだから、エイズが流行ったときに、エイズ後の文明だのいう駄文がたくさん登場したのをよく覚えている。もはや人間同士の密な接触はなくなり、盆栽やお茶会みたいなゆるい枯れた人間関係しかなくなるだろう、なんてことがマジで言われていた。リーマンショック/金融危機で、資本主義は崩壊して新しい世界秩序が、なんて話は腐るほど聞かされた。そして、この日本では「ポスト福島」談義がみんな記憶にまだ残っているはずだ。福島の原発事故は、大量消費現代文明が持続不可能であることを如実に証明するものだ、というわけ。この「僕は忘れたくない」と同工異曲のものを何度目にしたことか。
でも、そのときもみんな忘れた。そして今回も忘れる。一方で、それがもたらした被害は下々の人々にふりかかる。いま、この著者も含め、「医療従事者のみなさんに感謝のツイートを」とか「ゴミ袋に感謝の絵を描きましょう」とかいうクソの役にも立たないバカにした連帯の押し売りをしている人々は、5年後にそういう人々の待遇がどうだろうと、気にもかけないだろう。それどころか数年後にはこの人たちは記憶を改変して、この異様なロックダウンや自粛合戦を、何やら美談に仕立てることだろう。そして「あのときのようにみんなで団結して我慢して地球温暖化を防ごう、コロナも克服したから絶対できるよ」なんてことを平気で言い始めるはずだ。この著者ではないにしても、そのお仲間のだれかが。
そのとき、この『コロナの時代の僕ら』を読み返すと面白いかもしれない。彼らがいったい何を忘れたか(そして忘れる以前に思いつきすらしなかったか)を確認するための手段として。