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「天皇制」と戦うとはどういうことか(3)

検討対象の文章の、ここでの対象部分だけ先に引用する。

(以下引用)
(3)天皇という権威の規定力は、天皇の霊性の呪縛力に由来する。
(4)それが物質的規定力を発揮するのは、「主権者」が天皇の霊性の価値を内面化し、被統治者たることに甘んじる限りにおいてである。
(5)「主権者」が天皇の霊性に畏怖も敬慕も感じ無くなれば、天皇の統治機能は消滅する。
(6)以上から明らかなように、統治形態の観念上の<敵>は、被統治者の、天皇の霊性に対する畏敬にほかならない。
(7)天皇への畏怖や敬慕によって産出される幻想の呪縛を、隣人の作り出す関係の相互信認が凌駕すれば、現在の統治の規定力は消滅する。
(8)権力の獲得に先立って隣人の相互信認を形成するには、市民社会の只中で、権力に対抗するヘゲモニーを形成するグラムシのいう「陣地戦」の実践が不可欠である。
(引用終わり)

(3)から(6)は前回でも論じたが、(7)と(8)は「天皇制」打倒の方法論で、私から見ればナンセンスの極みであるが、それは後で論じる。先に(3)から(6)の疑問点から書く。

(1)引用文(3)~(5)の中の「天皇の霊性」とは何か。通常の人間には無い霊性なるものが天皇にあると言うのか。それとも、誰にでもあるのか。それなら、なぜ「天皇の霊性」だけが問題になるのか。仮に、先の戦争、あるいは明治以来の天皇制における「現人神」宣伝を筆者が問題視しているなら、今さら象徴天皇制において「天皇の霊性」が問題になるはずもないことは自明だろう。仮に、天皇が庶民の崇敬の対象となるなら、それはその天皇の人格力によるものであり、それを事々しく「霊性」と言う必要性を私は認めない。まして、その「霊性」とやらに「呪縛力」があるなどというのはカルト宗教的発想だろう。
(2)引用文(5)の中の「天皇の統治機能」は、象徴天皇制においてはナンセンスな言葉であり、天皇の精神的影響のことを「統治機能」と言うのなら、それは天皇の個人的資質によるものであって、「天皇だから」ではない。その証拠に、天皇を特に尊敬していない人間が無数にいる。他人の人格を察知し、それに影響を受けるには、影響を受ける人間の資質も必要なのである。現代人が地位や肩書だけで他人を崇敬すると筆者が信じているなら、相当にナイーブな話である。
(3)引用文(6)は、文章自体が曖昧模糊としているが、「統治形態の観念上の〈敵〉」とは、「統治形態を変革する上での観念上の敵」の意味かと思う。それとも「統治形態の観念」の上での敵、ということか。しかし、「観念」に敵がいる、というのもよく分からない。まあ、いずれにしても、その前後の文脈から言えば、「天皇制こそが統治形態を変革する上での敵だ」という趣旨だろうと思う。少し前で言ったとおり、なぜ天皇制が敵なのか、私には理解できないし、天皇制反対論者の意見で納得するものを読んだこともない。

(4)引用文(7)(8)は論じるにも値しないと思う。「隣人の作り出す関係の相互信任」という持って回ったような言い方を簡単に言えば「身近な人間同士の信頼関係」となるだろうが、それがなぜ「天皇制」という国家的体制と対峙できるのか。向こう三軒両隣が信頼関係を作れば「天皇制」が打破でき、「先の戦争」も起こらなかった、とでも言うのだろうか。(先の戦争と「天皇制」は無関係だとは私もまったく思わないが、現在の「象徴天皇制」からはそうした「君主制ファシズム」への移行はありえないだろう。)

以上で、引用した文章への批判的検討を終わる。

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「天皇制」と戦うとはどういうことか(2)

先に、検討対象の文章を、要点のみもう一度掲載しておく。

(以下引用)
  現在の天皇制に対する認識と、それに対する闘争に関する前回までの論旨は次の諸点に集約できる。
(1)現憲法下の天皇は憲法に「象徴」と規定され、国政の権能は持たない。しかし、「幻想の共同性」が収斂する中心、即ち国家権力の権威として機能する(日本会議派の1章改憲の目的は、天皇を象徴より便宜のよい権力の花飾りにすることだから、天皇に権力の実体を移すとは考えられない)。
(2)天皇制との闘争の目的は、国民国家日本の統治形態の転倒である。
(3)天皇という権威の規定力は、天皇の霊性の呪縛力に由来する。
(4)それが物質的規定力を発揮するのは、「主権者」が天皇の霊性の価値を内面化し、被統治者たることに甘んじる限りにおいてである。
(5)「主権者」が天皇の霊性に畏怖も敬慕も感じ無くなれば、天皇の統治機能は消滅する。
(6)以上から明らかなように、統治形態の観念上の<敵>は、被統治者の、天皇の霊性に対する畏敬にほかならない。
(7)天皇への畏怖や敬慕によって産出される幻想の呪縛を、隣人の作り出す関係の相互信認が凌駕すれば、現在の統治の規定力は消滅する。
(8)権力の獲得に先立って隣人の相互信認を形成するには、市民社会の只中で、権力に対抗するヘゲモニーを形成するグラムシのいう「陣地戦」の実践が不可欠である。
(引用終わり)

疑問点を挙げておく。

(1)この文章によれば、「天皇制との闘争の目的は国民国家日本の統治形態の転倒である」とされている。つまり、「革命」である。しかし、なぜ革命が必要なのか、その理由は書かれていない。安倍政権の政治に不満なら打倒すべきは安倍政権であるだろうが、「革命」ならば、日本の政治形態そのものを「転倒」する必要があるわけだが、その政治形態のどこが問題なのか、書かれていない。つまり、「天皇制」さえ無くせば、無条件で地上の天国が出現するらしい。
(2)上記(1)から生じる疑問として、「天皇制」の無い社会のどこがどのように今より優れた社会なのか、読み手には分からない。
(3)「天皇制」の問題点は、天皇という「権威」が国家権力のアシストをしている点にある、というのが筆者の考えらしい。(引用文(1)による。)現在の象徴天皇が(悪い意味で)国家権力のアシストをしているという事実があるか。
(4)引用文(3)~(6)は、国民の中に存在する天皇への崇敬の念自体の批判である。要するに、それは「内面化された奴隷制度」だと言いたいらしい。(7)で言う、「幻想の呪縛」とはそういうことだろう。なぜ崇敬の念自体は批判されないのに、「天皇への崇敬」は批判されるのだろうか。それとも筆者は上長への敬意そのものが悪慣習だという意見だろうか。もちろん、天皇は上長ではないが、それだけにいっそう無私の崇敬であり、尊い、という考えはおかしいのだろうか。

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「天皇制」と戦うとはどういうことか(1)

某ブログに引用されていた文章だが、「天皇制」(私はこの言葉自体に懐疑的であり、現在の象徴天皇制を、まるで天皇が権力の中心であるかのように錯覚させる言葉だと思う。)を打倒することを切望する人もかなり存在しているのはネットを見ても分かる。だが、その「根拠」として納得のいく意見を私は見たことがない。
参考までに、この文章を「『天皇制』批判の一例」として分析しようと思うが、残念ながら、この文章は「なぜ『天皇制』を打倒する必要があるのか」ではなく、「いかにして『天皇制』を打倒するか」という方法論のようだ。まあ、大方の「天皇制批判論者」の考えは「民主主義社会において、なぜ天皇だけが『特権的』存在とされるのか」という、素朴な感情であり、その感情の半分くらいは、「上級国民」への嫉妬や嫌悪や不満が、天皇という「象徴」への嫌悪と置き換わったのだろうと私は思っている。
まあ、とりあえず、検討の対象となる文章(要点部分だけ)を引用する。何回かに分けて論じるかもしれないが、シリーズタイトルは、あえて、私が批判の対象とする下の文章とほぼ同じにする。もちろん、意味は正反対である。下の筆者は「天皇制」と戦え、と言っており、私は「なぜ『天皇制』と戦うのだ?」と疑問を呈しているわけだ。

(以下引用)
特別連載】天皇制と闘うとはどういうことか 第八回(最終回)
Ⅷ.国家への幻想を超える隣人相互の信認の形成へ
菅孝行(評論家、変革のアソシエ運営委委員)
■ 隣人相互の信認へ
  現在の天皇制に対する認識と、それに対する闘争に関する前回までの論旨は次の諸点に集約できる。
(1)現憲法下の天皇は憲法に「象徴」と規定され、国政の権能は持たない。しかし、「幻想の共同性」が収斂する中心、即ち国家権力の権威として機能する(日本会議派の1章改憲の目的は、天皇を象徴より便宜のよい権力の花飾りにすることだから、天皇に権力の実体を移すとは考えられない)。
(2)天皇制との闘争の目的は、国民国家日本の統治形態の転倒である。
(3)天皇という権威の規定力は、天皇の霊性の呪縛力に由来する。
(4)それが物質的規定力を発揮するのは、「主権者」が天皇の霊性の価値を内面化し、被統治者たることに甘んじる限りにおいてである。
(5)「主権者」が天皇の霊性に畏怖も敬慕も感じ無くなれば、天皇の統治機能は消滅する。
(6)以上から明らかなように、統治形態の観念上の<敵>は、被統治者の、天皇の霊性に対する畏敬にほかならない。
(7)天皇への畏怖や敬慕によって産出される幻想の呪縛を、隣人の作り出す関係の相互信認が凌駕すれば、現在の統治の規定力は消滅する。
(8)権力の獲得に先立って隣人の相互信認を形成するには、市民社会の只中で、権力に対抗するヘゲモニーを形成するグラムシのいう「陣地戦」の実践が不可欠である。

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天皇制を考える(3)天皇制の現在と未来

前回の記事で終わるつもりだったが、最初に予告した「天皇制の現在と未来」については論じていなかったので、考えてみる。
まあ、気が乗らなかったのは当然で、あまり考えてこなかった題目なので腹案が何も無いのだ。
とりあえず、「天皇制の現在」は、今上天皇ご夫妻(「両陛下」と言うべきかもしれないが、私は「陛下」という呼称は呼ぶ側の過度な卑下を感じるのであまり好きではない。)がマスコミにほとんど出ないので、つまりマスコミの話題になる行動が無いので、何とも判断できない。しかし、たとえば今後、沖縄の慰霊の日や広島長崎の原爆慰霊祭などで儀式や祭事へのご出席やらお言葉などが必要なのが天皇という存在なのではないか。まあ、慎重なのは結構だが、皇居の中に引きこもってばかりでは存在意義を失いそうである。今が世界的なコロナ騒動のさ中でなければ、雅子妃などは「皇室外交」の主役になれるだろう。
で、天皇制の未来だが、私の考えは、「伝統は、有害さが明白なものでないかぎりできるだけ残すべきである」というものだ。つまり、千年以上もの歴史があるのを、その世代の勝手な判断で消滅させていいのか、と思うわけだ。毎度比喩として言うが、自分は仏教は嫌いだとか木造建築は嫌いだ、という理由で法隆寺を壊して焚き木にしていいのか、という話である。壊すのは一瞬だが、それが価値を持つのは何百年の歴史によるのである。そういう「歳月の価値」というものが伝統というものにはある。
アレクサンドリア図書館を焼いたら、それ以前の歴史的記録や歴史的資料の巨大な部分は消滅したわけで、私は、アレクサンダー自身の死より、これらの図書の消滅のほうが人類の大損失だと思っている。
まあ、皇室関係の費用が巨額だと言うなら、削減してもいいだろうが、削減すべきものはたくさんある。国会議員など、ほとんどが不要どころか有害なのではないか。
というわけで、天皇制の未来についてはこの程度の考えしか無いのも当たり前で、私は現在の「象徴天皇制」こそが、「日本人の文化的アイデンティティを保存しながら、政治の邪魔にはならない」優秀で有益な制度だと思っているのである。


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天皇制を考える(2)日本人の自由と人権と天皇制

先に東海アマ氏の思想を引用しておく。

(以下引用)

 天皇という合理性のない、虚構を容認することが、死刑制度という合理性のない劣悪な報復主義の制度を生み出している。
 こうした権力主義の虚構こそ、日本人の自由と人権を破壊する張本人である。
 この意味で、日本に、本当の自由と人権が来るときは、天皇制が死滅するときである。

 このとき、天皇家の人々は虚構の拘束から解放され、真実だけをよりどころにして、はじめて一市民としての権利と自由を保障されることになる。
 天皇制は、歴史と人間の合理性という観点から、死滅してゆかねばならない制度である。

(引用終わり)

単なる揚げ足取りをする気はないが、事の順序として、上に書かれた内容を検討してみる。

1:「天皇、という合理性のない虚構」

これは明らかに間違いだろう。天皇は虚構ではなく実在だ、というのは揚げ足取りだが、それを「天皇制」と言い換えても、それが「合理性がない」「虚構である」というのはまったく成り立たないと思う。合理性の無いシステムが2000年近くも続いたはずがない。そして、それは多くの影響を日本史に残したのだから「虚構」であるはずがない。(おそらく「記紀神話」の内容を不合理と言っているのだろうが、神話や伝説は不合理な虚構に決まっている。ただ、日本書紀の中には明らかな歴史的事実も多いと思われる。)

2:「死刑制度という合理性のない劣悪な報復主義」

死刑制度に合理性がないというのも、単なる主観の表明である。ハムラビ法典の昔から、罪と罰とは相応関係にあるとされていたのであり、殺人などの罪に相応する罰は死刑である、というのは、まさに「目には目もて、歯には歯もて償うべし」そのもので、これは人間の自然な感情であり、報復そのものが悪いとすれば、あらゆる罪への罰は不公正であることになる。

3:「天皇(制)が死刑制度を生み出している」

これは理解不能だが、「不合理な制度は他の不合理な制度を生み出す精神的基盤である」ということだろうか。「天皇を容認するという不合理な精神が、他の判断でも不合理さを容認する」ということなら、天皇制容認者は科学者にも経営者にもなれないことになるだろう。

4:「こうした権力主義の虚構こそ、日本人の自由と人権を破壊する張本人である」

「こうした」というのは、天皇(制)以外の権力主義をも含むのだろうか。それなら、天皇が政治的権力から完全に切り離された「象徴天皇制」の憲法下では、天皇(制)は議論の対象から除外すべきだろう。論者(東海アマ氏)は「権力」と「権力主義」を区別しているのかどうかしらないが、どのような形態の政治制度であれ、権力は厳然と存在する。その過度に拡大されたものだけを「権力主義」とするなら、それが「日本人」の自由と人権を破壊するのは明らかだが、それは天皇とは無関係な話である。

5:「この意味で、日本に本当の自由と人権が来るときは、天皇制の死滅するときである」

これは上記1から4の帰結で、1から4がまったく成り立たないことは説明したので、当然この5も成り立たない。

東海アマ氏の記事後段はいちいち詮索するまでもないかと思う。

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天皇制を考える(1)「国家と政府」

「東海アマ」氏のブログ記事の一節だが、氏の天皇制否定論の根拠と言うか、思想的根幹がこのあたりにあるようにも思えるので、少し考察してみたい。
私自身は天皇制肯定論者だが、自分が間違っていると納得できるなら、いつでも思想的転向はするつもりはある。まあ、感情は理性だけでは動かないが、思想は感情より理性を優先すべきだろう、という考えだ。だが、これまで私を納得させた天皇制否定論にはお目にかかっていないのである。
もちろん、先の戦争の責任は当時の「日本のオーナー」であった昭和天皇にあると思うのが自然だろうし、たとえ軍部の独断専行があったとしても、組織の失敗の責任は組織のトップにある、というのは当然である。しかし、国家全体を「組織」と言えるかどうか。そして明らかに「政府」は組織である。つまり、天皇は国家の長であったが、政府の長だったと言っていいのかどうか、議論になるだろう。たいていの戦争責任論ではこの部分があいまいな気がする。
あの戦争を会社の破産にたとえるなら、会社破産の責任は株主にあるのか、経営責任者である社長にあるのか、と言い換えれば、話が見やすくなる。これが実は「天皇無答責論」の本質ではないだろうか。もちろん、天皇自身が政府決定に口出しをして決定を捻じ曲げさせたのなら、「無答責」論は通用しないことになるが、私の知るかぎりでは、昭和天皇自身が政府決定を覆したことは無いように思う。まあ、問題が天皇自身の判断に任された時に「政府や軍部の空気を読んで」決定を下した例もあるかもしれない。
終戦後に米国は天皇制を(天皇に人間宣言させ)存続させることで日本占領政策を実に効果的に行い、戦後の日本はそこから驚異的な発展を遂げた。あの敗戦は(戦争自体の悲惨さは言うまでもなく、その犠牲者は不幸そのものだが)日本人の意識を変え、民主主義と憲法によってその後の日本の針路を明朗で合理的なものにしたという点で、日本史における日本国民の最大の幸福だったというのが私の考えだ。言い換えれば、GHQ(の内部の進歩的知識人たち。その多くは社会主義的思想だったようだ。)こそが日本人の最大の恩人である。
さて、その「天皇制存続」は誤りだったか、というのが論考課題になるだろう。
言うまでもなく、それはあの敗戦直後から復興期においては最良の政策だった。(もちろん、これは私の主観であり、昭和天皇の戦争責任をあいまいにしたことで、「現代日本の精神的病態が決定づけられた」という考えもあるだろうから、これは「経済的な意味で」あるいは「社会安定の意味で」である。)
で、問題は、そうして存続した天皇制は「現代」においても意義があるか、あるいは未来において存続する価値があるか、ということだが、長くなったので、これは稿を改めて考えたい。
下の記事の内容(考え)への検討もその際に行う予定である。


(以下引用)

 天皇という合理性のない、虚構を容認することが、死刑制度という合理性のない劣悪な報復主義の制度を生み出している。
 こうした権力主義の虚構こそ、日本人の自由と人権を破壊する張本人である。
 この意味で、日本に、本当の自由と人権が来るときは、天皇制が死滅するときである。

 このとき、天皇家の人々は虚構の拘束から解放され、真実だけをよりどころにして、はじめて一市民としての権利と自由を保障されることになる。
 天皇制は、歴史と人間の合理性という観点から、死滅してゆかねばならない制度である。

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酔生夢人
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仙人
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自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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