第十六章 王女ジャンヌ
そうするうちに、思いがけない出来事があった。フリードたちが寄宿している商人アキムの娘マリアが皇太子に見染められ、皇太子妃に迎えられたのである。あっという間に話はまとまり、二週間後に婚儀が行われることになった。
(このあたりの強引な展開に、文句のある方もおられようが、昔にはこの手の玉の輿話は無数にあるのであり、貴族や王家が結婚話に家柄をうるさく言い出すのは、後の時代のことである、ということにしておこう。)
マリア本人は気が進まないようだったが、なにしろ結婚に際しては両親の意思が絶対だった時代である。マリアは自分の意思を告げることなど最初から考えてもいなかった。
その代わりというのでもないが、結婚が決まってから二週間の間、マリアはジグムントとフリードの寝室を毎晩のように訪れ、快楽の限りを尽くしたのであった。皇太子はいい面の皮だが、この世では、人に知られない事は存在しないのも同じなのである。ジグムントとフリードは、これが最後とばかり、未来の皇太子妃の体を貪るように味わった。
婚儀は三日間に渡って盛大に行われた。
花嫁衣装を着けたマリアは神々しいほどに美しく、清純そのものであった。その体に十数人の男の印が刻み込まれているなど、宴会の客の誰一人想像もしていなかっただろう。
宴会には、アキム側の縁者として、フリードとジグムントも参列させて貰った。
その席でフリードは電撃的な恋に陥った。
相手は皇太子の妹、国王の三女のジャンヌである。上の二人もそれぞれに美しかったが、ジャンヌの美しさは際だっていた。花嫁のマリアさえ、ジャンヌには劣る、とフリードは思った。歳は十五、六歳くらいだろうか。まだ少女のようだが、山奥の白百合のように清く白い肌に、薔薇のような小さく赤い唇。長い睫に縁取られた大きなエメラルドのような瞳。ウェーブのかかった見事なブロンドの豊かな髪。マリアに比べると気が強そうで、少しお転婆な感じがしたが、見た感じは宝石細工の人形であり、可愛らしさという点では、まさに神の作った傑作である。
王女は長々しい婚礼の儀式に退屈して、小さくあくびをし、それを手で隠した。その仕草さえ、フリードには可愛らしく思えた。恋をすると、そういうものである。
皇太子の方は、国王によく似た間抜け面の青年であり、悪い顔立ちではないが、どことなく締まりがない顔つきの男だ。美しい花嫁を得たことでにたついているので、なおさら間抜けに見える。
宴会の途中で退席して王宮の外に出たフリードは、夜空の星を見上げながら、いつの日か王女ジャンヌを手に入れてやる、と心に誓ったのであった。
このフリードの決心を笑う人間は、この世のあり方というものをあまりに大げさに考えているのである。男と女の間で決定的な要素は一つしかない。それは、相手が手を伸ばせば届く範囲にいるかどうかという事だけである。いかに優れた男女でも、物理的に離れた場所にいては結ばれるはずはない。男も女も手近な異性と結びつくしかないのである。身分などは、男女の間では何の障害にもならない。この事は、明治時代ごろのゴシップの一つのパターンが、貴族の令嬢が、お抱えの車夫や馬丁と関係を結んで駆け落ちをした、という話であったことからもわかる。マリー・アントワネットなども、亭主が性的に無能だったため、手近な召使いの少年やら陪臣やらと平気で肉体関係を結んでいたということが当時のゴシップにある。「ベルサイユの薔薇」のフェルゼン以外にも、マリー・アントワネットと寝た男は多かったようなのである。女の身近にいるという事がいかに大事かが分かろうというものだ。皇太子妃が護衛か誰かとくっついたという現代ヨーロッパの某王国の醜聞(これが醜聞では無く、ロマンス扱いされ、皇太子妃が非難されないところがまさしく現代だが)などを聞いても、男と女はまずは身近な相手とくっつくものであることが分かる。要するに、絶世の美男であるよりも、尼僧院か女学校の醜い庭番の老人のほうが、その気になれば女に恵まれる機会は多いということである。これは、美女を得たければ芸能界か水商売の道に入るのが良く、金を得たければ銀行や株屋など、金のある場所に行くのが一番だということでもある。ただし、それで満足が得られるかどうかは本人の性格次第であるが。
身分不相応な望みなどというものは、この世には存在しない。問題は、その望みに至るまでの労力とその目標が釣り合うかどうかだけであり、現代人の大半は、そうした計算を最初で行って、さっさと自分の希望を諦めるのである。それが賢いことなのか、愚かなことなのかは一概には決め難い。大きな望みを達するには、時には犯罪すれすれの行為が必要になる事もあるのだから、安全な道を選ぶのも、決して悪いというわけではない。
そうするうちに、思いがけない出来事があった。フリードたちが寄宿している商人アキムの娘マリアが皇太子に見染められ、皇太子妃に迎えられたのである。あっという間に話はまとまり、二週間後に婚儀が行われることになった。
(このあたりの強引な展開に、文句のある方もおられようが、昔にはこの手の玉の輿話は無数にあるのであり、貴族や王家が結婚話に家柄をうるさく言い出すのは、後の時代のことである、ということにしておこう。)
マリア本人は気が進まないようだったが、なにしろ結婚に際しては両親の意思が絶対だった時代である。マリアは自分の意思を告げることなど最初から考えてもいなかった。
その代わりというのでもないが、結婚が決まってから二週間の間、マリアはジグムントとフリードの寝室を毎晩のように訪れ、快楽の限りを尽くしたのであった。皇太子はいい面の皮だが、この世では、人に知られない事は存在しないのも同じなのである。ジグムントとフリードは、これが最後とばかり、未来の皇太子妃の体を貪るように味わった。
婚儀は三日間に渡って盛大に行われた。
花嫁衣装を着けたマリアは神々しいほどに美しく、清純そのものであった。その体に十数人の男の印が刻み込まれているなど、宴会の客の誰一人想像もしていなかっただろう。
宴会には、アキム側の縁者として、フリードとジグムントも参列させて貰った。
その席でフリードは電撃的な恋に陥った。
相手は皇太子の妹、国王の三女のジャンヌである。上の二人もそれぞれに美しかったが、ジャンヌの美しさは際だっていた。花嫁のマリアさえ、ジャンヌには劣る、とフリードは思った。歳は十五、六歳くらいだろうか。まだ少女のようだが、山奥の白百合のように清く白い肌に、薔薇のような小さく赤い唇。長い睫に縁取られた大きなエメラルドのような瞳。ウェーブのかかった見事なブロンドの豊かな髪。マリアに比べると気が強そうで、少しお転婆な感じがしたが、見た感じは宝石細工の人形であり、可愛らしさという点では、まさに神の作った傑作である。
王女は長々しい婚礼の儀式に退屈して、小さくあくびをし、それを手で隠した。その仕草さえ、フリードには可愛らしく思えた。恋をすると、そういうものである。
皇太子の方は、国王によく似た間抜け面の青年であり、悪い顔立ちではないが、どことなく締まりがない顔つきの男だ。美しい花嫁を得たことでにたついているので、なおさら間抜けに見える。
宴会の途中で退席して王宮の外に出たフリードは、夜空の星を見上げながら、いつの日か王女ジャンヌを手に入れてやる、と心に誓ったのであった。
このフリードの決心を笑う人間は、この世のあり方というものをあまりに大げさに考えているのである。男と女の間で決定的な要素は一つしかない。それは、相手が手を伸ばせば届く範囲にいるかどうかという事だけである。いかに優れた男女でも、物理的に離れた場所にいては結ばれるはずはない。男も女も手近な異性と結びつくしかないのである。身分などは、男女の間では何の障害にもならない。この事は、明治時代ごろのゴシップの一つのパターンが、貴族の令嬢が、お抱えの車夫や馬丁と関係を結んで駆け落ちをした、という話であったことからもわかる。マリー・アントワネットなども、亭主が性的に無能だったため、手近な召使いの少年やら陪臣やらと平気で肉体関係を結んでいたということが当時のゴシップにある。「ベルサイユの薔薇」のフェルゼン以外にも、マリー・アントワネットと寝た男は多かったようなのである。女の身近にいるという事がいかに大事かが分かろうというものだ。皇太子妃が護衛か誰かとくっついたという現代ヨーロッパの某王国の醜聞(これが醜聞では無く、ロマンス扱いされ、皇太子妃が非難されないところがまさしく現代だが)などを聞いても、男と女はまずは身近な相手とくっつくものであることが分かる。要するに、絶世の美男であるよりも、尼僧院か女学校の醜い庭番の老人のほうが、その気になれば女に恵まれる機会は多いということである。これは、美女を得たければ芸能界か水商売の道に入るのが良く、金を得たければ銀行や株屋など、金のある場所に行くのが一番だということでもある。ただし、それで満足が得られるかどうかは本人の性格次第であるが。
身分不相応な望みなどというものは、この世には存在しない。問題は、その望みに至るまでの労力とその目標が釣り合うかどうかだけであり、現代人の大半は、そうした計算を最初で行って、さっさと自分の希望を諦めるのである。それが賢いことなのか、愚かなことなのかは一概には決め難い。大きな望みを達するには、時には犯罪すれすれの行為が必要になる事もあるのだから、安全な道を選ぶのも、決して悪いというわけではない。
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