ネットに触れている人の政治的意識や経済的意識はかなり高くなっていると思う。
MMTをきちんと理解している。
(以下引用)
国の借金がやばい→国民1人あたり885万円の借金を抱えている→このままだと財政破綻する→消費税増税は仕方がない。 という愚論は聞き飽きた。 国の借金はやばくない→国民1人あたり885万円の資産を持っている→自国通貨建ての国債を持つ日本は財政破綻しない→消費税増税は必要ない。 に変えよう。
気の赴くままにつれづれと。
「僕は忘れたくない」と、この小説家は言う。でも、ほぼまちがいなく忘れるだろう。2年もたてば忘れる。ぼくは年寄りだから、エイズが流行ったときに、エイズ後の文明だのいう駄文がたくさん登場したのをよく覚えている。もはや人間同士の密な接触はなくなり、盆栽やお茶会みたいなゆるい枯れた人間関係しかなくなるだろう、なんてことがマジで言われていた。リーマンショック/金融危機で、資本主義は崩壊して新しい世界秩序が、なんて話は腐るほど聞かされた。そして、この日本では「ポスト福島」談義がみんな記憶にまだ残っているはずだ。福島の原発事故は、大量消費現代文明が持続不可能であることを如実に証明するものだ、というわけ。この「僕は忘れたくない」と同工異曲のものを何度目にしたことか。
でも、そのときもみんな忘れた。そして今回も忘れる。一方で、それがもたらした被害は下々の人々にふりかかる。いま、この著者も含め、「医療従事者のみなさんに感謝のツイートを」とか「ゴミ袋に感謝の絵を描きましょう」とかいうクソの役にも立たないバカにした連帯の押し売りをしている人々は、5年後にそういう人々の待遇がどうだろうと、気にもかけないだろう。それどころか数年後にはこの人たちは記憶を改変して、この異様なロックダウンや自粛合戦を、何やら美談に仕立てることだろう。そして「あのときのようにみんなで団結して我慢して地球温暖化を防ごう、コロナも克服したから絶対できるよ」なんてことを平気で言い始めるはずだ。この著者ではないにしても、そのお仲間のだれかが。
そのとき、この『コロナの時代の僕ら』を読み返すと面白いかもしれない。彼らがいったい何を忘れたか(そして忘れる以前に思いつきすらしなかったか)を確認するための手段として。
パンデミック開始から3週間で資産を2,820億ドル増加させたアメリカの超富裕層
America’s Super-Rich See Their Wealth Rise by $282 Billion in Three Weeks of Pandemic
4月28日【Mint Press】
https://www.mintpressnews.com/super-rich-see-wealth-rise-282-billion-three-weeks-coronavirus/267027/ より翻訳
新型コロナウイルスの大流行が始まってから数千万人のアメリカ人が職を失った一方で、アメリカの超富裕層のエリートらはわずか23日間で2,820億ドルも資産を増加させていたことが政策研究所(Institute for Policy Studies)発行の新報告書で明らかにされています。
今四半期には経済が40%縮小すると予想されているという事実にもかかわらずです。
南淵 言いたかったことは、「新型コロナウイルスに感染すると、直前まで元気だった人が突然死の淵に追いやられる! それほど怖い病気だ」ということです。
実は本当にテレビで伝えたかったのは、新型コロナウイルスの感染拡大で、医療崩壊がすでに始まっていることです。特に救命救急医療が圧迫されています。心臓外科でいえば、急性大動脈乖離や急性心筋梗塞になったら、通常なら救命手術で救える命も、コロナウイルス感染への対応で手が取られ、救えない事態に陥っています。
もちろん「いま病気にならない方がいいですよ!」なんて言えません。結局のところ「コロナウイルスに感染しないようにしましょう」と言い続けるしかないのです。
――たしかに最近、救急患者の搬送先が決まらない「たらい回し」が激増しているという記事がよく出ています。
南淵 新規の救急患者の受け入れは、2つの意味で負担増になります。1つは、多くの医療スタッフが夜通しで手術するようなことになるし、もう1つはコロナに感染しているのかどうか分からないので院内感染のリスクもあることです。普段から救急患者は病院側のキャパシティいっぱいのところで対応してきました。どこの病院も同じだと思います。そこにコロナウイルス感染やその疑い、あるいはまったく症状がない、つまり疑いがなくても実際は感染していた、という患者が来院されているのです。
ある産婦人科で出産をした母親が感染していることが分かって、病院全体に衝撃が走りました。担当した医者や看護婦全員が濃厚接触者になるので、すぐにPCR検査をして自宅待機を強いられた。1人の潜在的な感染者を受入れることで、その病院の全科で診療ストップという事態になりかねないのです。
岩手県の県立病院が帰省中の妊婦の受け入れを拒否したと報じられましたが(4月24日の読売新聞「岩手の2県立病院、妊婦救急搬送の受け入れ拒否」など)、日本中の病院が「新規の患者は基本的に拒否する」という事態に陥ってしまっても仕方がないと思います。大病院だけでなく、歯科医も「新しい患者は診ない」という同じ対応をしているようです。
今のところあまり指摘されていませんが、病院の収益も他の業種同様、各段に落ち込んでいます。「医療者の皆さんの献身にはご苦労様です」と社会から賞賛を頂いているようですが、実は病院経営上も相当に厳しい状態です。コロナウイルス医療は概して場所、機材、消耗品、人件費、など莫大なコストに対して、その経済的見返りは相当に少ないように思います。おそらくかかった経費の10%程度の医療収入しかないでしょう。通常の医療を縮小している状況ですから、コロナウイルスを受け入れている病院は通常の売り上げの10%程度と少しぶんしかない、ということになります。いまの状態が長引くと、他の業種同様、倒産、経営破綻の病院が続出するでしょう。
――コロナの感染拡大が収束するまでは、緊急救命治療は受けられない?
南淵 救急医療に限りません。がん患者さんも治療が先延ばしになっているようです。「いますぐしなくてもいい手術なら先に延ばして下さい」と病院側は対応しているようです。患者が「いつまで延ばせばいいのですか」と聞いても、医者は「感染拡大が収束するまでですが、それはいつになるのか分かりません」としか答えられません。
――5月6日までの緊急事態宣言を5月末まで延長することになりました。発令した時に安倍首相は、1カ月間で感染拡大を食い止めて収束へと向かうという目標を掲げていましたが。
南淵 がん、心臓病に限らず患者が「手術は1カ月待って下さい」と病院から言われたらまずます許容範囲内かも知れませんが、3カ月とか半年延ばされるとなると、患者の不安はいかばかりか。その意味で普段の医療が行えなくなっている現状の医療体制はすでに崩壊していると言えます。
(聞き手=横田一/ジャーナリスト)
どちらも「他者の苦境のおかげで自分が利益を得られる話」です。
ただ、この2つの事例への世の中の評価というのは、正反対になっているようにみえるわけです。
僕は冒頭のエントリを読んで、この話を思い出したんですよ。
『ヒトラーとナチ・ドイツ』(石田勇治著/講談社現代新書)より。
僕は「ナチ党政権下のドイツは、ずっと、息苦しい、暗黒時代だった」と思い込んでいたので、この本を読んで、驚いたのです。
でも、当時の様子を知ると、たしかに、「戦争が始まる前までは、多くのドイツ人にとって、『良い時代』と感じられていたのかもしれないな」という気がしてきます。
それは、太平洋戦争前の日本にも言えることなのだけれども。
いくらなんでも、ナチ党のユダヤ人(や障害者、ロマたちへの)絶滅政策は酷すぎるだろう、とは思う。
なぜ、反対の機運が盛り上がらなかったのか? やはり、ナチ党が怖かったのか?
(それでも、強制収容所での「虐殺」については、ドイツ国民に隠されていたそうです。さすがに反発を招くだろう、ということで)
ナチ党政権下のドイツ国民が、あからさまな人種差別政策を受け入れてしまった理由のひとつを、著者はこのように説明しています。
国民が抗議の声をあげなかった理由に関連して、ナチ時代特有の「受益の構造」にふれておこう。それはいったいどんなものだったのだろうか。
先にも雇用についてふれたように、ヒトラー政権下の国民は、あからさまな反ユダヤ主義者でなくても、あるいはユダヤ人に特別な感情を抱いていなくても、ほとんどの場合、日常生活でユダヤ人迫害、とくにユダヤ人財産の「アーリア化」から何らかの実利を得ていた。
たとえば同僚のユダヤ人がいなくなった職場で出世をした役人、近所のユダヤ人が残した立派な家屋に住むことになった家族、ユダヤ人の家財道具や装飾品、楽器などを競売で安く手に入れた主婦、ユダヤ人が経営するライバル企業を安値で買い取って自分の会社を大きくした事業主、ユダヤ教ゲマインデ(信仰共同体)の動産・不動産を「アーリア化」と称して強奪した自治体の住民たち。無数の庶民が大小の利益を得た。(中略)
ユダヤ人財産の没収と競売、所有権の移転は、細部にいたるまで反ユダヤ法の規定にしたがって粛々と行われ、これに携わった国税庁・市役所などさまざまな部署の役人も良心の呵責を感じることなく仕事を全うできるシステムができあがっていたのだ。ユダヤ人の排斥を支える国民的合意が形成されていたとはいえないにせよ、ユダヤ人の排斥を阻む民意は見られなかった。
多数派にとって、自分に「ちょっとした利益」があれば、少数派を排斥する、あるいは、排斥しなくても、「見捨てる」ことは、そんなにハードルが高いことではなかったのです。
それは、いまの世の中でも、同じなのだと思う。