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この世から風邪やインフルエンザを無くすのは不可能

「謎」でも何でもなく、「高齢者は風邪でもインフルエンザでも致命的になる可能性が高い」という当たり前の話なのだが、それを「オミクロン怖い」に結びつける愚が全国的に広がるのではないか。
年寄りは、自分で気をつければいいだけの話だ。で、風邪やインフルエンザにかかったら致命傷になりかねない、という意識を持つべきである。ついでに言えば、「転倒骨折」から寝たきりになる、というのもよくある話らしい。これらは「自己防衛」、あえて言えば、最近不評な言葉だが「自己責任」の問題であり、家族もそれ(老人の風邪や転倒事故)への注意をすべきだろう。

(夢人追記)「世に倦む日々」氏の「新コロはインフルエンザではない」論である。要は「新コロには治療薬が無い(従来のインフルエンザ治療薬が新コロには効かない)からインフルエンザではない」という主張のようだ。タミフルがインフルエンザに効くかどうかも疑問だし、はっきりと覚えていないが、危険な副作用のため使用禁止になったのではないか? 風邪薬は基本的に「対症療法」つまり、症状を抑えるものであって、風邪そのものを治すものではないだろう。まあ、葛根湯などの漢方薬のほうが「体温を上げることで免疫力を高める」という点で「風邪そのものを治す」効果がありそうだ。常に人々の周囲に存在する細菌やウィルス(これが本当に実在するかどうかを疑う意見もある)をすべて消滅させるのは不可能であり、本気でそれをやればそれこそ麹菌などまでも消滅させるだろう。もちろん、人間そのものが常在菌で守られている面もあるのである。

橋下徹や安倍晋三は、コロナはインフルエンザと同じだから感染法上の分類を5類にせよと喚いている。この主張が昨年からずっとマスコミで刷り込まれ、正論のような扱いで有力な政治論調になっている。NHKでもそのプロパガンダが歯止めなく拡散されている。誰も正面から批判しない。小池晃は、今年に入って報道1930のコロナ特集回に二度出演したが、5類に変えろというネオリベ政策に対して反駁と糾弾の論陣を張らず、1/31の放送ではむしろ納得して容認するような姿勢を見せていた。我慢できない。この主張には虚構と陥穽がある。われわれはトリックに騙されている。

インフルエンザには検査と診断があるではないか。タミフルがあり、ワクチン予防もあるではないか。騙されるな。インフルエンザはコロナと同じではないのである。発熱した、咳が出る、インフルエンザに罹ったかもしれないと思ったとき、人は健康保険証を持って内科医に受診に行く。そこで検査を受け、陽性なら治療薬を処方される。風邪なら抗生物質をもらって帰る。医療を受けられる。橋下徹や黒岩祐治のコロナ対策、それが現実に施策発動された今回の厚労省の通達はそうではない。医療の提供はしないから自己責任で治せと言っている。



(以下「阿修羅」より引用)

オミクロン株ピークアウトの沖縄で入院増加が続くナゾ…全国で深刻事態の可能性大(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/409.html
投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 2 月 04 日 22:50:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 




オミクロン株ピークアウトの沖縄で入院増加が続くナゾ…全国で深刻事態の可能性大
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/300911
2022/02/04 日刊ゲンダイ


沖縄県の感染者数の減少傾向は顕著だが…(玉城デニー沖縄県知事)/(C)日刊ゲンダイ

 3日の新型コロナの新規感染者数はとうとう10万人を超えた。ピークが見通せない中、いち早くオミクロン株が流行した沖縄は新規感染者数の減少傾向が顕著となる一方、入院患者と施設療養者はいまだ増え続けている。ピークアウトで安心はできない。全国でも同じことが起こる可能性が高い。

 ◇  ◇  ◇

 沖縄では昨年末、在沖米軍基地のクラスターから市中感染が拡大した。新規感染者数は元日の52人から7日には1400人を突破。その後、15日の1829人をピークに減少に転じ、3日は652人で10日連続、前週の同じ曜日を下回った。

 ところが、感染者数がピークアウトしても入院患者と施設療養者数は増加傾向が続いている。感染者数が過去最多だった15日の入院、施設療養者は688人だったが、3日は883人。3割近くも増えている。県に聞いた。

「沖縄では当初、入院リスクが低い若者の感染が中心でしたが、だんだん高齢者に広がっていきました。高齢者の場合、入院が必要なケースが少なくないため、入院患者が増えています」(感染症対策課)

 2日の厚労省専門家組織「アドバイザリーボード」でも、沖縄の高齢者の感染増に伴う入院患者の増加傾向が取り上げられた。脇田座長は「今後は他の地域でも同様の傾向が見られる可能性がある」と警告している。

若年層から高齢者に感染広がる


3日、国立国際医療研究センター病院にコロナ患者を搬送する医療関係者(C)共同通信社

 西武学園医学技術専門学校東京校校長の中原英臣氏(感染症学)が言う。

「オミクロン株は当初、若年層の感染が多かった。入院は少なく、重症、死亡例もまれでした。そのため、『軽症がほとんど』との楽観論が広がった面があります。ところが、ここへきて、若年層から高齢者に感染が広がり、全国的にも入院患者、重症者、死者が急増しています」

 3日発表された全国の重症者数は911人。900人を上回るのは4カ月ぶりだ。死者は90人確認され、第5波の最多(89人)を上回った。

 感染者数がピークアウトした沖縄はそのうち入院患者も減少に転じるとみられる。しかし、アドバイザリーボードは「全国的にピークがいつ来るかは見通せない」との分析結果を示している。全国の重症者と死者はしばらく、増え続ける可能性が高い。

 オミクロン株は「弱毒化」が指摘されているが、なぜ、重症者と死者がこんなに増えるのか。

「これまでの新型コロナと異なり、オミクロン株は肺炎の症状は少なく、弱毒化しているのは事実です。ただし、基礎疾患がある高齢者が感染すると危険です。感染した時は軽症でも、その後、持病が悪化し、重症化したり、死に至るケースが起きている。医療が逼迫し、適時・適切な治療が行き届かなければ、さらに深刻な事態も起こり得る。宿泊施設をもっと活用し、今からでも臨時医療施設を増設し、ピークアウト後の医療体制を整えるべきです」(中原英臣氏)

 沖縄の先取り事例を参考にピークアウト後に備える必要がある。
 


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馬鹿国民帝国日本は滅亡するか

「バカ国民帝国日本の滅亡」から一部転載。
まあ、孔徳秋水氏は時々鋭い発言をするのだが、「金融資本主義」の支持者なので、その発言の大部分はクズであるwww 眉に唾をつけて読むと、得るものもある。これは多くのブログがそうである。信頼できると思っていた書き手が、いつの間にか変節していた、ということは多い。とりあえず、記事と広告を併存させているブログのほとんどは、私はあまり信じない。もちろん、性格が偏屈なため、あるいは頭が悪いため、あるいは無知なために、正直に発言してはいても、その発言の中にあまり感心できないものが混ざることはよくあることで、私など、その代表だろうww 
白人の毛唐呼ばわりなど私はよくやるが、ポリコレ的には非難轟々だろう。私は江戸幕府や幕藩体制の批判者だが、「鎖国政策」は日本の平和と温和な国民性を守ったと思っている。江戸時代の人間は西洋人を毛唐と読んで警戒していたのである。その警戒は正しかった。見かけの問題だけでなく、異民族(異文化の人間)は精神性が異なるのだ。今の日本の大富豪(大企業所有者)の異常に利己的な精神性は、日本人の伝統的精神(倫理性を利益や富裕さより優先する)ではない。見かけは日本人でも、精神が違うわけだ。疑うなら、江戸末期や明治初期の日本人庶民の精神の素晴らしさに感嘆した訪日外国人たちの多くの手記を見ればいい。
下の記事に関しては、ほぼ同感である。毛唐の「精神的奴隷」となって貢物を続けた結果が、今の貧国日本である。その次は憲法改悪で自衛隊の国軍化と戦争参加だろう。まあ、そういう馬鹿国民帝国は滅亡しても仕方がないだろう。
要するに、今の日本人にもっとも欠けているのは「正しい批判精神」である。その「批判」が大マスコミ(表マスコミ・通称マスゴミ)や体制の犬(これは右だけでなく左側もそうである場合が多い)には「陰謀論」と呼ばれる。

(以下引用)


明治のころは留学しても批判的に学んで、ケトウの文化に染まることは少なかったが、


 


近頃は、猫も杓子も留学して、ケトウの文化を鵜呑みにして帰ってくる。


 


だから、大学教授や政治家の質が、とんでもなく落ちている。


 


 


優秀な人間は、そもそも日本に帰ってこない。


 


そんな帰ってきた落ちこぼれを拾っていれば、30年でも50年でも「失われる」だろう。


 


 


明治のころは帰国しても、西洋かぶれにならず、


 


この程度なら日本の方がもっとすばらしいと確信して、ポチにならない者が多かった。


 


 


いまや、みんなポチではないか。


 


 


もっといえば、アメリカだのフランスだののスパイではないか。


 


 


だから、伊藤元重あたりも読売で米英に都合のよいことをのたまうのだ。


 


「グリーンファイナンス」や「カーボンプライシス」が「市場メカニズムの活用」などと言っているが…


 


それは、単なる「アメとムチ」というやつであろう。


 


 


だいたい二酸化炭素が増えて人類が滅びるなんてことがあるだろうか?


 


原発が増えて人類が滅びるというほうが現実味があると思うのだが、


 


原発はクリーンエネルギーだというのだ。


 


 


こんなものの、どこが「科学」なのか?


 


 


しかも、個人の「脱炭素」行動を「見える化」するんだと環境省が言っている。


 


オイオイ、中国よりヤバイじゃないか、日本は!!


 


 


カネで個人を追跡し、


 


位置情報や病歴で個人を追跡し、


 


さらにCO2で個人を追跡するのだ。


 


もう、息をすることもできないよな!


 


 


そのうち、ボタン一つで個人をいつでもどこでも抹殺できるようになるだろう。


 


「死因」もいくらでも捏造できるからね~


 


 


コミュニズムの社会では、「自分のもの」がひとつもなくなる。


 


それは、「みんなのもの」であり、「国家のもの」なのである。


 


 


「格差が嫌だ」という人たちが落ちていく無間地獄は、もうすぐそこにまで迫ってきている。


 


 


話を戻すが…外国との付き合いもよしあしで、


 


外国かぶれが徒党を組んで権力を私物化するのが「世の常」なのである。


 


なかには、公然と国益より外国の利益を優先する工作員が権力中枢を跋扈するようになる。


 


 


だから、日本は時々「鎖国」をして、独自の文化を育ててきた。


 


遣唐使とかが中止されるのも、そういう事情が背後にあったのだ。


 


 


外国とつるむ奴が国を滅ぼすとは『韓非子』にも書いてある。


 


そう…


 


「国際化」は、やりすぎたのだ。


 


自分を見失うようでは、もはや「国際化」も有害でしかない。


 


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「ねじの回転」の「殺風景な解決篇」

別ブログに試しに書いてみたものだが、一応の「解決篇」にはなっているかと思うので、ここにも載せておく。本当は、「幽霊」の男女の死のいきさつとその隠蔽のほうがはるかに推理小説としては面白くなるはずだが、私は「人間ドラマ」を考えるのは苦手なので、やめておく。
まあ、とりあえず、「ねじの回転」は読み方次第で非常に面白い作品なので、お勧めしておく。

(以下自己引用)


ダグラスはそこで沈黙し、黙って赤い表紙のノートを閉じた。
「それで話は終わりかい?」
わたしは、たぶんそうだろうと思いながら聞いてみた。
「そうだ。彼女のノートはここで終わっている」
「では、その後、彼女がどうなったか、君は知らないんだな?」
ダグラスはまた黙り込んだが、やがて苦痛の色を顔に浮かべて言った。
「彼女は手紙一通で雇い主から解雇され、その屋敷を離れたらしい」
「マイルズの死についての責任は問われなかったのかい?」
「まあ、そうだ。死体には外傷は無かったから、心臓麻痺か何かだろうと診断されたという話だ」
「と言うと、君は彼女からその出来事について、いくらかは聞いていたのかい?」
「いや、それは彼女の死後に僕が少し調べたことだが、それ以上のことは知らない」
「まったく怖いお話ねえ。これまで聞いた怪談の中で一番怖かったわ」
その場にいたご婦人のひとりがいかにも怖がったような顔と声で言った。
「しかも、それが実話なんでしょう?」
もうひとりのご婦人が言った。
「まさか、幽霊が実在するはずはありませんわ」
もうひとりの、議論好きなところをこの集まりでしばしば見せていたご婦人が言った。
「だって、その『幽霊』を見たのは彼女ひとりなんでしょう?」
「だからこそ怖いんじゃない。自分にだけ幽霊が見えて、他の人には見えない。自分の言うことを誰にも信じてもらえない。こんな怖いことってある?」
「なるほど、それも一種の怪談ですな」
グリフィンが如才なく口を挟んだ。
「では、あなたは彼女が見た幽霊は何だったとお思いですか?」
私は議論好きなご婦人に言った。
「もちろん、彼女のヒステリーよ」
「要するに、彼女は幻覚を見たので、それは幽霊でも何でもなく、彼女の心が作り出したものだと?」
「決まってるわ。だって、そのノートに書いてあることは、すべて彼女の立場からしか書いていないじゃないですか。もしかしたら、彼女は自分が嘘をついているという意識も無しに、嘘を書いていたかもしれないでしょう。あら、ダグラスさん、御免なさい」
ダグラスは苦笑した。
「いや、かまいません。僕自身、そのノートを読んで、しばしばそうではないか、という疑問を持ちましたから。しかし、僕が会った彼女は誠実そのものの、嘘はつかない人でした」
「そこが問題なんだろうな。世の中には、自分が嘘をついているという意識も無しに嘘をついてしまうことはあるもんだ」
グリフィンが言った。
「まあ、今となってはすべては闇の中だ。僕は、このノートを読んだことを後悔している」
「君と彼女の美しい思い出を汚したと?」
私はダグラスの沈鬱な顔を気遣って言った。
「過去を掘り返すことは、美しい湖の底の泥をかき回すこともあるようだ」
ダグラスはそう言って、窓の外に目をやった。
ダグラスが(まだ60代だったが)重い病にかかって亡くなったのは、それからわずか一年後だった。


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幸せの後ろ姿

私は演歌が嫌いなのだが、大衆歌謡は好きで、なぜ演歌が嫌いかというと、その「酒臭さ」「夜の匂い」が嫌いなのだろう。大衆歌謡というのは基本的に明るいものだ。というのは私の主観的な思想で、もちろん暗い大衆歌謡もたくさんあるが、それらと「演歌」は別物の気がする。
まあ、フォークソングだろうがジャズだろうが、酒臭い唄、夜の匂いのする歌はあるので、「場末の酒場の匂い」が嫌いだ、と言い換えておこう。たとえば、夜の歌でも「スターダスト」などには酒の匂いも酒場の匂いもまったく無い。酒の歌でもオペラ「椿姫」の「乾杯の歌」などは好きなのだから、日本の演歌独特の湿った情感が嫌いなのかもしれない。あるいは「酒と薔薇の日々」などは、私のもっとも好きな歌のひとつだ。ここには日本の場末の酒場のトイレ臭さが無い。なお、シャンソンには、「アコーディオン弾き」のように場末の酒場の匂いを感じる歌も少しあるようだが、なぜか「トイレ臭さ」を感じないのは、演歌と異なる曲調のせいだろう。
と言うのは前置きで、私が書こうとしているのは、寝起きの時からなぜか頭の片隅にあった「ウナセラディ東京」という演歌のことである。まあ、演歌に分類できると思うが、それを酒場歌とするのは適切かどうか知らない。私のイメージでは、酒場の女の失恋を歌った歌なのである。なお、「ウナセラディ」がどういう意味なのか私は知らないし、調べる気もない。何かに「うなされている」のではなさそうだwww
で、本論だが、この中に「街はいつでも、後ろ姿の幸せばかり」という一節がある。最初に言えば、この「街」を「町」と書いてはいけないだろう。「町」では、その辺のおばさんが買い物籠を下げて歩いている風景を想像してしまう。この歌の曲調からして、これはそういう町ではなく、東京の、しかも繁華街だと推定するのが妥当だろう。
とすると、この歌の女主人公が見ている街は、六本木とか渋谷といった「夜の繁華街」ではないか、と推定するのが自然だと思える。まあ、格が下がるが、新宿や池袋でもいい。(私は昔のイメージで書いているが、現在でもさほど変わらないだろう。)
そういう「夜の繁華街」で彼女が見ているのは、「幸せそうなカップル」の姿である。それを彼女は自分を拒絶する「幸せ」の後ろ姿だと見るわけだ。
しかし、立ち止まって考えると、「不幸せな人間」が果たして繁華街に出るものだろうか。出れば、当然、孤独感や孤立感にさいなまれるだろう。まあ、歌の主人公の女性は、夜の勤めにでも出る途中で、そういう幸せそうなカップルを見るしかないのかもしれないが、基本的に「繁華街」というのは幸せな人々の街であり、つまり彼女の嘆きは自業自得だ、ということを私は言っているわけだ。
まあ、恋をしたら失恋も覚悟する必要がある。打算のつきあいだけでなく、恋ができるだけでも、人間が上等だ、と言えるかもしれない。もっとも、たいていの恋は自分自身が作り上げた幻想へのピグマリオン的な恋だ、と私自身は思っているのだが、盲目になることこそ恋の醍醐味だ、という考えも可能である。恋をまったく知らないのと失恋経験と、どちらがマシだろうか。
という、誰のためにもならないくだらない考察だが、些末事を考察するのは私の趣味であり、考えた以上は書くのが私の習慣である。


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「怪談」と「ミステリー(推理小説)」の文学的価値と『ねじの回転』

「ねじの回転」は英文学部(最近はそういうのがあるかどうかも知らないが)の卒論向きの作品である。つまり、考察すべき部分がたくさんあるわけだ。
その主なものを挙げておく。

1:この小説は「枠物語」あるいは「入れ子構造」の形式の話で、まあ「千一夜物語」でシェラザードが前置きをしてから話に入るような形だ。ところが、話の冒頭に出てきた、この「怪談」を聞く連中が最後に登場してこそ、その形式は完成するのだが、話は「語り手」(実は、語り手はふたりいて、話の前置き部分に出てきて話を紹介する男性と、話の「一人称話者」の女性で話の主人公のふたりである。)が語り終わった段階で、ぷつりと切れて終わる。この話が怪談でなくミステリーなら、肝心の謎解き部分の無いミステリーになるわけだ。
2:この話の中で「幽霊」とされている男女の死の内容(事情)がまったく語られない。だが、主人公もその同僚も、彼らを「邪悪な人間だ」としており、なぜ邪悪なのかは語られない。せいぜい、男の方が少し図々しいらしい程度である。特に主人公は、「幽霊」を見ただけで、彼らを邪悪な存在だと最初から決めつけている。これは欧米(キリスト教圏文化)特有のものらしい。つまり、人は死んだら最後の審判までは「存在しないも同然の存在」であるべきで、幽霊とは、死者が現世に「復活」したようなものだから、ある意味、キリストの「死後の復活」のパロディのような冒涜的なものになるという考えだろう。ここには、一人称主人公の女性が田舎牧師の娘であるという事情も関係しているかと思う。
3:女主人公が雇われた「魅力的な」富豪男性が、なぜ幼い甥と姪に関わることを嫌うのか、理由が最後まで明らかにされない。
4:女主人公が教育を任された幼い兄妹が「邪悪な」本性を持っている、と女主人公は考える(確信する)のだが、その理由がひどく曖昧である。単なる「表情」などから「鋭敏な自分」はそれを見抜いた、と思っているらしい。

ざっと以上から、この話での語り手の女性(女主人公)は、被害妄想から狂気に陥ったのだ、と推定できるわけだ。
一番の問題は、死んだ男女の雇用人の死の事情がまったく語られないことである。これは、彼女を雇った「魅力的な」富豪男性、つまり話の舞台である屋敷の主人が、この男女の死と何か関係があるのだろう、と推定できる。彼がこの屋敷に帰りたがらず、幼い兄妹のことは雇ったばかりの若い娘にすべて任せ、いわば「養育義務放棄」をしていることを考えると、この兄妹はふたりの男女の死の事情に気づいている可能性もある。
つまり、この話で「語られなかったこと」のほうが、「ミステリー」としてははるかに面白い要素を持っているわけで、この話が最後で「解決篇」があれば、ミステリーとして完璧だっただろう。だが、そうなると、「文学的評価」は地に落ちることになる。作者のヘンリー・ジェイムズはそれが分かっていたから、最後の「解決篇」を書かなかったのだと思う。


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石原慎太郎の死



石原慎太郎が亡くなったそうで、まあ、人間性はどちらかと言えば嫌いだったが、その作品にしても政治発言にしても、「思ったことをズバズバ言う」姿勢は、なかなか貴重だったのではないか。要は、その発言や作品を正しく捉え、肯定するか否定するかという受容側の問題だ。同じ暴言人間でも、少なくとも麻生太郎よりははるかに知性も教養もあったとは言える。そりゃあ、文学者であるのだから当然だ。
私自身、若年のころは、彼の作品を読んで、「或る種の、あるいはすべての人間の本性を実に見事に書いているなあ」と感心させられたものだ。ヤワな人間には、どれほど体験しても分からない「人間の真実」を描いていたわけだ。まあ、「処刑の部屋」など、その後に何度となく起こる若者の残虐殺人事件を予告していたのではないか。
もっとも、彼の作品を私が好きかどうかと言えば、嫌いであり、若いころの「読書体力」のある時期でないと読めない。昨日、映画で「三文オペラ」を見ようとしたが、主人公の悪党ぶりに嫌気がさして、途中で視聴放棄した。石原慎太郎の初期作品に多いのだが、「悪を主題にした作品」というのは視聴感や読後感が悪いのである。ただし、「三文オペラ」の主題歌の「匕首マッキー(メッキ・メッサー)」は大好きで、ボビー・ダーリンがこれを歌う動画の恰好良さは一見に値するのでお勧めだ。
悪というのは刺激的なので、文学や映画の主題になりやすい。善というのは「見ても面白くない」のであるwww その面白くなさのためか、世間の人間の中には、自分に無関係でも、他人の善を見るとすべて「偽善だ」と攻撃する馬鹿もいる。(もっとも私は「偽善(本心からではなく、無理に行う人為的善)」は大事だ、と思っている。それによって世界はまともに動いているとすら言えるのではないか。心に悪を抱いて善行を為すほうが、心に善を抱いて悪を為すよりはるかにマシである。)

石原慎太郎には「明朗青春小説」とでも言えそうな作品が幾つかあり、「青春とは何だ」や「おおい雲」などはテレビドラマ化や映画化もされていたと思う。非常に面白く読後感もいいので、若者にはお勧めだ。「野蛮人のネクタイ」なども面白い。

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人間の超能力

「大摩邇」所載の「ナカムラクリニック」記事の一部である。
政木和三の超人的能力や業績については知っていたが、そのスピリチュアル系の話は、まあ話半分というか、天才にありがちな妄想だろうとして聞いていた。話としては面白いし、その妄想能力こそが彼の天才的業績の源だったのかもしれない。凡人にはどれほど努力しても凡人の発想しか出てこないのである。
下の話の中で、昭和天皇の霊能力の話が私には特に面白い。「自分を現人神だと信じていたから超能力が使えた。人間となった今は使えない」というのは、なかなか穿った話だ。私自身の経験で言えば、20代くらいにパチンコをやっていた時期があったが、打った球が「穴に入る」と心から信じた時には入ったものだが、人間、それほど集中力は続かない。続くなら、誰でも凄い能力を発揮するのではないか。なお、生命の危機の瞬間には思考速度が通常の十倍以上になるという話も私自身経験している。


(以下引用)


番組の放送後、講師として招かれたある学会で、そのテレビでの出来事を話した。すると、ある高名な教授2人から「政木さんの言っていることは苦しい。そういう現象は静電気では起こり得ない。まだしも、何からの精神的な力、“念”によって動いたと考えるほうが説明がつく」と言われた。
いくらか意固地になりすぎている自分に気付かされた。力学もエネルギー保存則も、いったんすべて消し去って、現代科学の範囲を超えた未知のエネルギーの存在を認めるべきかもしれない。
その後、超能力の科学的検証(念による物体の移動、空中から物質を取り出す、幽体離脱、ダウジングなど)は、政木のライフワークとなり、死ぬまで研究を続けた。
http://psi-science.sakura.ne.jp/kokoro/data/text/masaki.html


政木はたまたまある縁で、鏑射寺(神戸市北区)の住職中村公隆和尚の知遇を得た。中村和尚は、密教の厳しい修行を何度も繰り返した大阿闍梨である。修行の末に、“この世ならざる力”を得たことは公然の秘密であり、政財界から内々の相談を受けることもある。
中村和尚は現在94歳。今も毎月22日には鏑射寺を訪れる人々の前で、法話を披露する。僕も以前、聞きに行ったことがある。


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中村和尚の“この世ならざる力”がどのようなものか、端的に示すエピソードは、「ベレンコ中尉亡命事件」と関係している(和尚自身は法話のなかでこれを「ミグを捕まえた話」と言っていた)。
ベトナム戦争当時、米軍は北ベトナムを連日爆撃していた。当時の米軍の最新鋭戦闘機はF4ファントムⅡという高性能なジェット戦闘機だった。ある日、北ベトナム上空を飛行していたF4戦闘機が、ソ連の最新戦闘機ミグ25が飛んでいるのを発見した。戦闘空域だったためにF4はすぐに追撃したが、最高速度マッハ2のF4戦闘機を、ミグは軽々と振り払った。そこで射程距離の長いレーダー誘導型の空対空ミサイル「スパロー」を発射した。しかし、マッハ2以上の速さで飛行するこのミサイルも、ミグを捕捉するには至らなかった。
ミサイルでさえ追いつけないほど高速で飛ぶ戦闘機の存在を報告された米軍首脳部には、激震が走った。当時ソ連と米国は核戦争の一触即発の状態であり、かろうじて軍事バランスの均衡が戦争勃発への抑止になっていた。そこに、これほど戦闘機の性能レベルの違いを見せつけられては、米軍が平静でいられないのは当然のことだった。
米軍はソ連の最新鋭戦闘機ミグ25の性能の秘密を研究するため、実際に運用されている機体を1機、なんとしても捕まえたいと考えていた。しかし、自国の最速の戦闘機を上回る速さのミグを捕獲することは、到底不可能なことだった。
そこで、ニクソン大統領は、1945年8月、昭和天皇がB29を消した話を思い出した
https://note.com/nakamuraclinic/n/n3f49755c9fb0
大型の戦略爆撃機を消せたのだから、ソ連の戦闘機を1機捕獲するぐらいは簡単だろうと思い、昭和天皇のところに特使を派遣し、ミグを捕まえるように命じた。
しかし昭和天皇はこの要求を断った。「あれは自分自身が神だと信じていたからこそ、可能でした。しかし終戦後人間宣言をし一人の人間にすぎなくなった自分には、もはやできません」
しかしニクソン大統領の特使、簡単には引き下がらない。「それでも何か別の方法があるだろう」と食い下がったところ、昭和天皇は助手をひとり所望した。
その助手が、自分を現人神だともう一度思い込ませてくれたなら、可能かもしれない。その助手として指名されたのが、真言密教の法力を修めた中村公隆和尚だった。
高松宮殿下が皇宮警察を引き連れて高野山まで赴いた。皇居に連れていかれた阿闍梨は、真言密教の呪術を使い、昭和天皇を再び現人神にした。その後すぐ二人で、ちょうどシベリア上空を演習飛行中のミグ25のパイロット(ヴィクトル・ベレンコ中尉)をめがけて、不動金縛りの術をかけた
ベレンコ中尉は飛行時間3000時間を超える経験豊富なパイロットである。心身ともに健康で、戦闘機に乗り込む前には入念な機体チェックを怠らない。非常に優秀なパイロットだった。しかしシベリア上空を飛行中、突如、体に違和感が走った。操縦桿が思うように動かせない。体の異常だろうか?機体の故障だろうか?いずれにせよ、異常事態に違いない。すぐさまソ連の空軍基地に戻ろうとしたが、自由に動かせないばかりか、操縦桿は機体が北海道のほうに向かって行くようにだけ動く。高度を上げてはレーダーに捕捉されて撃墜される可能性がある。仕方なく、海面すれすれの低空を飛び、北海道の函館空港に強行着陸した。
これがベレンコ中尉亡命事件(1976年)の真相である。マスメディアでは亡命とされたが、実際には亡命でも何でもなかった。阿闍梨と昭和天皇の呪術によるものだった。
こうして米軍は、まんまとミグを得ることができた。茨城の百里基地に移送されたミグは、機体とエンジンを分解され、マッハ3で飛行できるメカニズムも突き止められた。


政木は当然、この呪術の存在を信じていた。というか、どのようにしてこのような呪術が可能なのか、それはそのまま政木の研究テーマだった。彼が着目したのは、脳波である。
人間の脳波には、ベータ波、アルファ波、シータ波、デルタ波の4つがある。普通に生活しているときの脳波は18ヘルツくらいで、これをベータ波という。心がリラックスして平静な状態だと15ヘルツほどまで下がる。これがさらに下がって13ヘルツ以下になるとアルファ波となり、肉体的な感覚が薄れ、精神的な感覚が主体になる。さらに11ヘルツ以下になると超能力と呼ばれるような力が現れ、たとえば誰でもスプーンが曲げられる状態になる。脳波がさらに下がり、8ヘルツ以下になった状態がシータ波である。この状態では、心も体も超えた、ただ、魂だけがある感覚で、瞑想の極致に達したときに見られる。さらに脳波が下がり、4ヘルツ以下のデルタ波になると、完全な無意識状態で、仮死状態に近い。
政木は、中村和尚のいわば「超能力」は、シータ波の精神状態のなせるわざだと考えた。シータ波のときには、まったく無欲の状態になっている。逆も真で、無欲の状態でないとシータ波にならない。人生において願いを叶える人は、常に無欲であり、かつ、シータ波になっている。時給換算すれば1時間に何万ドルと稼ぐスティーブ・ジョブズが、貴重な時間を割いて禅に傾倒したことには、十分な理由がある。人はシータ波の状態になって初めて、世界を変えるような奇跡を起こすことができる。
無論、こういうことができる人は多くない。選ばれた素質なり、厳しい修行なりの末に、人はこの力を得る。
実は、中村和尚は長きにわたり、念の力で東京の地震を止めているのだが、この点については詳述しない。ただ、高齢の和尚が遷化された後が心配だ。


人を生かすこともできれば殺すこともできるのが、密教呪術である。フランクリン・ルーズベルトは密教の秘儀により呪い殺されたという話がある。当然、原爆開発に対する牽制の意味合いである。もう少し小さな話では、これは中村和尚の本にも書いているが、瞑想する和尚の体には、蚊が近寄らない。もちろん、蚊取り線香を焚いているわけではない(笑)

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