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「BA2」の名称は高齢女性への侮辱www

変な目つきのBABAが写真で載っているので、「BA2」とは「BA×2=BABA」のことかと思ってしまったではないかwww

(以下引用)



【速報】“ステルスオミクロン”の市中感染 東京都で初めて確認

写真拡大



海外の一部地域で拡大している、いわゆるステルスオミクロン株「BA.2」の市中感染が、東京都内で初めて確認された。


これは、都の専門家会議で明らかにされたもので、都のゲノム解析で、ステルスオミクロン株「BA.2」の市中感染が、初めて確認されたという。


これは、国内で主流となっているオミクロン株と比べて感染力が強いとみられていて、専門家からは、今後の国内での拡大に懸念の声も上がっている。


また、専門家会議では、新規感染者の7日間平均が、前の週の1万7,686人から、1万4,564人に減ったものの、ここで人々の接触機会が増えると、新規感染者数が十分に減少しないまま、リバウンドに向かうリスクがあるとの危機感が示された。


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過剰適応

「はてな匿名ダイアリー」記事で、これは実体験談だと思う。細部のリアリティがある。
「勉強への過剰適応」という言葉はまさに言い得て妙である。対人関係では、東大生より、高校で遊びまくったか、あるいは部活で運動ばかりしていたFラン大学生の方がはるかに上なのではないか。社会に出て必要な能力はもちろん学力ではなく対人能力だ。
まあ、天才というのも、或る種の過剰適応だろうが、その人生が凡人の人生より幸福だった例は少ないようだ。もちろん、創造の喜びは日常生活の幸福に勝る、という考えも可能だろうが。

(以下引用)

2018-03-14

東大学生生活は本当に病むから気をつけたほうがいい

東京藝術大学の学生生活は本当に病むから気をつけた方がいいを読んで思うところがあったので書きます


皆さんは東京大学を知っていますか?知っていますよね。


百数十万人の同い年に生まれ子供のうち、3000人くらいしか入れない大学です。


そこに入るには、日本トップクラス学力を要するといわれています


芸術よりも、お勉強の道を選ぶ人は多いので、まあ、入学するには最難関の大学の一つですね。



東大に入ると、せっかく東大に入ったのに自信がなくなるのは、当たり前です。


なんせ、駿台模試とか東大オープンとかで、自分の点数(440点満点で220点くらい)から見ると理解困難な点数(330点とか)を取っていた秀才リアルに目の前にいるのです。


人の学力をけなすような低劣な人格だったらまだ溜飲が下がるってもんですが、そういうのに限っていいやつなんだな。


そういう秀才を目の前にして、ひがんで屈折してしま自分の、人格的な弱さと、その根底にある学力の弱さに涙した東大一年生は何百人もいるはずです。


誰もそんな恥ずかしいことは口にしませんが、そうやって自分のせいで人間不信になって、大学に来れなくなったり第二外国語をさぼって放校になる駒場生は何十人もいます



それでも、学力という、偏差値という唯一の物差しを信じて人生18年生きてきた東大生は、病むほどに勉強します。


だって進振りがあるんだもん。教養の平均点を偏差値に置き換え、平均点の優劣で人生が決まると思って勉強します。


病むほどに点数は上がります。病むほど勉強しないと、同級生秀才たちには太刀打ちできないのです。


東北の某県で無敵を知られた秀才君も、九州男子を蹴散らし英語無敵を謳われた彼女も、ここではただの一東大生。


そんなレベルは、男女御三家(武蔵を除く)やツッコマには掃いて捨てるほどいるのです。



田舎から出てきた東大生は、東京というものに強い憧れを抱いていたんですね。


特にテレビで見る東京はとてもお洒落キラキラしていて・・・


クリームがいっぱいに乗ったパンケーキ、お洒落ブティックとかドラマで見る東京恋愛に、ただ漠然といいなぁ素敵だなぁと胸にトキメキを馳せておりました。


現実は、そんなキラキラしていません。


実験し大教室に通う毎日と、倒しても倒しても出てくる自分より賢い同級生の前にひれ伏す毎日を過ごします。


東京という街は、そういうところなんですよね。


実際、東京大学に対しても大きな憧れを抱いていました。その理由はやはり「日本トップ国立大学から」というのがあったと思います


そういう理由大学にきてしまったので、憧れの理想現実の差に心を痛めました。


日本トップの授業があるわけでは無いし、合格たからと言って自分学力日本トップになるわけでは無かったからです。


大切なのは自分が将来何になりたいかであって、東大は通過点でしかないということを身にしみて感じています



これを書いているのは、40代おっさんです。


この年になるといろいろなものを見てきました。


キラキラしていた秀才が、国家公務員試験を上位で合格し、某省で組織防衛に身も心もさいなまれ書類の書き換えの何が悪いと言い放つ姿も。


誰もがかなわないと思った研究者が、研究に疲れ果てたタイミングで引っ掛かった男に身も心も搾取され、売春でその彼に貢ぐようになってしまった姿も。


勉強ができたから、当然のように理学部物理学科に進学しあるいは司法試験に受かったのに、それらの職が本来求める対人調整能力がなかったがゆえに、人生で唯一得意な受験勉強で食ってくために予備校講師になった姿も。


18歳の時に知り合ったキラキラした秀才が、そういう風にして、堕ちていく姿をたくさん見てきた。


きっと彼らも、キラキラして見えたけど、東大にいた四年間に何か病むことがあって、そうして社会に出たときに、単に幸せを追求することができなくて、不幸せになっていったんだと思う。



上には上がいる。


そして、一つの物差しで「上」を計ろうと思うと、全体として自分が如何にあれば幸せになれたのかということが分からなくなってしまうのだと思う。


勉強が出来過ぎたがゆえに、勉強物差し人生幸せになれると思い込まされる。


そして、自分より勉強ができる数多の秀才出会ったが故に、もっと上に行きたくて勉強して、結果、勉強への過剰適応で世の中に適応できない若者を量産する。



それが東大


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阿呆陀羅経の解釈

まあ、雑談なのだが、「ネットゲリラ」氏が「阿呆陀羅経」について書いていて、私は「日本語ラップ」が登場した時から、「こんなのアホダラ経の現代版じゃねえか。メロディも何もない、賢(かし)こぶった若僧のお説教が流行するわけがあるか」と思っていて、その予測は見事に外れたwww やはり電通式に、「馬鹿(B層)が世の中の8割を占めているのだから馬鹿に合わせて流行を作れ」という商法が正しいようだ。
ただし、下に出ている「阿呆陀羅経」の詩句はなかなかナンセンスで面白い。
私は下らないものや些事の解釈が趣味なので、解釈作業をしてみる。たとえば「お尻けつ」という表記などは当然「お尻(けつ)」とでも表記するべきだろうが、その類はいちいち説明はしない。私の解釈は括弧内に赤字で書いてみる。

 隣のおさんも年頃で、ビンツケ油をコテシコテシとぬりつけて、お尻けつをなでたりお腹なかをなでたり、(主語の「私」の省略で、「私は隣のおさんのお尻を撫でたりお腹を撫でたり」ということだろう。もちろん、「私」ではなく「おさんの隣の家の馬鹿息子」としてもいい。)パカポコ、パカポコ。(確か、「ドグラマグラ」では「チャカポコチャカポコ」だったと思う。
 親からもらった四両二分(この「四両二分」という数字の意味は不明。単に「しりょうにぶ」の音数(5音)のためかもしれない。「もらった」の主語は「私」もしくは「おさんの隣家の馬鹿息子」だろう。)、使い過して借りだらけ、隣のおさんが引受けて(借金した馬鹿男の身を借金もろともおさんが引き受けて、ということだろう。)、とうとう十月で(言うまでもなく、「とうとう」と「十月(とつき)」が頭韻を踏んでいる。)産しました。(ここは「産みました」でないと語呂が悪い。)ああ、パカポコ、パカポコ。
 頭の光ははげ光り、ホタルの光は尻けつ光り、親父の光は七光り、かかの光はくそ にもならぬ。(封建時代は家父長制の時代だから、父権が絶大で、「親の七光り」は「父親の七光り」が普通だったから「母親の光は糞にもならぬ」と母親が軽視されているわけだろう。このあたりの思想がフェミニストの私は大嫌いである。それにくらべて「母親はもったいないが騙しよい」という狂句は、「もったいないが」という一語に母親への敬愛が現れていて好きだ。)パカポコ、パカポコ。
 権兵衛が種子まき、烏がほじくる。かならずこれを見習って、人のカサ(言うまでもなく、梅毒による顔の病変。ここでは、「他人の隠したがる欠点」全体を象徴しているのだろう。)なのほじくるな、それさえなければ国家安泰、家内安全。パカポコ、パカポコ。(「見習って」の一語が分かりにくいが、「権兵衛」や「鴉(烏)」を見習うのではなく、「ほじくる行為の迷惑性を知って」の意味だろう。
 会いたい見たい顔みたい、顔見りゃ一度は話してみたい、話すりゃ一度寝てみたい、寝てみりゃ一度はしてみたい。(「寝る」ことと「する」ことはほとんど同義だろうが、わざわざ言葉を変えて繰り返したのは単に音頭の節の長さの都合だろう。)パカポコ、パカポコ。


(以下引用)

【Thoun music】夜の街で演奏するクメールバンドです。モーラムもそうなんだが、こうした語り芸というのは元は宗教的なところから始まっていて、まぁ、日本で言う阿呆陀羅経みたいなもんです。なに?阿呆陀羅経を知らない?オマエそれでも日本人か!

江戸・東京や上方の都市で、願人坊主が門付して歩いた話芸である。世間一般の話題や時事風刺を交えながら俗謡の節にのせて語る。後にヒラキから寄席芸となり、漫才に取り込まれるなどしながら昭和の時代まで主に見られた。また、ちょぼくれ・ちょんがれときわめて近い存在の芸能である[1]。文久年間(1861〜64)、阿呆陀羅経が江戸市中にあらわれたときには、錫杖を捨て、大きな木魚をたたいていたが、のちにはおもに男女二人が連れ立ち、男は手拭をかぶり、豆木魚二個を一組にしたものをたたき、女は三味線で伴奏し街を流した。明治初年、東京では筋違や両国あたりで人気を博した大道芸かっぽれ一座の人気者初丸が、阿呆陀羅経の巧者でもあった。また同じ大道芸仲間の豊年斎梅坊主(1854年 - 1927年)は当初、飴を売りながら演じていたが、1877年(明治10年)ごろには、寄席へ進出して大評判をとった。後に吹き込んだ阿呆陀羅経のレコードに〈虫尽し〉〈無いもの尽し〉〈反物尽し〉など数種がある。「あほだら経」には「ないない尽くし」「諸物価値上がり」など多様な演目のあることが知られるが、江戸末期の当時、相当に強烈な政治批判が含まれるものもある。下記の「無いもの尽くし」を参照のこと。

阿呆陀羅経 出鱈目 - 豊年斎梅坊主連中 実はおいら、日本文学科の卒論がこうした口承文芸の世界で、なんせ口承文芸、文字にされなかった文学なので、参考文献の引用もなしで卒論80枚書いて、担当教員から「出版したらいいのに」と言われた。阿呆陀羅経は生き残らなかった演芸なので、夢野久作の「ドグラマグラ」くらいでしか知らない人が多いだろう。阿呆陀羅経の一例。

 アホダラキョウで申します。
 隣のおさんも年頃で、ビンツケ油をコテシコテシとぬりつけて、お尻けつをなでたりお腹なかをなでたり、パカポコ、パカポコ。
 親からもらった四両二分、使い過して借りだらけ、隣のおさんが引受けて、とうとう十月で産しました。ああ、パカポコ、パカポコ。
 頭の光ははげ光り、ホタルの光は尻けつ光り、親父の光は七光り、かかの光はくそ にもならぬ。パカポコ、パカポコ。
 権兵衛が種子まき、烏がほじくる。かならずこれを見習って、人のカサなのほじくるな、それさえなければ国家安泰、家内安全。パカポコ、パカポコ。
 会いたい見たい顔みたい、顔見りゃ一度は話してみたい、話すりゃ一度寝てみたい、寝てみりゃ一度はしてみたい。パカポコ、パカポコ。

ちゃんちゃん征伐呆痴陀羅経(国会図書館デジタルコレクション)、阿呆陀羅経は今は既に残っていないが、似たような存在が河内音頭です。浪曲というのも、ちょんがれ節という似たようなところから出発して、今の形になったのは明治、大正時代。

こうした存在は、「文学」と呼ぶべきか、「音楽」と呼ぶべきか。文学だとするなら阿呆陀羅経の願人坊主は吟遊詩人だし、音楽だとすればストリートミュージシャンかラッパーかw このカンボジアの街頭音楽も、そんな系列の存在です。

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砂に埋もれる犬



フランシスコ・デ・ゴヤ《砂に埋もれる犬》の詳細画像

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この画像は、フランシスコ・デ・ゴヤによる作品《砂に埋もれる犬》の詳細画像です。本作品の解説を読みたい場合は、上記の作品タイトルから解説ページに移動してください。

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大津市民病院の医師一斉退職事件

まあ、ポスト米英時代氏の言う「医師が戦い始めた」は、何と戦っているのか書いていないが、彼らは単に病院の上の人間のパワハラと戦っただけで、「ワクチン接種業務」や「医師のワクチン接種義務」と戦ったわけではないだろう。それを「トラック野郎たちの戦い」と同一視するのは詭弁的というか、意図的ミスリードの感じがする。その意図や目的が正しくても、「目的は手段を正当化する」(これはカルト的思考の人間の常である)は非常に危険だと思う。
もちろん、私自身がこの医師たちの一斉退職の詳しい事情を知っているわけではないので、上に書いたことは一般論を述べたものだ。私に「ポスト米英時代」氏の文章を読解する能力が無いのだ、という見方もあるだろう。私はいつもは彼の文章をほとんど読まないのだが、この大津事件(というといろいろありそうだがwww)には関心があったので読んでみたのである。
念のために言うが、私は、この一斉退職した医師たちの行動の理由が何であれ、何かの理不尽(何かの理不尽があったのは確実だと私は見ているが)に対してこの勇気ある行動を取ったなら、大いに賞賛する者だ。

(以下「阿修羅」から引用)

京都・大津市民病院、医師相次ぎ退職、強要されたとの証言。トラック野郎に負けずドクター野郎も戦い始めたようである。
http://www.asyura2.com/21/cult35/msg/805.html
投稿者 ポスト米英時代 日時 2022 年 2 月 15 日 10:29:52: /puxjEq49qRk6 g3yDWINnlcSJcI6ekeM
 

白い巨塔キターという感じだが、九割が自分の子供に打たせないという医者業界で、患者には打つという自己矛盾と言うか、ワクで廃人にしながら他の治療をするモチベーションなど維持できるものではなく、看護師も静かに退職が積み上がってきたようだが、バブルの頃のリストラで穴を掘らせて埋めさせるというのがあったが、患者の命を奪うお手伝いなど最初は小銭ウハウハだったろうが、だんだん自分がくそ野郎に思えてきて嫌になって当然で、これからドクター野郎の反乱も始まる筈である。  






コメント

1. 佐助[9103] jbKPlQ 2022年2月15日 12:21:49 : 8vdqVebbs6 R01MRDA3L0dSUHc=[22]  報告
医学界の闇

『白い巨塔』派閥争いや医療ミス訴訟など医学界の闇


「外見は学究的で進歩的に見えながら、その厚い強固な壁の内側は封権的な人間関係と特殊な組織で築かれ、一人が動いても、微動だにしない非情な世界」と表現されている。


現実と理想が乖離といえば,永田町の論理と霞が関の倫理と司法とマスメデイアの国民との遊離には呆れるばかりだが,日本医師会の闇にも呆然とするばかりである。


白い巨塔は実話事件との噂がある。


【大阪大学の医療過誤裁判】 大阪病院は、悪銭リンパ腫の男性70歳に抗がん剤治療を施した。大阪大学病院では肝炎発症の副作用がある抗がん剤を投与,その結果、患者は亡くなり遺族から医療ミスがあったとして起訴,1億3200万円の賠償を求めたが、敗訴となる。実話では無いらしい!


ガン患者を医療ミスにより亡くなってしまった事件が、医療過誤裁判となる事が描かれています。


ワクチンも巨大製薬会社の利権やお金の流れを紐解いていくと、点でしかなかった情報が一つの線につながり、巨大製薬会社が仕掛け、国民を騙し、巨額の利益を得る真実が浮かび上がってくる。


今回のコロナとワクチン騒動は日本政府と、製薬企業がスポンサーとなったメディアによって、仕組まれたプランデミック『パンデミック・ビジネス』が浮かんでくる。山崎さんに申し訳ないが松本清張に是非,この推理をお願いしたいです。


2. 佐助[9104] jbKPlQ 2022年2月15日 12:37:30 : 8vdqVebbs6 R01MRDA3L0dSUHc=[23]  報告
親鸞聖人が説いた
この世の善人と悪人

3. 2022年2月15日 20:24:15 : B3jX6vN1sg ZGhnQkVHQzVxZkk=[52]  報告
西洋医学の背後で 金儲けをしてるのは ずばり 製薬会社 であって、彼らは何があっても一切責任を取らないのだ

ちなみに、ぼろ儲けをしたのは、 株主連中だよ

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キリスト教社会主義

まあ、私はずっと前からイエス・キリストは社会主義者だ、という趣旨のことを言っていたのだが、イエスの言行を見れば、それは明白なのではないか。つまり、真面目なキリスト教徒であれば、自分がカネ儲けをするために、一般大衆を搾取し苦しめることはありえないわけで、有名な政治学者の言う「資本主義はカルヴィニズムの精神から生まれた」というのが真っ赤な嘘でなければ、「カルヴィニズムは実はキリスト教ではない」と言えるだろう。
言うまでもないが、マルキシズムは完全な無神論であって、宗教そのものを否定している。ここでも「共産主義と社会主義はイコールではない」と言えるだろう。
マルキシズムの宣伝文句である「科学的社会主義」という言葉ほど世界を毒した言葉は無い。「絶対性」を自惚れることが害悪をもたらすことは宗教でも科学でも同じことだ。つまり、他者への同情や共感の欠如とそれは近いのである。ある種の宗教や宗派が他の宗教や宗派を悪魔のように憎悪することはよく見られることだ。それを狂信と言う。マルキシズムやその運動者たちにもその狂信性が見られたのは良く知られたところだ。
だが、マルクスの、資本主義がその悪(極端なエゴイズム)のために自壊していくだろう、という予言だけは現実化しつつあるようだ。

(以下引用)

日本大百科全書(ニッポニカ)「キリスト教社会主義」の解説

キリスト教社会主義
きりすときょうしゃかいしゅぎ
Christian Socialism


キリスト教信仰思想のなかに社会主義思想をみいだし、それに基づいて資本主義の抱える社会労働問題の解決を図ろうとする思想と運動の総称。ただし資本主義の矛盾を批判し、教会事業の一環として労働組合や協同組合を設立するなどして社会労働問題の独自の解決を志向しているカトリック教会の活動は広義のキリスト教社会主義の一種とみられないことはないが、キリスト教社会主義とはいわない。したがってキリスト教社会主義は新教の国に限られている。その発端は1840年代の終わりごろイギリスで『キリスト教社会主義者Christian Socialist誌(1849創刊)を中心に、社会主義は本来キリスト教の事業であるとして、労働者の自主的闘争を否定し、労働者の啓蒙(けいもう)活動や協同組合活動を展開したモーリスキングズリー、ルッドローらの活動である。それはまもなく消滅したが、しかしスイス、オランダ、ドイツにも類似した活動が広がっていった。とりわけドイツでは、社会民主党の躍進に対抗して労働者階級への社会主義の影響を阻止するために、シュテッカーを中心とする保守的・国粋的なキリスト教社会主義や、F・ナウマンを中心とする自由主義的な福音(ふくいん)社会主義が19世紀後半に展開された。そして第一次世界大戦後ワイマール・ドイツでは、キリスト教社会主義の一つの注目すべき流れとして宗教的社会主義Religiöser Sozialismusがパウル・ティリヒを中心に主張された。それは、社会主義の宗教的根源を明らかにし、資本主義的な生産と消費の原子化された過程における人間の非人格化と物化の危険を指摘し、それを克服する神学とその実践的提言を行った。さらにそれは、社会主義を倫理課題として規定して社会主義運動への意志の倫理的根拠づけを与えたことで、受動主義に陥っていたドイツ社会民主党の活性化に寄与するところがあった。


 他方、新大陸のアメリカでも、1860年代から1890年代にかけて、プロテスタントの間でキリスト教社会主義が台頭していたが、1890年代にアメリカの神学校に留学中であった村井知至(ともよし)、安部磯雄(いそお)、片山潜(せん)がこれに影響されて帰国後、社会主義思想の研究と普及に努め、日本の創生期社会主義運動に大きな影響を与えた。しかし社会主義運動の成長とともに、キリスト教社会主義と同時に受容された社会改良主義やマルクス主義が運動の支配的潮流になるにつれて、キリスト教社会主義者は脇役(わきやく)に追いやられるか、脱落していった。その代表的な人は、上記の人々のほかに木下尚江(なおえ)、賀川豊彦(とよひこ)などである。


[安 世舟]


『古屋安雄・栗林輝夫訳『ティリッヒ著作集 第1巻 キリスト教と社会主義』(1978・白水社)』



出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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スマホ社会という地獄

「神戸だいすき」記事だが、政治妄想記事やら自慢記事よりこういう日常の不便さや社会の日常的不条理を書いた記事のほうが「お役立ち情報」である。
私もスマホが不調(電話機能が使えないという、何のための携帯「電話」なのかという最悪の不調である。)なので携帯代理店に相談に遠出する必要があり、うんざりしている。「便利さは不便さと紙一重」のようだ。まあ、資本主義社会とは「すべてが企業側のカネ儲け視点で判断され決定される」社会なので、消費者側が勉強し、用心するしかないようだ。しかし、下らないことに無駄な時間を使わされるのは実に不愉快だ。


(以下引用)


たったこれだけのために2時間かかるんだよ。

本当に、いい加減にしてほしい、この手のものを手続きしようと思ったら、だいたい、その日一日かかるとおもわなくっちゃならない。

それも、何一つ、内容は変えないで、前のまんまだと言っているのにね。

そのうえ、新しい携帯の扱い方なんか全然教えない。

こっちにとって必要なことは何にも教えないくせに、向こうが金をとりはぐれないように、他人の個人情報を抜きだせるようにだけ、対応しやがる。

あげくのはて、ガラホの、データ移行は有料です、と、きやがったわ。

しかたがないから、しこしこ手で入力している。

電話帳が増えすぎているから、この際、取捨選択するのはいいことだけどね。

年賀状を省くように、自分の人脈を、カットしていく。

最近、ひんぱんにやり取りする相手はスマホのほうに、ラインで入っている。これがまた、どんどんふえてとんでもないことになってる。

スマホも、ぼろぼろ。
かえなくっちゃならないけど、かえたあと、ラインがどうなるか心配で、なかなか替えられない。

こっちの番号は公開してない。

昔と比べたら、格段と便利になったけど、かつて必要なかった費用が、かかる。
長年、もしかしたら必要かもと思って、持ち続けたポケットwi-fi、ようやく解約した。

見えない支出が、馬鹿にできないわ。

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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