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キリストとサド

石井洋二郎という人の「フランス的思考」の終章を先に読んで、「合理性とは理性を最高の原理とし、それに反するものを否定する思想上の立場」という辞書的定義が書かれているのを見て、「最高の原理とみなすものに反するものを否定する」生き方という点ではキリストとマルキ・ド・サドは双子ではないか、と思ったので、サドについてのウィキペディアの記述を載せておく。
キリストは「神という存在への絶対的帰依」のためにユダヤの民に処刑され、サドは「みずからの欲望を満たすことだけが唯一の『理』であった」と書かれているが、その理に従った一生は刑務所と精神病院が生涯の後半の住居のほとんどである。つまり、どちらも「自分の信条に徹底的に従った」生涯だったのである。言わば、どちらも合理性の極地であったわけだ。言い換えれば、ふたりとも精神世界の英雄だったと言える。(「悪霊」のスタヴローギンにはサドの面影がある。)
なお、論理性で言えば、(神の存在証明は不可能であり、おそらくインチキだから)私はむしろサドに軍配を上げる。だが、キリストにせよサドにせよ徹底した論理は危険なものだ。我々の思考は曖昧さと非論理性に満ちているからこそこの社会で生きていけるわけだ。



(以下引用)


マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。マルキはフランス語侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。


サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄英語版に1年、そしてシャラントン精神病院英語版に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。

生涯

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生い立ちと教育

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父のサド伯爵、1750年ごろ。



母マリー=エレオノール。

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデフランス語版かつてのコンデ公の邸宅、現在のパリ6区コンデ通りフランス語版ヴォージラール通りフランス語版付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフフランス語版と、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会リセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。


1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]


1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

牢獄と病院

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サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。


サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ英語版に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。


獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。


サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

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偏見と狂信の人

「東海アマブログ」の最新記事の末尾で、アマ氏がこの一節を書いた意図がよく分からない。その前の部分はトランプの全否定論調であるから、トランプ批判の意図であるのは確実だろうが、トランプ政治の結果としてここに書かれたことが起きるなら、日本にとって非常に結構なことではないか。米国の操り人形になって中国と戦争をしなくて済み、安保を廃棄して米軍基地が無くなれば、日本が米国に搾取されることも無くなるわけで、まさにすべて万歳ではないか。
日本の政治的奇形の根底が、日本が米国の属国であることだ、というのは今では中学生でも知っていることだろうに、アマ氏はどこまでも日本が米国の属国であることを望んでいるのだろうか。つまり、意味不明の中国憎悪、ロシア憎悪の狂信が氏の全身を黒く染め上げているとしか思えない。
反原発についての氏の不屈の活動や膨大精緻な知識を尊敬しているだけに、残念である。


(以下引用)

 世界はトランプの思い通りには決してならない。
 EUや日本に対する25%関税は、アメリカを世界から孤立させてしまうだろう。
 日本もEUもアメリカとの関係を清算して、今後は、独自のブロック経済圏を成立させるしか生き延びる道がない。
 トランプは、「アメリカンファースト」の真逆の結果をもたらそうとしている。

 日本は、日台比越でブロック経済圏を作り、EUとタッグを組んでEPA・FTA経済圏を成立させ、傲慢なアメリカを排除する結果になるだろう。
 また安保条約やNATOも、トランプがプーチンに連携する姿勢を鮮明に示したことから、アメリカを除外して再編されるしかないだろう。安保はデメリットの方が多いので、廃棄され、米軍基地も返還してもらうしかない。
 今後、アメリカの経済成長は完全に止まってしまう。

 アメリカがトランプを排除して自浄しないかぎり、アメリカは、二流国へと衰退してゆく運命だ。日本は、台湾と中国に対する地政学的理由で、合併するしかなくなるだろう。
 韓国は北朝鮮を併合し、苦難の道を歩むことになる。金一族は、残酷に殺害される。

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疲労と疲労感と「健常」概念

「農業社会の遺制としての家族」「封建社会での労働力としての子供」という問題を考えようかと思うが、それはまた気が向いた時にやる。
ここでは、早朝散歩の時に考えた「疲労と疲労感と『健常』概念」という、何のことやらと思われそうな浮遊思考を少し考察してみる。まあ、「医療・健康」分野の話だ。

最初に言いたいのは「疲労と疲労感の違い」である。これは本質的に違う、というのが先ほど私が考えた浮遊思考である。
「疲労」とは文字通り「労働(運動・体の使用)」による「疲れ」である。
ところが「疲労感」は体を使っていなくても生じるのである。つまり、或る種の体の不全状態、不調に対して日本社会がいい加減につけた名称が「疲労感」なのである。私の推測では、その不調はある種の栄養分の欠乏から来るもので、「運動」によるものではない。まあ、細胞活動も運動だと強弁すれば話は別だ。
たとえば、朝起きた段階から体がぐったりして足が重い、そしてその原因が特に思い当たらない、というなら、それは「運動による疲労」ではないから、それを「疲労感」と名付けること自体が不適切なのである。まあ、強いて名付けるなら「不全感」だろうか。「不調」だと漠然としすぎているようだ。少なくとも「疲労感」ではない。

では「健常者」とは何か。どういう状態を指して「健常」と言うのだろうか。
一般的にはこれは五体満足で病気でない者を指すようだが、慢性的な病気を持っていても、肢体不具者でなければ健常者だとみなすことが多いようだ。精神面は無視するので、残忍非道酷薄そのものの健常者はゴマンといる。
そして、なぜか人というものは、身体的健常者であることをもって、身体部位に欠損を持つ者を「自分より劣った者」と見なす資格があると思っているものだ。同情すら、自分が上位であることを意識する満足感を伴っていることもあるだろう。だから、不幸な人々は同情されることを嫌うのである。まあ、そのあたりは小説や漫画でうんざりするほど描かれたものだ。

で、健常という状態は、私の考えでは「自分が存在し、生きていること自体に幸福感を持っている状態」と定義したい。その前提が「身体的苦痛がない」だが、それ以上に「身体的精神的に健康であることの実感や幸福感があること」でありたい。まあ、老年になればなかなかそうはいかないが、若い時期なら、そよ風が頬を撫でる感覚や、道を歩いて、足が地面から受ける反動自体が、生きている幸福感を呼びさますこともあるのではないか。そういう状態をこそ私は「健常」と呼びたい。そういう意味で自分が健常なら、世界や他者への悪意は生まれようがないはずだ。

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AIの賢さと人間の賢さ

「シャンティ・フーラ」サイトの記事で「ぴょんぴょん」という人の記事らしいが、最後はシャンティ・フーラへのゴマすり発言なので省略した。冒頭部のAIと人間の頭脳の必要コスト(電力)の話と「賢さ」の区別の話が重要だと思う。AI推進がイコール原発推進、かつ人間不要化(人口削減への道)になるわけだ。つまり、AIの有能さは認めるとしてもAI全能思想は悪魔的思想だろう。

(以下「混沌堂主人雑記」から孫引き引用)結局、容量不足なので記事後半は省略する。

AIのある日本の未来について語る3人の識者


寒い寒い、雪も積もるし、道は凍るし。

まったく、「なにが温暖化?」って言いたくなるよね。

暖房費節約のために、日が昇ったらふとんから出る、日が沈んだらふとんに入る。

なんか、昔の人みたい。それじゃ、時間を持て余すでしょ。

いやいや、ふとんの中でラジオを聞いとるのよ。テレビを捨ててからとゆうもの、ラジオの世話になっててな。ちょうど今年は、「ラジオ放送100周年」とかで、特別番組も多いし。中でも、NHKラジオの「放送100年 じっくり語ろう日本の未来」は、発言者の人選が良くて、おもしろかった。
中村桂子(89歳):40憶年にわたる生き物の営みを科学的に読み解く「生命誌」研究家。
磯田道史(54歳):独自の視点で歴史を読み解いた数々の著書がベストセラーになっている歴史学者。
安野貴博(34歳):テクノロジーで社会の仕組みを変えていこうと発信を続けるAIエンジニア、SF作家。去年の都知事選で第5位。
で、何を話したの?

AIのある日本の未来について。AIエンジニアの安野氏は、もちろんAI肯定派。生物史研究の中村氏と歴史家の磯田氏は、AI慎重派だ。

それぞれの世代のAI観を代表しているんだね。

その、年齢ギャップを越えた討論がおもしろいのよ。「人間は生き物で自然の一部、機械じゃない」と主張する中村氏は、安野氏に対して、「AIとエネルギー」問題を提起する。

中村:安野さんに伺いたいのは、これからAIって、エネルギーどうなります? 今、ものすごく使ってるでしょ。
安野:はい、ものすごく使ってます。
中村:ね、それで、人間の脳ってね、20ワットなんですよ。
安野:ものすごい、効率がいいですよね。
中村:AIが今使ってるエネルギーって、すごすぎません? 私、このまま行くんだったら、ここに疑問符をつけたいと思うんです。この先、エネルギーを、AIの世界はどうやって解決していくのかな、と聞きたい。

うわあ! ぼくたちの脳は20ワットで働いてるの? なんて、省エネなんだろう!
これに対する安野氏の回答、「同じ計算をするエネルギーはどんどん下がっているが、より賢くなるには、ものすごいエネルギーを使う。ハードウェアのチップの設計、AIを動かすソフトウェアの進化で、効率はよくなりつつあるが、より賢いAIを作ろうとすると、ものすごい量の半導体と、ものすごい量のエネルギーが必要。この10年、エネルギー量は増え続けると思う。」これに対して中村氏は、

中村:縄文時代の人の脳も20ワット使ってたんですよ。今の私たちも20ワットなの。そういうシステムになりませんか? (後略)
安野:(前略)その差も早晩、変わって行くと思いますね。同じ賢さを達成するのに必要なエネルギー量は下がり続けているので。人間の脳より効率的に動くことは十分にありえると思います。
中村:そうですか? 20ワット以下になりますかね?

ここで、一同爆笑。で、場がなごんだ後に、安野氏は言う。

安野:なるんじゃないですかねえ。そこに限界があるとは思わないです。そのときには人間の脳よりも、すごく「賢い」計算をしたがってるはずなので、(後略)
中村:(前略)やっぱり私は、その「賢さ」って何ですか?って問いたいですね。それがほんとの「賢さ」でしょうか?って問いは、やっぱり出てきてしまいますね。

「賢さ」?

安野氏は、計算能力や論理的な正解が出せることを「賢さ」と言っているようだ。一方、中村氏の言う「賢さ」は「知恵」のようなものだろう。違う定義で議論する二人の間に、歴史家の磯田氏が入ってくる。

磯田:大事な論点だなあ。たとえば、量子のレベルのコンピューターにして、エネルギー消費量を落としたとしても、「いっぱい問いたい、使いたい」が増えるから、けっこうエネルギー使うと思うんですよね。そうすると、バンバン原発を作ってね、そこのエネルギーでAIを動かしてみようって作ったけど、AIでもなかなか難しいような廃棄物の山が残るとかね。

なるほど、それはありえるね。原発で悠々とAI動かせても、廃棄物問題がどうなるかが未知数だ。

すると安野氏が、AIは目下、核融合エネルギーの開発に関っており、これが完成すれば、エネルギー問題も解決して、人類にとってプラスになると言う。

核融合発電って、施設も巨大だし、コストもかかるし、放射性物質も出るし、なかなかやっかいだよね。それよりも、植物も鉱物も動物もみんなやってる、常温核融合なら安上がりだし、安全だよ。AIの助けを借りれば、あっという間に実現できるんじゃない?
できたとしても、既得権益からブレーキがかかるだろう。

そういう人たちがいなくならない限り、AIを人類のために使うのは難しそうだね。


AI時代の課題とは


さてお次は、歴史家の磯田氏がAI時代の課題について述べる。約200年前に動燃機関が現れて、蒸気機関から原発にまで発展した。そして今、生成系AIが出てきたことで、「200年ぶりの大変化」が起きている。自分は「200年ぶりの大変化」より前に死んで、見ることはないと思っていたのが、「一番スゲえヤツを見ることになったので、うれしいような悲しいような」と話す。そんな磯田氏は、AI時代の課題を「子どもの教育」だと言う。

磯田:困ったのは、前回200年前は、西洋に、どうやったらいいかの教育モデルもあって、「読み書きそろばん」を高めて、よく勝ち抜いたヤツを帝国大学とかいい学校に入れて、物を生産すればいいんだ、で、話がすんでたんですよ。ところがこれから、どうやって子どもに生きる力をつければいいのか?「脳補助器」「脳もどき器」が現れるときに、それを基底にした社会が現れるときに、子どもをどう教育すればいいのか、っていう課題が、ぼくらに課されている。

AIは「脳補助器」「脳もどき器」?

磯田:(前略)最重要なキーワード、裏テーマは教育なんですよ。そいでねえ、これが困ったことにですねえ、AIが得意なことっていうのは、ことごとく、これまでぼくたちが塾に行って、試験を突破させるようなことなんですよ。つまり、人間をAIに近づけるのが学校であり、入試なんですよ。「人間AI化過程」と言っていいんですよ。そりゃそうですよ。記憶をしてくれと、そいで、記憶したら、定義とか、そういうのを適応してくださいと。それで結果を出す。で、目的が決まっている。

まさに、おっしゃる通り! 学校や塾は「人間AI化過程」だ。

磯田:工業化の段階の、工場で経済を高めてた頃には、効率いいですよ。軍隊作るとか、人間の道具化ですから、きわめて効率よく、それでG7の一角にポンと入ったわけですよ、アジアの国から、ぼくらの国はねえ。だけどですよ、AIがあるのに、AIのまねをしてあれすると、なんか長篠の合戦で、馬防柵のものに、馬で突撃する武田軍みたいなことに、子どもはなりつつあるわけですよ。
 
アッハハハ! 子どもは、鉄砲隊に向かって馬で突撃する武田軍か? つまり、無謀ってことだね。さすが、歴史の先生。

磯田:笑ってる場合じゃ・・もう、自分では笑わないと話せないコワい話なんですよ、私も。で、どうするか? (中略)...どうしたらいいかわかんないから、おそらく早いとこ、子ども、塾入れて、試験突破できるようにして、払いのいい会社の所属にしていくように、いわゆる偏差値の高い大学に入れば、「一流企業」と言われたところの抽選券がもらえるワケですよ。(中略)...それを知っている親は、試験に出る、金太郎飴のような知識を子どもに授ける塾に、お金を、だんだん減ってくる収入の中で払い続けている、という状態なんですよ。恐ろしいですね。(中略)...みんなで金太郎飴にして、同じ知識を持ってると、あっという間にやられるのね。ぼくはマニアックの勧めを思ってるんですよ。
これは鋭い指摘だね。AIとの競争に敗れるとわかっているのに、今まで通りに、子どもに金太郎飴の教育をするために、なけなしのお金を払う。でも、そんなことしてたら、いずれ子どもは、AIに仕事を奪われて、路頭に迷うことになる。

磯田氏は、江戸時代は違ったと言う。あの時代が西洋に追いつけたのは、多様性の社会だったからで、司馬遼太郎も「江戸時代はバラエティに富んだ社会だった」と言った。だから、今までどおりに、金太郎飴のような人材育成をしていたら、半世紀、取り返しのつかないことになると言う。

じゃあ、どういう教育をしたらいいの?

磯田氏も、確たる答えはないと言いながらも、こう言っている。

(以下、内容が薄いので省略)

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16歳の売春婦

1日10人前後を相手にするとは、従軍慰安婦並(それよりは少ないか?)である。それが「自分の意志」での売春なのだから、女衒たちだけを逮捕し処罰して済む話だろうか。
家出をした時点で、こうなることは明白な話だったのではないか。
まあ、当人が馬鹿だと言えばそれまでだが、嫌な世相である。

家庭教育にも学校教育にも根本的なモラルや生きる上での判断力の涵養という面があまりになおざりにされていないか。マスコミやネットに問題はないか。スマホに問題(犯罪利用の利便性)はないか。
不登校児の激増を座視している社会全体も問題である。何度も言うが、ただ大学進学のための高校教育、高校進学のための中学教育というピラミッド構造が、ある意味、最大の社会問題なのかもしれない。

(以下引用)


1日1食の生活で100人以上と性行為...”グリ下キッズ”が陥った「地獄の売春ツアー」の中身


配信

FRIDAY

まともに食事も与えられず……

居場所を失った“グリ下キッズ”は社会問題化している(画像はイメージです)



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「逆アントワネット生活」の勧め

「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」というマリー・アントワネットの言葉は捏造らしいが、ほぼ永遠に残る名言だろう。つまり、上級国民の下級国民生活への無知と同情心欠如、愚昧さの象徴だが、これを逆転させれば、下級国民の生活の知恵になる。
つまり、我々の生活は自分でも意識しない「実は代替可能な」贅沢品が周囲にあるのではないか、ということだ。
私など、最近のコーヒーの不味さに辟易して、いっそコーヒー中毒をやめようかと思っているが、これは麻薬をやめるより難しい。何であれ常習性のあるものは麻薬的なのである。
しかし、「逆アントワネット」哲学で、「コーヒーが無ければお茶を飲めばいいじゃない」と考えれば、「哲学的に」あきらめることができそうな気もする。さらに、お茶の葉も案外高いので「お茶が無ければ水を飲めばいいじゃない」とも言えるし、水道料金が高いとか薬品などの混入物が不安なら「水道水がダメなら雨水を飲めばいいじゃない」となり、資本主義社会は崩壊するwww
まあ、最後のあたりはもちろん冗談だが、「お米が無ければパスタにすればいいじゃない」は既に多くの家庭でやっているだろう。つまり、米作産業自体が崩壊する危険は目前なのである。
これが「物価高騰を放置する」ことの結果である。
ちなみに、電力料金高騰で多くの家庭が電気代節約をやっていることが、私の早朝散歩の時、常夜灯をつけている家が半減、いや、それ以下になっていることで分かる。

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体の関節や筋肉の廃用性劣化(関節運動の勧め)

記事の大半は私が経験していないことなので、紹介しても良さそうな部分だけ引用する。
まあ、日常的な作業の中で関節をほぐす動作をして体の可動域を広げればいいという、単純な話だ。
とにかく、体は使用しないと退化するという、中学校の保健体育で習う「廃用性萎縮」は身体作業と無縁の現代人の宿痾であり、その影響は中年以降に出てきて、老年期にはかなり進行しているわけである。(「萎縮」は筋肉についての言葉なので、関節などを含めるなら「廃用性劣化」「廃用性退化」とするべきだろう。)
机に向かっている時でも、時々肩をすくめる動作をするだけで肩関節の運動になる。台所仕事をしている時、時々つま先立ちしたり、両手の開閉をするだけでも足関節や手指の運動になる。
スクワットができない(関節故障で困難な)人も、体重負荷をかけないで膝関節や股関節の可動域を広げる動作をすればいい。とにかく、「廃用性萎縮(劣化)」にご注意。(体重をかけない運動には、椅子の背もたれを利用して体重を預けて運動するなどの方法がある。壁や階段なども利用できるだろう。腕立て伏せはできない人も、「壁を押す」「机を上から押さえる」ことはできる。椅子に座ったままできる運動もほとんど無限にあるのではないか。極端に言えば、パソコンから目を離し、窓の外を見るだけでも目の運動だ。立って伸びをするだけでも立派な運動である。)
なお、無理に力をこめる必要はない。軽い動作だからこそ継続でき、体の関節機能が保持できるのである。「運動=筋肉運動」という固定観念は害悪だろう。もちろん、筋肉運動には別のメリットはあるが年齢との関係がある。若いころに「体を作る」のには筋肉運動は必須だが、老年は「体の維持」が基本だ。

(以下引用)

しゃがむトイレは、股関節に効果大

2002 年に発表された中国と米国の大学による共同研究に、中国に住む高齢者と米国に住む高齢者の股関節炎の有病率を比較したものがある。それによれば、関節炎による股関節痛の発生率が、アメリカ人の男女と比べて、中国人の男女は 80 ~ 90 パーセントも低かった。この違いを生む原因の一部が遺伝にある可能性を指摘しつつも、中国人の日常的な体の使い方に起因していると研究者らは結論付けていた。


そして、「深くしゃがむと股関節がエンドレンジまで達し、直立姿勢では負荷がかからない股関節軟骨に負荷がかかる。使われない股関節軟骨は脆くなりやすいし、ストレスに弱い。しゃがむことが、軟骨のターンオーバーと再生を刺激している可能性がある」と報告している。


しゃがむときは、股関節のほかに、足首と膝の 2 つの関節もかかわってくる。足首は過小評価されがちな部位だが、実は進化の賜物であり、体全体のバランスを維持するうえでとても重要なものだ。


もう1つ大きくかかわってくるのが膝関節だ。膝を 90 度以下の角度に曲げるしゃがみ方は、その膝を悪くすると言う人がいる。しかし、躊躇する必要はない。関節は深く曲がるように設計されており、膝関節も同じだ。スクワットは膝を傷めるどころか、膝を支える筋肉を鍛え、膝を保護するのに役立つ。


実際、最も人間的な行為の 1 つ――うんち――は、膝を深く曲げてしゃがむ能力に依存している。ちょっと前までは、世界のどこにおいてもそのスタイルで排泄を行っていた。ある歴然とした事実がある。しゃがんでトイレする文化圏では、過敏性腸症候群や炎症性腸疾患などの消化器疾患の発生率が明らかに低いことだ。


都会に住む私たちが使っているトイレは、椅子、コピュータ、クルマを使うときと同様、体のデザインと一致しない不自然な姿勢を強いるものになっている。もちろん、それを放棄するよう求めているのではない。しかし、排泄時の姿勢について考えると、しゃがむのが自然であり、その一点を取ってもしゃがみ込むことが定期的にとるべき姿勢であることがわかる。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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