忍者ブログ

月と自動車

庶民の貧困化を歌う

   
  毎朝の散歩の道に見し家の
      車がひとつ消えし寂しさ





注釈すれば、この家は、おそらく親しい友人ふたりで経営していた小さな店舗兼住宅で、以前は必ず自動車が2台止まっていたのである。だいぶ前からその一台が見えなくなったということは、経営不振からひとりが辞めた、あるいは首になったのだろう、ということを詠んだ歌である。まあ、喧嘩別れという可能性も無いではないだろうが、長年一緒にやってきた仲間が今更喧嘩別れはしないと思う。今の経済情勢では経営不振の可能性が高い。

これも注釈すれば、私の散歩は夜明け前にやることが多いので周りが真っ暗なため、ここでの「寂しさ」はその背景がある。
ついでに言えば、短歌や俳句は曲りなりにでも古語を使い、初歩的な古文文法に従うほうがいい、と私は思っているので、現代短歌や現代俳句はほとんど鑑賞しない。ひところ、俵万智の短歌がブームになったが、一過性のブームで終わったのは、そこに理由があるかと思う。つまり、現代語を使うなら、特に和歌や俳句を詠む意味はないわけだ。もちろん、現代短歌や現代俳句にも名歌名句はたくさんあるが、それは非常な才能の結果だろう。

なぜ突然短歌などを詠んだのかと言うと、その前に、歩きながら、頭の上の雲間の月(旧暦18日くらいの月か)を考え、「雲隠れにし夜半の月かな」という、和歌の後半を思い出し、その前半が何だったか頭をひねって考えたことが、呼び水になっている。
で、何とかそれらしいのを思い出したのだが、それは

逢ひて見しやそれとも分かぬ間に

だったかと思う。つまり、全体は

   逢ひて見しやそれとも分かぬ間に
         雲隠れにし夜半の月かな

だろうか。そして、これは紫式部の歌だったと記憶するが、あの気難しそうな紫式部にそんな色事があったのかどうか。歌会か何かで出した、フィクションの歌ではないかという気がする。
言うまでもないが、雲隠れした月は、男、恋人の比喩である。

念のために言えば、和歌のほとんどは宮廷人が娯楽として作ったもので、内容は「フィクション」がほとんどだ。

拍手

PR

「善」と「悪」についての基本的真理

「大摩邇」所載の「in deep」記事所載のトッド・ヘイレンというユング派心理学者(心理療法士)の記事を転載する。
私の大嫌いなスピリチュアル的記述(おそらく、或る種のユダヤキリスト教的な「神が作ったこの世界はすべて正しい」という思想だろう。つまり、神が世界を創造したなら、なぜ世界には悪があるのか、という根源的疑問への詭弁的回答、無理やり回答である。)もあり、記事内には私としては賛成できない、あるいは理解できない部分も多々あるが、言っていることの一部を私なりに簡潔に言えば、私が常々言っている「脳内人生こそが人間の本当の人生だ」ということだろうと私は理解したので転載する。

善と悪に関しては、先にその中心核を赤字太字にして載せておく。もとの文の文脈が少しおかしいので、文中の読点を句点に変えた。「人間がそこに置かないかぎり」は前の文の補足であり、意味上は後の文とは直接の連続性はない。つまり読点ではなく、句点で切るべきだろう。(元の文は
悪は自然には存在しない。人間がそこに置かない限り、悪は人間の構築物だ。」

悪は自然には存在しない。人間がそこに置かない限り。悪は人間の構築物だ

ただし、私がこれに補足すれば、「善」や「悪」という言葉や認識が無意味だということではない。要は、誰がなぜそれらを「善」や「悪」だとレッテル貼りをして社会を思い通りに動かしているかを正しく知ることだ。マスコミ記事やネット記事の背後には常に「はい、これは善ですよ、これは悪ですよ」という「決めつけ」があるのである。特に政治記事は、最初から「敵陣営=悪」として書かれている。言うまでもなく、「敵陣営」から見たらこちらが悪なのである。つまり、これが「(見えない)レッテル貼り」だ。それによって世界はそれこそ悪の支配が続き、世界は混迷化する。我々は「自然状態」の存在ではなく、文明化され、思考が文明の鋳型に入っている存在なのだ。

(以下引用)

なぜ「ネガティブ」が今最も重要なのか

Why the Negative is Now Most Important
Todd Hayen, PhD, RP 2024/12/16




私たちは、すべてがうまくいっていると信じる洗脳を受けている。


権力者が私たちに考えさせようとしているいくつかのこと以外は、すべてがうまくいっていないのだが、私たちは多種多様な希望によってそれらから守られる。


これらの認可された「悪いもの」には、トランプ、プーチン、コロナやさまざまな病原体、人種差別主義者、女性蔑視主義者、LGTBQ++ 嫌悪者…その他数え切れ​​ないほど多くの小さなものが含まれる。


これらのそれぞれの「悪いもの」はインターネット検索によって決定され、気まぐれに現れたり消えたりし、随時、彼らの好みに合うものに置き換えられるだけだ。


常識から、そして少しの経験から、実際には、この世には私たちが恐れるべき他の恐ろしいものが潜んでいると考えるようになる人たちもいるだろう。


たとえば、米国/NATO が引き起こすかもしれない核戦争、大量虐殺、飢餓、効果がなく危険なワクチンやその他の処方薬、医療の腐敗、食糧生産の腐敗、ケムトレイルなどなど。


しかし、実際には、このようなことについて心配する必要はないのだ。これらは無意味であり、見るべきものは何もない。それよりも先に進んでほしい。何を心配すべきかを私が皆さんに伝えたいと思う。


常識で心配だとわかることは、アジェンダによって心配することが認められているわけではない。それらは単に気を散らすものであり、私たちの注意を払うに値しない。


私たちの周りの誰もが、それらは陰謀であり、科学を否定し、変人や国家の敵によって世界に仕掛けられたものだと言っている。それらについて考えたり、他の人に指摘したりすると、暗闇を探し、他の人の楽​​しみを台無しにしていることになる。


そして、この馬鹿げた数々の話のすべてに加えて、私たちは一般的に、ニューエイジ的な、暗い面を無視して光だけを見る傾向がある。


彼らはこれを「ポジティブ思考」と言う。


そして、もしあなたが、神のご加護を願って、そのような人(例としては私のような)1人である場合、「常にくだらないことを探している」のであれば、あなたとあなたの周りのすべての人は、それに溺れる運命にある。


実際、それはあなたの人生を満たすだけでなく、あなたは他のすべての人のために世界を台無しにする責任も負うことになる。それが形而上学の仕組みともいえる。私たちは自分の現実を創造するが、私たちの中の一部の、私たちの中の暗い人たちは、他の人の現実も創造する。それは良いこととはいえない。


信じがたいかもしれないが、私は実際にこの「自分の現実を創り出す」という考えを信じている。もっとも、私が信じていることは、他の人たち全員が信じていることよりも少し複雑ではある。


奇妙に聞こえるかもしれないが、私は、私たち全員が自分自身の現実、つまり自分自身の宇宙を持っていると考えている(実際に私が考えていることは、これよりもさらに奇妙な概念だが、あまりにも変人と思われるのもいやなので、それにはふれない)。


そして、私たちの個々の宇宙に闇と悪があるなら、その闇と悪を私たちは経験することになる


私が伝えようとしなかった奇妙なこととしては、実はこの説明も正しくないということだ。なぜなら、個々の経験はなく、すべては 1つだが、その「1つ」には無限の数の可能性と顕現があるからだ。


しかし、申し訳ないことだが、私はこのことをを説明するのが苦手で、もっと簡潔にいえば、私たちは、自分が経験していることを正確に経験することになっていると言えば十分だろう。


私たちは闇を探して、それを探しているから闇を作り出すのではない。


私たちはそれを経験しており、もしそれが現れたら、どんな理由であれ、私たちがそれを作り出したかどうかに関係なく、私たちはそれに注意を払う必要がある。


そうしなければ、私たちは恐怖に反応していることになる。そして、恐怖に反応しても決してうまくいかない。


私たちには皆、道があり、源との完全な一体化と源の認識に向けて努力するよう駆り立てられ、強いられ、動かされている。そして、人生で源の認識に近づくために行うことが、私たちの運命になる。


別の視点からこれを見てみると、私たちは、かなりバランスが崩れているように見える物質世界に住んでいる。


私は、善と悪、そしてそれが世界にどのように現れたかを分析して、この判断を下す。


そう、確かに、何が私たちの源の認識から遠く、何が源の認識に近いかに関して、私の側には判断の判断がある。「認識」と言うのは、私たちは常に源とつながっているからであり、しばしばそれに気づいていないだけだ。


愛、思いやり、共感、美しさなどは、ほとんどが調和に近いと判断される。一方、憎しみ、無益で無意味な破壊、故意に与えられた痛みや苦しみは、この認識と調和から遠いものだ。


何が「より近い」または「より遠い」認識を構成するかについて議論の余地があることは確かだが、おわかりだと思う。


調和していないものはすべて常に人為的であり、自然はすべてすでに源と調和していることに留意することが重要だ。悪は自然には存在しない。人間がそこに置かない限り、悪は人間の構築物だ


人生における使命の 1つは、神や愛にそぐわないものを指摘すること、そして、いったん特定したら、恐れや憎しみを捨てて、理解と思いやりを通じて、それらを再調整する努力をすることだと私は確信している。


別の使命は、単に心の中に平穏を保つこと、あるいは人生において解決策や新しい生き方、子育て、そして人間社会の創造を模索する努力をすることかもしれない。


私の使命は、まさに私がしていることをすることだ。私は「解決策」を作る人ではない。壊れたものすべてを「直す」ための計画もプロセスも理解していない。私はただ物事を指摘し、欺瞞と混乱を掘り起こし、本当に何が起こっているのかについて洞察を提供するためにここにいる。


私が分析するように与えられた私自身の世界では、源と調和していない人が多いと言える。しかし、私は彼らを裁くのではなく、彼らの視点、洞察力、そして周囲の世界が示しているものについての彼ら自身の信念を評価する。


中には、非常に傷つき、怒っているために、これ(洞察を求めること)は非常に難しいと思う人もいるかもしれないが、いつか彼らを許せるようになると期待している。


エリートはどうだろう? 権力者たちはどうだろう? これらの人々に表れている悪はどうだろう?


彼らは人間ではないかもしれないということ以外、これについて言うことはあまりない


しかし、それは安易な逃げ道であり、憎むべき、破壊しようとする究極の「他者」を作り出すことになる。それは真実かもしれないが、注意が必要だ。


明白な悪と、単に邪悪なエネルギーにとりつかれた人間との間には違いがある。憎しみが答えではないことはわかっている。私たちが悪だと信じるものに対してもだ。


憎しみは恐怖の産物であり、明白な物質世界にあるものに対する恐怖は完全な幻想だ。


現実には、「ネガティブ」なものも「ダークサイド」も、醜いものも存在しない。これらもすべて幻想であり、実際すべては幻想なのだ


しかし、私たちは、暗い現実がもたらす恐れを抱かずに、物理的にすべてが現実であるかのように行動しなければならない。そして、闇の配列を変えて、すべてが真実と一致するようにするために、できることは何でもしなければならない。ただし、すべては神の領域内にあるため、すでに一致している。


人生は、あなたの意識の進化に最も役立つあらゆる経験をあなたに与える。それがあなたにとって必要な経験であるとどうやってわかるのだろうか? それは、それがあなたが今経験している経験だからだ。


~エックハルト・トール




 

拍手

つま先立ちと足底前部立ち

私の別ブログ(娯楽記事中心のアホブログ)に載せた「バレリーナのつま先立ち」についての記事の一部と、その中に出てくる「インナーマッスル」についてのグーグル検索記事を載せておく。

言うまでもなく、素人にはつま先立ち(足の親指、人差し指?中指の三本を完全に立てて、その上に全体重を乗せて立つこと)、は絶対に不可能だが、それに近い「足底前部立ち」(あるいは「足底前部歩き」)は容易であり、それでもインナーマッスルはかなり鍛えられるというのが私の仮説だ。踵に体重をほとんど載せずに30分~45分の散歩をしても疲労はほとんど無い。

(以下引用)ちなみに、バレリーナでもトゥシューズ(一種のギプス)の補助無しではつま先立ちはほとんど無理だと思う。



つま先立ちの効果とは?
痛そうに見えるつま先立ちですが、実はバレリーナの体型と関係があります。つま先立ちには、インナーマッスルを鍛える効果があるといわれています。



つまり、身体を支える体幹が鍛えられるので、片足でつま先立ちを行ってもバランスを維持できるくらいの強さがあります。



日常的につま先立ちをしない人が、いきなりつま先立ちをするとふらつくと思います。ある程度、体幹が鍛えられるようなスポーツをやっている人であれば、安定はすると思いますが、ほとんどの人はバランスが崩れます。



インナーマッスルが鍛えられると、脂肪燃焼にも繋がるため、いつまで経っても体型がキープできるのもバレリーナならではのことです。





インナーマッスルはどこの筋肉ですか?
インナーマッスルは体の深層部にある筋肉で、動作を起こす際に直接働く筋肉というよりも、姿勢を維持したり関節の動きをサポートしたりする役割を担う筋肉です。 一方、アウターマッスルは体の表層部にある筋肉。2022/07/15










拍手

「部活動」は運動部だけなのか?

記事内ではまったく触れられていないことから分かるが、「文化部」はどうする、という問題は些末事というのがマスコミや文化人、教育者の合意事項のようである。

つまり、野球やサッカーで名前を売れば学校の経営に役立つが、文化部にはそういうメリットは無い、という、まさに「資本主義思考」なのだろう。かえって、「新聞部」などに学校経営の内幕や教師の淫行などをスクープされたら困るしwww 
ライトノベルでは文化部が話の中心になったりするが、文化部の人間のスクールカーストが低いのは子供でも知っている。「合唱部? お前はオカマか」くらいのものだろう。ちなみに私が中学生のころ「可愛い女の子が多い(らしい)」という情報で合唱部に入っていたことは誰にも言わない一生の秘密であるwww その前はバスケットボール部に入っていたが、最初の練習で周囲とのあまりの差に、あきらめて即座に退部した。だから「スラムダンク」という漫画もアニメも嫌いであるww あんなのは巨人症のためのスポーツだ。(ちなみに、ボールをリングに入れるには、リングの少し上を狙うという物理的常識さえなかったのであるwww)

(以下引用)

神戸市内の公立中「部活動」終了へ 地域のスポーツ団体等のクラブ活動に移行 全面移行は政令市で全国初


配信



関西テレビ


29: それでも動く名無し 2024/12/17(火) 00:35:07.48 ID:/EQtIv6X0
冷静に考えて7時から朝練見て日中は授業して夕方は18時まで部活見てって時点でおかしいよな
39: それでも動く名無し 2024/12/17(火) 00:36:44.30 ID:ILdA7lrV0
>>29
その挙句ちょっと怪我でもさせようもんならモンペが怒鳴り込んでくるからな

拍手

セルフレジの致命的欠点

私の地元では、地元企業のスーパーと全国規模のスーパーが張り合っているが、その地元企業が最近セルフレジを採用している。客としては最初は機械の操作にとまどったが、慣れるとさほど問題ではない。
しかし、この記事にもあるように、「その気になれば万引きし放題」というのが最大の問題だろう。最初はレジ操作指導役で店員が側についているが、いずれそれもクビにされたら、監視の目もなくなり、特に中学生高校生は万引きしないほうが稀になると思う。生活困窮者も同じだろう。

おそらく、セルフレジの会社に言いくるめられて、最初のマシン購入費はカネがかかるが、その分人件費が減らせ、結果的にはセルフレジがお得である、と思わされるのだろう。
まあ、馬鹿なやり方である。商品の利益など、万引きひとつで吹っ飛ぶものだ。
私は地元企業を応援していたが、この判断は大間違いだったと思う。目先の利益に釣られて、「人件費=悪」というキチガイ思想を導入したのである。地元の人間が働ける場であることが、地元企業の存在価値だったのに。

ついでに言えば、大手百円ショップでもセルフレジ導入店を増やしている。これも企業の命取りになると思う。


12: 稼げる名無しさん :2024/12/16(月) 12:22:13.05 0.net
セルフレジって海外でもあるんだ
あんな万引きし放題の仕組み日本じゃないと成立しないと思ってたわ


(以下引用)


セルフレジは社会的に失敗だった? 有人レジに戻す動きも


  • 1,221,627

  • author Thomas Germain - Gizmodo US
  • [原文]
  • ( そうこ )
  • X
セルフレジは社会的に失敗だった? 有人レジに戻す動きも
Image: Shutterstock

2024年1月21日の記事を編集して再掲載しています。


コロナ期を経て、ますます導入が進んだセルフレジ。お店の人を介さず、自分で商品をピっとスキャンしてお会計する仕組みです。好き嫌いはあると思いますが、社会的試みとして失敗なのではという声が聞こえてきました。


セルフレジ(ロボットレジ)失敗説が膨らんでいる欧米。BBCの報道によれば、従来のレジに戻した店舗も増えており、消費者にとっても店舗にとってもセルフレジはカオスであるという認識がアナリストや業界関係者の間で主流になりつつあるといいます。


もちろん、今すぐセルフレジがなくなるわけではないでしょうが、セルフレジのみ・セルフレジが主な店舗は今後少なくなると見られています。

セルフレジにブレーキをかける欧米

2023年、アメリカで広い層に人気の小売店ターゲットは、セルフレジの利用に、購入アイテムが10点以下の場合という制限を設けました。ウォルマートは、一部店舗でセルフレジを廃止。イギリスのスーパーBoothsは、セルフレジを完全廃止しました。

アメリカ版100円ショップDollar Generalは、2022年セルフレジプロジェクトに大きな期待をかけたものの、最近になってプロジェクトは失敗だったと発表。CEOのTodd Vasos氏は、昨年12月の決算報告にて、店舗のスタッフ数、特にレジ担当を増やし、レジ業務を以前のスタイルに戻すと語りました。


セルフレジをあてにしてきましたが、今年(2023年)はそれに頼りすぎていると感じています。セルフレジはあくまでサブであり、主要レジであるべきではないのです。


セルフレジ最大の問題点

セルフレジの最大の問題点は、万引きです。人がいないレジでモノを盗むのはとても簡単。悪意ある人なら、盗まない方が難しいほど。有人レジよりも無人レジの方が21倍も品物を盗む傾向にあるのだとか。さらに、意図しない万引きが発生してしまうのも問題です。


意図しない万引きとは、つまり盗むつもりがなかったのに、結果的にお金を払っていない商品がまぎれ混んでしまったパターン。セルフレジのシステムが複雑で、うっかり未払いアイテムが発生しているのです。ある調査では、消費者の5人に1人が、この意図しないうっかり万引きを経験しているといいます。ちなみに、同調査でセルフレジにて意図した悪意ある万引きをしたことがあるのは7人に1人となっています。


セルフレジによって万引き率があがるうえ、人件費もあがっているという報告も。レジの仕事がなくなり別の作業を担当しているスタッフが、作業の手をとめセルフレジのトラブル対応をしなくてはいけないからです。で、このトラブル対応がけっこう複雑で時間をとられちゃうのだとか。

結果、全体的な人件費がアップ。セルフレジという高額システムを導入して人件費削減するつもりが、人件費まであがって涙目。

消費者はどっちのレジが好き?

2021年の調査では、消費者の60%はセルフレジの方を好むという結果に。また、67%の人がセルフレジの利用経験あり。しかし、昨今は、万引き疑いやシステムエラーで返って時間をとられトラブルになると、セルフレジを敬遠する消費者も増えているようです。


一方で、米Gizmodoの記事には300を超えるコメントがついており、「セルフレジさいこー!」という人も少なくありません。スピーディで簡単で不要な会話しなくてすむのに、最近減ってきて困っているという声も。セルフレジそのものではなく、レジエリアに人を十分に配置していない店舗側のスタッフ配置システムこそ問題だと指摘する人もいます。








拍手

善と悪、暴力と平和(「チェラブ」のこと)

市民図書館から借りた「チェラブ」という変な題名のジュブナイルは、子ども向けの小説としては大きな問題がある内容だが、人間の本源的な悪を描いている点では「文学」ではある。
問題は「普通の子供(時には天使的な子供)」が、置かれた状況によって悪魔にもなる、ということだ。
世界中の悲惨さ、特に犯罪事件や戦争における悪の暴発は、そうした「社会的に教育された悪」によるものではないか。

この「チェラブ」という小説は、私立探偵をやっていた作者(ロバート・マカモア)が読書嫌いの甥のために書いたものがイギリスでベストセラーになったものだというが、内容は、「不良少年少女や孤児の中で、スパイになれる素質を持つ可能性のある者をスパイ訓練学校に入れて鍛え上げ、子どもスパイにする」という荒唐無稽なものであるが、第一巻「スカウト」の前半に書かれた内容のリアリティは、さすがに私立探偵経験から来ると思われる「徹底的な悪の描写(ただし、主に暴力描写であり、性描写は避けている)」が見事で、いわば「時計仕掛けのオレンジ」はまさしく今のイギリスの姿を予見していた、と思えるものだ。
そして問題は、そうした子供による悪や暴力は、彼らが社会から学んだものだ、ということだ。つまり、法はドジな奴しか罰せないし、法を免れることが簡単なら、悪事を犯さないほうが馬鹿だ、と彼らは「社会から学んでいる」のである。

ついでに言うと、チェラブという子供スパイ養成組織は「子供を完全な悪魔にする」組織と言ってもいい。その冷酷無比な訓練によって訓練生は超人的な戦闘能力を身につけるが、同時に温和な人間性(道徳性)を失い、悪魔化するのである。はたして、悪魔は「上司の命令にだけは無条件で従う」のかどうか疑問だが、そうするのも訓練次第だろう。善良な人間がいかに容易に非人間的になるかは、軍隊という存在(埴谷雄高の言葉を便宜的に借りれば「あいつは敵だ。敵は殺せ」という簡単な教育で兵士・殺人者を大量に作る組織)を見れば明白だし、有名な科学的実験もある。

ちなみに、チェラブのマークは「軍帽(ヘルメット)をかぶり、腰に弾帯を巻き、弓矢を今まさに射ようとしている『天使』の姿」である。まさしく、善がそのまま悪に変わるということだろうか。それとも「暴力こそ平和を作る」という偽善だろうか。おそらく後者だろう。


*追記すれば、「あいつは敵だ」とは、兵士本人が判断するのではなく、上司や上官、政府がそう決めるのである。つまり、兵士はこの場合、ただの機械、ロボットでしかない。戦場では、相手が「敵の軍服を着ているから敵だ」と判断するしかないので、相手が私服なら「こいつは便衣兵(私服の偽装兵)の可能性があるから、とりあえず殺せ」となる。(埴谷雄高のこの言葉は戦争ではなく「政治」について言われたものだが、戦争はまさにその尖端的状況である。)
*私は「チェラブ」第一巻の前半しか読んでいないし、読んで「楽しい」内容でもないので、残りを読むかどうかは未定である。しかし、「問題作」であるし、考察すべき大きな問題を含んでいるので、ここで宣伝する次第だ。まあ、第一巻前半だけ読むのも有益だと思う。


拍手

「嘘」の哲学的考察

さっき、「ハンター×ハンター」を見ていて、主人公のゴンが敵の言うことをあっさり信じて逆に敵を驚かせる場面があったのだが、戦いの現場で敵の言葉(まず99%嘘)を信じるのが身の破滅であるのは言うまでもない。だからこそ、このゴンの行動が面白いのだが、そこで「嘘」ということへの哲学的思考を試みてみたい。

おそらく、このテーマはこれまで考察した哲学者はほとんどいないのではないか。それは、「嘘=悪」という等式がアプリオリに信じられていて、論じる価値もない、という考えからだろう。だが、はたして嘘はすべて悪かというと、そうでないことは誰でもすぐに分かる。今にも死にそうな相手に「大丈夫だ、お前はかならず助かる」と嘘を言うのはよく見る光景だ。そこで、「そうだ、お前は必ず、絶対に、あと10分以内に100%死ぬ」と正直に言う人は、たぶん医者でもいないと思う。
そういう「善意の嘘」は許容できる、としたら、裁判事件での嘘はどうなるか。被告への同情から証人が善意の嘘をついたら裁判制度は成り立たないだろう。可能なのは、被告の近親者の証言は求めないようにする、くらいか。あるいは「証言」は基本的に採用せず、物的証拠だけを採用する、という方法くらいか。まあ、そうなると、犯罪事件の7割くらいは立件不可能になると思う。

ここで「嘘の文化的・文明的効能」について考えてみる。

題名は忘れたが、(たぶん「ギャラクシー・クエスト」だったか)、ひと昔前の人気テレビ番組「スタートレック」のパロディSF映画で、非常に面白い作品があったが、その中に出てくるある宇宙種族が「嘘を知らない種族」だったのである。高度な文明は持っているが、嘘を知らないため、嘘を悪辣に利用する敵種族の作戦に簡単に騙され、種族滅亡の危機に立ち、その中の一部が、テレビ番組(彼らはそれを本当の記録だと信じている)で見ていた「スタートレック」の俳優たちに助けを求めて地球に来るという話だ。
ここで注意したいのは、この「嘘を知らない種族」が文明的には高度な発展を遂げていて、ただ戦争(争いごと)ではとんでもなく無力だったということだ。当たり前の話だが、それが面白い。

古代中国でもたしか孫子が「兵は詭道なり(戦争は騙し合いだ)」と言っていて、これは人類共通の認識だと思うが、戦争に至らなくても政治もまた半分(重要部分なら90%)は大嘘だ、とは多くの人が感じているだろう。新コロ詐欺やガザ虐殺、ウクライナ戦争への欧米の対応を見れば明白だ。

まあ、人類の文明の歴史がたとえば1万年くらいあったとして(それ以前の原始人時代の文明は文明には入れない)、おそらく、人類が嘘をあまりに多用したために、人類の文明史は8000年くらい遅れていると思う。つまり、嘘が無ければ人類はとっくに地上の天国を作っていただろう。

では、私は「嘘の無い世界」を望むかと言えば、そうでもない。あの何とか星人みたいに、「嘘とフィクションは区別できない」のであり、私はフィクションの存在しない人間世界は地獄以下だと思うからである。天国に嘘が存在しないなら、私は「その入場券をお返ししたい」。

まあ、要は、嘘を嘘だと識別できる理性を持ちながら、フィクションはフィクションとして楽しめばいいという、当たり前の話である。





拍手

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析