元が半分人間や
これじゃあただの魚やんけ
実写シンデレラくらいに留めとけや
主人公もどこからどう見ても文句のつけどころのない魚人だし
ポリコレの行き着く先がこの作品を通して見えるかもしれない
まぁ魚やししゃーないと言えばそう
気の赴くままにつれづれと。
1754~63年、七年戦争と同時に展開された北米大陸でのイギリスとフランスの戦争。イギリスが勝利し北米大陸植民地を拡大した。
英仏対立とインディアン
戦争の意義
旧日本軍の関東軍防疫給水部の中心部隊だった「731部隊」の隊員ら3607人の実名が記載された名簿が国立公文書館から開示されたことを、滋賀医科大の西山勝夫名誉教授が明らかにした。部隊は先の大戦中、満州(現中国東北部)で細菌戦研究を行ったとされ、西山氏は「隊員ほぼ全員の実名や構成が判明するのは初めて。研究に役立ててもらうため、今後ホームページで公開する」とした。
開示されたのは、同部隊員らの留守宅などを記載した「留守名簿」。昭和20年1月1日付で作成され、軍医52人▽技師49人▽看護婦38人▽衛生兵1117人-などの実名や階級が記されている。戦後、京都大医学部長を務めた故岡本耕造教授は「技師四等」の処遇となっていた。
西山氏は、平成27年から開示を請求。当初は「親族や戦犯とその親族を特定する情報」としてほぼ黒塗りだったが、交渉の末に今年1月に連絡先の一部などを除いたほぼ全容が開示されたという。
西山氏らは、部隊の軍医将校の学位論文について「人体実験をもとにした可能性がある」として、京大に学位授与の妥当性を検証するよう求める署名活動を行っている。
先日の衆議院選挙で自民党や維新が多数の議席を獲得したあとには、リベラルな学者やジャーナリストの多くはショックを受けて、「日本人はいつになったら人権という考え方を理解できるのか」「差別的な政策を疑問にも思わない人たちに囲まれて暮らしているなんて苦痛だ」といった種類の嘆きや愚痴をTwitterに投稿して、それを保守派の論客やツイッタラーがあげつらってやいのやいのと騒ぎ立ててバカにする、という光景が繰り広げられていた。これは今回に限らず、選挙のたびに繰り返される事態ではある。そして、選挙結果について嘆くリベラルが、自分とは違う投票行動をした人たちは「人権に配慮しない」「ジェンダー平等や環境問題を気にしない」などと自分たちよりも狭い見方に基づいて投票した、と決めつけがちであることはたしかに問題だ。
よく指摘されるように、人が投票する際には差別や平等などの道徳に関わる事柄だけでなく、経済をはじめとした自己利益に関する様々な事柄を総合的に考慮して判断しているはずだ。むしろ、選挙というシステムでは、他者に対する道徳的な配慮よりも自己の利益に基づいた投票をおこなうことのほうが一般的であり、それは民主主義の前提ともなっているだろう。
その一方で、道徳は人権や平等だけではない、という見方も重要だ。ハイトによれば、少数派や弱者が被る苦痛に対する配慮(ケア)や平等と公正を求める気持ちと同じように、権威に対する尊重や愛国心も、「労働者が収める税金に寄生しながら楽して暮らす公務員や生活保護受給者」に対する怒りや制裁願望も、道徳感情であることには変わりない。だとすれば、ケアも平等も愛国心も制裁願望も、どれかが優れていてどれかが劣っているわけではなく、いずれも等価なものと見なせるのだ。
……とはいえ、ハイトの議論を批判するジョシュア・グリーンやジョセフ・ヒースが論じるように、リベラルが「ケア」や「自由」を重視して他の道徳基盤を軽視しているのは、彼らがたまたま「ケア」や「自由」を好む感性をしているからではなく、理性を行使したり教育を受けたりした結果として「集団に対する忠誠や権威に対する服従、穢れたものに対する嫌悪感は、道徳判断の指標としては不適切である」という意識を身に付けたからであるだろう*3。六つの指標から二つや三つに絞って判断することは不自然で人為的なものであるが、多様な集団がひとつの共同体に存在しており複雑な経済や政治制度やテクノロジーが発展した現代社会というものがそもそもは不自然で人為的な環境であり、「集団主義的な判断や嫌悪感に基づく判断をしないこと」は、現代社会で生きるわたしたちに条件として課せられている。環境がまったく違う狩猟採集民で暮らしているときに身に付いた道徳感情を野放しにしていると、個人間でも集団間でも悲惨なトラブルが生じてしまい、経済も政治もまともに機能しなくなってしまうからだ。また、進化心理学に基づいたグリーンやヒースのみならず、『感情と法』で法律と道徳の感情的な起源を探ったマーサ・ヌスバウムも、嫌悪感に基づいた判断はすべきでないと論じているのである。
すくなくとも高等教育を受けたリベラルであれば、彼や彼女の価値観は、教育や陶冶の結果として身に付いたものである可能性が高い。問題があるとすれば、リベラルの人たち自身が、そのことをすぐに忘れてしまって、自分たちの価値観を「人間として当然持っているはずの価値観」と思い込んでしまうことだろう。人権感覚は身に付いていないことがデフォルトであるが、それと同時に、現代社会で生きる人間には人権感覚を身に付けることが(道義的に)要請されるのだ。
……もっとも、ハイトによると、倫理や政治に関する規範的な主張とは、当人が持っている道徳感覚に、もっともらしく聞こえるための理屈を与えたものに過ぎない。理性という「乗り手」は感情という「象」に振り回される無力な存在であり、理屈とは感情という犬を正当化するために振り回される尻尾のようなものに過ぎない、というのがハイトの主張の根幹にあるものだ。
したがって、客観的な倫理とか、より正当な政治的立場といったものは存在しない、というのが彼の見方である。だから、「(現代社会という環境のことを考慮すれば)人はリベラルな価値観を身に付けなければいけない」という反論にハイトが同意することはまずない。