自由とは何か、と言えば、物事が自分の意のままになることだろう。
では、自分自身は自分の意のままになるだろうか。もちろん、ならない。つまり、完全な自由などありえないわけで、やたらな「自由崇拝」は現実を無視した空想的思想だとなる。
では、自分以外の存在を自分の意のままにできるか、と言えばそちらのほうがむしろ可能である。そこに権力主義が跋扈する理由がある。ついでに言えば、権力と権威の違いは、権力が他者を暴力や金力や地位・立場の力など外的な力で従わせるものであるのに対して、権威は「自ら従う」ものであることだ。これは宗教的権威を見れば歴然としているだろう。信仰者は、きっかけはともかく、最終的には自ら権威にひれ伏すのである。権威が他者を自ずから従わせる力を「威光」と言う。ただし、新興宗教の中には詐欺的手法でその「威光」を演出し、相手の理性的判断力を失わせて信者にするものもあるだろう。この演出的「威光」は旧宗教も当然用いてきたものだ。ただ、最終的には「自ら従う」という点で権力と権威は違うわけだ。
俗な世間の話はここまでにして、ここから、心理学というか、人間の心理についての浮遊思考を追ってみる。
まず、自分という存在の本質は何かと言えば、身体ではなく、その身体の中にあって思考し感じる存在だろう。その思考の器官が脳なので、身体と意識は不可分だ、となる。だが、問題は、その思考し感じる主体として「自我」がある、ということだ。この自我は果たして脳の中に印刻された記憶の連続体なのだろうか。我々はその自我が思考を操縦し、時には感情も操縦することを知っている。もちろん、その思考や感情が自我そのものだ、と仮定してもいい。だが、私の印象では、思考や感情と自我は別存在に思える。別存在だから一方が他方を操縦できるのだ。
その自我を「真我」と言ってもいい。あるいは、自我の中に真我が埋没状態(無意識状態)で存在している、などと言えば、自我と真我を区別する意味などあるか、と言われそうである。まあ、仏教的に、その真我が表面に出てきた状態が「悟り」なのだ、と言ってもいい。つまり、真我とは自我の迷妄の霧が晴れた状態だ、としておこう。我々は自分を取り巻く世界よりもむしろ自分の思考や感情に騙されるものであり、だから私は自我と真我を区別するのである。
ここで「生活技術」的な話をすれば、我々が人生で最初に学ぶべきことは、「我々は自分で自分を操縦しており、その操縦が上手い人と下手な人がおり、下手な人は周囲をも自分をもきちんと見ていない」ということだろう。私など下手な方の代表だ。まあ、とりあえず、「自分の思考も感情も操縦できる」ということを知るのが第一だろう。だが、操縦できることと、操縦すべきかどうかは別の話だ。感情の操縦など、しないほうがいい(つまり「直情径行」がいい)のかもしれないのである。
学校の勉強も運動も、結局はその操縦の上手い下手にすぎない。我々は自分の身体を自分の思う通りに動かせないし、またその動かし方が間違っていることが多いから、運動が下手な人間も多いのである。自分の身体の動かし方など、他人が教えるものではないし、教えてもなかなか理解されないだろう。これは思考だけを動かす場合、つまり勉強も同じで、つまり、教育とは原則として自己教育なのである。
自己教育の一番の障害は、自惚れだろう。自惚れたらそこで自己教育は終わりだ。現在の自分に満足しているのだから、それ以上進歩するわけがない。
その反対に、明確な理想像(尊敬すべき身近な人間など)があると、それに近づこうとして努力する。東大出の家族がいると、子供はそれを目標にするわけだ。だから、高学歴の家からは高学歴の子供が続出する。スポーツも芸能も同じで、身近な目標やモデルがいることは大きなメリットなのである。その反対に、馬鹿しかいない村里では、いかに優秀な素質の子供でもほとんど埋もれたままになるはずである。
日本で、なぜ優れた漫画家が続出するのかと言えば、それは優れた先人が多く、その誰かを理想として後輩たちが続くからである。
これは「社会的好循環と悪循環」という言葉で問題提起してこの文章は終わりとする。
では、自分自身は自分の意のままになるだろうか。もちろん、ならない。つまり、完全な自由などありえないわけで、やたらな「自由崇拝」は現実を無視した空想的思想だとなる。
では、自分以外の存在を自分の意のままにできるか、と言えばそちらのほうがむしろ可能である。そこに権力主義が跋扈する理由がある。ついでに言えば、権力と権威の違いは、権力が他者を暴力や金力や地位・立場の力など外的な力で従わせるものであるのに対して、権威は「自ら従う」ものであることだ。これは宗教的権威を見れば歴然としているだろう。信仰者は、きっかけはともかく、最終的には自ら権威にひれ伏すのである。権威が他者を自ずから従わせる力を「威光」と言う。ただし、新興宗教の中には詐欺的手法でその「威光」を演出し、相手の理性的判断力を失わせて信者にするものもあるだろう。この演出的「威光」は旧宗教も当然用いてきたものだ。ただ、最終的には「自ら従う」という点で権力と権威は違うわけだ。
俗な世間の話はここまでにして、ここから、心理学というか、人間の心理についての浮遊思考を追ってみる。
まず、自分という存在の本質は何かと言えば、身体ではなく、その身体の中にあって思考し感じる存在だろう。その思考の器官が脳なので、身体と意識は不可分だ、となる。だが、問題は、その思考し感じる主体として「自我」がある、ということだ。この自我は果たして脳の中に印刻された記憶の連続体なのだろうか。我々はその自我が思考を操縦し、時には感情も操縦することを知っている。もちろん、その思考や感情が自我そのものだ、と仮定してもいい。だが、私の印象では、思考や感情と自我は別存在に思える。別存在だから一方が他方を操縦できるのだ。
その自我を「真我」と言ってもいい。あるいは、自我の中に真我が埋没状態(無意識状態)で存在している、などと言えば、自我と真我を区別する意味などあるか、と言われそうである。まあ、仏教的に、その真我が表面に出てきた状態が「悟り」なのだ、と言ってもいい。つまり、真我とは自我の迷妄の霧が晴れた状態だ、としておこう。我々は自分を取り巻く世界よりもむしろ自分の思考や感情に騙されるものであり、だから私は自我と真我を区別するのである。
ここで「生活技術」的な話をすれば、我々が人生で最初に学ぶべきことは、「我々は自分で自分を操縦しており、その操縦が上手い人と下手な人がおり、下手な人は周囲をも自分をもきちんと見ていない」ということだろう。私など下手な方の代表だ。まあ、とりあえず、「自分の思考も感情も操縦できる」ということを知るのが第一だろう。だが、操縦できることと、操縦すべきかどうかは別の話だ。感情の操縦など、しないほうがいい(つまり「直情径行」がいい)のかもしれないのである。
学校の勉強も運動も、結局はその操縦の上手い下手にすぎない。我々は自分の身体を自分の思う通りに動かせないし、またその動かし方が間違っていることが多いから、運動が下手な人間も多いのである。自分の身体の動かし方など、他人が教えるものではないし、教えてもなかなか理解されないだろう。これは思考だけを動かす場合、つまり勉強も同じで、つまり、教育とは原則として自己教育なのである。
自己教育の一番の障害は、自惚れだろう。自惚れたらそこで自己教育は終わりだ。現在の自分に満足しているのだから、それ以上進歩するわけがない。
その反対に、明確な理想像(尊敬すべき身近な人間など)があると、それに近づこうとして努力する。東大出の家族がいると、子供はそれを目標にするわけだ。だから、高学歴の家からは高学歴の子供が続出する。スポーツも芸能も同じで、身近な目標やモデルがいることは大きなメリットなのである。その反対に、馬鹿しかいない村里では、いかに優秀な素質の子供でもほとんど埋もれたままになるはずである。
日本で、なぜ優れた漫画家が続出するのかと言えば、それは優れた先人が多く、その誰かを理想として後輩たちが続くからである。
これは「社会的好循環と悪循環」という言葉で問題提起してこの文章は終わりとする。
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