今、市民図書館から借りて来た「思い出のマーニー」(原題「When Marnie was there」)を読んでいるのだが、私はそのアニメ化された映画は見ていない。たまたま、何の気なしに借りた本だ。
しかし、これは映像化は無理な作品だろう。と言うのは、この作品のほとんどは主人公のアンナの内面描写であるからだ。
本当のところ、すべての文章は映像化が不可能なのである。作者が意図したものがそのまま完全に映像になることはあり得ない。しかし、文章の中には映像化の「種子」があるからこそ、多くの小説が映画やアニメにされるのである。つまり、映像化されたものと原作はまったく別だ、ということだ。当たり前の話だが、現代のように映像が文化の主流になった時代だと、そういう「映像化不可能な世界」の価値が見失われることになる。
たとえば、アガサ・クリスティの作品はたくさん映像化されているが、そのどれひとつとして彼女の文章の魅力を有していない。つまり、文章でないと表現できないものは映像化ですべて消えるのである。だから、クリスティの作品を実写映画などで見て、「つまらねえ」と思う人がたくさんいて当然なのである。たとえば、ミス・マープルシリーズの「書斎の死体」はテレビドラマ版で私は見たが、少しも面白いと思わなかった。主演の老女優は適役だと思ったが、それだけだ。話はおそらく原作に忠実に作られたものだろうが、「そのどこが面白いのか」としか私は思わなかったのである。ところが、原作小説をたまたまこの前読むと、これが面白いのである。
なぜそうなるかと言えば、当たり前の話だが、これはもともと小説であり、文章として表現されたものだからだ。文章では面白いが、映像では少しも面白くない、ということがあるという、当たり前の話が、今のような映像の時代には無視されすぎているのではないか。だから、文章芸術がどんどん衰退していくのである。
なお、冒頭に書いた「思い出のマーニー」だが、これは作り(装丁など)も含めて全体的にかなり素晴らしい本で、岩波書店から出たハードカバー本で1400円だったらしいが、こういう本を「所有する」(あるいは手に取るという体験をする)のは、子供にとって素晴らしい人生経験だろうな、と思う。そういう「所有」の意義というのも現代ではかなり軽視されており、すべてがただの「情報」として一過性のものになっていると思う。
この本が「全体的に素晴らしい」とは、たとえば、この作品の翻訳者は「部屋」を「へや」、「屋敷」を「やしき」と平仮名にしている。それは、読者層である少年少女への配慮だろうが、なぜ「部屋」のようにごく普通に漢字で書かれる言葉をひらがな書きするかと言えば、「部屋」という漢字を初めて見た子供ははたしてそれを「へや」と読めるか、と想像してみたらいい。「部」という漢字がなぜ「へ」と読まれるのか改めて問われるとほとんどの大人は答えきれないだろう。つまり、我々は「知っている」からそれを当たり前に感じているだけなのである。そうした、「子供への配慮」が行き届いた翻訳で、それもこの本の美点のひとつだ。しかし、それは映像化とは無縁の話になるわけである。
しかし、これは映像化は無理な作品だろう。と言うのは、この作品のほとんどは主人公のアンナの内面描写であるからだ。
本当のところ、すべての文章は映像化が不可能なのである。作者が意図したものがそのまま完全に映像になることはあり得ない。しかし、文章の中には映像化の「種子」があるからこそ、多くの小説が映画やアニメにされるのである。つまり、映像化されたものと原作はまったく別だ、ということだ。当たり前の話だが、現代のように映像が文化の主流になった時代だと、そういう「映像化不可能な世界」の価値が見失われることになる。
たとえば、アガサ・クリスティの作品はたくさん映像化されているが、そのどれひとつとして彼女の文章の魅力を有していない。つまり、文章でないと表現できないものは映像化ですべて消えるのである。だから、クリスティの作品を実写映画などで見て、「つまらねえ」と思う人がたくさんいて当然なのである。たとえば、ミス・マープルシリーズの「書斎の死体」はテレビドラマ版で私は見たが、少しも面白いと思わなかった。主演の老女優は適役だと思ったが、それだけだ。話はおそらく原作に忠実に作られたものだろうが、「そのどこが面白いのか」としか私は思わなかったのである。ところが、原作小説をたまたまこの前読むと、これが面白いのである。
なぜそうなるかと言えば、当たり前の話だが、これはもともと小説であり、文章として表現されたものだからだ。文章では面白いが、映像では少しも面白くない、ということがあるという、当たり前の話が、今のような映像の時代には無視されすぎているのではないか。だから、文章芸術がどんどん衰退していくのである。
なお、冒頭に書いた「思い出のマーニー」だが、これは作り(装丁など)も含めて全体的にかなり素晴らしい本で、岩波書店から出たハードカバー本で1400円だったらしいが、こういう本を「所有する」(あるいは手に取るという体験をする)のは、子供にとって素晴らしい人生経験だろうな、と思う。そういう「所有」の意義というのも現代ではかなり軽視されており、すべてがただの「情報」として一過性のものになっていると思う。
この本が「全体的に素晴らしい」とは、たとえば、この作品の翻訳者は「部屋」を「へや」、「屋敷」を「やしき」と平仮名にしている。それは、読者層である少年少女への配慮だろうが、なぜ「部屋」のようにごく普通に漢字で書かれる言葉をひらがな書きするかと言えば、「部屋」という漢字を初めて見た子供ははたしてそれを「へや」と読めるか、と想像してみたらいい。「部」という漢字がなぜ「へ」と読まれるのか改めて問われるとほとんどの大人は答えきれないだろう。つまり、我々は「知っている」からそれを当たり前に感じているだけなのである。そうした、「子供への配慮」が行き届いた翻訳で、それもこの本の美点のひとつだ。しかし、それは映像化とは無縁の話になるわけである。
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