この前から中里介山の「大菩薩峠」を読んでいるのだが、その「龍神」の巻に、高円山という名前が出てきて、懐かしい歌(大島弓子の初期の漫画で言及されていた歌だ。)を思い出したので、ネットの万葉集解説サイトから転載しておく。
「咲きか散るらむ」の「か」は疑問の終助詞が倒置されて係助詞となったもので、「咲き散るらむか」と元に戻せば理解しやすい。(係助詞は終助詞の倒置だというのは、或る国語学者の説だが、学界的に定説かどうかは知らない。だが、そう考えることで古文の文意がつかみやすくなるのは確かである。)なお、下の歌では「たかまと」とか「のへ」と読ませているが、古文には本来濁点は存在しなかったと言っても、他の「秋萩(あきはぎ)」や「いたづらに」などの濁音は現代語のまま濁音表記なのだから、「たかまど」「のべ」でいいような気がする。「たかまと」や「のへ」は私には間抜けな語感に思える。
高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに
巻二(二三一)
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高円山の野のほとりの秋萩は空しく咲き散っているだろうか、見る人もいなくなったいまも。
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この歌も志貴皇子(しきのみこ)が亡くなったときに詠まれた挽歌で、先の巻二(二三〇)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつ。
やはり作者は笠金村(かさのかなむら)かと思われます。
志貴皇子の邸宅は現在の百毫寺にあったとも言われ、百毫寺の山門から境内に続く長い階段の両脇にはいまも綺麗な秋萩が咲くことで有名です。
「高円山の秋萩は空しく咲き散っているだろうか。志貴皇子が亡くなって誰も見なくなったいまも…」とは、なんとも寂しい歌ですが、秋に咲く萩の花の涼やかさがまるで志貴皇子の人柄そのもののようにも感じられて皇子を知る人々の悲しみをさらに誘うものになっているように思います。
奈良にある百毫寺(びゃくごうじ)。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡だとも言われています。
秋には山門から境内へ続く石段横を埋め尽くす萩の花で有名です。
(この写真は時期外れで萩の花は咲いてませんが^^;)
百毫寺境内にあるこの歌の歌碑。
歌碑の解説。
「咲きか散るらむ」の「か」は疑問の終助詞が倒置されて係助詞となったもので、「咲き散るらむか」と元に戻せば理解しやすい。(係助詞は終助詞の倒置だというのは、或る国語学者の説だが、学界的に定説かどうかは知らない。だが、そう考えることで古文の文意がつかみやすくなるのは確かである。)なお、下の歌では「たかまと」とか「のへ」と読ませているが、古文には本来濁点は存在しなかったと言っても、他の「秋萩(あきはぎ)」や「いたづらに」などの濁音は現代語のまま濁音表記なのだから、「たかまど」「のべ」でいいような気がする。「たかまと」や「のへ」は私には間抜けな語感に思える。
高円(たかまと)の野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ)いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに
巻二(二三一)
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高円山の野のほとりの秋萩は空しく咲き散っているだろうか、見る人もいなくなったいまも。
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この歌も志貴皇子(しきのみこ)が亡くなったときに詠まれた挽歌で、先の巻二(二三〇)の長歌に付けられた反歌のうちのひとつ。
やはり作者は笠金村(かさのかなむら)かと思われます。
志貴皇子の邸宅は現在の百毫寺にあったとも言われ、百毫寺の山門から境内に続く長い階段の両脇にはいまも綺麗な秋萩が咲くことで有名です。
「高円山の秋萩は空しく咲き散っているだろうか。志貴皇子が亡くなって誰も見なくなったいまも…」とは、なんとも寂しい歌ですが、秋に咲く萩の花の涼やかさがまるで志貴皇子の人柄そのもののようにも感じられて皇子を知る人々の悲しみをさらに誘うものになっているように思います。
奈良にある百毫寺(びゃくごうじ)。
百毫寺は志貴皇子の邸宅跡だとも言われています。
秋には山門から境内へ続く石段横を埋め尽くす萩の花で有名です。
(この写真は時期外れで萩の花は咲いてませんが^^;)
百毫寺境内にあるこの歌の歌碑。
歌碑の解説。
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